第三十二話 動き出す『滅魔』
人の言葉を解す犬、その調査に赴いた陽向晶納と陽向旭。
彼ら二人が発ってから少しして、また違う地へと受けた任務を完遂しに向かった退魔師がいた。
選ばれたのはまたしても今代の精鋭。青年を長とし、それを補佐する二人の少女。
退魔師としての火力と立ち回りに優れた日昏と日和、そして陽向家の能力をブーストさせつつも支援と防御の術式に特化した昊の組み合わせだった。
明らかに調査や様子見といった面子ではない、これはむしろ初手から衝突を予期した上での編成としか思えなかった。
しかしそれも此度の任務内容を鑑みれば妥当なものであって、彼らに与えられた任とはすなわち、
「我らがこの場に立ち塞がることの意味、正しく理解できているか?憑百の特異家系らよ」
街々から遠く離れた森林の最奥。離反しようとした一族の末席者を抹殺する為に闇から現れた『滅魔』の一派。神霊亡霊の類を身に宿す神職の家系・憑百。
暗色に統一された戦装束の敵勢力は見える範囲に五名。闇と影を得手とする日昏の感知により、さらに三名が視覚の外に潜んでいることを知覚する。既に森林広域に張り巡らせた『陽向昊』の真名効果によって二重の感知で八人の憑百を確信していた。
今回の任務とは、これら『憑百』らの活動を阻止。不可であるならば掃討・殲滅まで許可を受けている。
特異家系同士は基本的に不可侵の暗黙が存在する。気性の荒い者達が多い『憑百』と任務対象が被った場合『陽向』は事前に退くのが通例であるし、そうでなくてもどこかしらで折り合いを付けて引き際を見極めるのが主な駆け引きの内容だった。
こうして真っ向からぶつかり合う機会など、まずもって有り得ない。
それがどういうわけか正面衝突と相成っている理由に、『陽向』への落ち度は一分たりとも無い。
これは全特異家系の中でも実質的な最高位にある『神門』より、現在の空席である陽向家当主の代行に座している陽向|隷曦《れいき》へ直々に依頼を受けたことが発端だった。
『過剰に過ぎる「憑百」の家系への忠告と牽制、抵抗がある場合は相応の処置』。
旭が人面犬らしき存在の調査を課された、その直後に与えられた特命である。
「お前達は少し暴れ過ぎだ。我ら特異家系の者達は一般人に対する秘匿と隠密を第一に重んじていなければならない。その為の結界技術は、そちらも所有していたはずだが」
人払いの結界によって民間人への被害と露見を最小限のものとしている『陽向』と同様、他の特異家系にも似たような技術や呪術による秘匿方法は確立されていた。
ところがこの『憑百』、それらを使用しないどころか街中においてもところ構わず人外殺害の為に暴れ尽くすという信じ難い所業を幾度も重ねている。民間人の死傷者や街への被害は決して小さくない。
嫌疑自体は随分前から掛けられていたが、つい最近になって身内の口によってそれら悪行の数々は『神門』の耳に届くこととなった。
それを密告したのが、紛れもなく日昏の背後に倒れ伏す離反した『憑百』の一人。今現在日和の護衛のもとで昊により手当てを受けている女であった。
「退け。この女は我々が引き取る。貴重な情報源なのでな、みすみす殺させるわけにはいかない」
月光すら届かない深い森の中で、闇夜に溶け込む八人の気配は極めて薄い。一方的に喋るばかりの日昏に、一切の返答を行わない。
そんな『憑百』らが、唯一行った挙動。
「……“来たれ、姦邪と不浄に満ちた悪魂”…“我が身|憑代《よりしろ》とし、今一度の|罪咎《ざいきゅう》を此処に”」
「“来たれ、大罪宿す不義なる羅刹”―――“贄を喰らいて応じよ災禍”」
「ああ、ああ。“座より降りたもうて、来たれ御使い”、…がカッ…“この身は|汝《なれ》の手、汝の杖、下す神罰の代行器”」
「“来たれ”」
「―――…“来たれ”」
『“来たれ、来たれ、来たれ……!!”』
抑揚のない、しかし確かな意味を持つ文言が八つの口からそれぞれ漏れ出る。言霊に応じ、彼らの身体からは正体不明の邪気瘴気、あるいは気味の悪い後光に似た白光が放たれる。
間違いない、彼らの戦闘態勢。必殺形態……『憑百』が持つ憑依の力。
「姿形を持たない概念種共を呼び込む文言以外、言葉すら捨てたか。…日和!」
「わかってる、昏兄ぃ」
周囲に気を配っていた日和が、倒れる女を介抱する昊から数歩離れて着物の袖から小さな手を抜き出す。
日昏に背中を向け自分を挟んで対面に立つ日和を、両膝を着いた状態から不安そうに昊が見つめる。
「日和ちゃん」
「大丈夫、きちんと専念できれば昊姉ぇの結界は磐石堅固。その女の人と一緒に、そこにいて」
ドーム状に展開された結界は昊と憑百の女を囲っている。これがある限り、よほどのことがなければ昊に手出しをすることは叶わない。
そして昊さえ無事であれば日昏も日和も何に気兼ねすることなく戦えるし、何より昊の真名によって万全以上の実力で挑める。
「昏兄ぃ、一応言っとくけど」
「不要だ。わかってる」
闇と木々の合間に隠れて包囲陣を敷いた八人の動きに警戒を払いつつ、背を向け合う二人が確認を取る。
「亡霊や悪霊程度の憑依…|降魔《こうま》であれば問題ないが、一人…|神降《かみおろし》を行っている者がいる。アレだけは他の七人と格が違うぞ、注意しろ」
「……って、言おうとしてたんだけど。まあいっか」
半眼で四周を眺め、軽い溜息と共に前に出る。淀んだ空気が日和と、日昏の両名に突き刺さるように牙を立てる。
だがそれらは眼前で振り払われた。日昏は闇夜自体が彼を守るように黒色を歪め、そもそも瘴気そのものがひとりでに解かれて日和には届かない。
互いに解放するは陽を秘めた名の真価。憑百が持たない、特異家系固有の能力。
「「―――“我が身は陽を宿す者”」」
トップクラスの精鋭が二人、同時に唱え駆け出す。暴走した一族を止める為の、家系同士のあってはならない抗争の第一手を担って。
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「夜な夜な口を利く犬が出没するって噂を辿って来てみれば」
街に着いた最初の夜。人気のまったく無くなった大通りの真ん中に立つ退魔師二人。その対面に立つのは一見して人畜無害そうな一匹の柴犬。
だが、一歩前に歩み出た晶納の表情は滾る殺意に歪んでいた。腰のベルトに挟んでいたナイフを抜き出し、順手に持ち替えて切っ先を柴犬へ向ける。
「ドンピシャか。元気そうで忌々しいぜ、害悪」
人語など理解できようはずもない犬に向けて話す晶納の姿は、知らぬ者が見れば奇怪でしかなかっただろう。だがこの場にそれを妙と思う者は誰も居ない。
姿形こそ大きく変化しているものの、アレは紛うことなくかつて晶納と相対し、そして星光の退魔師を瀕死にまで追いやった強大にして凶悪な人外。
身じろぎ一つせず閉眼していた柴犬が、ゆっくりと双眸を開く。やたらと人間臭い挙動で深く息を吐き、そして。
「……全く、かつての悪事が巡り巡ってここに来たか。私には相応の罰かもしれないな」
しわがれた老人を思わせる渋い声色で、晶納の言葉に応じた。
「……」
手を出すなと言われ、少し後ろに下がっていた旭にも分かっていた。
あの、四年前に任務で出向いた時の人面犬とは明らかに違う。具体的に言うならば気配が薄すぎる。離れた距離からでもその強大さが窺えた人外の持つ濃さが、今やまるで存在しない。
原因は分かっている。今の人面犬が全盛の半分以下の力しか持たない理由を。
四年前に晶納が突き立てた神刀、|布都御魂《ふつのみたま》によって削ぎ落とされた人外としての性質はあの時に奪われたままだ。もはや人面犬は名の通りの姿すら保てず、人の面を捨て完全に犬の外見を維持するのがやっとな状態。
ようするに、弱体化しているのだ。それもどうしようもないほどに。
万全を期して精鋭二人で挑みに来たはいいが、この分では旭の出番は無さそうだ。下手をすれば真名すら不要に、ナイフの一太刀で斬り捨てることすら出来るように思う。今の人面犬は初見でそう感じるほどに弱く衰えていた。
それに、なにより。
「では、始めようか。私の首を持ち帰らねば、君達はこの街を出て行ってはくれぬのだろう?なれば、用件は容易く済ませよう」
「ああいいぜ、とっとと殺されろクソザコ。そこまで弱り切ってちゃ、リベンジのし甲斐もありゃしねえ」
晶納も彼の弱体に興醒めしたのか、ゆるりと首を振るってナイフ片手に走り出す。同時に人面犬も四足を蹴って駆けるが、勝敗など推して知るべしである。
人面犬の敗北は必定だ。弱くなったとか、力を削られたとか、そういう問題以前に。
なにより人面犬には、ぞっとするほどの悪意に満ちた、人間に対する殺意というものが欠片も残っていなかった。
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「臭うな」
ベランダに繋がる窓辺に腰と片足を引っ掛けて、夜空を仰ぐ妖魔アルがふと呟く。対し、アルの膝に乗って同様に星空を眺めていた白銀の少女が寝間着の袖を鼻元に近付けてすんすんと息を吸った。次いで自分の頭に顎を乗せている彼を見上げる。
「……くさい?」
「ああいや、お前じゃねぇよ白。ただ、なんかな…」
『反転』という一件からこっち、どうにもアルの五感はこと戦闘においての鋭さが増してきている。何かが起きているという確信に近い直感が、この街の空気から察せた。
妖精界をこっそり抜け出して、既にここ人間界の公衆電話なるもので陽向旭とは連絡を終えている。今は彼が向かっているらしき街に昼頃着いて早々に宿を取った部屋で寛いでいたところだ。
ちなみに、居場所を聞き出す通話以外には両者共に何も情報を交換していない。アル達は旭が任務でこちらに赴いているのを知らないし、逆に旭はここにアル達が来ていることを知らない。さらに言えば白と彼女が付いて来ていることも言ってない。
「何か、気になるの?アル」
畳敷きの和風旅館の一室で、物珍しそうに樫木のテーブルに触れていた少女がこちらへ顔を向けて訊ねる。
少なくとも人の世の基準で言えば少女としか表現しようのない幼げな女性は、この街へ来るまでの間に立ち寄った服屋で買ったおかしな服を寝間着にしていた。兎耳の付いたフードのある、全体的にもふもふゆったりした、薄桃のツナギに似た衣服。着ぐるみパジャマとかいうらしいが、人間界のファッション事情に疎いアルにはよくわからない。
「ここら一帯、なんかいますぜリリヤ様。あんまよくねえ感じだ…ちょっくら見てくっかな…って、お?」
闘争本能に加え嫌な感覚を拭う意味も含めて言い掛けた言葉を、ぎゅっと胸元を握る小さな両手に引き止められる。
「……アル、どこか…いくの?」
「あ、あー…うん、いや…行かねぇよどこにも。一緒に寝ようって話、してたもんな?」
妖精界を出て、白にとっては初めてアルと共に行く外の世界。その前はこの人間界では痛い思いと怖い経験しかしてこなかった。アル無しでは白はこの世界で安心して眠ることも出来ない。
悪感情を抱くことがない純真無垢な少女であっても、一人を怖いと思う幼心だけはどうにかできるものでもない。リリヤテューリに任せるという手もあるが、この幼子を守る剣として生きることを決めた身としては、やはり出来る限りは傍にいてやりたかった。
「……うん。いっしょに、いて?アル」
「おう、わかってるよ」
不安げに瞳を揺らす白だが、そんな少女の寝間着もリリヤと同じく着ぐるみパジャマ(三毛猫)という出で立ちの為、どうにもシリアス感に欠けるのは否めなかった。それどころか可愛さ余って膝の上に乗る彼女を本物のぬいぐるみのようにぎゅうと抱き締めてしまいたい衝動に駆られる。
リリヤが自分の分と、さらに絶対似合うからと言って白のもまとめて買ってきてしまったパジャマだが、この二人が着ると異様に似合ってしまう。やはり外見が幼いからか、こういった子供っぽい衣服も驚くほどよく映える。
「うんうん、それじゃ白ちゃんも遅くまで起きるのはよくないし、皆で寝よっか!布団は、白ちゃんとアル一緒でいいんだよね?」
事前に部屋には二組の布団が少しの間を空けて敷かれていた。リリヤの言葉通り、アルは白と同じ布団で異存ない。白も同意見だろう。
だが、この段階において論ずるべきはそこではないのでは?
「…あのよぉリリヤ様、今更なんですがね」
「うん?なにかなアル」
「白はいいとして、俺がアンタと同じ部屋ってのは、なんかおかしくないですかい?」
仮にも(妖精種の寿命からする基準において)アルとリリヤは年頃の男女であって、同部屋で一夜を明かすという行為はそれなりにリスクなりハードルなりが高いことのように思えてならない。
就寝に関してだけではない。先程夕飯前に宿の風呂に入った直後も、白はともかくリリヤは部屋に戻ってから髪を拭き始め身の手入れをするものだから流石のアルも退室を余儀なくされた。
|戦闘馬鹿《バトルマニア》と化した妖魔の彼にしても、妖精女王筆頭候補を相手にしてはそれくらいの気遣いは意識させられる。というかしておかないと、万が一にもこのことがバレた時に妖精界の総員から袋叩きにされる。妖精全員を相手にしての殴り合いという展開も、アルにしてみれば好ましくないわけではないが、それは別として。
リリヤテューリはとかく、自身に対するガードが緩い女性だった。
さらに不味いことに、
「…?アルは、わたしと一緒の部屋は嫌かな?」
とんでもなく鈍感であった。こてんと首の傾げに合わせて被ったフードの兎耳がぽてんと倒れる。
これはどうやら、率直に断言しなければ通じないと見た。元々、アルとしても遠回しな言い方は好まない。
「俺がアンタに欲情して襲い掛かったらどうすんですかって話。言っちゃあなんだが、腕っぷしで押さえ付けるだけなら簡単ですぜ?」
流石にこれだけズバリと言えば理解してもらえるだろう。今からもう一部屋借りることは可能だろうか、もし無理だったとしても、別に屋根にでもよじ登って寝ればいいとは考えていた。
だが話はこれで終わりにはならなかった。
「そんなことしないよ、アルは。ねー白ちゃん」
「……うん」
「これ喜んだらいいのか怒ったらいいのかわかんねぇなもう」
友として信じてもらっているのか、あるいは男として見られていないのか。
とりあえずわかったことは、彼女にはこれ以上何を言っても通じないということ。
「寝ますか…。ほれ白、こっちおいで」
「……ん、いっしょ」
さっさと横になって白を招き寄せる。あまり表情に出ない白も、やたらウキウキした様子を漏れさせながら体をすり寄せるように布団に潜り込んだ。想像以上にもっふもふなフードの猫耳が顔に当たって少しくすぐったいが、寝るには問題ない。
「ふふ、仲良しさんだね。わたしもそっち入ろうかな」
「マジでやめてリリヤ様。んなことしたら俺が|妖精界《あっち》で斬刑に処されるから」
アルとて健全な男児であるが、それ以前に自他共に認める戦闘狂で、今は白という幼子を守る親代わりの役目を全うしている身だ。無論性欲がないわけないが、節操無しに相部屋の妖精に手を出すことはあり得ない。そういう意味では信頼に報いることは出来る。
だがなんというか、こう、もう少し防御を固めて欲しいと思う。
遠隔式の電灯を消すべくリモコンに手を伸ばしながら、すぐ隣の布団で丸くなった少女然の妖精を横目に言う。
「リリヤ様。今後アンタが女王になるんだったら俺も支えることに異論はないですが、せめてその時までにはもうちょい淑女精神を身に着けてくだせぇ」
「しゅくじょ……うん、がんばるね。じょうおうに…ならないと、いけないんだもんね…くぅ」
(寝んのはっや)
消灯前に寝息を立て始めた彼女にもはやかけるべき言葉はない。さっさと電気を消して、仰向けになる。
「……アル」
左腕を抱き枕のようにして両手を絡ませていた白が、暗闇の中で呼ぶ。顔を真横に向ける身じろぎの音で返事とすると、白は微睡みに船を漕ぎかけなふわふわした声音で、
「……たのしい、ね」
「…、そうだな」
短く返し、今度こそ白は二の腕に額を擦り付けて眠りについた。
楽しい。そうこの子は口にした。
どれだけ振り回されても疲れても苛立っても、白からそんな言葉が聞けるなら。
アルとしては何の苦にもならない。ユニコーンたる少女の自由を守り、彼女が喜びに顔を綻ばせてくれるのなら。
それ以上の幸せなど、彼は知らないのだから。
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「滅す」
「滅する」
厚い雲に遮られ一条の月光すら落ちない暗夜。
「薄羽の魔物、一角の魔獣、…堕ちた魔性」
「滅する。これ|悉《ことごと》く|鏖殺《おうさつ》する」
常人が恐れる深淵の闇深くより、『滅魔』は出でる。
目的はいつ何時とて揺らがず唯一つ。
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「…止めだ。これ以上は意味がない」
「あ?なにをほざいてんだテメェは」
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夜は未だ更けたばかり。