第三十五話 虎覆逆霆・麻垂の為手
圧倒的な実力差。
「か、ぁあ……う、げっほ!」
あらゆる面で及ばない。急速に力を引き上げていく憑百の精鋭にアルの思考が追い付かない。
どういうカラクリか、どういった仕組みか。
この人間は、概念種を自身を中心に引き寄せて大渦のように巻き込み呑み砕いている。
アルは憑百家というものをよく知らない、〝憑依〟などもっての他だ。
だがそれでも判ることがある。
これは異質だ、紛れも無い異端であると。
「こんの化物が…。こふっ…何をどうやったら、人間の器でそんなデタラメが押し通せるってんだ」
「それこそが我が琥庵たる所以。…当主様にこれ以上の手間は掛けさせられん。終いとする」
オフィスビルを叩き壊し、その残骸ごと巻き上げられたアルを琥庵は既に見ていない。この男は妖魔を殺した次を見据えている。
そう、次だ。
アルを殺し、この男は次に向かうだろう。アルにとっては命よりも大事な少女のもとへ。
コイツは、そこを、見ている。
ガギリ。
噛み締めた奥歯が擦れ、耳障りな音が口内から響く。
暴風が肌を裂く。詰めた歩数すら分からない、ただ眼前に現れたという事実のみがアルの認識できた全て。
怨霊が唸り、悪霊が轟き、亡霊が親しみ深い死を伝えに来る。
顔面に迫る魔手にアルは、
「オイ」
〝|不動利剣《コウマミョウオウ》〟を突き立てる。地面にではなく、憑百琥庵が纏う降魔の鎧その拳に。
刃先すら刺さらない、圧される。刀身が不協和音に軋む。だが構うものか。
刀を握る両腕に浮かぶ血管が圧迫に耐え切れず破裂する。奔る|罅《ヒビ》が刃の光沢を殺す。
だが構わない。
「テメエが見んな。テメエが触れんな。これ以上、あの子に地獄を見せてなるものかよ!」
割れた、折れた。我ながら称賛に値する調伏の剣が死んだ。
しかし鍛え上げた一刀、ただではやらぬ。稼いだ数寸のズレに体を滑り込ませ首皮一枚削がれるに留める。
確実に仕留めるつもりで放った一撃、故に空振りの隙は大きい。がら空きの胴へ渾身の膝蹴りを叩き込むが衝撃が肉体を通った気配は無い。どうせ駄目元だ、ダメージは期待していない。
本命は叩いた足元より伸びた柄。地中の金行を呼び起こし掻き集め、脳内で固めた製造過程を具象化させる。
「〝|劫焦《レーヴァ》……」
完全精鉄までの間すら惜しい。柄を握る手をそのままに振り上げる。地面から次々剣を形作っていく最中に空気を燃やす焔の輝きが追随する。
「―――|炎剣《テイン》!!〟」
北欧由来、スルトの剣が大気を喰らい炎を膨らませ、剣の軌跡をなぞって琥庵を包み込む。
「…フン」
紅色の中にあって憑百の邪気は衰えない。どころか大炎をまるで気にも留めずに一歩踏み出す。
いくら人外クラスの力を宿したとはいえ、器は人間。心臓は動き、呼吸で酸素を取り入れる器官は変わらないはず。
(酸素を奪い尽くす!熱くなかろうが焼けなかろうが関係ねえ、酸欠まで剣を振り回すだけだ!)
相変わらず巨体に見合わぬ俊足でアルの側面背後を取り、一発でアルごとビル一つを倒壊させた大木のような腕で攻勢を続けて来る。最早これを目で追うこと叶わず、妖魔としてより強化された戦闘勘による紙一重での回避がやっとの状況だ。
決死の攻防の中で琥庵の肉体に炎剣で幾度か斬り付けることに成功するが、やはり降魔の鎧を突破して本体へ届かせることが出来ない。
先の〝|不動利剣《コウマミョウオウ》〟同様、僅かながらに手応えはある。正確に言えば鎧はほんの少しとはいえ裂けているのだろう。
だがその擦傷すら瞬間でより厚く覆う邪気の総量が桁違いだ。密度も増しているのか硬度も刻々と上がってきている。
(上限が見えねえ…どこまで上がるってんだこの野郎!?)
どんどんと硬く厚く、そして重く速く拳が飛ぶ。戦闘勘だけで凌ぐにも限度があった。掠っただけで炎剣に亀裂が生じたのには驚きを通り越して苦笑すら浮かぶ有様だ。
常時剣から放出し続ける炎に包まれながらも琥庵の様子はまるで変化しない。特異家系の人間として訓練された賜物なのか、そもそもが〝憑依〟の影響で一時的にでも人間種の構成から外れているからなのか。
何にせよこのままでは殺される。それも数十秒先の未来に。
重ねる強化がどこまでもいつまでも続く、この男は異常だ。既に琥庵の内外に纏う概念種は数えるのも馬鹿らしくなるほどに増えている。
ついには回避したと思った拳が生み出した余波で身体が浮き上がる。しまったと歯噛みするが全てが遅い。相手にとって一秒の滞空は死をくれるには充分過ぎる。
爪先まで伸ばしても地が遠い。火炎を吹き散らして岩塊に似た拳に捉えられる。直撃コース、間違いなく胴を抉り抜かれる。
不可能と知っていながら炎剣を引き寄せて防御体勢に持ち込む。木の枝で大砲に相対するようなもので、どうにかできるわけがない。
一度堕ちたアルは神などには祈らない。そもそも神を信じていない。かといって恐怖に目を瞑ることも性根が許さず、結果として自分が死ぬ最後の瞬間まで意地も矜持も捨て切れない。
そんな彼だからこそ見ることができた活路。
「ぶった斬れ金脇、串刺しにしろ銀脇。この名の下に惨殺を許可する」
琥庵の視覚外から斬打を加える大振りの二刀が降魔の鎧を裂いて生身を露出させた。
「貴様、陽向の…」
背後に意識が逸れた一瞬を見逃さず、すぐさま地に足を着け折れかけた炎剣を鈍器のように振り被りぶつける。分厚い装甲のせいで鎧を剥ぐまでしか至らなかったその部分へ直撃し、同時に解き放つ爆炎。
砕け散った剣の欠片達はさながら破片手榴弾の如く、火炎の爆発力に推され琥庵の脇腹が爆ぜて浮いた。
逆転する状況、今度はくの字に折れて宙を飛ぶ琥庵を追い掛けるアルの構図。
ただしその左右を付いて奇妙な造形の刀が飛び回っていること、そして吹き飛ぶ琥庵の先に立つ見覚えのある男が腰溜めに直刀を構えていたこと。この二点が先程とは大きく違う。
(これならッ…!)
疾駆の中で二本目の〝不動利剣〟を|鍛刀《たんとう》し握る。付与した調伏の効力を最大展開、この一太刀に全力を込める。
「ラァッ!!」
「…ふっ!」
挟撃、いや天秤二刀を含めれば四方からの同時斬撃。纏う邪気の層を斬り払い今度こそ肉を裂く手応えを得る。
飛び散る鮮血の合間から覗く対面の青年。その瞳と刹那混じり合う無言の応酬。
憎しみが伝わって来る。人外に対する確かな憎悪。彼こそは星光の退魔師。だがその殺意の向かう先は自分ではなかった。
退魔師と妖魔、二人の剣士の振るう刃はやはり同一の敵に矛先を定める。
より厄介と判断したのか、より凶悪だと認識したのか。陽向晶納はアルよりも優先して憑百の討伐に打って出る。
好都合だった。今来たばかりの晶納でも理解できよう、この途方もない力量の底知れなさ。単独で相手取れるレベルではない。何故か既に傷だらけで疲弊の見える晶納の力でも無いよりはマシだ。というより、個々の力では万全でもこの男には劣る。
ギャリギャリッと異質な音を響かせて、琥庵が斬撃を受けた身の上で平然と着地を決めて後方へ下がる。
距離は空けない。こうしている間にも取り込まれる概念種の怨念邪念は鎧の修復と強化を重複させていくのだから時間をくれてやるわけにはいかなかった。
攻撃の手が倍以上に増え、さしもの憑百も攻めあぐねているらしい。流した血の分だけ頭の冴えが広がっていくアルの性質はさっきまでは見えなかった|速度《もの》を見せてくれるようになる。これも闘争に飢える魔性種の恩恵によるものか。
「…名乗れ陽向。劣兵なりにも我へ太刀を浴びせたその功、記憶の一隅に留めてやらんでもない」
血霧舞い血風乱れる激戦の中心にある黒色の塊が、暴風を巻き起こしながら静かに訊いた。
「癪に障るなその上から目線。だがあえて乗ってやる!ハッ近い内にでも特異家系で最強っていやぁオレになるだろうぜ、この陽向晶納がな!」
死闘の途中でよく吼えやがる、そう思っても口にしなかったのはアルに余裕が無かったわけではなく。
その口上を受けて憑百琥庵の口元が不気味に歪んだのを見たから。
「最強。最強か。無理だな、貴様には到底無理だ。生涯届かない夢物語を語る貴様は、どこまでも劣等の域を出ない」
何かに触れてしまったのか、途端に舌の回り始めた琥庵の動きがさらに数段跳ね上がる。
「のわっ!」
「ぐ…!」
弾かれ仰け反ったアルの腹部に巨腕のどす黒い掌底が入り、意識が強引に引き千切られるような感覚を連れて道路脇の生垣に頭から突っ込む。
そんな妖魔を晶納は気にしない。気にして視線を移すことが自らの致命打に繋がることを感じ取っていた、というのが正しいが。
「最強は憑百だ、最強は我らが主に他ならない。貴様は当主様はおろか我、ひいては七宝のどれにも敵うまい。愚かなる陽向の青二才」
一撃の威力も立ち回りの速度も上手、唯一の利であった手数の多さも全性能を上回る敵の乱打に見舞われては防戦一方。
アルの認めた情報と同一の見込みを立て、その上で退魔師である晶納であるからこそ抱えられた疑問が一つ浮上する。
「テメェどっから引き連れてやがる!そこまで広域の〝憑依〟なんざ聞いたことがねェ!!」
よその家にさほど詳しいわけではないが、このスタイルが通常の憑百に該当しないものであるのは流石にわかる。
陽向が特殊な文言によって自らの真名から陽の力を引き出すのと同じく、憑百も文言によって指定した神霊あるいは亡霊悪霊その他概念種の何者かを呼び入れ器に招く。
だがこの男がしている〝憑依〟は違う。これは指定をしたものではなく、むしろ人の世に蔓延る野良の概念種を無造作問答無用に引き寄せ取り込んでいる。しかもその量は尋常ではなく、自分の体だけでなく周囲の空間ごと器への一方的な吸収を果たしていた。
これもアルと同様、晶納も不自然に感じていた、陽向の結界内に存在する不浄の領域。おそらくそれはこの男が展開していた概念種の吸収圏域のものに違いない。
「それを成し得るのが我、それを成し得てこその我である」
〝鋭化〟を働かせて研ぎ澄ます五感でも読み切れない、こめかみに一発もらい脳がぐらつく。
「琥石の加護を受け|庵《いおり》の陣を敷く我が身を以て知るがいい、これこそが百もの神を屠るが為に生み出された真名!我こそが『|麻垂《まだれ》の|為手《して》』、憑百琥庵である」
よろけた隙に繰り出された一撃を二振りの天秤刀が重なり合い盾として受け止める。
「ふざけたことばっか抜かしやがるなこの野郎…ッ!」
真名の具象化でもある金脇と銀脇は自らの手足も同じ、逆に取れば破壊と衝撃のフィードバックは晶納の精神と体力を削る要因となる。
軋む天秤刀に力を注ぎ直し、拳を弾いて右手の直刀で斬りかかる。
手分けするべきではなかったかもしれない。珍しく気弱にも取れる考えが晶納の脳内を過ぎった。
この男がこれほどまでの実力者であるのだとすれば、おそらくもう一方も同格か。下手をすればこれ以上の怪物である可能性を捨てきれない。
(……まあ、どうにかなるだろ。アイツだって次期当主なんだしな)
晶納だって旭の実力を認めていないわけではない。認めているからこそ苛立つことも多いくらいなのだから。
向こうは向こうで任せるしかない。こちらも余所を心配している場合ではないのだ。
憑百琥庵の名乗り文句、おそらく嘘でも酔狂でもない。この力は神格に届く。これまでの経験上でもっとも手を焼いた大天狗をさえこの男は容易く凌駕している。
「へえ、神を屠る力ときたか」
生垣をガサガサもがいて抜け出たアルが、少し離れた場所で戦いを続けている両者の様子を眺めながら体についた草葉を払いつつ呟く。
「なら確かめさせてもらおうじゃねえか。それが嘘っぱちじゃねえってことをよ」
危機的状況なのは変わらずだが、まだ出していない手はある。
妖魔にも、退魔師にも。