「成程これは、中々にしぶとい」
紳士然とした落ち着いた声とは裏腹の、猛烈な勢いでの攻勢を前に晶納は額から流れる血液を散らせながら回避と防御を繰り返す。
柴犬の外見をそのまま人外化させたかのような四足歩行の怪物は、肥大化した筋肉を最大限に活かして跳び回る。その速度たるや、晶納が目視を諦めて聴覚と触覚を頼りにした防戦を強いられるほどだ。
人面犬が繰り出す牙と爪は突風にも似た斬撃を全身に叩き込んでくる。一つ所に立っていてはいい的だと移動を続けるも、やはり速さにおいては人面犬が遥かに上らしい。
だが、晶納とてただ成す術もなく攻撃を受け続けていたわけでもない。
「…ふむ」
死角から放ったはずの爪撃をマチェットナイフで弾き返した人間から距離を取って、人面犬は自らの前足を片方持ち上げて眺める。そこに揃う爪の表面は削れ、一本は割れ欠けてすらいた。
「それほど良い出来の刃ではないと見ていたのだが、何故私の爪と切れ味を競える?」
ガリガリと牙で爪を砥ぎ直す人面犬に、多少乱れた息を整えながら晶納が煽るように嘲笑して見せる。
「は、なんでだろーなぁ?テメェで考えてみろクソ害悪が」
「そうしよう」
即座に高速道路のアスファルトを踏み砕いて姿を消した人面犬の行方を追って耳を澄ませる。右から回って背後。
「だっらァ!!」
「耳が良い、だけでは済まないな。その反応速度は異常だ」
不気味な頭部から突き出された鋭く長い牙を叩き返して、胴体に一閃入れて撫で斬る。しかし鉄の如く硬化した毛の一本一本に流されて致命傷には至らない。
「臭うな、その身。そしてその刃。何かの力を浸透、流し込んでいる。予想するに異能の一つだろう?」
「律儀に答えてやると思うかバカがッ!」
高速道路の側面に等間隔に設置された街灯を噛み千切り、口に咥えたまま振り回す。マチェットナイフを逆手に握り直して迫り来る街灯をバラバラに斬り裂きながら、千切られた街灯の根元まで潜り込む。既に犬の怪物の姿は無い。
ぞわりと感じた感覚に従いその場で跳び上がると、道路を斜めに両断する爪撃が奔った。轟音を上げながら崩壊する片側の道路から離脱して、まだ支えられている方の道路へ着地する。
「鋭いな」
犬とも人ともわからぬ薄気味悪い怪物の顔が興味深そうに晶納を見据え言う。
「その刃もさることながら、五感も。察するにそれが君の能力といったところか。ほぼ間違いなく、な」
「…チッ」
言葉には応じず、ただ忌々しく舌打ちのみを返す。それこそが人面犬の言葉を肯定していた。
退魔師、陽向晶納がその身に宿す異能力は“|鋭化《えいか》”。真価は名の通り自身、あるいは触れる物体の鋭さを増す力。
今晶納はその力で目で追えぬ速度に対し聴覚と触覚を鋭敏化させて対抗し、“鋭化”させたナイフの上昇させた切れ味をもって人外の爪牙と相対している。
だがこの状況も長くは続かない、ジリ貧はやがて晶納を追い詰める。背中に背負ったままの白布で覆った切り札でさえ、今使ったところで当てられなければ意味は無い。
(クソ、ああまったく腹立たしいがテメェの言う通りだったな!ここまで!)
認めたくはないが、ここまで旭の予想通りに事は進んでいる。そしてここから。
状況の打破に必須とされるのは、
(まだか昊!とっととしろこの|鈍間《ノロマ》が!!)
ナイフを構え、“鋭化”を巡らせた五感で晶納は心中で叫び人面犬とジリ貧の攻防を再開する。
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バァンッと、らしくもなく乱暴に屋上のドアを開け放ったのは陽向|昊《そら》。感知と探知に秀でた退魔師である彼女は、結界の内側にあってどの勢力からも遠い高層ビルを選び、全力で屋上まで駆け上がってきた。
乱れた髪に埋もれた鈴をリィンと鳴らして、荒げた息もそのままに昊は屋上の中心へ向かいながら唱える。
退魔の直系者が持つ、名前の真髄を解放させる為の文言を。
「はあ、はあっ…“我が身は陽を宿す者、|賦活《ふかつ》する|昊天《こうてん》の|空《くう》!その|陽《ひ》は|盛《さか》る|沖融《ちゅうゆう》の|穏光《やすみつ》!”」
胸に手を当てて酸素を取り入れながら一息に唱え終えた昊が、片手を夜空へ掲げて叫ぶ。
「『陽向昊』、解放しますっ!!」
瞬間、少女を中心に不可視の波動が広がった。
それは柔らかく包み込む暖かい日の光。夏の空に似た活気を持つ、力強い陽。
しかしそれを感じ取れる人間は限られている。ましてやその恩恵を受けられる人間など、極々僅か。
同種にして同家の同胞達のみが、その真名の力を受け取る。
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「!…昊か」
全身を泥と血で汚した日昏が、五人の『憑百』に囲まれたまま顔を上げて自身の内で発生した変化を感じ取る。
力が、本来の上限を超えた滾りを全身に引き起こす。
「呆けている場合か」
「若造が」
「状況が理解できていない」
「哀れな」
「もう死ね、若き『陽向』」
闇夜に紛れる五人が、位置すら掴めぬあらゆる場所から反響する声を降り掛ける。
対する日昏は、この劣勢下でも取り乱すことなくほとんど灰になった吸殻をポケットに突っ込んで新たな一本に火を点す。
「……これならいけるか」
小さく呟いて、ほうと紫煙を吐き出す。それから闇の中の『憑百』達へ向けて、
「終わりだ。もう闇夜はお前達に味方しない。この場は既に、俺の領域だ」
日昏の足元の影が、不自然にぐにゃりと歪んだのを『憑百』は一人も確認しなかった。
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「ぐ……う」
「…加減はした覚えがないが…生きてたか」
血の雫を落としながら立ち上がる旭を横目で見て、憑百珀理は再度錫杖を両手で握る。
「全身体能力八十倍…で、ギリギリか。まだ足りない……」
身体中の筋肉がメキメキと軋みを上げるのを訝し気に凝視して、珀理は得心がいったように両眼を細める。
「“倍加”の能力者だったか。その耐久度までは加味していなかった。だが」
シャリィンと錫杖を鳴らして切っ先を立ち上がった旭へ向ける。
「それを考慮した上で、今度は確実に殺す」
当主という肩書きに慢心することなく、珀理は次こそ確実に殺す為に獲物を睨み全力で挑む。
旭は既に諦めていた。
死を覚悟したわけではなく、対話の余地が無いと判断したのだ。相手は特異家系の一当主。同業者として協力することはあれど、殺し合う間柄では無かったはず。
そんな旭の認識を無視して相手は殺しに来た。今も旭の言葉に耳を貸す様子は無い。おとなしく退こうとしたところで見逃してくれるわけもなく。
どういうことかわからないが、滅魔を担う『憑百』は相手が人間だろうが問答無用で殺しに掛かっている。日昏もその一派と交戦中であるところから、これが個人の意思じゃなく『憑百』としての総意であることも窺える。
戦闘は避けられない。でなければこっちが殺されるだけだ。
「…“我が身は陽を宿す者”」
あの薄羽を持つ少女のこと、未だ表立って出て来ない最後の勢力の存在。気になることはあるが、それに気を回したままでは勝てない。相手は一族の頂点に立つ当主。そのレベルは『陽向』の中で言えば最高戦力であり集落全体の長である陽向隷曦に匹敵する。
さらに言うなら、旭は長老には当然の如く一度も勝ちを収めたことがない。
「“重ね重ねて、束ね束ねて”」
だがやるしかない。昊の真名解放を感知して、旭は異能を使いながら文言を連ね自らの名を力として具現する。
「“その|陽《ひ》は焼け衝く|無謬《むびゅう》の烈光”」
唱え終えると同時、旭の周囲に眩い光が複数発生する。それは形を整えながら周囲を飛び回り、主に仕える配下のように周辺で固定され配置される。
光の玉、宵闇を照らす太陽に酷似したその数は九。
「『陽向旭』の真名解放、いざ尋常に勝負…!!」
『九つの日を重ね束ねる者』の意を持つ陽向旭が、従える小型の太陽九つと共に強化された全身で憑百家当主に飛び掛かる。