ドラッグ・ワンダーランド
突然なんだけど、記憶を消したいって思ったことはないかな。
僕はモチロンあるさ。それはもう両手で数えきれないほど、記憶を消したいって思った。なんでかって? 僕は君のように完璧であり続けることを出来なくさせられているからさ。だって、君は選ばれたんだ。
……君は誰よりも優れていた。それはもう、君こそ物語の主人公でいるべきだろうね。でも君は選ばれなかった。どうしてか、心当たりはあるかな。――……君に、あるわけがない。だって、君は記憶を消そうと思っていないんだから! 君が僕にしてきたこと、覚えてる? 記憶がちゃんとあるのに覚えてないんだ。本当に最低だ! だからお前は! だから……、だから……。あー、でも。ここで争ってても仕方がないね。
君は僕から全てを奪った。僕が唯一得意だった陸上でさえも、君は僕の足を折った。正確にいうのならば、僕の前方不注意による負傷。……君が掛けた言葉は、運が悪かったね? だっけ。そうだね、僕は運が悪かったみたいだ。完璧主義者の君と競い合ってしまったことが運のツキってやつだよ。
そう、足、まだ許してないから。だって、僕は、まだ、走れないんだ。君は走れるくせに、僕は少し走っただけで足が止まるんだ……。走ると今度は君に足を切れられそうだから。僕は君には何もしていないのに、なんでこんなにされなくちゃいけないんだろうね。……だからね、僕はこれから真っ新な人間になるんだよ。記憶を消して、過去の因縁も、何もかも拭って生きていく。とても、素敵だと思うでしょ? 僕はそう思う。ね、君もそう思えって。……キタムラユウト。
僕は今から、完璧主義であった君さえも、好きだった陸上のことも、僕である存在さえも忘れて生きていこうと思うんだ。そうだ、最後に昔のように、ユートって呼んでほしい? ユート。ねぇ、なんで最後にユートを呼んだと思う? 頭の良いユートなら、分かってほしいって思うけど。ほら、ユート……。分からない? そりゃそうか。ユートは僕の足を折ったことすら覚えてない愚図なんだから分かるわけないかー、そーっか。アハハ。アハハハハハ……。
だーからーさ、言ったでしょ? 僕はまだ足のことを許してないって。これだけは今まで一度も許したことなんてないんだ。多分これからも絶対に許さない。ユートがいくら土下座をしたって許さないよ。だからね、復讐。仕返しだ。だって僕は君のせいでまだ走れないんだ。君はずっと陸上部のエースとして走ってたね。僕の居場所を奪ってさぁ……。で、僕はそれをどんな気持ちで見ていたと思う? 許さないなんていう軽い気持ちじゃないよ。――殺してやるって、思ったんだ。お前をずっと殺してやるって思っていた。だから、僕は君を殺す。そして君を殺した記憶も君のこともすべてを忘れて、これからのうのうと生きてやろう、って思うんだ。
ほら、すっごく、素敵なことだと思うでしょ?
*
今日もいつものように、けたたましく鳴るコールによって叩き起こされてしまった。いつものように寝覚めは最悪だが、躰は意外と動く。今なら百メートルも三十秒で走れそうだ。こんな珍しいこともあるものだ。だから俺は湯を沸かし、ワイドショーを付け、食パンを焼き、鞄に教科書を詰めていった。すっかり使い古された教科書には俺の名前である、キタムラユウトと書かれているが、すっかり剥げていた。油性で上から書いてもいいが、不格好になりそうという恐ろしさから見て見ぬふりをしてしまった。いや、どんな恐ろしさなんだ。
呑気な顔したワイドショーでは近場で起きた殺人事件のことを繰り返し言っていた。死体の損傷は激しかったらしい。特に足なんてほぼミンチ。ふくらはぎでハンバーグでも作る気だったのか? 可哀想だ。少し同情を誘われてしまった。
「被害者は、キタムラユート……?」
足をミンチにされた被害者は俺と同姓同名だった。少しじゃないほどの同情で塗れた。同じ地球上で同じキタムラユウトが殺されてしまったという無常さ。俺もあんなひどい格好で殺されないとしないとなあ。恨みとかかってなかったかな。金銭トラブルとか怖すぎだからな。あー、ヤダヤダ。俺の足で作ったハンバーグなんて旨くないのに。
そんなこんなしていると、オーブントースターの軽い音が部屋に鳴いた。温められたオーブントースターを開けるとそこには、サクサクもっちりな食パン。それにマーガリンを塗って頬張る。あー、これこそキタムラユウトである俺が歩むべき早朝の一ページ。殺されたキタムラユウトには叶うことが出来なかった朝の一ページ。コーヒーが健気な朝を称えて止まない豊かな香りが部屋一面に広がる。今日もそうして、殺されてしまったキタムラユウトのことなんて三歩歩いただけで忘れてしまう。俺の記憶力なんてそんなもの。
グッドナイト、キタムラユート。
グッドモーニング、キタムラユート。
そうして、輝かしい一日は錆びついた扉と共に開けていく。
「おはよう、ユート」
そこには俺のガールフレンドこと、池田明美が優雅に腕を組んで立っていた。
「おはよう、アケミ。今日も良い朝だ」
「えぇ、そうね。私は全く良くないけど。ユートに何十分も待たされたからね」
「おぉ。そんなことをするユートはどこのどいつだろうか」
「目の前に立っている、ユートはどこのユート?」
明美は不機嫌そうに俺のことを剥げたネイルで指す。あぁ、なるほど。確かに頷いた。
「この、キタムラユウト、だな」
「そう。足をミンチにされて殺されたキタムラユウトではないでしょ?」
「もうそれ、知ってんだ」
「同姓同名で、ちょっと怖かったかも」
明美らしくないほどの可愛らしく微笑む。朝日に瞬く傷んだ茶髪が、目を掠めるとも。体が少し熱を帯びる。
「うん、俺も怖かった。だって自分が殺されたって、思って……」
「でも、ちゃんと、生きてるでしょ?」
じゃれ合うかのように、肩を寄せてくる。目が合ったらスタートの合図だ。
「俺が殺されるわけがないだろ?」
目が合った。
明美は目を閉じ、唇にキスをする。
そうして、輝かしい一日は口から蕩けている涎と共に混じっていく。
*
ユートを殺した。
ちゃんと二度と走れないように足を潰してやった。これでようやく僕の復讐がスタートした。ずっと積もり積もったこの気持ちに収束がつくと思ったら安堵の気持ちで溢れて止まない。ユートは僕にずっと許してー許してーって鳴き声のように鳴いていたけど、僕がそんな言葉で許すと思ってるのかな。本当に馬鹿みたいだ。完璧と称えられたキタムラユウトの最期なんて目にも留めてなかった奴の懺悔で終わっちゃったわけだ……。哀れって言っちゃったら哀れだ。でもそれは何も知らない第三者から見て。僕から見たら妥当ともいえる結末だろう? 僕はアイツに足を潰されたんだ。二度と、ゴールが出来ないようにさせられたんだ。……ベンチから見る景色は狭かったよ。ゴールテープを切った時のあの景色とは全く違っていて……。凄く、世界が広かったんだ。晴れ渡った青い空、息がすごく上がって、誰よりも早く、早く、風が沸き上がって……。本当に、綺麗だった。でも、僕はまたもう一度ゴールが切れる。今ここでスタートをしたんだから。……ようやくだけど。
服を着替え、血に濡れた服と凶器を詰めて、袋を二重にしてしばり、鞄に押し込んだ。あとでネットカフェに寄って、シャワーを借りよう。あとは、あとは……。ユートの鞄を漁る。物が詰まりすぎて目当てのものが中々見つからない。記憶を消す前にさっさと見つけておきたいのに――どうしよう、ここで長居しても怪しまれるだけだ。もうこのまま持っていく方が賢明だろうか。時間が、惜しい。僕はキタムラユウトの鞄も持っていくことにした。とりあえず、シャワーを浴びよう。そこでこれからすることの整理をつけなければならない。
シャワーから出る水は生温かった。……記憶を消した後、僕はこれからどうやって生きようか。このまま僕という存在を貫いて生きるか、それとも他人と騙って生きていくか。もし僕として生きるのならば住み慣れたこの町から離れなければならない。一応ユートの財布を持ってきたが、僕とユートの手持ちを合わせても海外なんて行けるほどの金なんてなかった。もし自分として生きるとしても近場になるだろう。それならば僕を無くして他人になった方が幸福に生きられるだろう。
結局、選択肢は一つに絞られてしまった。僕は、僕という存在を完全に忘れ去って、他人になりすますしかない。誰になりすますか。……どうしよう。どうしようか。
僕は一体、誰になろうか……。
『ワンダーランド』という怪しい名前のビルは、たった一錠で記憶を消してくれる。金さえ積めば自分が誰だなんていう証明なんて、要らない。だから僕はありったけの金をデスクに置いて、要求をした。するとやつれたスーツ姿の女性は、錆びれたデスクの中からワンダーランド特製の記憶を消してくれる薬を処方してくれた。
――これさえあれば、貴方は何もかも忘れてしまうでしょう。掠れた声でそう言われた。本当に、何もかも忘れてしまう。だから僕は忘れる前にキタムラユウトを殺した。この記憶に未練などない。
――そうですか。スーツの女性はグラスになみなみと水を入れて、僕に差し出した。袋に入れられた、たった一錠の薬をじっと見つめる。
これで、本当にさようならだ。
これで、目指すゴールテープは。
これで、あと……、三秒。
これで、あと……、二秒。
あと……。
錠剤を口に含み、水で流し込んだ。
ここから、僕は死んで、ユートとしての人生が始まる。