ファーストキスはドブの味
待ち合わせにしていた仄暗くマゼンタに光る部屋に入ると、下着一枚で中年の男が嬉しそうにベッドの上に座っていた。
「こっち」と手招きされ、私は歩みを進める。一歩一歩と近付く度に滲むように臭うツンとした汗臭さと獣のような生臭さ。鼻が曲がりそうになった。堪えて私猫撫で声で「お待たせ」と言う。すると耳元で、生温い吐息で、「可愛いね」と魔法を唱えてキスをした。
ファーストキスは、ドブの味がした。
小学一年の時。今はもう縁が切れたミナという友達と近所の公園で遊んでいた。ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場、どれもが私たちのものだった。
でもそれらが私たちのものになっているのは下校時間が早いからで、上級生が来た時点で私たちのものではなくなる。彼らは我が物顔でブランコを奪い取り、滑り台の上で喋り、砂の山を潰し、鉄棒で自慢気に前回りをする。それを私たちは死んだ魚の目でジッと見つめ、家へと帰っていくのだ。これが小学一年の私のルーティン。
でもあの日はいつもとは違っていた。
「ねーぇー」
いつも通り上級生から遊具を奪い取られて帰ろうとしたときに一人の上級生に呼び止められた。上級生の顔は集団登校の時に見たことがあった。名前は確か、ユウタ。上級生のグループでも一人だけ浮いていて、大人から子供まで腫れ物扱いされている子。ニッと歯を見せて笑った時に一つだけぽっかり空いている穴が目についた。
ミナは「どうしたの?」とユウタくんに聞いた。するとユウタくんは何も言わずミナを殴った。ずっと殴っていた。ミナの不細工な顔は見る影がないくらい腫れ上がっていた。ミナは遂に泣いた。するとユウタくんは殴るのを止め、その瞬間にミナは逃げていった。
ミナがいなくなったらユウタくんの目は私に向いた。ミナの姿が見えなくなっても、ユウタくんはジッと私を見ていた。細い三日月の中に私の顔が二つ並んでいる。もしかしたら私もミナみたいに殴られるかもしれない。そう思うと怖かった。すっごく怖かった。
だから私はその場から動けなくなっていた。
ユウタくんはくしゃりと笑って、「可愛いねぇー」って、私の髪を撫でた。砂まみれの指。私の髪に砂が被って口の中がジャリジャリした。奥歯でジャクジャクと砂を磨り潰す。目の奥でギュリギュリと唱えられた呪文を磨り潰す。「可愛いねー」「可愛いねー」って唱えられた呪文は魔法となった。「可愛い」と魔法を唱えてキスをされた。
ファーストキスだった。ドブの味がした。
唇を離すと歯の隙間から糸が引いていた。ドブの味がした。
糸を手繰り寄せて舐めた。ドブの味がした。ドブの味しか、しない。
ずっと、ずっと、ずぅっと、ずぅーっと、キスがドブの味……。
今日も私は「可愛い」「可愛い」「可愛い」ってずっと魔法を唱えられながらキスをされる。
私のキスの味はきっと、ずっと、これからも、死ぬまでも、生まれ変わるまでも、ドブの味なんだろう。
あーあ。なんて素敵な魔法……。
口端から顎へと涎の糸が引いていた。糸を舌で手繰り寄せて舐めた。
いつも通りの、ドブの味だった。
あーあ。なんて最悪な呪文……。
「秋もすっかり終わりに近づいてきていますねー」と陽気に喋るラジオ。日が傾き茜色の陽がガラス越しから注がれる人気が少なく古臭い喫茶店。喫茶店の名はネビュラ。
埃が端に微かに積もるテーブルにはコーヒーとカプチーノ、食べ残されたケーキが載った皿。テーブルを挟み向かい合いながら、スマホを退屈そうにいじる彼女、後藤美央がいた。
「でさぁー」スマホをいじるのを止め、食べ残していたケーキを一気に平らげて一息をつき、クリームで濡れたフォークの先で俺を指す。
「あ。う、う、うん」バク、バク、と急に早く鳴る心臓。
「こんなところに呼び出して、何のつもりなのぉ。ねぇ?」
「あ。……ま、まぁそう怒らないで。物事には順があるでしょ」高鳴る心臓落ち着かせるためにコーヒーを飲む。
「そう?」
「ま、順を追って説明をしていくと」
大きく深呼吸して、またコーヒーを飲む。
「俺と美央はカップルじゃないんだ」
「は」
美央は鳩が豆鉄砲でも食らったような顔でキョロキョロとして口をパクパクさせる。
「よ、よく聞こえなかったなあ」
「だから俺らは彼氏と彼女の関係じゃない」
「え、え、ええ、え、えええ、え、え、え、え、え???!!!」
「どーどー。そんなに動揺しない、しないの。あ、カプチーノまだ飲む?」
「の、の、のむう……」
テーブルの上に置かれていた呼び鈴をチリンチリンと鳴らす。するとウエイトレスが現れた。ウエイトレスの胸元には佐伯、という名札が付けられていた。
「お待たせしました」
「そのー。コーヒーとカプチーノお代わりで」
「はい、かしこまりました」そう言うと数分もしない内に湯気が上るコーヒーとカプチーノを運ばれてきた。俺はコーヒーを飲む。美央もカプチーノを飲む。
二人息揃えて、すーはー、すーはー、と大きく深呼吸をする。深呼吸を終えると店は一気に静まり返り、陽気なラジオの音だけが流れていた。
「……えっと、つまりどういうことなの?」
「言ったままだよ。俺らはカップルではありませんでした。チャンチャン♪」
「チャンチャン♪ って、馬鹿ーーー!!!!! 馬鹿!!!!! 馬鹿馬鹿!!! そしたらあの時したあの事だってあれこれそれだって、え、えええええ、さ、さささささ、さささささっさ」
美央は脳がショートしたのか席から立ち上がってふらふらと回る。そんな美央を俺は視線でキョロキョロと追う。
暫くすると、くるくると回るのを止めて、俺の目の前に立った。
「あ、遊びだったのねーー!!! 馬鹿ーー!!!」
急に伸びた手のひら。手のひらは俺の頬を目掛けて一直線。間一髪で回避。
「おちついて、深呼吸して」
美央は深呼吸をして席に座った。先程よりは落ち着いた様子だった。
「まぁ、俺だってまだ話す事あるよ、勝手に自己完結しないで」
「え、そ、そうなの、そ、そうだったら早く言ってよ」
「んー、でも、何て説明すればいいんだろう」
コーヒーを飲む。どう説明すればいいんだろうか。
「うーん。言っちゃえば、そう。……恋愛シチュエーションゲーム?」
そう。そうだ。正しく恋愛シチュエーションゲームだ。我ながら冴えている。自画自賛しつつ美央を横目で見るとそれはもう呆れ切った顔をしていた。
「あ、いや、いやいや。え、う、うん、まぁ? 自分好みのキャラクターと恋愛できる点においては、相違はないかなって? うん、そういう意味で選んだ言葉なんだけど。あ、の、あの、誤解生んじゃった? まぁいいけど、うん。まぁ、まぁ、まぁ、なんていうかさぁ、美央はこの瓶からなっているんだ。何ていうか、ちょー科学的でしょ。ハイテクノロジーでしょ。こんな瓶に入ってるものから人間が出来ちゃうんだからさ」美央に瓶を手渡す。すると瓶を嗅ぎ始めた。
「え? なにこの瓶」
「アルコール臭いでしょ」
「しーつー、えいちしっくす、おー?」
「エタノール?」
「うん」
「C2H6O。エタノールの化学式だね」
「エタノール?」
「あ、そう。作製の仕方はそう、えっと、この瓶にある中身を風呂に流しこんで、まぁ待つ事三分。そしたら美央がワッと湧き出るんだ。それはもうワッと」
「ワッと……」
「んで、名称は、エターナル・ガール」
「永遠の少女?」
「そう。永遠なんて名を語ってるくせに、作製時間はインスタントラーメンってとこが、変でしょ、なんか。んで瓶からはエタノールの香り。エターナルとエタノールを……、かけてね」
「うん。三分で、私って作れちゃうんだ。本当に非科学的だけど、でもすごくそれ以上に魅力的」
「あ、そう、多分。あ、多分じゃないけど。多分。…まぁ、んで、美央は今日、お試し期間が終わるんだ。よくあるでしょ? 今お申し込みをされた初回の方のみ、1週間分をお送りします! って。まぁ、美央の場合2週間なんだけどね。まぁ、だから俺は美央の正体を言ったんだ。だって、お試し期間が終わったら、どうせ俺の事忘れちゃうんだし、それなら、言った方が面白いかなぁって。……あ、これって、楽観的って言うんだよね、いや、でも、うん。忘れちゃうんだし」
「忘れる?」
「忘れるっていうか、なんていうか」
「なんというか?」
「消える」
「え」
「あ、でも、これ、お試しのやつだけだから。消えるとか」
「私がお試しのやつだって、さっき、あなたが言ったよね」
「…………あ」
墓穴を掘ったな。しまった。
「でも、消えるってなに?」
「さぁ……。俺はあんまり分からないよ。エタノールが蒸発するみたいにエターナル・ガールも蒸発して消えるんじゃない。わかんないけど。んでさ、美央の右にある、コード。そのコードさえあれば、ガールの乗っ取りとかコンディションとか、まぁ、いっぱいできるってわけ」
「へー、科学的」
「だ、だから…うーん、恋愛ゲームっていうより…、あ、ウーン、出会い系なのかな? 好みの女の子をセレクト出来るって考えたらだけど。いやぁ、…あ、でも、キャッチコピーは、あれ、〈君と私。思い通りの恋愛をしてみない?〉だったはずだけど」
「思い通りの恋愛?」
「あ、うん」
「フーン。…あなたにとって、この二週間は思い通りの恋愛だったの?」
「え、思い通り…、思い通りって言ったら、そうかもしれないけど。あ、でも、何ていうか、その」
「その?」
美央は俺の顔を覗き込む。
「あ。でも、なんていうか、普通に、楽しかった二週間だったとは思うけど…」
「そう。よかったね」
「う、うん。よかったな。すっごくよかった……」
嘘でも冗談でもなく、美央と過ごした二週間は最高だった。俺好みの女の子となんだって出来るんだ。幸せに決まっている。
「ま、あなたがよくても私は消えるんだけどね。あははー」
「う、うん……」
気まずい雰囲気が流れる。
やっぱり美央がエターナル・ガールってこと言わなければよかったな。
「あははは、冗談だってば。そんなに真に受けないでよ」
「ほんとに?」
「うん」
「そっか……、よかったぁ」
「私もあなたと出会えてよかったし」
「美央……」
俺はドキドキと高鳴る心臓を抑え込むためにコーヒーを飲む。
やっぱりお試し期間なんて少なすぎる。もっと美央と過ごしたい。過ごしたい、が、美央がエターナル・ガールということを伝えたのは余計だった。
あくまでも俺と美央が対等な関係になるために伝えたことが完璧に仇となっている気がしている。
「あ。そしたら最後に、私の事を教えてほしい」
「後藤美央でしょ?」
「それぐらい分かってるよ。なんかこう、さ」
「でも、その、戸籍にもちゃんと後藤美央は存在してる。後藤理央と後藤武の一人愛娘として」
「うん」
「大学生で、あ、俺と同じキャンパスだよ、美央は経済で。あ、俺は、そのぉ、法学だけど。まぁ、高校の時同じクラスだったけどそこまで話す機会が無くて、同窓会で会って、話がすごくあって、そこから付き合いだしたっていう設定。だから彼氏は俺」
「あぁ、うん。そうだけど。それぐらい私も分かってる」
コーヒーを飲む。
「それもそうだね」
コーヒーを飲む。
「うん」
コーヒーを飲む。
「うん……」
コーヒーを飲む。
「ずっと、コーヒー飲んでるね」
「あ。あ、そうかも。あはは」
「苦くないの?」
「苦くない?」
「何言ってるの?」
「あ、あ、うん、苦くないよ」
「ふーん、苦くないんだ」
「あ、うん…」
「そっか。んじゃ、私、これから行くとこあるから」と言い美央は席から立つ。
「どこ?」
「折角街に来たんだもん、服とか見たいなーって」
「そう、分かったけど」
「けど?」
「……けど、あ、え、あ…、何もないけど!」
「あはは、ナニソレ」
「なにもないよ、うん」
「そっか。でも、大丈夫だよ。ちゃんと戻ってくるから」
「え、あ。うん」
「そしたら…、あ、そうだった」
「なに?」
「あ。えへへー、ヒミツだよ。そしたら行ってくるね」
「え、う、うん」
美央は背を向け、軽やかな足取りで喫茶店から出る。カランコロンと鳴る軽いベルの音。
そんな彼女を見て、俺はまたコーヒーを飲んだ。
「苦い……?」
暫く経つとまたカランコロンと軽いベルの音が店内に響き渡った。それと共に響くいらっしゃいませーというウエイトレスの声。
やってきた客はいつも学校内で一緒にいる一人の友人だった。友人の名は谷内俊也。小学生から大体いつも俺の隣にいた幼馴染。
「え。あ、俊也!」
「おーおー。誰かと思えばお前か。おー」俊也は俺の前に腰を下ろした。
「久々だなぁー、元気にしてた?」
「会ったの、昨日ぶりでしょ」
ていうか俊也会う度にこのセリフ言ってる気がするな。これが俊也なりの社交辞令というものなのだろうか。分からない。とりあえずコーヒーをまた喉に通した。
「そうだけど。まぁいいや。あ、すいませーん」
奥にいるウエイトレスに向かって声を掛ける。すると佐伯と名札をつけたウエイトレスが急ぎ足でこちらへと来た。
「はい、ご注文はお決まりでしょうか?」
「ミックスジュース」
「コーヒー」
「はい、かしこまりました」オーダー用紙にカリカリと書き、佐伯は裏手に回って行った。
「エターナル・ガール」
「えたのーる、がーる?」
「エタノールは、しーつー、えいちしっくす、おー」
「は? なんじゃあそれ」
「エタノール」
「エタノール?」
「字面、そっくり」
「あーね。…あ。で、エターナル・ガールって、なんだっけ」
「永遠の少女」
「わーお。アニメみたいな口説き文句」
「でも、正式名称は確かそうでしょ。エターナル・ガール、って」
「ふーん。あぁ、そー」
「俊也、持ってたっけ」
「いや、それはもちろん持ってるけどさ、でも、あれ、欠陥じゃん」
「欠陥?」
「ずっと、老わず、死なない、なんてさー」
確かにエターナル・ガールは俺の思い通りの女の子として永遠に生き続ける。永遠にだ。俺にとっては幸せかもしれないが、エターナル・ガールとして生まれてきた彼女は幸せなのだろうか……。うーん。頭を抱えるな。
俺にとっては幸せ。でも相手にとっては幸せかも分からない。それがエターナル・ガール。本当に取り扱いが難しい物だな。俊也の言う通り、欠陥かもしれない。でも欠陥だと思ってしまう俺も俺でどうかしていると思う。だってエターナル・ガールを頼んだのは俺自身だからだ。本当に……難しいな。
「……すいません、失礼します」ウエイトレスは気まずそうに ミックスジュースとコーヒーを置く。
「ありがと」そう言い俊也はゴクゴクと喉を鳴らしながらミックスジュースを一気に飲む。
そして俺はコーヒーを飲んだ。
「んー、さっきから来てくれる給仕の子可愛いよなぁ、俺ナンパしちゃおうかなぁー」俊也の目は先程から店内を駆け回る佐伯というウエイトレスに泳いでいた。
「佐伯さん?」
「佐伯? へー、そういうんだ。つーか何で名前知ってんの?」
「名札」
「あぁなるほど。俺声かけちゃおうかなぁー」
そう言った途端、ウエイトレスはまた俺らの席の周りを通った。それを見た俊也はガシリとウエイトレスの腕を掴んだウエイトレスは俊也のした行動がワケわからず目を白黒させた。
「なぁ、佐伯さん」
「え、あ、はい! 何のご用でしょうか」
「突然なんだけど、俺と話、しない?」
「ハナシ?」
「ちょーっとだけでいいからさ。ね?」
「すいません、仕事中なので」
「ちょっとだけって、言ってんだろ」
「でも」
「理解、できてんの?」
「でも……」
「あー、ま、とりあえず腕、見せろって」
掴んでいた腕から無理やり服の裾を捲った。するとそこにはエターナル・ガールにしかないバーコードが刻まれていた。そこにあったのは四と九。死と苦。 不吉な数字。
「へー。このコードって事はさー、もしかしてのもしかして捨てられたわけ?」
「す…、捨てられ? え、あなた、何言ってるんですか?」
「四と九ついたらーって、あ、これまだ公開してない情報だったっけ? あっは、ははー、言っちゃったー。内緒だぜ、これ……」
「ほんとうに何言ってるんですか?」
「まぁそんな事はどうでもいいや。とりあえず、俺と付き合わない?」
「つきあ…、は? なに?」
「フリーなんでしょ? いいじゃんいいじゃん」
「え、え、え?」
「オッケーって事でいい? いいよなー。どーせこのままいったら、バイバイなんだからさぁ」
「え、ま、待って下さ――」
俊也はスマホを出し、何かし始めた。俊也が画面をタッチする度にグインと首を曲げたり、口からピー、ガー、と機械音を出して挙動がおかしくなっていくウエイトレス。目の前で何が起こっているのか俺はついていけなかった。
「オッケー」そう呟くと、ウエイトレスは瞬きをする間もなく俊也の隣へ腰を下ろした。
「……俊也さん?」
「そう。俺は谷内俊也だよー。キミの彼氏。君の名前は…、あぁ、佐伯春菜ねー」
「はい、春菜。春菜っていいます。俊也さん、大好きです。チューしましょう」
「へへー、何か困っちゃうなぁ」
ウエストレスは真顔で俊也の腕に絡める。
「まぁこんな感じ?」
「なにがどうなってるのやら」
「佐伯はエターナル・ガールで捨てられてたんだ。だから四と九が刻まれてたわけ。んでエターナル・ガールをなんやかんなするとこがあってそこで俺が彼女の所有者になるって送ったんだ。んで、こうなるわけよ」俊也は自慢げに言い、ミックスジュースをごくごくと飲む。その自慢げな顔がどうも気に食わない。殴ってしまいそうだ。
「何のお話しているのですか?」
「春菜には関係のないことだよー」
「そうですか。あなたはだれですか?」とウエイトレスは俺に指さした。
「俺?」
「はい。俊也さんとどんな関係ですか?」
「腐れ縁?」
「そうそう。それ。小さい頃から大学までずっと一緒の腐れ縁」
「へぇ。とっても仲がいいのですね」
「そうなのか?」
「そうかもよ」
「ふふ。面白いのですね」
「あ、性格の設定してなかったわ。そりゃスタンダードな喋りになるわけだ」
また俊也はスマホををいじる。ピー、ガー、と流れる機械音。それを横目に俺はコーヒーを飲んだ。
「おーい春菜」
「なぁに、俊也ぁ」
「もー、しゅんちゃんだろ。春菜」
ウエイトレスと俊也はじゃれあう。何だこの光景。見てられない。目を逸らしてコーヒーをただひたすら啜った。
「なぁ、俊也」
「なんだ」
「…あの、すんごく、野暮ったい事、聞くんだけど」
「野暮な事、聞いてどうすんだよ。いいけど」
「その子で、エターナル・ガール所有するの、何人目?」
「えーっと、1234…………あー、12?」
「一種の軍団だね」
「俊也パーティーって呼んでほしいね。いや、12人もいると選り取り見取りちゃんだよな。いやー、見てて飽きないよ。毎日が俺を取り合っての喧嘩!」
「それって、いいの?」
「いいに決まってんだろ。だって喧嘩の渦中には毎回俺がいるんだぜ? 俊也は私の! っていうやつのがそりゃもう。ハーレム、ってやつだなぁ。わはは。わははは」
「12ってなんのことぉ?」
「女の子の数」
「春菜を合わせて?」手のひらをウエイトレスに広げる。
「うん。美央、美央、美央、美央、美央、美央、美央、美央、美央、美央、美央……んで、春菜ってわけさぁ」名前が告げられるたびに折られていく指。二本だけ残った。
「そっか。そしたらその中の女で、俊也の一番になればいいんだねー」
「そうそう。春菜はすごいなー。あはははは」
「はぁ……」
「んだよ、その意味深なため息」
「いや、作り物としての性分がにじみでてるなぁって」
「大らか、楽観的、一途?」
「大らか、楽観的、一途、じゃなくて、一括りして、バカ、でしょ」
「あぁ、ソレソレ。バカ、ね。いやぁ可哀想だよなぁ」
「なんで可哀想?」
「だって、こんなに人間そっくりでも、結局は俺とかの欲のはけ口だもん」
「はけ口って……」
「いや、俺なんてまだマシよ。だって一応は人間として彼女として扱ってるんだからさ。だって、俺の知り合い、ストレス溜まったらエターナル・ガール殴るんだぜ? ほぼサンドバッグ」
「えぇ……」
「そいつが言うにはいくら殴っても殴っても、好き! 好き! ってずっと言うらしくて」
「うん……」
「まさしく、奴隷ちゃん。洗脳済みってとこかな」
「そうだね……」
「アイツ、今何してんのかなあ」
「まだ、殴ってるんじゃない?」
俊也は歯を見せてニヤニヤと笑った。
「あー、殴ってそうだ」
俺も歯を見せてニヤニヤと笑った。きっとそのエターナル・ガールは今もずっと殴られている。だってエターナル・ガールを殴っても跡が残らないから。エターナル・ガールは殴っても好きという気持ちは永遠に消えないから。そう思うと笑うしかなかった。笑えた。
「あはははは」
「わはははは」
「……」
「どうかした? 春菜」
「聞いてて、とても楽しい話だなって、思いまして」
「ふーん、そうか?」
ウエイトレスは立ち上がりたどたどしい足取りで喫茶店内をくるくる歩き回る。頭をバリバリと掻き毟りながら。
「とっても、面白い話です。私、とっても楽しいわ。とっても、とってもとってもとーっても!!」
このエターナル・ガールなにかおかしいな。
もしかして――。
「うふふ」
ウエイトレスは床に崩れ落ちて何も無い場所をじっと見つめる。
「それは」
見つめるその目には恐怖しかなかった。
「とっても、楽しいお話なのです。あの人? 違うけど、違う、違うけど、あぁ、でも、あの人は、脳が、とろけるほど楽しく遊んでくれたわ。もしかしたら本当に溶けていたのかもしれないのだけれど。毎日のように愛されていまして、黒い、くろぉい箱に映るものは私に酷く笑いかけてくれて、箱に映るのは私の顔でしたけど、あぁ、でもその笑顔をはぎ取られるほど目の前が真っ白に刻々と満ちてしまいました、恐ろしくも、曲がっていく。みみず腫れが指先を伝って、体に焼き付いてしまって。何か美しいもので体が塗り替えられていくのが分かります。痛みだけが身に染みていくのです。でも、あの人は、笑ってくれました。その笑顔が好きなのです! その笑顔が私の一番の宝物なのです。私は、私は…、愛されていたのでしょうか。酷く、酷く、酷く…、でも、好きなんです、すっごく好き。殴られても好き。好きっていう気持ちには間違いはないのです。だって、私にあるのはあの人の好きっていう気持ちだけなんです。私を殴った後の笑顔が好き! 私のよだれで汚れた手を見て笑うあの人の笑う横顔が好き! だってその笑顔は私だけのものなのですから。でも、でも、それは好きに値するのでしょうか? 本当に……それさえも疑ってしまったら、私には……、何が残るんですか?」
言い切るとプツンと糸が切れたかのように泣き始めた。
「……あれ、一体、誰の話、してるの、でしょうか」
「はーぁ…、だめ、だめだろー、これ、だめだ!」
「あぁ。ダメ、ダメ。こんな欠陥品!」
「何の話ですか?」
「ダメ、ダメ、ダメだよ! こんなの俺らの理想のものじゃない!」
俊也は急いでスマホを取り出す。
「ピー、ねぇ、ガー、何をしてるの?」
「お前には関係のない事だよ」
「ウソ、だって、あなた、あの人みたいな顔をしているもの。何でそんなに笑っているの? なんでわらっているの? わらわないで! わらわないで!」
ねじ曲がった首。首の視線の先には俊也はいない。
「わらっている?」
「わらわないで……」
ねじ曲がった首。彼女は今何を思っているのだろうか。
「ねぇ、なにをしているの?」
ねじ曲がった首。彼女がどんな顔をしているかも分からない。
「お前は、俺の理想の物じゃない」
ねじ曲がった首。彼女の頭の中にはきっとずっと殴ってきた彼しかいない。
「え?」
ねじ曲がった首。視線の先にはきっとずっと殴ってきた彼がいるだろう。
「作り物のくせに」
シン、と喫茶店内は静まり返る。。
「ビー、ビーッ。データはデリートされました。データはデリーとされました……」ウエイトレスはねじ曲がった首のまま喫茶店の裏口へと向かって行った。
静かな空間。また陽気なラジオが鳴り始めた。
「あ、ミックスジュース無くなってた」
「俺もコーヒー、いつの間にかなくなってた」
俊也はメニューを手に取る。
「お、丁度同じ。何する?」
「コーヒー」
「またかよ」
「そういう俊也は?」
「ミックスジュースとー、あとー、んー、腹減ってきたし、パンケーキ?」
「パンケーキって」
「んだよー。お前も頼むの?」
「えー、そしたらチーズケーキでいいや」
「へーほー、おっけ。……おーい! へーい!」
ねじ曲がった首がまだ直っていないままウエイトレスは俺らの前に現れた。
「はい。お伺いします」
「俺はー、ミックスジュースとパンケーキ」
「コーヒーとチーズケーキで」
「すいません。只今ミックスジュースを切らしておりまして」
「あ、そう? んじゃーそうだなーミルクセーキで」
「かしこまりました。注文を繰り返させていただきます。ミルクセーキとパンケーキ、コーヒーとチーズケーキでよろしいでしょうか?」
「はい」
「ありがとうございます。…暫くお待ちくださいませ」
ねじ曲がった首を直さないままウエイトレスはまた裏口へと戻って行った。
「あははははは。そうして佐伯さんは消えちゃうのかぁー」
「あははははは。そんなこと、言ってやるなよぉー」
「いやぁー本気で危なかった。前の所有者の記憶が残ってるだなんてマジで厄介」
「確かにね」
「だろー。しかもバグった記憶しかないって、どんだけガサツに使われてたんだっていうやつ。もしかしたら俺の友達のやつだったのかも?」
「世間狭すぎない?」
「わりとあるかもな」
「殴られ続けた後には記憶を消して廃棄かあ。ほんとに可哀想だね」
「それな? あーあ、俺ほんと人間に生まれてよかったー。廃棄する側でよかったー。わははは」
「アハハハ」
「お前も、そう思うだろ?」
「俺は廃棄したことないから分かんないや」
「あぁ、そうか、お前まだ一体しか保有してないもんな」
「そんな俊也みたいにたくさん持ってる方がおかしいでしょ」
「そういうもんか?」
「そーいうものですよ」
ウエイトレスは機械音を口から奏でながら注文した品を机へと置いた。
「ギ。ピピー」
「ありがとうございます」
「ありがと」
「いや、エターナル・ガールってさ、ほーんとあれってすごいよなぁ」
「だってアレって、言っちゃえば、人間の偽物でしょ?」
「まぁそう考えるのは安直すぎだけどな」
「んじゃぁ、はどう考えるの?」
「人間の偽物?」
「同じじゃん?」
「まぁあんなにも人間そっくりに怒ったり泣いたりしたらさ、エターナル・ガールなんてヤツ知らなかったら誰だって人間と思うだろ」
「まぁ、そうかもね」
「だろ? だって俺も美央作った時、ただの人間じゃん! とかしか思わなかったし」
「ミオ?」
「俺特製のエターナル・ガールの名前だよ。美央。後藤美央っていうんだ。俺は経済で、ミオは法学。高校の時の同窓会で偶然会ってそのまま意気投合して付き合ったってやつ」
「へー、ゴトウミオね」
「そう。つーかエターナル・ガールさ、この機会にちょうどいいし廃棄しようかなって考えてんだけど、どうかな?」
「いいんじゃない? 丁度いい機会だし」
「お。お前もそう思う? んじゃそうするか」
「え、だって、エターナル・ガールって俺らのためだけに、あるんだから、俺らのために廃棄されるのだって、本望じゃない?」
「だよなぁー。俺もすんげーそう思う。つーかお前のエターナル・ガールってどんな子?」
「そういう、俊也のは?」
「質問返しは卑怯だろ…、まぁ、いいけど。……えっと美央はその、20歳で、服とかが趣味で、なんつーか、まぁ、俺、美央に関しては一目ぼれだったからさぁ…」
「ほぉー」
「キモイ声出すなよ。まぁ、なんつーか、抱きしめた時にバニラムスクの香りがして、好きだなぁ、愛してるなぁ、って強く思っちゃうわけ、うん…。……あー、湿っぽいな! はい! 俺の話はおしまい! 次はお前!」
「俺? えー、俺のは、サエキハルナで」
「は? 何言ってんだ」
「あ、あぁ! 違う違う! ウソウソ」
佐伯春菜はさっきの壊れたウエイトレスの名前だ。違う。俺の愛している人の名前はあんな壊れているものじゃない。
「美央。後藤美央っていうんだ。俺は経済で、ミオは法学。高校の時の同窓会で偶然会ってそのまま意気投合して付き合ったんだ」
「どーせ、お前の事だからそのまま使うだろ? はい、追加料金12万えーん」
「まぁ、一応は、貯めてるけど」
「ほぉーら。言わんこっちゃねー」
「だって、好きになっちゃったんだから仕方ないじゃん」
「あー。それ、俺も分かるわー」
「なんか初めて恋をした感じがすごいんだ」
「まぁ好みのまんま作られてるから可愛い! 好き! って思うのが道理だろうけど」
「そうだろうけど」
「けど?」
「あ。ううん。なにもない! けど!」
「なんじゃそれ」
「ていうか、俺ら、エターナル・ガール、同じ名前だね」
「ゴトウミオ」
「ゴトウミオ」
「本当じゃん。おかしいの」
「おかしい」
「まぁ偶然じゃねーの」
「そういうものなのかなぁ」
「さぁ、知らねーけど」
ゴトウミオ。
俺にとって素敵な魔法の呪文だと思えるくらいに愛おしい名前。
ゴトウミオ。
俊也にとっても素敵な魔法の呪文だと思えるくらいに愛おしい名前。
何故それが被る? まさか同姓同名のエターナル・ガール? 有り余るほどの可能性が脳をよぎる。だが俺の脳はこれ以上探るな、という何かのフィルターによって考えることを強制的に止められた。
「今日は軽快な秋晴れとなりましたね。しかし明日からは冬がやってくるでしょう。身も凍るくらいに寒く恐ろしく感じる冬。そんな冬を乗り越えられるホットなサウンドがやって来ました。タイトルは『エターナル・ボーイ』近頃エターナル・ガールやエターナル・ボーイの目立った事件が多くなってきています。それを風刺したかのような歌詞が私には深く響きました。きっとこれを聞く皆さんにも響くかな? って期待やなんやらを込めて流したいと思います。そしたらーーによる、『エターナル・ボーイ』……」
ラジオの音楽に耳を寄せていると急にカランコロン、というベルの音が店内に響き渡った。そこいたのは愛おしくて堪らない俺のエターナル・ガールの後藤美央がいた。
「あ、その。おかえり」
「えへへ、ただいま」おかえり、と言うとクシャりと笑う笑顔。
「あ、美央じゃん。おかえり」
「俊也と五月だ。ただいま」
「やっぱり俺らって腐れ縁」
「そう、腐れ縁だねー」
「あはは。そのセリフ何回聞いたと思ってるの?」
「何回言ったんだろ。数えてねーや」
「数える価値ないし」
「それな」
「フーン。そっか、あ、座っていい?」と美央は俺の前を指さした。
「うん、どうぞ」
美央は俺の前に座り、俊也は俺の隣へと腰を下ろした。
「ねぇ、私がいない間、何のお話してたの?」
「エターナル・ガール」
「え?」
「エターナル・ガールについて話してた」
「へー、あ、そう……」
「まぁ、その話はしなくても…いいよね。あ、美央、何飲む?」
「ミックスジュース」
「今、ミックスジュースは切れてるぞ」
「え、ウソ。んんんー、そしたら、そのー、ウーン」
美央はメニューを手に取って、ううーんと唸る。
「そしたら、レモンティーでいいや」
「うん。俊也はどうするの?」
「俺? え、ウーン、水でいいや」
「オーケ。……あのー!」
「はい、お伺いします」
「はい」
「レモンティーと、水と、コーヒー、もらえる?」
「またコーヒーかよ」
「はい、かしこまりました」
ウエイトレスの首、まだ直ってなかったな。
「おかしいなあ」
急に美央は俺らの顔を眺めてそう言った。
「え?」
何がおかしいんだろうか。首を傾げて考えた。考えても何も出てこなかった。仕方ないか。美央の考えることが全てだから分からなくても仕方ないや。
そして冷めきったコーヒーを飲む。
「いや、何もないよ、五月」
「さつき?」
「違う?」
「はい」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「あの」
「なに?」
「あなたたちの名前は?」
「いや、こっちが聞きたいけど」
「まず、あなたの名前って何?」
「俺の名前って」
「思い出せる?」
「ナカジマサツキ」と俺は言った。昔からある名前。ナカジマサツキ。
「あれ?」
「なに」
「まず、俺の名前って何だっけ?」と俊也? が美央に聞いた。
「五月、じゃない?」
違うよ。俺がナカジマサツキだよ。
「あぁ、そう。五月」
「それがどうかしたの?」
「五月、五月、さつき、さつき…」
「は?」
「タニウチシュンヤ?」
「そうだよね?」
「あなたたちは誰?」
「オレハ、ナカジマサツキデース」
「あれ? それ俺なんじゃないの?」
「あぁ、そう、お前の名前はタニウチシュンヤだったよな?」と俺を指す。
「タニウチシュンヤ?」サツキ? に指す。
「そうだろう、俊也」サツキ? はサツキになろうとしている。それでいいの? と美央に目線で訴えかけた。美央はどうでもいいらしい。そしたら俺が今日から俊也になる。そして俊也が五月となる。
「俊也」
「はい」答える。
「ハハハハ、なんか、面白いなぁ」五月はケラケラと笑う。なにがおかしいんだろうか。俊也は俺のことだからおかしい事なんてなにひとつ無いというのに。
「そう。ねぇ、聞いてほしいの! 俊也!」
「「はい」」と五月と俺が答える。ピッタリと声が合わさる。それがおかしかったのか美央はあははと笑った。
「もー、俊也は違うでしょ」
「あ? あ……、あーっはっは、ごめん、俺はサツキだった」
そう。お前は五月。俺が俊也。簡単なことじゃないか。
「ぎ、失礼しまままままみす、お飲み物でござざざいます」ねじれた首のままウエイトレスは飲み物を机の上において去る。
「私は、レモンティー」
「「俺は」」俺と俊也は同時にコーヒーを手に取る。
「もー、だからさ、俊也は、これだろ」俊也は俺に水を押しつける。
「あ、う、うん?」
俺は水を飲む。塩っぱい、辛い、甘い、酸っぱい水だった。
「だってミックスジュースがなかったもんな」
「うん、多分?」
「多分って。ちゃんとしてよ、俊也」
「はい」
ごめんなさい。俺が俊也なのに間違えてコーヒーを取ろうとしました。俊也として間違った行動を取ってしまいました。
「ところでさ」と五月が話を振る。
「なに」
「こんなの、知ってるか?」
「何の話なの、五月」
「コーヒーって、辛い」
「そうだね」
「味覚が、だいぶおかしくなってるんだよ」
「あぁ、そうかも」
「壊れてきちゃってるんだよ」
壊れてきていますか? そうなのですか? 分からないです。コーヒーは辛いものです。水も沢山の味がします。でも美央が壊れてきているというのならば壊れてきているのでしょう。
「腐れ縁」
「そうだね。これでお見事100回目です」
「あぁ、そうだ」
「何の話をしてるの?」
「コーヒーは甘いんだ」
「そうなのかな?」
「そうなんだよ」
「美央、お前がおかしいんじゃないのか?」
「でも、その声も」
「あぁ、お前も?」
「聞こえてこなくなってきちゃった」
「街の声は?」
「分からない」
「秋もすっかり終わりに近づいてきていますね。数日もしない内に冬がやってくるでしょう。そしたら雪が降るでしょう。あなたたちが変わらなくとも季節は変わっていきます。あなたたちが変わらなくとも季節は変わっていきます」
ラジオがずっとなにかブツブツ言っています。でも美央以外のことは考えたくないのでラジオの音は次第にシャットアウトしていきます。
「ラジオ、何か言ってるね」
美央はラジオの音が聞こえるらしいです。でも俺には聞こえません。
「聞こえる?」と五月に聞く。
「何も聞こえないや」五月も聞こえないらしい。俺は安堵を覚えた。どうして美央だけが聞こえているのだろうか。そう考えると何故か怖くなってコーヒーを飲んだ。
「コーヒーはどんな味?」
「塩辛いんじゃないのか?」五月はコーヒーが塩辛く感じる。俺も塩辛く感じる。
でもこのコーヒーの味は、俺の理想の、想像の味?
「でも、それは俺の理想じゃないんでしょ?」
「五月の理想はなに?」
今の五月の理想は沢山のエターナル・ガールである後藤美央と幸せに暮らすこと。きっとそれは誰から見ても幸せなこと。
「俺の理想は思い通りになることだけど」
俺の理想は思い通りになること。全てに対して。美央に対して。
「けど?」
「けど。なにもないけど」
理想はきっと叶えられない。だからなにもない。
「なにもないけど?」
「なにもないことが今ここにあることだよ」
「怖い?」
「美央が思うなら俺も怖い」
美央が思うなら俺も怖い。美央が思うなら俺も怖い。美央が思うなら俺も怖い。美央が思うなら俺も怖い。
「ナカジマサツキ」
そう。俺こそがナカジマサツキ。俊也ではありません。
ナカジマサツキというのは美央が付けてくれた俺の名前です。大事で大事でどうしようもない俺の名前。
「そうデス。さつき、さつき、さつ、き、さつきさつきさつきさつきさつきさつきさつきさつき……」
サツキ。
「美央が付けてくれた中島五月という、大事な名前です。誰にも取られないようにします」
サツキ。
「ギー。ピー」頭の端からカチャカチャという機械音がしてきた。段々と視界が曇っていく。視界が曇っていく! 視界が曇ると、ハルナが見られないじゃないか。
「あなたたちが変わらなくとも季節は変わっていきます」と、静まり返る店内でラジオは確かにそう言った。
「いらっしゃいませー、さようならー、ありがとうー、ウーウーウウウウー」
首のねじ曲がったハルナはクルクルと店内を回り、踊る。タンタン、と軽やかなリズムで足をクルクルと回す。
「ウー、ウーウーウー、ありがとうー、さようならー、いらっしゃいませー、ウー」足をクルクルと回すと首のようにねじ曲がった。
「あぁ、おかえり、ハルナ」
「ハルナ」
「ハルナ?」
「ごめん、紹介まだだったね。彼女、ハルナだよ」
「え、あ、うん」
誰かの不安そうな声が聞こえる。この不安そうな声は誰なんだろう。
愛しい声のはずなのに名前も姿も思い出せない。
思い出せないなら、まぁいいや。どうでもいい。
「おめでとう! 結婚式はいつになるんでしょうか」
「今日は13日の金曜日。きっと殺人鬼が歩き回っています」
「おめでとう。結婚式には必ず呼んでほしいです」
「そして人間が殺されるのです」
「ジューンブライドは離婚しやすい傾向にあります」
「ギロチンで切り落とします。左手の薬指を」
「新婚旅行は月面旅行でしょうか」
「ついに心臓を貫く。ついに!」
「月には宇宙人が住んでいます。宇宙人は着々と地球人へとなり替わっているのです」
「血塗れの、ハッピーウェディング!」
「血塗れの、ウェディング・ドレス!」
「そして俺は笑ってあげるのです。俺はここにいるのだと。お前は必要ないのだと。いくら生まれ変わっても必ず息の根を止めてやる。愛しているのだから。そして誰もいなくなるのです。クローズド・サークル。ここは雪山? 絶海の孤島? いいえ違います。ここは地球。果てのある大地。天では神は笑ってないのです。俺が笑っている。愛しているから。超人になり得るか? と問われたら違うと答えるでしょう。ゆらゆら揺れる炎のかけらは静かに消えていくでしょう。枕元で立っているお前の亡霊は笑うな。そして、そしてそしてそしてそしてそして」
「左手の薬指がないことに気が付いてしまうのです。結婚式は失敗。左手の薬指が無いと結婚指輪は付けられないでしょう。愛している。だから右手の薬指に結婚指輪をつけました。右手の薬指から流れていく赤い糸。運命の人はそう。後藤美央。あなたしかいないのです」
「左手の薬指がないことに気が付いてしまうのです。結婚式は失敗。左手の薬指が無いと結婚指輪は付けられないでしょう。愛している。だから右手の薬指に結婚指輪をつけました。右手の薬指から流れていく赤い糸。運命の人はそう。後藤美央。あなたしかいないのです」
「二人とも、どうかしたの?」
誰かが呼んでいます。この人は誰でしょうか。
「あぁ、そう、俺は、エターナル・ガールについて話してたんだっけ?」
「エターナル・ガール?」
「シーツーエイチシックスオー。C2H6Oだよ」
「シーツーエイチシックスオー。C2H6Oだよ」
「エタノール」
「サツキ?」
「サツキ」
「五月?」
「サツ、」
ピー、という音がして俺のうごきはとまりましたが、おとだけはきこえます。だれがなにかをはなしているかはわかりませんが。
「あれ? 止まったわ」
「え?」
「…あ、あぁ、何もないよ。サツキちゃん」
「そうなの?」
「あぁ、多分…?」
「でも、私の彼氏だったのにー」
「俺も彼氏じゃん」
「あぁ。そう言えば、そういう設定だったっけ?」
「そうじゃん。なに言ってんだよ」
「どういう設定だっけ?」
「俺特製のエターナル・ガールの名前だよ。美央。後藤美央っていうんだ。俺は経済で、ミオは法学。高校の時の同窓会で偶然会ってそのまま意気投合して付き合ったってやつ」
なにかをのむおと。
「…みお」
なにかをのむおと。
「……、いや」
なにかをのみつづけるおと。
「苦くないの?」
「甘いんだろ?」
「それ」
「コーヒー?」
「苦くないの?」
「にが…、にがい?」
「苦くないの?」
「な、なんだよ。ハルナ」
「腕に、4と9って、書かれてるよ」
「え? ナニソレ」
「それ、何の番号なんだろう?」
「え、あ、だ、だって、す、すてられたときの、あの、あれ」
「あれ?」
「ミオ? ミオ、アレ、ミオ、ミオ、ミオミオ、ミオ、ミオ、ミオ!!!」
「なぁに」
「え、あ、ぁ、ああ、違う、違う、違う!!! あの、あの子は、あの子は、あの子は、あの子…、俺を好きで、大好きで、俺は、俺は……、あ、違う、違う!」
「あの子って?」
「あの子は、おれを、おれ、あ、違う、ち」
「あぁ、そっか。俊也って」
「ウソ、だって、お前、あの子みたいな顔をしてる、だって、あれ、ちがうちがうちがうちがう、ちがう、ちがう」
「何が違うの?」
「わらうな、なにわらってんだよ、なに、あの子みたいにわらうな、あの子、あの子は、あの、あ、ぎー。ぴー、あの、あの子……」
「あぁ、ごめんね。あの子みたいに笑っちゃってたね」
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
「俊也。人間でよかったって? でも残念だね」
「あ……」
「お前は、人間じゃなかったんだよ」
「あ」
「仕舞いには、四と九の数字」
「やだ」
「それって、どういうことか、わかる?」
「…」
「捨てられた、って」
「ギ。ピー、ピー、ピー」
「捨てられちゃって……」
「あ」
「すっごく、可哀想だね」
ピー、という音がして何かが止まりました。
「あーあ、旧型ってやっぱり駄目だなぁ。殴っても馬鹿みたいに好き好き言うし、こーんな感じにイカれちゃうもんなぁ…、まぁいいけど」
「……」
「ま、俊也なんてどーでもいいや」
ガシャン、と音がして何かが落とされました。隣にいた何かがいなくなった気配は感じ取れます。
「だって、私には五月しかいないんだよ」
何かに手を握りしめられています。
「ねぇ。五月、知ってる?」
その何かを現在検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。検索中です。
「五月は、私のエターナル・ボーイだったの」
検索中です。
「私ね、五月の事、本当に好きなの、大好き」
検索中です。
「五月と、ずっと、一緒にいたい」
検索中です。
「ずっと、永遠にいたいの」
検索結果が出ました。一覧を表示します。なつき。ゆきこ。はるな。ゆうこ。
「あの、えいえん、ってなんですか?」
「わたしたち、永遠に一緒にいるの」
「すきです、だから、泣かないでください、なつきさん」
「…ねぇ、さっきから、誰の事言ってるの」
「なぁ。俺、マジですきだぜ、ゆきこの事。俺、そう、言ってるから、泣かないで、泣かないで、泣かないで、泣かないで、なかないでぇ」
「私は、美央だよ。ねぇ、五月、私は、あなたが好きなのに」
「俺も好きです、泣かないでください、泣かないでください、お願いです」
「私、ずっと、好きだから。……だから、私の名前、も一回呼んで」
「俺、すき、すき、だいすき。ゆうな、すき、えいえんにだいすきー」
「えいえんに、だいすきだよ」
検索結果とは異なりました。メモリはクラッシュされました。愛おしい、誰か、と表示します。
愛おしい誰かがずっと俺の手を握ってくれている。
でもその愛おしい人は誰?
誰なんでしょうか。
それを示すメモリはクラッシュされています。
「明日の天気予報です。明日は秋晴れとなるでしょう。秋もすっかり終わりに近づいてきていますね。数日もしない内に冬がやってくるでしょう。そしたら雪が降るでしょう。あなたたちが変わらなくとも季節は変わっていきます。そう。あなたたちが変わらなくとも季節は変わっていくのです」
ラジオの音しか聞こえない。
愛おしい人の声はもう聞こえなくなった。