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 大学の正面口を出て、道なりに五分ほど歩くと、ガーデンパラソルの並ぶオープンカフェが見えてくる。メニューの充実もあるが、このカフェの売りは何よりも、抜群のロケーションだ。隣に建つ花屋が店先に飾る色彩豊かな花が、薄紅色の煉瓦道とカフェを彩り、講義を終えた生徒たちはその場所を絶好の待ち合わせスポットとして重宝している。
 小波潮は隈の酷い目を擦り、眠そうにあくびをすると、ペーパーカップを載せたトレーを手に、路上に並んだ円卓テーブルを見回した。そして、一つのテーブル席に目をとめる。
 忙しなさそうにスマートフォンを弄る男が、一人で座っていた。男の、更に奥の空席に気がつくと、彼の横を通り抜け、その席に腰を下ろした。
 一息ついて、腕時計の時刻を確認する。待ち合わせの時間までまだ六分ある。どうにか間に合ったと、彼はほっと胸を撫で下ろし、背もたれに身体を預ける。
 潮の待っている相手は、隣の花屋「フラワーショップ・アヤ」でアルバイトをしている。大学から近いこと、このカフェの隣であることが理由だそうだ。彼はこれからやってくる彼女の姿を思い浮かべながら、小さな笑みを浮かべる。おしとやかで、花好きで、趣味も豊富。魅力で溢れる彼女だが、その魅力の中で特に郡を抜いているのが、とても綺麗な髪ということだった。
「お待たせ」
 その声に、潮は足を組み替え、腕時計の時刻を改めて確認する。
 待ち合わせの丁度五分前。いつも通りだった。
 彼女は小さな顔を、ほんの少しだけ傾げて、柔和な笑みを浮かべる。その動きに合わせて、長い黒髪が揺れるのが見えた。カラリとした陽の光を浴びて、キューティクルが白く艶やかに輝いている。潮はちらりと彼女を盗み見すると、口の端を歪めて笑う。
「なんだ、もう来てたんだ。注文まで頼んでおいてくれたの?」
 彼は、頬杖をつくと、得意気にカップを手に取って、言った。
「頼んでおいたよ、シナモンアップルティーだよね?」
「え?」
 彼女の困ったような声を聞きながら、潮はカップに口を付ける。ミルクの濃厚な甘さが、茶葉の芳醇な香りと共に喉元を過ぎていった。丁度いいバランスだ。彼女が好むのも頷ける。
 彼女が注文するのは、いつもミルクティーだ。
 全く、彼はそんなことも覚えられないのだろうか。
 潮は溜息をつくと、手元のスマートフォンを開いて彼女のアカウントを覗く。彼女のタイムライン上に点在する、恋人への不満ともとれるぼやかした内容のツイートを読んで、背後で動揺する男を心の中で笑う。
 彼女の黒髪は、光に当たれば艶やかに輝き、一度首を傾げればたおやかになびき、触れた指は溶けるように沈み、漉けば抵抗なく毛先まで流れていく。まさに理想を体現した髪だった。
 潮は、この美しさに対する礼儀として、彼女の全てを知る義務があると思っている。
 愛する髪と、それに付随するものに興味を示さないことは、失礼極まりない。
 彼女は、浮かない表情を浮かべてながら、彼の向かいの席に座る。潮は側を通った際にちらりと彼女を見た。風に揺れる黒髪から、芳醇な香りがするりと鼻腔をくすぐる。
 潮はカップを置き、テーブルに肘を立てて、口を隠すようにして寄り掛かった。
 彼女のことなら、なんでも知っている。
 後ろのくだらない男よりも、ずっと多く。
 好きな花。
 好きな色。
 好きな映画。
 好きな食べ物。
 だが逆に、彼女は、潮のことを何ひとつ知らない。
 当たり前だ。
 何故なら、彼と彼女は、これまで出逢ったことすらないのだから。

   ●

「今日はどこ行こっか」
 彼女の言葉に、男は少し考え、映画と答える。
「いいね、この前のも良かったし、また何か見に行こうか」
「この間は確か、少女漫画が原作のやつだったよね。あれはうまく実写化してたな」
 馬鹿め、と潮は目を細める。呆れてものも言えない。お前が観た映画は、近未来宇宙を舞台にした洋画だ。彼女たっての希望だったのに、自分の好みではないからとつまらなそうに観ているからそうなる。大方自分好みの映画を、どこかの誰と見に行ったのだろう。男の動向に関して潮は興味すらないが、彼女が時折呟く【宛先のない不安】を見れば、すぐに分かる。
「それ、誰と見たの? あたし、知らないよ」
 彼女の声が、力を失っていく。男は慌てて弁解をしているが、その理由付けの浅さ、異性でないことを強調する様がとても見苦しく、いっそのこと全て吐いてしまったほうが、彼女もすっきりするのではないかと、背中越しに耳を傾けながら思った。
「あのね」彼女の声に、緊張が増したのを、潮は感じた。
 来る、と彼は逸る気持ちを抑えて、じっと彼女の言葉の続きを待つ。
「終わりにしよう。あたしたち、もうダメだよ」
 彼女は躊躇いがちに、そう言った。
 彼女が、別れる。背中越しに聞いたその声は、諦観と、寂しさの入り混じったもので、その声色が、よりいっそう潮の心を震わせた。

――彼女が、別れる。別れてくれる。
 
 つまり、ずっと、ずっと待ち焦がれていた展開が、ようやくきた。
「あっれぇ、小波っちじゃん、一人―?」
 その声に反応して、思わず視線を上げる。
 上げてから、潮はそのことを深く後悔した。
 ルナは、ファーの付いたコートに、うさぎのリュックサック、何かのキャラクターをあしらった帽子を身につけ、こちらを見てにっこりと笑っていた。女性、というよりは少女らしさを前面に出したファッションで、暖かそうな手袋をひらひらとさせて潮を見ている。ルナの隣に立つ松木森は「本当だ」と潮を見て言うと、地味めで冴えない眼鏡顔を綻ばせた。
「相変わらず眠そうだね、小波っち」
「まあな、色々としなくちゃいけないことが多いんでな」
 すぐに間合いを詰めてくるルナを、鬱陶しく思いながら、潮は自分の目の下にある隈を指先で撫でた。ここ最近は、特に慎重な行動を求められていただけに、随分と隈が酷くなった。
 それだけの苦労をして、ようやく手に入れたチャンスだというのに、今、目の前にいる無遠慮な彼女が、全てを台無しにするかもしれない。そう考えると、潮はより一層、ルナに対して殺意が湧いた。
「ねえねえ、一緒に座ろうよぉ」
 誘い、というのは名ばかりで、彼女の中では既に決定事項だ。ルナは潮の隣に座り、自分のトレーを置く。彼女の中で、この時間は三人で過ごすことになったようだ。
「なんだ、お前ら、今日はデートじゃないのか?」
「デートだけどー。小波っち見つけたから、今日は飲みにシフトだよ!」
「あ、ああ……」
 表情をうまく取り繕うことはできたが、声の動揺は隠すことができなかった。何も、このタイミングで彼らと出会わなくてもいいじゃないか。貼り付けた笑みの裏で潮は悪態をつく。
 ルナと森に絡まれていると、後ろからガタリと椅子を強く引く音が聞こえた。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。通りの先に、駆けて行く彼女の小さな後ろ姿が見えた。
 追わなくてはならない。今のタイミングを、逃してはいけない。
「本当に悪いけど、実は俺、もう帰るところなんだ」
 ええ、と残念そうに顔を歪めるルナを無視し、潮はバッグを背負うと立ち上がる。彼女のマイペースさには本当にうんざりする。森もルナを窘めてはいるが、あまりにも彼の押しが弱く、効果的ではない。
 せっかくチャンスが到来したというのに、こんな奴らと構っている暇はない。
「じゃあな」
「待ってよ!」
 潮が駆け出そうとした瞬間、その腕をルナが抱えるようにして掴んだ。
 彼女の姿が遠くなっていく。風に揺れる黒髪が、悲しみを湛えているように見えた。
「今日こそは逃さないよ! 小波っちってば、いっつもすぐ帰っちゃうんだから。今日こそはルナと飲むの!」
 追いかけたいという気持ちすら、この女は阻むのか。腕を強引に掴む彼女に対して、どこまでも深く、心が凍てついていくのを潮は感じる。
「スマン、小波。ルナは言い出したら聞かないからさ」
 窘めかたすら知らないこの男もこの男だ。恋人なら、手綱くらいしっかりと握ってみせるべきだ。
 一緒に行くって言うまで離れない、と喚くルナに、彼女のフォローをする森。
 視線を彼方に向ける。もう、彼女の姿はどこにも見えない。
 こんなはずじゃなかった。彼女を一人で帰すつもりはなかった。
 もし彼女がこの失恋なんていうくだらない一件で、あの黒髪を切ってしまったとしたら……。

――彼女の価値が、ゴミクズになってしまうじゃないか。

 今から走って追いかけても、彼女には辿りつけない。
 潮は、奥歯をぐっと噛みしめた。視界がぐらりと揺れ、胸が締め付けられるように痛み、噛み締めた奥歯がギシリと軋む。
 今日は、最高の日になる。そう、思っていたのに……。
「ほんとごめんな小波。今日だけ、今日だけ付き合ってくれ」
 懇願する森を見て、潮は深く呼吸をする。吸って、吐いてを繰り返し、溜飲を下げていく。今更誰に当たっても、彼女は返ってはこない。潮はルナを強引に引き剥がし、それから両手を腰に当てると肩を竦め、言った。
「いいって、松木。こっちこそ付き合い悪くて、ごめんな」
「小波……」
「分かった。飲みに行くよ」
 小柄な身体を目一杯動かして喜びを表現するルナと、申し訳なさそうに、けれどルナの喜ぶ姿を見て顔を綻ばせる森を見て、潮は小さく拳を握る。
 彼女に一瞬で近づくことが、できたかもしれない。
 こんな日は、きっともう二度と来ない。
 今日は、最悪な日だ。

   ●

 呂律の回らなくなった森がトイレに消えてから、どれくらい経っただろう。飲み放題だからといって際限なく飲み、そして酔い潰れる彼を介抱せず放っておくようになってから、もう随分と経つ。彼らと飲むことを避けたい理由の一つだ。
 潮は、ウーロンハイをちびちびと舐めるように飲みながら、今日の失敗について考えていた。ずっと伺っていた機会が、ようやく訪れたチャンスが、一瞬にして崩れ去ったというショックは、正直いってすぐに拭い去れるものではなかった。
 彼女のタイムラインを覗いてみたが、呟きは途絶えたままだ。髪を切ってしまった、なんてことだけはないと願いたい。
「ねえ、小波っちさあ、ちゃんと聞いてる?」
「ああっと、ごめん。少し酔いが回ったかな」
 ひどーい、と言いつつ、彼女は機嫌良さそうに潮を小突くと、再び不平不満をぶちまけ始める。
 小波っちに相談に乗って欲しかったの。
 森がトイレに消えると、早速そう切り出してきた。いつものやり方だ。相談女という蔑称を口にすれば、潮の大学では大体話が通る。この目の前の女は、相談と称して男に近づき、次々と股を披いて歩いているような輩なのだから。
「付き合ってから大分経つ」
「マンネリ」
「ドキドキがない」
 森は、彼女がそんな不満を潮に漏らしているなんて、夢にも思っていないだろう。潮は隣の意地汚い女にうんざりしながら、相槌だけ適当に打ってグラスを傾ける。
「もう、シンくんと距離置いたほうがいいかもなって思ってさー」
「別れればいいじゃないか」
 保留、という選択肢を選ぼうとする彼女に、潮は興味なさげにそう言ってみた。ルナはきょとんして、それから目を細めて笑うと、潮の肩に頭を乗せた。
「別れたら、ルナの彼氏になってくれる?」
 背筋が凍る。
 全身の毛が逆立った。
 何故彼女は、隣の男が落ちると信じて疑わないのだろう。炎天下に晒された砂のように乾燥しきった髪の感触は、最悪だった。触れるだけで崩れ落ちそうなくらい、堅く縮こまり、日々のケアを怠っていることが容易に分かる。それに色だ。本来なら黒く艷やかであるべき髪を、一体どれだけ酷使すれば、こんな色にできるのだろうか。月一なんてものではない。とにかく気分がそぐわなければ、すぐにでも色を抜いているに違いない。生来の黒さを想像することすら不可能なそれは、潮からすると最早、嫌悪の塊でしかなかった。
 救いようがない。いや、救う価値もないな、と潮は皮肉げに笑う。
「冗談はその辺でやめておけって」
 潮はルナの頭を除けると、立ち上がる。
「小波っち……?」
「俺、そろそろ帰るわ。松木によろしくな」
 帰らないでと彼女の甘えるような声が聞こえたが、潮は聞こえないフリをして店を出た。森には悪いが、これ以上我慢ができなかった。彼女の反吐が出るような会話を、これ以上聞きたくはない。
 店を出て潮はすぐさま駆け出す。ようやく終わった最悪な日から、抜けだそうともがくように、地面を強く強く蹴った。
 もう、無駄なことは分かっていた。けれど、ほんの少しの可能性に縋りたかった。もしかしたら、彼女と出逢う可能性があるかもしれない。傷心している彼女が、気まぐれに出歩いているかもしれない。
 逃したチャンスを取り戻す。なんていう奇跡が、あってもいいじゃないか。
 小路に入ると途端に道に影が落ちた。飲み屋街から一つ道を逸れるだけで、街はいともたやすく夜闇に染まる。眩しいくらいの電灯も、耳が痛くなるような喧騒も、鼻につくようなアルコールの臭いもなくなって、最後に残ったのは、凍えるような寒さと、彼女に対する想いだけだった。
 潮は立ち止まると、ふと思った。
 もし、もしもだ。奇跡が起きたとして、彼女が髪を切っていたら、染めてしまっていたら……。もしも、【黒髪】を失っていたら、どうするべきだろう。
「……決まってる」
 潮は、笑った。
 自分にとって最悪の光景を思い浮かべながら、歯を剥き出しにして笑う。
 後悔させてやればいい。俺の愛を踏みにじったことを。
 これだけ愛しているのに、あっさりと切り捨てたことを、責めて、責めて責めて責めて責めて責めて責めて攻めて攻めて攻めて攻めて攻めて攻めて攻めて攻めて攻めて攻め抜いて責め抜いて攻め尽くして責め尽くして、どこまでも攻めて……。
 壊してしまうんだ。
 次を探せるように、跡形もなく忘れてしまえるように、完膚なきまでに、壊してしまえばいい。


 時刻は、午後十時を過ぎた頃だった。
 今頃彼女は何をしているだろう、普段ならば寝る前にゲームをしている筈だが、今日ばかりは予想がつかない。管理が行き届かないことが、とても不安でしかたがなかった。
「とりあえず、部屋にいるかだけでも確認しておくべきだな」
 潮は自分に言い聞かせるように呟いて、逸る気持ちを抑えながら、彼女の家へと向かう。先の十字路を右に曲がれば、あとはまっすぐ進むだけ。
 潮は、バッグを背負い直し、道を曲がった。
 ドン、と鈍い音がした。
 二、三歩たたらを踏んだ潮は、体勢を整えると、「大丈夫ですか」とぶつかった相手に慌てて声をかけた。
 
 とても、美しい髪だった。
 
 よろけた女性の黒髪を見て、潮は思わず見惚れてしまった。
 まるで、水のように滑らかで、それは波に揺られるように優しく、飛沫のように可憐に乱れていた。街灯の白い灯りが、舞い踊る長い黒髪を艷やかに、蠱惑的に輝かせている。
 口をぽかりと開けたままの潮を、長髪の女性は見つめ返していた。見過ぎたと潮は一度目を逸らし、再び女性に視線を向けると、誤魔化すように苦笑した。
「あの、すみません。急いでいまして」
 長髪の女性は、それでも構うことなく、潮をじっと見つめていた。生気に満ちた長い黒髪の奥の、あどけなさの残る小さな顔を上げて、髪の間から覗く、小さくて薄い瞳で、じっと。
 綺麗な髪と、それに合うバランスの良い顔立ちだった。一つだけ、それらとは不釣り合いな隈が、彼女の小さな目の下に浮いていることを除いて。化粧をしているようだが、あまりにも濃すぎて隠しきれてはいない。
「……何か?」この髪にとても興味はあるが、生憎今は目的がある。潮は惜しみながらも踵を返す。
「じゃあ、俺行くんで」
「待って」
 彼女の澄んだ声が、潮を引き止める。彼女は巻いていた紅色のマフラーを軽く巻き直し、左肩に掛けていたショルダーバッグに手を入れる。
 その時、紙くずが彼女の鞄から零れ落ちた。潮は、その紙くずを見て、思わず目を見開く。
 今朝のオープンカフェで飲んでいたカップだ。ひしゃげているが、ついさっきまで飲んでいたものだから、見間違えるはずがない。それも、自分が飲んでいたサイズと同じだ。
 ふふ、と彼女が吐息混じりの笑みを漏らす。内向的で、大人しそうな外見にしては、いささか不気味さのあるその笑い声を聞いて、自分が何かに巻き込まれていることを、潮はすぐに察した。
「占いのとおりだった。今日は最高の日になるんだって……出逢えるんだって言ってたの」
 鞄から取り出された一振りの包丁が、空を切る。
「あたしの運命の人に」
 両手で包丁を握り締め、彼女はとても嬉しそうに目を細めて笑う。とても可愛らしく笑う女性だった。その手に握られた狂気を除いて、ではあるが。
 潮は生唾を飲み込む。
 最悪だ。心の中で吐き捨てる。今日は最悪な日だったが、それもようやく終わると、今さっきまで思っていた。
 だが、そんな彼の予想は、見事に外れた。
 彼女は、包丁を胸の前に突き出して、恥じらいながら、言った。
「選んでください。結婚を前提に付き合うか、死ぬか」
 小波潮にとっての最悪な日は、むしろ始まったばかりだった。
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