15
インターホンは合図の音だった。
瀬賀に愛でられる合図。
そして、最近では小波潮と会える合図でもあった。
それはほんの少しまで、愛美の中で幸福の報せのように響いていた。音が鳴るだけで視界がぱあっと明るく開けて、無自覚なまま積み上げられたフラストレーションから開放され、身体がいつもより軽くなった。
ーーああ、私は恋をしている。
インターホンの鳴るブザーに愛美は身を震わせ、モニターを恐る恐る覗き込む。
潮だった。自分の毛先を弄りながら、愛美の反応を待っている。
彼の様子が普段と若干違うことに気がつけたのは、彼を見続けていたからこそだろう。なによりその観察対象である潮自身が、とても完璧な人の愛し方を教えてくれたからでもある。愛美はモニター越しの彼の顔を指先でそっと撫でた。
彼は、何かを決めて、ここに来た。
晴れやかにならない心と重たい視界を抱えながら、愛美は通話ボタンをそっと押し込み、胸に手を当て、絞り出すように答える。
「……はい」
『いたのか、良かった。その、なんだ。少し近くに寄ってな。上がっていってもいいか?』
「はい、でも私だけだよ」
『構わないよ。というか、瀬賀と連絡取れないから多分、一人なんだろうなって思ってた』
それは、どういう意味だろう。
愛美は何も言わずモニターを切る。おめかしは……いいか。シャツとハーフパンツの部屋着を鏡越しに見つめて、愛美は顔を伏せた。せめて髪だけはまとめておこうとゴム紐で腰よりも長い髪を後ろにまとめる。
そろそろ、切ってもいいかもしれない。今度瀬賀に髪について聞いてみよう。髪を切るとなると似合う服装もきっと変わってくるだろうから何から何まで変える必要がある。
部屋も普段から散らかすことが少ないから片付ける必要もない。紅茶も招いてからでいい。愛美は特に支度することもなくワンルームを見渡し、玄関に向かう。
鍵を開くのが、こんなにも怖い日があっただろうか。
重苦しい玄関の扉を前に、愛美はうまく呼吸ができなくなる。胸の奥に居座るけだるさと締め付けられるような息苦しさを抱え、愛美は何度も覚えたてのような呼吸を繰り返した。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
吐いて……。
愛美は、扉を開けた。
「よう」
「潮君」
愛美の見上げた先に潮の顔がある。少し不健康な目元に、憂いを帯びた黒い瞳。切り揃えられた短髪の奥に、きれいに刈り上げられた項が見える。輪郭のはっきりとした首筋に、たくましく出た喉仏が、彼の声と共に震えた。
どれも愛美が愛してやまないものだ。もしできることなら、彼に抱かれたい。太すぎず細すぎない、しなやかな筋肉のついた両腕でしっかりと抱き締められたらどんなに幸せだろう。
「お茶、出しますね」
「ああ、突然悪い」
「潮君ならいつだって大丈夫」
「またそんなことを……」
苦笑しながら顔を上げた潮は言葉を止めた。
愛美が笑っていた。でも、その笑顔はいつも彼が見ていたものではなくて、今にも消えてしまいそうなほど儚くて、薄く溶いた諦観を飲み込んだような、心を押し殺した表情で、潮はなんとなくだが、彼女の今浮かべる表情が、とてもきれいだ、と思った。
これまでも十分に似合っていたが、これまで以上に、今の彼女の髪は美しい。
乳白色の下地に花のイラストが入ったティーポットを傾けて、同じプリントの入ったティーカップに紅茶を注いでいく。彼の前に置くまでに、カタカタとカップがソーサーの上で何度もたたらを踏んだ。
「いい香りだな」
「ニルギリっていう茶葉にしてみたの。普段は違うんだけど、今日は、少し気分を変えてみたくて」
「俺、こっちのほうが飲みやすくてすきかもしれないな。ニルギリか、覚えておくよ」
「飲みたくなったら、いつでも来てね」
なんて、と小さな声で呟いて、乾いた笑いを吐息のように漏らした。
「いいかもな、飲みにくるくらいの適当な理由でここに来るのも」
「え?」
愛美は伏せていた顔を上げた。潮は紅茶を飲みながら、美味いと機嫌良さそうに呟いている。
どうして、そんなことが言えるのだろう。
愛美の胸がチリリと灼ける。焦げ付くほどではない、でも痛むくらいには熱い。
あざみさんと上手くいったんでしょう、と言えるような性格だったら良かった。そうしたら、こんなにも彼のことで悩むことなんてなかった。溢れそうな想いを上手に処理できて、瀬賀に頼らなくても自分を保って生きられたかもしれない。
ナイフを持つ手を空っぽにしようと決めたのは、愛美だった。瀬賀が決めたことではない。自分で決めた。
やっぱり彼と一緒に死にたいと愛美は思う。それだけ愛している人を、誤った刃先で傷つけたくなくて、愛美は初めて自分の意思で手放した。
それは、やっぱり誤りだったのだろうか。瀬賀のアドバイスに背くべきではなかったのだろうか。
「でも、あざみさんに悪いよ」
ぽつり、と出た言葉に潮は首を傾げる。
「あざみさん?」
「私なんかとしょっちゅういたら、あざみさん、傷つくよ」
「いや、俺は……」
「潮君の大切な人は、あざみさん。そうでしょ?」
潮の言葉をすとん、と切り落とすような、鋭い言葉だった。
愛美はまっすぐに潮を見ている。いつもとは違う、凛とした強い眼差しだった。顔を上げた時に揺れた髪先が彼女の頬を撫でる。さらりとして、一本でも光を孕んで艶やかにその存在を主張していた。
愛美はすっと立ち上がる。
「あの日、オープンカフェで会った時に、運命の人に出会えたんだって思った。夜にもう一度会えた時には、この人と一生添い遂げるって確信した。だってそうでしょう? その日のうちにまた巡り会えるなんて運命の人以外ありえない」
「愛美……」
「潮君は私の下手な愛し方を正すって言ってくれたよね。だからね、私頑張ったの。これまでそうだと信じてた愛し方をやめて、できるだけ、運命の人の教えてくれる愛し方を知ろうって。それが、潮君の隣にいられることだから」
潮は何も言わない。愛美は彼を見下ろしながら続ける。
「でも、潮君はずっと違う人を見てた。真剣だった私のことなんて全然見てなかった。信じたのに、裏切られて……。潮君は騙されてるって気がついた時、そのことを伝えようとしても、結局あざみさんのことばかりで、私の話なんて聞いてもらえなかった」
「愛美、俺は別にお前の話を聞いてないなんてことは……」
「なら、どうして潮君の部屋に私はいなかったの!?」
愛美とは思えないくらいの大きな声を聞いて、潮は押し黙る。少し乱れた呼吸だけが、しんとした部屋に横たわる。
「記念品の中に私はいなかった。あったのはあざみさんだけ。私にだって分かるよ、あんなものを見せられたら。自分が見向きもされてなかったんだって」
あの記念品たちを捨てたのは愛美。潮の中であの日の謎が解けていく。なら、あの日、自分を診ていたのは……。
「俺の部屋に来たのは、お前か」
「ひどいよ、離したくないって、大切そうに私に触れてくれたのに。貴方の中に私はいなかった。あの言葉だって、あざみさんと勘違いして出た言葉なんでしょう?」
「それは違う、あの時、もう俺はあざみに……」
「聞きたくない! 聞きたくないよ、もう嫌! 潮君の中に私がいないなら、なんだって同じなんだから」
愛美は足音を立てて潮の前に詰め寄り、両手で彼の肩を押した。潮の持っていたティーカップが床にごとんと落ちる。乳白色の中に収まっていた飴色が跳ねてカーペットを浅黒く濡らし、潮のシャツにもじわりと染みていく。
押し倒した潮の上に馬乗りになって、愛美は顔を寄せる。戸惑う潮に構わず、彼女は彼にキスをした。噛み付くような荒い口づけを何度も、抵抗する潮に構わず繰り返す。
何一つ幸せなんてなかった。どれだけ求めるように口づけをしても、ただ息苦しくて、虚しくて、彼が自分を愛していない証明のようで、辛かった。ずっと楽しみにしていたのに。
愛美は口づけをやめた。彼女の唾液まみれになった口を拭いながら潮は彼女を見上げる。
「潮くんが悪いんじゃないよ。私が悪いの」
「愛美、落ち着け」
「今、すごく冷静だよ。潮くん。だって、最初からこうすればよかったんだってことに気がついたから」
死んでしまえば、気持ちなんて分からない。
分からないってことは、好きかもしれないで終われる。
愛美は周囲を見回して、あの時突き立てたかったナイフが手元にないことに気がついた。それから、何か彼を【殺せる】ものがないか考えた結果、すぐそばの【ソレ】に気がついた。
「潮くん、大好き」
愛美はソレで、潮の首を絞める。長くて、艶があって、これまで愛の為に育て続けてきた自慢の、長い長い髪が、きゅっと彼の首元で軋んだ。
「だから、一緒に、ね」
愛美は両手を思い切り引いた。
●
かつてない衝撃だった。
愛美が力を込めた瞬間、潮は視界が真っ白になり、震える身体を押さえつけることが出来ず、必死にその衝撃に歯を食いしばって堪えることしかできなかった。愛美に抵抗することすらできず、非力な愛美の首絞めを受けたまま潮は……。
この上ない幸福を感じていた。
愛美の身体で押さえつけられた性器は痛いほどに張り詰め、尽きることない射精を続ける。射精の度に腰が浮いた。何かを掴みたくて、思わず視界に入った愛美の肩を思い切り掴んだ。戸惑う愛美に構わず、潮はその狂おしいほどの快楽に溺れ続ける。
やがて愛美の服もじわりと湿りはじめたことで、彼女は潮の異変の意味を知った。あ、とかうう、とか言葉にならない声を漏らして愛美は潮の下腹部と顔を見て顔を真っ赤にする。
「う、潮くん?」
そう呼びかけた瞬間、二人の体勢が大きく変わった。
潮は荒く熱い息を吐き出しながら、愛美を見下ろしている。
愛美は仰向けに潮を見上げていた。
「……いいよ」
愛美はそう言って潮に笑いかけた。
その顔は、