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 帰りたい、という言葉を潮が口にした時、愛美も瀬賀も、それを笑って過ごした。一方は本心から、一方は悪戯心と好奇心から彼を半ば強引に彼を家に招き入れたのだった。
「本当に帰りたいんだよ、俺は」
「何言ってるの、来たばっかりなのに」
 ねえ、と愛美と瀬賀は示しを合わせたように首を傾げて笑い合う。勝手にやってくれと潮はうんざりしながら、部屋を見回す。
 愛美の家は、印象に反して、手の行き届いた清潔な空間だった。もう少し雑然とした状態を想像していたのだが、案外整頓には気を使うらしい。しかし、部屋の片隅で、無造作に横たわっている等身大の骨格模型やファンシーなデザインのぬいぐるみ等の趣味に関しては、概ね想像通りだ。
 パステルピンクで整えられたカーテンが、陽の光を淡く染めるのを見て、瀬賀はへえ、と嬉しそうに言葉を漏らす。
「カーテンの色変えたんだ。前のより良いね」
「この間勧めてくれた色に変えてみたの。気に入ってもらえて良かった」
 じゃあコーヒーを淹れてくるね、と愛美は部屋を後にする。
 玄関の前に、小さなシステムキッチンがあった。閉じられた磨りガラス付のドアを眺めながら、飲み物を用意する愛美を想像する。薬を盛ったりしていないだろうか。いや、流石に従兄弟の瀬賀がいる前でそれはないだろう。
「良い子でしょ、愛美ちゃん」
「ん、ああ。確かにな」病的なまでの恋愛依存さえ除けば、だが。
「昔から内向的なところがあったから、潮くんやあざみちゃんと仲良くなるきっかけができて、本当に良かったよ」
「従姉妹なら付き合いも長いもんな」
「小さい頃から、僕の後をずっとついて来てたよ」
 幸い、瀬賀は彼女の内情に気が付いていないらしい。愛美のことを嬉しそうに語る瀬賀を見て、大事にされているんだな、と潮は頬杖をつくと、ため息を一つ吐いた。
 これだけ愛されながら、彼女は何が足りないというのだろう。結婚か、死かの二択を突き付けて一方的な愛を、どうして求めてしまうのだろうか。
「なあ、瀬賀」
「何?」
「いや、なんだ、その……。お前って、良い奴だよな」
「突然どうしたのさ、恥ずいなぁ」
 照れながら瀬賀は笑う。中性的なその容姿と、物腰の柔らかさに惹かれる異性は少なくないだろう。それでも彼が恋人を作らないのは、強いこだわりがあるのか、もしくは非常に慎重なのか。いずれにせよ、人を見る目があるのだろう。瀬賀がそういうことで失敗したという話を、潮は聞いたことがない。
 自分とは違う、何か強いこだわりを持っているに違いない。そういう点で、潮は瀬賀のことを高く評価していた。
「ああ、そういえば、今週の雑誌買い忘れてた。ちょっと行ってくるね」
 思い出したように立ち上がった瀬賀に、潮はひどく慌てた。
「え、俺も一緒に行くよ」
 二人きりにされては困る。潮は懇願するように手を伸ばしたが、彼は一人でいいよ、とその手を振り放し、目を細めて彼に笑いかけた。
 ほんの少し、笑顔の裏に彼の無邪気さが見える。さてはコイツ、ある程度状況を把握しているな。潮は瀬賀の内情を悟り、やられた、と前髪をかき上げた。
 その時ドアが開いて、愛美が入ってくる。彼女はカップをトレーに載せたまま、立っている瀬賀と項垂れる潮を順番に眺め、不思議そうに首を傾げた。
 瀬賀はにっこりと彼女に笑いかけ、横をすり抜けると部屋を出て行った。彼の後ろ姿を見送って、愛美は潮に尋ねる。
「どこ行ったの?」
 廊下の奥から扉の開く音が聞こえた。潮は深い溜息を吐くと、呻くような声で答える。
「雑誌、買いに行ってくるってさ……」
「じゃあ、今二人きりってこと?」
 ぱあ、と愛美の顔が喜びで華やぐ。潮が何よりも危惧していた状況を……瀬賀め、と潮は胸の内で毒づきながら、隣に座る彼女から距離を置くよう、真向かいまで移動する。愛美は避けられたことを気にする様子もなく、トレーを置くとカップを彼の前に一つ置いた。
「はい、どうぞ召し上がれ!」
「い、いただき……ます」
 恐る恐るカップを受け取ると、潮は匂いを嗅ぐ。別段変わった匂いはしない。まあ瀬賀もいたのだから、飲み物に何か入れるなんてことは考えないだろう。潮は思い切って一口、彼女の淹れたホットコーヒーを口にする。
 違和感が、あった。
 苦いというか、豆の匂いの中に、鉄っぽさが混じっているような気がする。
 そう、鉄臭いのだ。
「なんだこれ、変な味がするんだけど?」
「あ、分かっちゃった? 潮くんするどーい! あのね、それね、私の血が入ってるの!」
 愛美の言葉を聞いて、潮は思わず咽た。変なところに入ったというのもあるし、明らかに異物が混入されていたというショックもあった。最悪だ、まさか彼女の血を飲まされるとは。
 見れば、愛美の左手首に真新しい包帯が巻かれている。つい最近、だろうか。誤魔化すように長めの袖のセーターを着ているようだが、場所が場所なのでとても分かりやすい。件の血もそこから取ったのだろう。
 まあ、潮に対する没入的なあり方や、愛か死を選ぶ辺りで大体そういう類に手を出しているだろうとは思っていた。
 普通にしていればまあまあ可愛いのだが、その可愛さを台無しにするような点が彼女にはあまりにもあり過ぎる。黒い髪に関してのみ言えば、潮は特に評価している。あの夜だって、第一印象が最悪でなければ、彼女がごく普通の女性であれば、もっとこちらからアプローチをかけていたかもしれない。
「ところで、それは何?」
 目の前で何かを大事そうに抱える愛美を見て、潮は声をかけた。一体何を持っているのだろうか。随分と大切そうにしているが……。
「これではね、潮くんが使ってた紙コップ! もらっちゃったんだあ」
「……は?」
 呆ける潮の前で、愛美は嬉しそうに事の経緯を羅列していく。
 昨日、潮にカフェで一目惚れした彼女は、ダストボックスの前にいた彼を観察していた。
 潮がトレーを置いて去った後、ダストボックスに向かうと、さっきまでなかった紙コップが一つ残されていたそうだ。彼が飲んでいたものと全く同じで、且つ潰し方も見たままだったので、愛美はそれを【潮が使用した紙コップ】と判断し、拾ったという。
「チャンスだと思ったの。潮くんが捨て忘れたおかげで、あたしはこれを拾えたんだよ」
 なんとも単純な理由だった。だが、それよりも潮は、彼女が取得した物の状態について、ひどく苛立った。
「お前、馬鹿か?」
「え?」
 彼女の額を強めに小突くと、潮は愛美から紙コップを取り上げる。
 全くもって、基本がなっていない。こんな大切なものをそのままにしているとは、ストーカーの風上にも置けない奴だ。
「いいか、愛美。こういう手に入れた記念品は、速やかに保管しろ! 丸出しとか何を考えてるんだ。基本がなってない! 基本がな!」
「き……え……?」
 ぽかんとしている愛美を見て、潮は舌打ちをする。
「特にこういう紙製品はすぐに乾かせ! また濡らして使うなんて言語道断だ!」
 潮は自分の鞄を持って愛美の隣にどっかりと座り込むと、ジップロック袋、シール、ペンを取り出し、テーブルの上に並べていく。
「とりあえず乾燥はいいだろう、こういうチャックの付いたビニール袋を持って来い」
「い、今は持っていません……」
 どこまでも苛つかせる。潮は仕方ない、と自らのジップロック袋を彼女に譲る。
「仕方がないから今日は俺の一式を貸してやる。いいか、こういうのは速やかに行うことが大事だ。まず記念品を入れたら空気をしっかりと抜け」もたもたとする愛美の後から潮は手を回すと、彼女の手を取り、詳細に作業をレクチャーしていく。
「ち、近いですぅ……」愛美は俯きながら呟くが、潮は構わず作業を続けていく。「シールには、記念品を手に入れた日付と場所を書け。そして綺麗に貼れ! 丁寧に残すことが重要だ、これを見た時に、より鮮明に当時の光景を思い出せるように、だ。汚れや、劣化、汚い保管はノイズになる。絶対に保管作業を怠るな!」
 ひゃい、とかふぁい、と愛美は、首筋に感じる潮の吐息にひどく動揺していた。こんなにも想い人が近くにいる。あれだけ望んでいたことなのに、こうして近づかれると、緊張で何もできなくなってしまう。心臓が痛いくらい跳ねている。全身に熱い血が巡っている。顔に朱が差すのを感じて、顔を背けたくなってしまう。けれども、彼は愛美が視線を逸らすことを許さなかった。
 くい、と指先を顎にやると、逸らした彼女の顔を引き戻し、袋をよく見ろと間近で怒鳴る。びくりとした後、愛美は何度も首を上下する。
 そうして、密着したままの作業から五分ほどして、愛美と潮の前に一つの【記念品】が出来上がった。密封された紙コップは標本のようにそこで時を止めていた。それが一体何の記念であるかが事細かく記入されたラベルはその紙コップの重要性を高め、ただのゴミから、より思い入れのある貴重品へと姿を変えた。
「出来たぁ!」
「これで完成だ。いいか、チャック付のビニール袋、ラベルシール、ペンは常に鞄に入れておけ。いつ、どこでどんなものを入手するか分からない。どんな時でも即座に対応できるようにしておくのが、愛だ」
「はーい、せんせい!」
「よし、よく頑張ったな」
 擦り寄ってくる愛美の頭を撫でながら、潮はふとその髪質に意識がいった。
 なんて、なんて素晴らしい手触りなのだろう。触れた瞬間に溶けてしまいそうなくらいたおやかで、繊細で、そして指先に淡い余韻を残していく。
 香りも良い。彼女の頭を撫でる度、ふわりと香る匂いが、あの花屋の前を通る時のように鼻孔をくすぐる。
「いつまでなでてるの?」
「あ、いや……」
 思わず夢中になってしまった。潮は愛美の髪から手を離す。
「きっと前世でも、こんな風に仲睦まじく……」
「ねえよ!」
 全くもって惜しい存在だと思う。病的なまでの妄想癖さえなんとかなればと潮は思うが、まあそんなことはあり得ないだろうと、彼女の頭を軽く小突きながら嘆息する。
 そして、少しだけ寂しくなった。
 愛美の恋は、決して叶わない恋だ。何より潮自身が無理だと思っているのだから、それが覆らない限り、絶対に成就することはない。
 いつか、愛美の目が醒めて、潮と結ばれることがないと理解してしまった時、彼女は、どうなるのだろう。
 この美しい髪を、バッサリと切ってしまうのだろうか。失恋という鋏を、入れてしまうのだろうか。
 もしそうなるとしたら、少し、悲しかった。
(あざみちゃんの髪は、どんな手触りだろう……確かめて、みたいな)
 目の前で無邪気に笑う愛美を眺めながら、潮はそう思うのだった。

   ●

 鋏は、刃物の中でもとても扱いやすい。二枚の研ぎ澄まされた刃が、支点を中心軸として重なり合い、握りこむことで二つの刃が閉じて、間に挟まった紙を切断する。分厚いものでもほんの少しの力で切り落とすことができる。
 あざみは、鋏が閉じる時に生じる歯切れの良い音が好きだった。しゃきん、しゃきん、と鋭い金属のこすれ合うような音を聞くと、とても落ち着く。美容室で髪を整えてもらう時も、自分で前髪を切る時も、その音を聞いていると自分の粟立つ心がリラックスしていくのを感じた。
「ねえ、ルナちゃん。あたしね、友達によく前髪を切るの、お願いされるの」
 ルナは答えない。いや、答えられないといったほうが正しい。ガムテープでがんじがらめにされたままのルナは、クローゼットの床にうつ伏せになったまま、胸を上下させている。呼吸の為に空けられた鼻からは体液が溢れ、隠された目の隙間からは幾重もの涙の線が、肌に轍を作っている。
 あざみは、右手の人差し指と親指を、鋏の取手にするりと通すと、ゆっくりと開閉させる。しゅり、と薄い刃先の重なる音が空気を割く。あざみはその音にうっとりする。
「あたしね、汚いのは嫌なの。だってそうでしょう? こんなに綺麗なのに、どこか一つでも汚かったら台無しだわ。恋人だってそう。綺麗なあたしと、カッコいい彼。純粋にあたしを愛してくれる、そんな恋愛こそがあたしにふさわしいの」
 なのにね、それにケチがついちゃった。
 鋏の音が、部屋を無音を切り裂く。ルナの呼吸が、先ほどより乱れているのを見て、あざみは愉快そうに顔を歪ませる。
 一歩、また一歩。フローリングの床がみしり、みしりと音を立てる度、ルナが強い恐怖を募らせていく。
 しゃきん。
 みしり。
 しゃきん。
 みしり。
 しゃきん。
 みしり。
 ぱきん。膝の鳴る音がすぐそばで聞こえて、ルナは声にならない小さな悲鳴を上げた。すぐ、近くにいる。鋏を持った、あざみが。
 ぐっと髪を掴まれ、無理やり起こされる。ぶちぶちと音がルナの中で反響する。過呼吸気味でひどく苦しい。鋏の音が怖い。あざみが怖い。
 もうしません。もうしません。もうしません。もうしません。もうしません。
 謝罪の言葉を、ガムテープで塞がれた口をもごもごとさせてルナは呟いている。勿論、その言葉はあざみには決して届かない。
「悪い子には、オシオキを。ルナちゃん、きっとこれまでおイタしてくれる人がいなかったんだろうね。だからこんな調子に乗るようになっちゃったのよね」
 むしろ、ちょうどよかったのかもね。
 あざみの鋏が、ルナに向けられる。
 ルナの前髪の根本に、二つの刃が入る。
「あたしが、これまでの分、オシオキしてあげる」
 しゃきん。
 彼女の赤みがかった髪が一房、床に落ちた。
 右側の額が顕になる。あざみはその更に奥に鋏を入れると、再び鋏を閉じた。しゃきん、と音がする度、ルナがびくりと震えた。動くとあぶないわよ、と囁いてあげると、彼女は震えながら必死で身体を丸め始めた。
 良い子ね。あざみは側頭部の髪に鋏を入れる。
 しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
 しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
 しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
「全部綺麗にされたらルナちゃんも困るよね。だから、ところどころ残しておいてあげる」
 優しいでしょう。あざみの呼び掛けに、ルナは嗚咽を漏らす。
「……優しいでしょう? 返事は?」
 しゃきん。耳元の鋏の音を聞いて、ルナは何度も頷く。彼女の頷く姿を見てあざみは満足気に目を細めで笑うと、再び【散髪】を開始する。
 額は全部出して。右側頭部は、長かったり短かったり。後ろの方だけボブを残して、耳は出して、左は根本まで。頭頂部は全体的に薄く。
 すごいすごい、とあざみは笑う。すごいよルナちゃん。大変身よルナちゃん。この不格好なところが可愛いわ。羨ましいわ、あたしって髪が長いでしょう、だからどうしても重たいなって思うことがあるの。だから、こんなにさっぱり、軽いヘアスタイルになれるルナちゃんが羨ましいわ。
 しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
 しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
 しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。しゃきん。
 加速する刃音に耳を傾けながら、ルナは思う。もう、どうでもいいと。
 もうどうでもいい。お腹も空いた。トイレにも行きたい。誰かに会って抱かれたい。一眠りして、目が覚めたらいつものベッドで、隣には誰かしらいて、気持よくしてくれて、それに飽きたらシンくんのところに戻って……。
 そうなってくれないだろうか。
 鋏の冷たい音を聞く度に、現実に引き戻される。
 もう髪なんてどうでもいい。どうでもいいから……。
(もう、お家に帰して……)
「さあ、でーきた」
 大漁の毛に塗れたルナを見て、あざみは素敵、と嗤う。
「とーっても、お似合いよ、ルナちゃん!!」
 鋏をゴミ箱に捨てて、彼女の周りの毛を処理すると、あざみは手を入念にウェットティッシュで拭いて、それからシャワーを浴びる。ルナの毛が付着した場所を入念に洗う。
 全てが終わって、一息つくとあざみは寝巻き姿で再びクローゼットを開けた。
 すえた臭いがして、思わずあざみは顔を歪める。
 横たわるルナのハーフパンツに大きな染みができている。ルナは腰まで濡れた状態で、縮こまるように身を固めている。
「……本当に、汚い女ね」
 なんで彼も、こんなのに心を許したのかしら。あざみは消臭剤を何度もルナに吹き付ける。
「あーあ、次はこんな害虫がつかない男にしなきゃ」
 目星は大体ついている。つい先日会った二人は、悪くなかった。あの二人のどちらかと付き合ってみようかしら。ねえ、とあざみはルナに声をかけるが、彼女から返事はなかった。
「どっちがあたしを幸せにしてくれるかなあ」
 あざみは髪をかき上げて笑みを浮かべ、瀬賀と潮の顔を思い浮かべる。
「じゃあ、おやすみルナちゃん」
 動かないルナに手を降ると、あざみは扉に手をかける。

 クローゼットが閉じた。

 光の途絶えた狭い部屋で、ルナは、目を閉じる。

 どうか、これが夢でありますように。

 目が覚めたら、いつもの現実が待っていますように。

 そう、願いながら、ルナはそっと意識を手放した。

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