血の気のない青褪めた顔をした女性の遺体は壁にもたれかかっている。
腹部からは大量の出血を認め、他に目立つ外傷もない事から出血性のショック死であることは、経験上間違いないだろう。
しかし、医師の診断もない以上、あくまでも心肺停止状態の認定しかできず、鑑識が到着しない以上、科学捜査もできない。
やはり今は彼を野放しにするしかないのだろうか。
「心配しないでください、現場保存を心がけますよ」
この作品の主人公、私立探偵の神田川は意気揚々と言った。
「当たり前だ」
私は興味深そうに遺体を眺める探偵を見て溜息をついた。
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私が警部補に昇任した年、捜査の難航している事件現場で神田川に出会った。
ずけずけと事件現場に踏み込んだ神田川は、私の注意を無視して、その事件の推理を始めたのだ。
それからはあっという間だった。
まさに疾風の如く、点と点を繋げていき、真相までの一筋の線を引いてみせたのだ。
手柄は警察の物になったのだが、同時期から、神田川の好評が巷で囁かれるようになった。
こんな推理小説みたいな話があるのかと考えていた、ある晩。
夢か現か、気持ち良くまどろんでいた時、神のお告げのような物を聞いた。
どこからともなく、年配男性のような声が、「神田川が物語の主人公だ」と繰り返し繰り返し響き続けるのだった。
変な夢を見た物だと思ったのだが、それから何度も事件現場に神田川が出没し、毎回、颯爽と事件を解決していくのだ。
そうして、あのお告げは現実であり、その意味も理解したのだ。
俺はいつの間にか何らかのミステリー小説、あるいはドラマの登場人物、名探偵の引き立て役になっていたのだ。
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窓を叩く雨の音は止まることを知らない。
「いまどき、クローズドサークルか」私は呟く。
「何か言いました?」神田川は無垢な表情を見せる。
「何も」
今回の舞台はクローズドサークルだ。それは、何らか自然災害によって外部との通信手段の断たれた山荘や孤島といったシチュエーションのことだ。外部の助けを得られない代わりに、犯人も外へ逃げ出すことが出来ず、周囲に上手く溶け込まなければならないという訳だ。
しかし、昨今では携帯電話やインターネットの普及により、リアリティがなくなり、あまり選ばれなくなった舞台である。
つまり、我々は現在、ある山荘に居て、偶然、殺人事件に遭遇し、犯人探しをしているのだ。
私は再び溜息をついて、部屋を歩き始めた時、足元に違和感を覚えた。
足元へ視線を移すと、絨毯に湿った個所があった。
雨漏りだろうかと天井を見上げれるが、そんな様子はない。何だろうか、と手を伸ばすと変に冷たかった。
これは、まさか。私は分かってしまった、かもしれない。
遺体が見つかった時、すぐに宿泊客を集め、身体検査と持ち物検査をしたが凶器は見つからなかった。刃物を持っている物もいたが、遺体の傷と合わない事は素人でも分かる程の物であった。
だが、この冷たい湿りを発見し、謎は解けた。
氷だ。犯人は尖った氷で被害者の腹部を刺した。しかし、犯人は一つの誤算をしてしまう。この部屋の窓は全てはめ殺しの窓で、開閉が出来ず、凶器の氷を外に捨てる事が出来なかったのだ。
血の付いた氷を部屋の外に持っていく訳にも行かず、仕方なくこの場に氷を置いたのだろう。
そして事件の犯人は恐らく、彫刻家のK氏だろう。氷を鋭い凶器に仕上げるのは容易だろうし、何より、そんな細工が行える道具を持ち合わせていたのは彼位だった。
これで決まりだろう。そう思った時、気づく。
私は、神田川より先に真相に辿り着いてしまったのか?
この場合はどうなるのだ?私が宿泊客を呼び出して、事件の解説を始めてもいいのだろうか。
だが、あの日のお告げが私に二の足を踏ませる。
駄目だ。私は脇役なのだ。
神田川が事件の現場に来た以上は間抜けな引き立て役を演じなければならない。しかし、普段はいかにもミスリードだろうと分かる物が容易されているのに、何故こんなことになったのだ。
まあいい、こうなったら気づいてないふりをして、彼にそれとなく伝えるしかない。
私は、コツコツと爪先を立てて、靴を直す仕草をとる。繰り返し、繰り返し。
すると狙い通り、神田川は鬱陶しそうに私の足元をみる。いいぞ、そのまま、気づいてくれ。
そして、神田川は立ち上がる。成功か?そう思った時、神田川は腰から床に崩れていった。
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神田川は客室のベッドに横になっている。
「実は、今朝から高熱が出ていましてね」
彼は口を歪ませる。
「今日は、動けそうにありません、後は任せましたよ」
これは、まさか。あれなのか。
私は寝込む神田川をみて一つの可能性に気づく。
籐椅子から立ち上がり、ドアノブに手をかける。
「ああ、何とかしてみせるよ」
去り際、気取った台詞を使ってみた。その方が良い気がしたからだ。
そうか、これは。
今回はスピンオフなのか。