第十一話 決死の防衛戦
怒りを抱いたまま、極力思考を平静に回し続ける。
北の大軍勢は、現状たった一人の妖魔が押さえ込んでいた。敵将の魔神もまだ本腰を入れる気はないのか、様子見を決め込んでいる。
…いや、本命が転移の使い手による撹乱だとするならば打たれた先手は既に成果を挙げている。
四周を囲う兵団は来たる事後処理に控えさせているのかもしれない。
ともあれどの道放置は出来ない。様子見であろうが手を抜いていようが、押し寄せる数の猛威はそれだけで十分に脅威だ。
西は比較的手薄だった。おそらく西方担当があの転移使いなのだろう。国内に次々と出現している骸の兵がそうだとするならば外よりの侵攻は逆に気にする必要がない。
そして外壁からちらと覗いたところ、東の魔神は黒い魔獣の一団を従えている。そのほとんどが四足を駆り地上を奔る獣達。これならばグリトニルハイムの結界と外壁でしばらくは持ちこたえられる。
そうなれば残す勢力は南。有翼の敵も多く散見された軍団は外壁を簡単に超えてしまえるだろう。だからこそここが最優先。
つまり彼が立つこの場所。
(城を出るまでは八千って聞いてたが、こりゃ二万超えてんな…)
王としての威厳を振る舞う為に嫌々着飾っていた装飾品の全てを放り捨て、軽装で大剣を肩に担ぐ妖精王イクスエキナが国の外に出るという異常事態。それを知るのはグリトニルハイムの全域感知を担う『八賢』と呼ばれる者達と一部の重鎮のみとなっている。
移動の間にさらに増えたようだ。視界を埋める軍勢は報告の倍以上の蠢きを見せてこちらへ歩を進めている。
国内の対処には自身の近衛兵と『イルダーナ』を当ててはいるが、そも、あの転移使いを叩き出さない内は骸兵も延々と湧き続ける。地獄のループを脱する為にはまず国内に侵入した魔神をどうにかせねばならない。
「が、こっちも放ってはおけねえ」
ただでさえ人員不足で何もかも後手後手に回され続けているこの現状。少しでも打開する為ならば王座などいくらでも空けておく。
袖を捲り、その内にある張り詰めた筋肉を露出させた。
妖精種は基本的に精霊の力で生きている。当然、非常時における戦闘も精霊種の助力を得た各属性の力によって行われるもの。
だからこれはとても珍しい例。
「…ふうー…」
ゴキリと首を鳴らし悠々と国に背を向け歩き行く、その先がついに敵陣第一波の先頭に近付いた。
他の魔神達の軍勢に比べ、一番まともな姿形をした亜人の軍団。一番槍を務めた巨漢の熊人が振るい上げる戦斧を、
「───」
あろうことか、大剣を持つ逆の手で刃を掴み、指圧で砕き割る。
四散した刃に仰け反る熊人へ一歩踏み込み、豪速で突き出された爪先が鎧を突き破り胴を折り、それだけに留まらず遥か後方まで蹴り飛ばした。巨躯の通過した直線上の兵士が轢き潰れて、隙間なく詰める軍団の中に数十メートルの空白が生まれる。
およそ妖精種のする戦い方ではない。
今代妖精王は元々異質な部分が多かった。
後にも先にも現れることのない、肉体の研鑚を積み重ねた生粋の武人。先代妖精王の時代には近衛騎士団の長を務めていた経歴を持つ異色の王。
「二万程度ならわけもねえな、俺がいる以上この百倍は持って来い」
精霊に頼らずとも武器を取らずとも、この漢は妖精界に住まう誰よりも強かった。
…あくまで、戦闘能力の総じて低いグリトニルハイム内での、ではあるが。
(せめてこっちの魔神くらいは片付けておきてえが、そう容易くはいかんだろうな)
妖精王といえど神格種との交戦は経験が無い。
無論彼とて数多くの叙事詩、幻想譚にその名を載せた一国一城の王たる二つ名を冠する強者ではあるが。
それを加味してもなお、劣勢は目に見えていた。
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玉座の間。そのさらに奥には広い真円状の空室がある。平時においてその部屋にはなんの意味も持たないが、有事においてこの空間は『聖殿』として機能する。
グリトニルハイムの中央、中心、起点にして基点。
結界の維持、拡張。具現界域というシステムの根幹を担う回路の全てがここに集約されていた。
並の人外の目には何も映らない無味乾燥な空間だが、視えるものには眩暈を引き起こすほど複雑な機構が全域に敷き詰め(あるいは刻み付け)られている。
その『聖殿』は、現在その床や壁を仄かに白光させていた。暖かさすら覚える純白の真ん中で、祈りを捧げるように両手を組み合わせ宙に浮く小柄な妖精。
妖精界を支える二柱の王が片割れ。ルルナテューリ。
『聖殿』を自在に操作する権限を有する〝|妖精女王《ティターニア》〟の称号を冠する彼女の力を以て、この戦況を変えんとする。
(イクスの判断が正しければ魔神の転移は界域の壁を二度は越えられない。かなり限定的にはなりますが、王城より半径三キロの範囲でさらに|具現界域《グリトニルハイム》の結界を差し挟んで魔神の干渉から断絶させる)
王城へ集まる国民達を収容する為にも最低でもその程度の面積は必要だった。敵の転移さえ阻害できれば王城内部に残存している魔神の兵隊を駆逐して安全を確保できる。
問題は展開までの時間。
(どんなに急いでもあと十分……くらいは欲しいですから!ラバー、ティト、ラナ!ここからすんごい集中しますから誰も寄せ付けないで!)
「承知いたしました」
「まだ城内は比較的、転移してくる兵隊も少ない。なんとかなるかな」
「死守、ですわね。わたくし戦闘要員ではないのですけれど」
妖精界というシステムの回路に同期した女王の声が脳に直接届く。応じるのはベレー帽の少年、身の丈と同じだけの槌を担ぐ髭面の中年、長い金髪の美女。
『イルダーナ』の妖精三人が『聖殿』へ繋がる扉の前で意志を固く戦闘態勢を取る。
「下がっとれラナ。俺とティト殿で事足りる。お前は精々その自慢の肢体を使って連中を引き付ける囮にでもなれ。奴等に意思や欲があるならばお前の存在は誘蛾灯くらいの役割も果たせよう」
「まーたそういう意地悪言うー」
「はっはっ。いつでも君達はいつも通りだなぁ」
三名が話している間にも扉の先に脅威を感じ取ったらしき骨と腐肉の屍兵がぞろぞろと群がり始める。
「おっと。流石にこれ以上お話しはしてられないか。行くよ二人共。近衛兵団の増援は期待できないから、なんとか踏ん張ろう」
「初めから期待しとりませんぞ。そんなモン」
「ですね。わたくし達はもとより|組織の仲間《イルダーナ》しか頼ってきませんでしたし」
張り詰めた内心を気取られぬように気楽な体を装って、同胞の為に尽力してきた彼らはその本懐を遂げる為の戦いに挑む。
(イクス、アル、由音さま、……守羽さま…!)
最前線、あるいは強大な魔神と相対している勇猛な彼らの戦況も今のルルナテューリには手に取るように分かる。
早く。もっと早く。
一刻も早く自分が安全圏を確保しなければ、誰かしらが、死ぬ。
何千、何万を斬ったか。
「クッ、ハハァ!!」
依然としてその動きに精彩は欠かず、深刻化していく情勢と反比例して妖魔アルの挙動は疲労を感じさせないほどに冴え渡っていた。
だがそんなアルの外見から変化は起きた。
「……あん?」
眼、鼻から唐突の出血。何か物理的な攻撃を受けたわけではない。敵の数は圧倒的だが、その一体一体はさして強くはない。
だがこの身体の異変。間接的に何かをされたことは明白だ。
思えばこの北方の軍勢は現出と同時に夥しいほどの瘴気を振り撒いていた。斬り殺した異形の死骸からも蒸気のように紫煙は立ち昇り、辺り一帯は濃霧に覆われたように視界を狭めていた。
視覚以外でも敵を捉える術は会得しているし、半悪魔と化したアルにとって瘴気などはさしたる影響を及ぼさない。
そうなるとこの異常はそれらとはまた別の干渉。
「毒か。くだらねえ真似してんじゃねェぞクソ野郎!」
言葉とは裏腹に哄笑するアルが一刀を振るい斬撃を撃ち飛ばすが、最奥の魔神に届く前に軍勢の厚みに押し負けて途上で消え去る。
「そりゃそうか。まだ届かねェよなっ」
八方を覆う兵士を着地と同時に斬り払う。足元がややぐらついた。
瘴気に混ぜ込んだ毒素に蝕まれた肉体から警鐘が鳴り渡る。頭痛、眩暈。目鼻からの流血が止まらない。
「音々解毒だ!」
『うっさいわねぇ。ちょっと待ちなさい』
軍勢を近寄らせまいと行動遅延の唄を唱えていた音々が、城壁の上から届くはずのない文句をアルへぶつける。
両手の一刀一剣で敵を滅ぼす傍ら、アル自身も防御策を打つ。
鼻血を拭った指で頬に血文字を描き、その効力を抽出するルーン文字の術法。
刻むはラグズ(R)とイス(I)。ラグズは移動の意を持つルーン。それを逆位置にて刻むことで移るもの、巡るものに障害を与える効果とする。
毒の巡りを抑えた上で停滞のルーンたる|I《イス》の重ね掛けで毒素の活性を停める。解毒にまでは手が回らない為、体内に残留した毒は音々に除去させた。
「たぁっく、クソだりぃ|術《モン》使わせんじゃねーよ」
戦闘をこなしながらも毒の治療を終えたアルが毒霧の中で着実に死骸の山を積み上げて行く。
しかし数が減る実感はない。まるで密林の中を当てどなく彷徨っているかのような薄暗さ、屍山をさらに超す群れが波となって押し寄せる。
(…はー、だる)
異形の津波に呑まれ、見舞う斬撃が追い付かない。手足を斬られ肉を噛み千切られ、振り払うと同時に組み付かれる。
痛覚に左右されることもなく、アルはただ未だ頑なに繰り返される『拒絶』に辟易していた。
「オイ、いいのかよ。この国滅ぶぜ?」
独楽のように全身を回転させ、刃の届く全方位の異形を細断して薙ぎ払う。
「テメェらの善悪好悪の尺度で俺を弾くのは勝手だけどな。その総意とやらでお気に入りの世界がぶっ壊れてちゃ話にならねェだろ」
その声は、言葉は、眼前に広がる黒色の魔へ向けられたものではない。城壁の上から音を拾って首を傾げている音々に対するものでも、もちろんない。
「しょうもない意地は捨てろよ馬鹿馬鹿しい」
再度の包囲。蝗の群れのようにギチギチと気色の悪い羽音と歯音を鳴り渡せながら妖魔というエサを食い散らすべく一斉に飛び込んだ。
「―――ハッ」
黒い暴風の中で何かの意を得たアルがゆっくりと笑み、右手の魔剣を手放す。
直後に真っ黒に染まった大地の一点から、急速に広がった赤色が染め上げた。
「〝|劫焦《レーヴァ》、|炎剣《テイン》〟」
呼び掛けに応じ、空いた右手へ新たに握られた燃ゆる両刃の剣が大炎を吐き出しながら四周の異形を毒ごと焼き尽くす。
刃を生み出す為の金精、炎を呼び起こす為の火精。
アルが北欧の金属細工師としての真髄を扱う為には大気に満ちる精霊種の力添えが必要不可欠だった。だが人間の世界とは隔絶されたこの妖精界に住まう精霊達は外界からの侵略者たる者達には決して力を貸し与えようとはしなかった。
今、それ以上の脅威、災厄を前にして精霊達は総意を覆す。
「そうだ、それでいいんだよ。手間ァ取らせやがって」
感謝どころか悪態で精霊の声なき声に返し、妖精と悪魔の混成たるアルは犬歯を剥いて頭上高くかざした剣に炎を集束させる。
「今度は、届くぜ」
最短直線、炎の渦が振り下ろされる剣の先端から放射された。
「―――…………」
その時、出現してから初めて四足の馬脚が僅かに地を擦り、魔神の瞳が前を向いた。
合わせた視線の先に配下の異形は集い、その身を盾として炎の攻勢を防ぎ切る。
舌を出して中指を立てるアルの挑発はすぐさま盛り返してきた異形の軍勢への対処で遮られたが、魔神は確かに自身へ牙を届かせた人外を認識した。
「……」
憤ることも、興味を示すこともなく。
半人半獣の姿をした魔神は静かにその存在濃度を引き上げる。
宿す魔の神格は、さらに瘴気を広げ大地を汚染していく。毒霧はもはや魔軍全てを覆い、空高く広がり妖精の世界を殺していく。
「まだやるか、あの野郎」
毒霧の侵攻はアルが食い止めている軍勢よりやや早い。流石に斬ってどうこうなるものでもない毒の散布は止められないし、そちらに割く余力も無い。
この世界でこれを押し返せる力量を持った者となると限られる。純粋な戦闘能力ではなく、風を統べる力を宿す者。
攻め入られている緊急事態に対し王と女王は手一杯だろう。
器用に武器の入れ替えを行いながら敵を掃討するアルが大きく息を吸う。
「ならお前しかいねェよなあ!来い!!シェリアああああああああああああ!!!」
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「んっ」
黒毛に覆われた二つの耳をぴくんと弾ませ、シェリアは突出した聴覚で自らを呼ぶ声に反応した。
「アルだ。呼んでる!」
「え…?」
セラウと共に子妖精らを連れて走る静音が疑問を溢す。人間の耳では捉えられなかったが、同じケット・シーのセラウも確かに妖魔の声を拾った。
「この距離、城壁の外…!?駄目、シェリア!」
状況からして切迫した場面であることを察し、セラウは悲痛な声で風を纏い浮遊したシェリアを制止する。
城壁の外を直接見たわけではないが、国内ですらこの有様だ。想像は容易い。
「外にも敵はいる、きっと危ない目に遭う!行っては駄目!」
「でもアルが大変そうだもん!助けてあげないとっ。シズ姉!」
不安そうに見上げる大聖堂院の弟妹達の頭をそれぞれ一撫でして、信頼する義姉を振り返る。
「お母さんと皆をおねがい!お城まで行けばきっと助けてくれるから!」
既に王城は目と鼻の先、正門前の大通りを抜ければすぐに近衛兵団が防衛している敷地内へ入れる。
「待って、シェリア。それなら私も」
「ううん、守ってあげて!シズ姉なら何かあっても、治せるでしょ!?」
〝復元〟の異能のことを言っているのか。確かに能力の性質上静音は前線に出るよりは後方での支援向きだ。わざわざ戦火の只中へ突っ込むのはむしろ愚策かもしれない。
けれどそんな理屈で自分だけ安全圏に留まっていることに抵抗を覚える。
「だいじょぶ!すぐアルと戻るから、んじゃ行ってくるねー!」
そんな静音の様子を慮ってか、シェリアは明るく笑い、片手を振る。瞬きの内で一気に飛翔すると、あっという間に視界から消えてしまった。
「……シェリア…」
「…、行きましょうセラウさん。あの子は私達よりずっと強い。ひとまずは王城の中へ」
もどかしい気持ちの中、努めて冷静に成すべきことを優先させる。任された以上、避難を完了させるのが第一。
愛娘の飛び立った空を見つめるセラウと子妖精達を引き連れ、静音は国内の兵士達が誘導する王城へ続く石畳を走り抜けた。
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(ブエルのやつ、思ったより早く動いたな。そんな手練れがいたか?)
北方を支配していた同胞に動向の変化があったことを感じ取り、巨大な鰐の怪物の背に寝転がっていた銀鎧の魔神はむくりと起き上がった。
(マルティムも何遊んでんだかしらんが、ちょっと時間掛け過ぎじゃねえか。そこそこにしないと小娘が焦れて前に出てきちまうぞ)
東方に座す魔神はもっとも加減を知らない。動かれるとこちら側としてもやや面倒なことになりかねない。
(仕方ない。動きたくなかったが…ちょっと早めに終わるよう、詰めに手を入れてやるか)
ガチャリと鎧を擦れさせ巨躯の背から立ち上がると、それに合わせたように鰐の怪物がけたたましい鳴き声と共に全身を揺らした。
「おう、なんだ?」
何事かと足元の下僕を見下ろすと、その一抱え以上もある大きな両目の内右の眼球が縦に切り裂かれ、さらに傷口ごと爆散していた。
「……ああ。まだ生きてたんか、妖精風情が頑張るな」
さらに眼下に目をやれば、そこには大剣を肩に担いだ屈強な妖精の男がこちらを見上げている。僅かな擦過傷以外にこれといった傷が見当たらないことから、三万程度召喚していた手勢は全て殺されたと見るべきだろう。
「こんなモンじゃねえだろ、魔神。さっさと残りも出しやがれ。その|妖《・》|精《・》|風《・》|情《・》にご自慢の軍勢が壊滅させられるのが怖いってんなら別にいいがよ」
「妖精のわりによく吠えるじゃねえの。安い売り文句だが買ってやろうか」
ついと指を持ち上げると、魔神の立つ丘の周囲から発芽するように何対もの翼が突き出し、次いで翼の根元から不気味な悪魔の姿が現れる。
百、千、万。
一呼吸置かず先程と同じ、いやそれ以上の悪魔が妖精王を取り囲う。
「王サマの首を晒しとけばちょっとは楽に殺し尽くせるかね」
「王の首一つで揺らぐほどヤワじゃねえよ、この|世界《くに》はな」
勝つつもりはない。死ぬつもりもない。
出来るだけ王国より距離を取り、出来るだけ数を削る。
妖精王は戦局が読めないほど愚かではない。このままでは国は亡ぶし自分も死ぬ。
立て直す為の時間が必要だ。妖精女王はその時間を得ようとしている。
だからまだ。まだもう少し、この場で魔神と軍団を引き付けておかねばならない。
大剣を構え直し、妖精種の頂点として全ての精霊に王命を下す。
「来い。小汚ぇ蟲どもが」
妖精界に仇なす敵を討ち滅ぼす、元素の力が王を取り巻いていた。
『この国にある全ての者へ!今すぐに王城内部及びその周辺へ集まってください!魔族を阻む結界を構築しますので……だから、|戦《・》|え《・》|る《・》|方《・》は敵を遠ざけて!』
おそらくは全ての妖精、そして外界から来た|者達《アーバレスター》へ向けて放たれたと思われる念話のような音声。
声の主はすぐに分かった。妖精女王の意思は近衛兵団でも妖精の組織でもなく、明確に守羽達を指して防衛を懇願している。
魔神よりも前に襲来した『侵略者』という認識の彼らに直接願い出るのは、国民総員含め一斉送信された念話の中では行えない。回りくどい方法を採ってしまったことにルルナテューリは『聖殿』にて静かに歯噛みしていたが、意思を受け取った当人らは至って気にせずその懇願を受理した。
「守羽!!今のっ」
「ああ!」
血に塗れる二人は一瞬のアイコンタクトで成すべきことを定めた。
現状打ち倒すことは不可能。ならばせめて。
(結界の外へ追い出す…!!)
黒色の爪牙、退魔の術法、そして振るわれるハルバードの余波で既に周囲は更地同然。さらに随分と押しやられたせいで王城までの距離が詰められていた。
ルルナテューリの結界とやらが王城からどこまで広げられるのかは分からないが、おそらくこの場は領域内部に含まれる。
(だがどうやってこの転移使いを引き離す…?妖精界全域を転移対象に出来るような相手を!)
一時的に遠ざけることができたとしても、転移を使われては稼いだ距離など意味を成さない。何か転移を成立させる条件のようなものがわかれば手の打ちようもあるが、今の所はそれも不明。
「何か企んでいる。人間の悪巧みは醜悪で始末に負えないこと、知っているよ」
瞬きごとに位置が変わる魔神の姿は相変わらず捉えられない。まるで自身の居場所をわざと明かして面白がっているようにすら思える魔神の呟きを拾い、すんでのところでハルバードの矛先を躱すが、刺突の風圧で後方へ浮かされた。
「くっ」
追撃の弐連突。背中の羽を駆動させて回避行動に移るが間に合わない。
「おォラァ!」
負傷箇所などまったく気にも留めない大仰な割り込みで心臓と肺を犠牲に刺突を止めた由音の血飛沫が守羽の眼前で舞う。
「また君か。死なない人間は面白いが、流石にそろそろ飽きる」
「ぶふっ!……おっけぇ大体わかった」
ハルバードに刺し貫かれたまま持てる全力の邪気を放出する由音の濁る瞳に火が灯る。何かを確信した眼。
大量の吐血と共に叫ぶ。
「守羽!コイツは俺が追い出す、俺のことは気にしなくていいから王城へ行け!」
「何言ってんだおま―――」
制止の前に由音の身体が上下に分断される。何度目かになる人間の両断に溜息を吐く魔神を睨みつけ、腰から上半分だけになった由音の左手が敵の首を鷲掴む。
「うん?」
「おおオオオォォォおお!!」
荒れ狂う邪気が由音と魔神とを取り囲む。攻撃の意図が無いことに疑問を覚える魔神と、その仮面に覆われた顔と至近で目を合わせる由音。
騎乗している巨馬ごと邪気が球状に形を変え人間と魔神が漆黒の内へ塗り潰される。
(…そうか!視界を)
魔神とはいえど何の感覚にも頼らず術を行使できるわけではない。自他の者(物)の座標を自在に変える転移の特性上、その位置を認識していなければ行えない。
視覚を遮ってしまえば自身の転移を任意指定では発動できないと由音は踏んだのだろう。
さらに自己対象で転移を行えば、それに触れているものまで転移に巻き込まれる。それは常時騎乗している巨馬ごと瞬間移動していることからも明らか。
魔神を掴んだまま邪気で視界を暗転させ、結界の起動まで時間を繋ぐつもりだ。
漆黒の球体内では『何か』を裂き抉り、解体する切断音が何度も何度も響き、その度に球体が空中と地上を手探りで這い回るように幾度も転移を繰り返す。
有効だ。これならば由音の根気次第で転移の魔神を結界外まで追いやれる。自分の半不死性を加味した上で選んだ強硬策。だから守羽には気にするなと、先に行けと言ったのだろう。
だがそれは押さえ込んだあとのことまで考えられていない。
(お前は毎度そうだよな!)
他者の為に自らを顧みない。死なないからこそ好き勝手をやれる。それを見ているこちらの思いなど気にも留めていないに違いない。
軽んじているわけではないだろうが、それでも守羽は僅かな怒りを覚えてしまう。
友を。相棒を。
見捨てて自分だけ行けるわけがない。
「…ッ」
結界が完成する気配一歩手前を読んで、邪気の殻を裂き由音と共に結界内へ滑り込む。これしかない。
見える範囲からは離れず、邪気の球体は絶えず転移を繰り返している。内部では由音が文字通り血反吐を吐きながら全力で魔神にしがみ付いているはずだ。
右手を握る。
今の守羽に出来ることは少ない。元より備えてあった〝倍化〟の異能を上げられるだけ上げ、その拳に退魔師としての破邪を乗せる。
妖精王イクスエキナが守羽に『神門』を使わせなかった理由。なんとなくだが察してはいた。これに関しては現在共に妖精界の防衛に回っている役柄上、確かに使えない。『使ってはならない』が正しいか。
タイミングが重要だ。守羽の内にある全ての要素が感覚器として、完成間近に迫った結界の威容を感じ取っている。
あと四十秒、…三十五秒。
「オイ」
眼と感覚で転移の行方を追い続けていた守羽の肩が乱暴に叩かれ、驚愕と共に振り返る。意識を魔神に全て向けていた為か、何かの接近にまるで気付いていなかった。
「なっ…!?」
そうして遅すぎる反応を返し、守羽は―――。
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(妖精は全て集まった、界域結界と五法障壁の構築も完璧!でも…)
『聖殿』。
グリトニルハイムにおける全権能を掌握する妖精女王ルルナテューリは完成した結界の発動にほんの僅かな逡巡を見せていた。
何せ絶対堅固の護りを生み出す回路の構築に全精力を賭していた。少なくともこの世界に馴染みの深い妖精達の所在くらいならば片手間で掴めるが、そうでない外界の存在には感知が回っていない。
要するに発動する結界内に入り込めているかどうか、ここからでは確認できない。
だが。
(これ以上時間は作れませんから!もし外にいたのならわたしが必ず…!)
女王直々にでも結界へ引き戻す覚悟を胸に、彼女は組み上げた術法を解放展開する。
「|女王《ティターニア》の王命にて、此処に界を別つ境を!五大の祖の智と総意を以て、此処に全精霊の恩寵を!」
―――界域結界・確立。
―――五法障壁・承諾。
それは隔絶する檻。それは拒絶する箱。
完全なる堅牢の砦が、人世から別離した妖精世界のさらに内側に顕現した。