奇術師の手によって、父が鳩になったとき、幾重に広がる群衆の輪とともに私は「わー」と感嘆をあらわにしていた。もし、このとき父が二度と人間に戻らないと知っていたら、私はなんて口にしただろうか。
「タダーン」
奇術師は満面の笑みとともにそう言い、舞台から姿を消した。乾いた音がして、辺りは静まりかえった。
主役のいなくなった舞台の上で鳩は飛ぶことなくとどまっていた。
やがて誰かが、舞台に駆けよっていった。「ひ」という悲鳴が前のほうから聞こえる。人垣によって視界が悪く、水色のシャツばかりが目に入っていた。隙間から赤いものが見えた。
「救急車、誰か救急車を呼んでください」
私は人をかきわけて、舞台に走った。白い鳩は近寄ってくる私に目もくれず、頭を前後に動かしていた。抱きしめる。不思議と父は抵抗しなかった。私は父を連れて、その場を逃げ去った。幸いなことに誰もが死んだ奇術師に注目していた。もしかしたら、彼がいままでで一番注目を浴びた日かもしれない。
私は父が嫌いだった。
父の発言の一つ一つが私を苛立たせた。私と父が二人で出かけたのは、母の強い勧めがあったからだった。新しい靴を買ってもらえることも私の気持ちを動かせた。買わせるだけ買わせてさっさと帰ろうと思っていた。
同級生に見られるのが嫌だったので、私はできるだけ父と会話をしないように、イヤホンから流れてくる音楽に集中していた。
それにも関わらず電車のなかで父は楽しそうに話しかけてきた。私は「うん」ともつかぬ曖昧な返事をして、窓から見える景色を眺めていた。
駅を出たすぐの広場に人だかりが出来ていた。父は無理やり私をつれて、その群衆のなかに飛びこんだ。
すぐに奇術師がいるとわかった。感嘆や悲鳴があちこちから同時に聞こえてきた。私も夢中になってトランプやリングや剣を見ていた。
「このなかに鳩になりたい人はいませんか?」
はじめて沈黙が降りた。
「みえ、やるか?」
父が私の顔をのぞきこんだ。反射的に顔をそむけた。
「じゃあお父さんがやろうかな」
父が手をあげる。恥ずかしかった。私はできるだけ親子に見られないように、顔を俯かせた。
一年以上履いている靴が目に入ってくる。結局、新しい靴を買うどころではなくなってしまった。
自分の部屋に白い鳩を離す。当然、籠も何もなかった。鳩は本棚のうえに飛びのった。斜めに顔を曲げ、黒い目で私を見下ろしてくる。
父は本当に鳩になってしまったのだろうか。どこか面影は似ているような気がする。真っ先に本棚の上に飛び移ったのだって、父なりの娘への配慮と言えなくもない。
父が私の部屋に入ったのは数年ぶりだった。
母も弟も、父が鳩になったことをあっさりと受け入れた。鳩を見て、「そう」と短く言うだけで話は終わった。
私は二人の反応に不安を覚えた。
「不思議に思わないの?」
「つきあったとき、鳩に似てたもの」
母がわたしを見ずに言った。弟は何も言わなかった。ただ笑っているようだった。
食卓には四つ膳が並んでいた。
「鳩はご飯を食べないんじゃないの?」
私は疑問を浮かべた。私のあとをついてきた父は、テーブルに着陸し、ご飯をひっくり返した。鋭い音がし、驚いて父は飛びたった。
弟が立ちあがり、食パンの袋を私によこした。廊下を歩き、鳩の姿を探す。仏壇の置かれている狭い部屋の隅っこに父はいた。格子窓の向こうは庭になっていて、夕闇のなかに葉っぱの塊がある。
足を踏み入れると、畳が音を立てて軋んだ。父は動かずただ私を見ていた。食パンの白い部分をちぎって父に差し出す。
くちばしの近くに持っていっても、父は食べようとしない。しかし、畳の上に置いた瞬間、頭が大きく上下した。
しゃがみこみ、何も言わない父にパンをあげていく。しばらくして足音が聞こえた。ふり返ったら弟が立っていた。日の当たらない廊下にいる弟は、いつもの騒がしさが消失したように静かで、片方の口の端だけを持ちあげていた。
鳩に視線を戻すと、パンを探しているのか歩き回っている。ちぎろうとパンを見るといつの間にか凹んでいた。
私が餌付けをしたせいなのか、人間のときの記憶があるのか、父は私につきまとうようになった。
父が人間だったときは、できるだけ接触を避けていたのに、いまはそれほど不快感はなかった。
父は世間的には失踪ということになっている。魚屋の娘と北の方へ駆け落ちしたという噂も流れていた。
母の方はいちいち気にしていないらしい。見た目や様子に変化はない。ただ、働きに出るようになった。当分はこれまでの貯蓄でなんとかなるらしいのだが、それだけでは生活が続かないという。
私は弟の面倒と父の面倒を見ることになった。弟は、父に食べ物をあげようとしなかった。母が持ってきた籠のなかにいる父をときおり見ていることはあったが、あまり近づこうとすらしなかった。
父はどんどんやせ細っていた。原因がわからず、籠から出してみたものの、そこから一歩も動こうとはしなかった。何を与えてもくちばしを開こうとしない。数センチほどの境目はもはや模様でしかなかった。
私は籠を持って、病院へ向かった。
患者が鳩だと言うと、受付の看護師は鼻で笑い、首を横に振った。父なのだと訴えても無駄だった。
仕方なく動物病院に向かった。医者は一分も見ることなく、病名がはっきりしない、と告げた。それから、何やら言葉を続けたような気もするが、ほとんど記憶に残っていない。
病院にはやたらとカレンダーがあった。病院ではそれほど日付が重要なのだろうか。付き添い人の弟はカレンダーばかりを眺めていたような気がする。
私は父が鳩の身体に慣れていないのではないかと考えた。父を人間に戻さなくては死んでしまう可能性がある。父が元気になるのなら、人間ではなく魚や猫でもいい。
あの奇術師が死んでしまった以上、他の奇術師を探すしかない。あの駅に降り立ってみるも、人々はそれぞれ別の方向を歩いていて誰にも注目していなかった。
そんなとき、小学校に奇術師が来るという話を、弟から聞いた。父はすっかり弱っていて、やせ細っていた。水さえも飲もうとはしない。
卵焼きを口に入れながら弟は「家族も来ていいって」と続ける。
私は籠を持って会場に入った。
今度の奇術師は舞台から滑って死ぬことはなかった。ずっと笑みを絶やさず、次々に消しては出し、刺してはもとに戻した。
暗闇のなか、弟の顔を何度か盗み見る。ほとんどの観衆の反応とは違い、彼は無表情だった。
終わると同時に、私は舞台袖に走った。
「サインがほしいのかな」
奇術師は私を認めると、そう話しかけてきた。
「父をもとに戻してほしいんです」
私は籠を彼につきだした。
奇術師はすぐに不快をあらわにした。それから舌打ちをし、助手である女の人に「たまにこういうやついるんだよな」と笑った。
「お嬢ちゃん、それはただの鳩だ」
「でも」
私は引きさがれなかった。父の命がかかっている。
「父は鳩になってしまったのです」
奇術師は鳩を思いっきり眺め回した。
それから大げさにため息をついた。
「ただの鳩だよ。なあ、俺は疲れてるんだ」
もう彼は私のことを見ようとはしなかった。大人が駆けよってきて、私をどかした。階段を降りていくと、弟が立っていた。
「どうだったの」
私は首を横に振った。
父はもう鳩だった。人間ではない。家にいてはもうよくならない。学校の裏山に弟と一緒にのぼった。
やがて開けたところに辿りつくと、私は籠を解放した。
鳩が飛び立ち、草むらに降り立つ。
いつまでたっても鳩はそこから離れようとしなかった。
弟の短い髪がなびいていた。その向こうでは木々が揺れている。白い雲は、夕焼けのせいで血を流しているように赤く染まっていた。
「お父さん」
弟がつぶやくように言った。
気づくと父はいなくなっていた。もう、どこにもいなかった。