真昼の病院の色の控えめな場所で、渉のいるこの場所だけが彩度の高い色が散りばめられている。
床は水浸しだ。突っ立っているクラスの人間や浦賀夫妻、警備員、医者達。駆けつけた警備員もどうしたらいいか分からずぽかんとしている。
「うーん……」
俺は大きく伸びをした。久しぶりに空気を吸ったような気がする。当たり前だ。今までは機械で喉に穴を開け、肺に空気を送っていたのだ。
ところで、このフロアの渉の周りの敷地あたりの人口面積が今までの二年間と比べてありえない密度の数字になっている。
渉や上妻家の人達と違い、伸びをするような余裕はない。事の始まりからずっといるクラスメイト達はまるで借りてきた猫のようにおとなしい。
「なんだか、俺の知ってるクラスメイト達っじゃないみたいだな」
俺は少し苦笑する。
俺の知っているこのクラスメイト達は学校では、どこまで大きな声で喋っていいかや、どれだけ大きな笑い声を出していいのか決める雰囲気に一番許されていた人達だった。
そう言えばあの教室はとても息苦しかった。
「さて、行こうぜ」
渉は上妻家のみんなに言った。
「私達の世界に戻ったらもう次元の裂け目は閉じてしまうわ。つまり、決して降りることはできないノアの方舟に乗り込むような事なのよ?」
藍子が言った。言外に別れのために何かやり残したことはないかと問うていた。
渉はがくがく震えるクラスメイト達、教師、浦賀夫妻に振り向く。彼らは渉の視線に体がビクッと跳ね上がる。教師も、浦賀夫妻も化け物を見るかのような視線で渉を見ている。
しかし、若いクラスメイト達の目の中に畏怖以外にも嫉妬のような色を見たのは気のせいだろうか。
それから上妻家のみんなの方に向き直した。
「もういいんだ。行こう」
渉はそう言った。
「そう……」
真歌が言った。納得のいかないような煮えきらない様子だ。
「渉がいいって言っても俺はなぁ……俺は……」
あの饒舌な春秋もが口ごもる。言いたいことがあるのにうまく言えないみたいだ。
「?」
渉は不思議そうに二人を見た。その時文字通り大地を揺るがす振動が起こった。
何事かと渉はあたりを見渡す。するとぶち抜かれた病室の壁の先には、一つの大きな宇宙があった。訂正するとそれは目玉だった。銀河のように無数の虹彩が輝く目玉だった。
「おお、友よ!儂だ!見れば分かるか!グラララララララ!!」
彼の笑い声がビリビリとそこにいる生き物全てに届く。
「ハハハ。ここは病院だって。静かにしないとダメだよ」
そう渉が言った相手はドラゴンだった。彼までもがこの世界にやってきていた。紫色の鱗が太陽の光を乱反射している。
「ようやく目が覚めおったか!!深ーい深ーい眠りじゃったな!!」
「ああ。夢かうつつか分からないぐらい深い眠りだったよ」
渉が笑って答える。
「あんたも来てくれたんだな。嬉しいよ」
そう言うとドラゴンは少し照れたようにヒゲをぴょこぴょこ動かした。
「グラララララララ!!それはそうと、春秋や真歌が言いたいことを代わりに儂が言ってやる!!」
真歌や春秋が言いたいことが分かんの?そう思ったあと渉は真歌と春秋の顔を見た。
「グララララ!!渉はもういいというがな!!儂はそうはいかん!!儂はこいつらを懲らしめたいんじゃ!!」
こいつら、と言うドラゴンのかざす爪の先にはクラスメイト達と浦賀夫妻が居た。
「いや、いいんだって」
予想外の事に渉は可笑しそうに言う。
「むぅ…………お主がそうは言っても、儂の気が収まらんのだ」
「「そうだ」」「わ!」「ぜ!」
春秋と真歌のコンビが息を揃えて言う。む。と真歌と春秋はお互いを見る。これは「何真似してんだよ」見たいな間だった。
「おっかしいなぁ。みんなは」
渉はあははと笑った。
「はー…………」
ひとしきり笑ってから渉は息を吐いた。
「だが、渉」
その言葉の主は神威だった。石のように堅牢だが、同時に穏やかでもある。その相反する要素を神威が誇ることができる理由は一言で言うのなら、愛の力だった。神父のように、多くのことを体験してきた者が若者にバトンをわたすように、神威は言う。
「これであの人達に会うのも最後なんだ。何かやっておきたいこと。言いたいことは今やっておかないともう後になってはできない。……自分の気持ちを聴くんだ。どうしたいかを。何を望んでいるかを」
迷える人の前に立ち、手を差しのべる者。
渉は目を閉じて頷いた。渉は振り返り、クラスメイト達の方を見た。
「うん。ありがとう。父さん」
小さく。自然に。だが、確かに。その言葉は渉の後ろ姿から神威に届いた。
渉は浦賀夫妻を見ていた。こっちの世界の両親は渉の方を見てくれなかった。最後まで渉を見て欲しい目で見てはくれていない。
「それじゃあみなさん。その、さようなら」
「ば、けもの…………早くどことなりと行ってしまえ!!二度と帰ってくるな!!」
浦賀茂がそう醜く喚いた。
「やば…………」
やばいと思ったが、上妻家のみんなは揃ってキレていた。みんなの引火点と発火点と沸点全部が俺に関係していることなんだなぁと戸惑いながら、成り行きを特に止めることなく見守る。
真歌が力を使った。外の病院の地面から童話の豆の木みたいに伸びてきた大きなつるが、アリーシャによって破壊された壁からつたうように入ってきて、浦賀夫妻達に絡みつく。
「いきなりこんなことになるなんて想像もしてないでしょうね。でもね。今までアンタらが渉にやってきた事に比べたらその何十分の一も返済できてないのよ」
真歌が烈火のごとく怒っていた。
ぎゅうぎゅうと蔦はどんどんクラスメイト達を締め付ける。
「(そうなのだろうか)」
渉は思った。
春日井と小夜鳴が俺の肩に手をぽんと載せた。二人とも怒りで目が燃えているようだった。
「(そうなのだろうか)」
「貴様ら丸呑みじゃ!!」
ドラゴンが激高する。熊の何10倍もの大きさの体を持つ獰猛そうな動物が、口を開く。その口は地獄の門さながらだ。クラスメイト達は動くことも出来ず、蛇に睨まれたカエルのようだ。どんな手段を使っても、首はあっという間に迫り、彼らを丸呑みするだろう。またそのあごの力といい、鋭く大きい牙といい、挟まれたら決して逃れられないことがただの人間であるクラスメイト達ですらよく分かった。正に必死。ごろごろと深淵から太古の奥から響くような喉の音。恐竜のような原始的な音。グアァっと容易く開く上あごと下あごの間から動く大きな舌。
「このクソッタレども!いっぺん死ね!!」
春秋が激高しながら、自前のホルスターから引き抜いた銃を連続で撃ち抜いた。
さすがに当てるまではしなかったが、そのブチ切れた顔がもうすこしで当てるつもりだったことを表していた。
「この馬鹿野郎共!!おたくら皆渉に冷たすぎだろうが!!!どうしてそんなことをする!!」
春秋が連射しながら叫ぶ。
「大丈夫。他の入院患者の体調は正常だよ」
渉の前に立つ未来が渉に言った。さっきから『耳を澄まし』他の入院患者の様子を看ていたのだ。それは未来の精霊術だった。彼女の力も上妻家とリンクして大きく上がっていた。その発言の意図は渉が他の入院患者への影響を心配するだろうと考えてのことだった。
「誰もびっくりして心臓が止まっちゃった人はいないよ。機械の動きも正常みたいで誰も傷ついてないから安心して」
未来がずんずんと俺のパーソナルスペースに入ってきて、ぴっとりと俺の左脇に収まるみたいに寄り添った。唐突に未来にキスをしたくなった。
銃の反動をものともしない春秋は弾が空になるまで銃を撃ち続ける。
「はい」
そう言って咲夜は渉に手を指し伸ばした。
「手を握っていてあげます」
お姉さん然とした口ぶりで咲夜が微笑んで言った。
「はは。ありがと」
こんな事態だが、咲夜は怯えることなく、渉に言った。少なくとも渉にはそう見えた。握ったその手は柔らかく、暖かく、確かなものだった。それはここにいていいんだと思うには十分すぎる事だった。
第十二話
銃声が止んだ。春秋は息を切らして銃をまだ浦賀夫妻達に向けて構え続けている。銃口から立ち上る硝煙が春秋のまだくすぶる怒りのようだった。
渉の病室の周りはもう笑いたくなるくらいの状況になっていた。原型をとどめていない。弾丸がばらまかれて壁に銃弾がいくつも亀裂を作ってめり込んでいる。
ここを中心としていくつもの力が収束していて、さながら異界とかしているようだ。
ドラゴンの口の奥から青と赤の層に別れた光がチロチロと出ていた。灼熱の焔。
「えっ。さすがにこれはやばくね?」
俺がそう言うと大人組は無問題という顔で見ているが、子供組はやや顔が引きつって、今にも放たれようとしている何千度になるか見当もつかない炎を見ている。
「あれがもろにあたったら丸焦げだぞ!」
誰もが分かっていることをさらに口に出してちゃんと認識させてくれたのは春日井だった。汗が伝っている。
「これ僕らも巻き込まれるよね」
爽やかな顔立ちの小夜鳴の頬にも汗が伝う。
「絶対助からねぇぜ?」
俺がさらに皆分かってるだろうことを重ねた。
「問題ない。防御璧を張れば私達にダメージは通らない」
少年三人の弱音?に胸を張って答えるのはアリーシャだった。
「さすがアリーシャ……でも俺達が助かっても……」
チラッと春日井は蔦に縛られて動けない人々を見ながら言った。
少年三人は何もそこまでしなくていいんじゃと思っていたが、真歌と春秋は血気盛んだった。二人は、
「いっけぇええ!」
「やっちまえ!ドラゴンのじいさん!」
などと言っている。
「ひいいいいいいいいっ!」
こうなると声を上げて怖がるクラスメイト達。
「やってしまうがいいわ!その後こいつらのドクロを盃にして祝杯を挙げるわ!」
「おっ!真歌君ナイスアイディア!」
真歌の暴言に春秋が大人らしからないフットワークで賛成する。ドクロを盃発言に恐れおののくクラスメイト達。
「もうどこからつっこんでいいやら……」
カオスな空間である。浦賀夫妻達、一般人は本当にそれをやられると思っているので小便を漏らしてもおかしくないほどびびっている。ヤクザより怖いと思っている。
とうとうドラゴンの口から灼熱の火球が放たれた。カッと、最大級の光があたりを照らす。鳴り響く爆音。この大きな建物がズズズンと大きく揺さぶられる。しかし、その火球がクラスメイト達に直撃することは無かった。斜め上にゴバァッと放たれた特大のそれは病院のコンクリートから骨組みまでを溶かして青空に消えた。大気圏外まで突き抜けたのではないだろうか。
渉は瞬きぐらいの刹那の間に『世界改編』を行い、他の入院患者への影響を全てなかったことにした。
青ざめを通り越して土気色の顔になる哀れなクラスメイト達。
熱線でクラスメイト達の髪の毛はチリチリになっていた。教師のロン毛などに至っては、その登頂部は、ほぼ焼け野原である。キューティクルの似合わないロン毛が一瞬にして根本から焼き払われた。ご愁傷さまな惨状である。
春秋と真歌とドラゴンが揃って大爆笑するので、俺も笑ってしまった。他のみんなもつられて笑ってる。
「俺と関わったばっかりにな」
この後遊びに行くどころではない。
「さあ皆のもの儂の背に乗るがいい!いざ帰らん!儂らの世界へ!」
ドラゴンが威勢の良い雄叫びを上げる。
「よぉし。帰ろう!」
アリーシャが手にしていたサーベルの切っ先を外に向けて言う。
誰ともなく、助走をつけて開いた壁からドラゴンの背に、ぴょんぴょんと飛び乗っていく。渉もみんなに習って走って飛び乗った。………走ったり跳んだりするのって楽しい。と内心で渉は思っていた。
龍の背の鱗は以外なことに絨毯のように柔らかい部分が多かった。みんなと一緒に刺にしがみつく。外に出ると黒いブラックホールのような穴が見えた。
「あれが次元の裂け目か」
渉が言った。
「あーだいぶすっきりした。まだやりたりないけど」
真歌が恐ろしいことを言う。
「渉君奪還作戦はほぼ成功ですわね」
黒繭が淑女のようにニコニコして言った。
その時病室に渉の担当の医者が駆け込んできた。次期院長と噂される彼はこの惨状に腐ったヒストリーを起こす。
「もう少しで、本部の審査があるって時に問題を起こしやがって!死ね!死ね!俺の責任問題になるんだよ!!」
順調にキャリアアップしてきた彼だったがこの責任をとらされるので、左遷はほぼ確定していた。彼は田舎の病院で一生暮らすこととなる。もう浮かび上がれない。医者はその事にいたく憤激している。順調な出世が石ころにつまずいておしゃかになってしまった。
「今まで世話をしてやったのに~~!恩を仇で返しやがって~~~!」
生かさず殺さず、金ずるにもならないのでないがしろにしてきたわけだが、どうやら医者はそう思ってきたようだった。飛び去っている最中医者は喚き続けた。
渉は無視することに決めた。ホームはすぐそこなのだから!しかし、
「「「え!?」」」
渉と未来と春日井と小夜鳴と真下と咲夜が口を揃えて疑問詩を口にした。ドラゴンの背から二つの影が飛び降りたからだった。
ダン!!と大きなスタンプ音を奏でて着地した一つの白い影。もう一つの影は着地の勢いそのまま、腰の入った流麗な右ストレートを医者におみまいした。春秋だった。イケメンがイケメンをぶん殴った。
「うるせー馬鹿」
無様に薄汚いイケメンが宙を舞った。 みしり、と拳がすごい密度で握られる。
主なき病室に着地したもう一人は久尊寺博士だった。
「久尊寺博士も痛めつけちゃう?やりやすいように支えといてやるよ」
春秋が医者の脇を両手で掴んで久尊寺博士と向き合う。
「ふーむ……春秋のパンチで意識朦朧と言ったところだな。おい起きたまえ」
二、三発医者の頬を叩く久尊寺。
「おぇ?」
まだまだ朦朧としていたが返事はした。
白衣と白衣が向かい合う。
「いいか?腐った利権争いの傘の元で育ってきた君の耳の届くか分からんが言いたいことがあるので言う。君が渉君に適当な診察をしていたことが問題だったのだ。それを棚に上げていざ報復にこられたらこれかね。だいたいMRIを使って脳が正常に働いているかも確認しないで診断をするなどとは医者の風上にも置けない。まともな良心が少しでもあるのなら医者を今すぐ辞めたまえ」
ぐっと言葉に詰まる医者。何も言い返せないのだ。
それから旋回して春秋と久尊寺を迎えに行って、二人とも乗り込んだ。今度こそ上昇していく。
「おっ降りてこい!浦賀渉!お前がいればまだ責任から逃れられる!!」
二人のメッセージがまったく届かなかったようで、憤怒の形相で医者が上に向かって怒鳴る。ドラゴンは飛び去る。
「「「渉の名前は上妻渉だ!!」」」
上妻家のみんなが口を揃えて言った。太陽の光にかざされた、自由に空を泳ぐドラゴンの背の上での宣言だった。