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第七話

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 4月4日。


 
 翌日。渉は未来の部屋にいた。俺達は並んでベッドに腰掛けている。

「よく頑張ったね。本当に。お疲れ様。渉」

「偉い偉い。よしよし。本当に頑張ったんだよね」

 いつもの黄色のかわいい背広みたいな服をちょこんと着る上妻未来。青色のネクタイに花のネクタイピンがきらっと差し込まれている。

「なんか、嵐が過ぎたような感じだ」

「久尊寺博士の様子だけどね。もうほとんど回復したよね。もう完全に治しちゃうんだから流石アリーシャだよね」

「 未来も俺に出来ない治癒術が使えるのが凄いよ 」

「えっ?えへへ……ありがと」

 少し意表を突かれたような顔をしたが、未来はこう言った。

「そうさ。 未来の治癒術は未来の愛情がたっぷり注がれてるから俺が好きだけどね。未来がいるから安心して俺は無茶ができるんだよ」

「む、えへ。……むむ。だからって怪我しないでよ。いつも治せるってわけじゃないんだからね。いつも一緒にいられるわけじゃないもの」

 そう言うと茶色とオレンジ色の中間のような色の彼女はにこっと笑った。

「よしよし」

 そういって彼女が俺の頭を撫でた。とても優しい愛撫だった。人の手の温もりだ。自分の事を愛してくれる人の手の温もりだ。

「とてもかっこよくなったよ」

 何が楽しいのか未来はにこにこしている。



 俺達は洋館から外へ出て、玄関の大門の外にへと歩いた。 シューズを鳴らして渉と未来は立ち止まる

「「ん~~~~~」」

 二人して実に気持ちよさそうに伸びをする。
 洋館の小さい方のバルコニーではいつものように洗濯物がたなびいている。

「いい天気だなぁ」

 雲がまばらに浮かぶ空。

「ねぇ渉。私達今日はどうしよっか?」

 腕を後ろに重ねて快活に振り向いて俺に尋ねる。彼女の髪が太陽にあたりキラキラと輝く。そしてその瞳を心を奪われてしまうのに充分なほど輝いていた。

  「なんで未来の目はそんなに綺麗なんだろう」

 渉がそう言うと未来はくすぐったそうに笑った。そのシャープで柔らかな声は耳を通って俺の中にしっかりと染み込んだ。

「渉は気づいてないかも知れないけど、渉の目だって綺麗だもん。そうだなぁ。表現するとしたら灰色の湖の淵みたいな目をしてる」

 それって褒めているんだろうかと思ったが、そこに何か俺らしさのようなものを見出してくれるのならそれでいいと思った。

 俺は手を未来に差し出した。未来はその手をとってくれた。うわ。女の子の手ってなんでこんなに柔らかいんだろう。というか女の子の全てが柔らかそうな感じがする。

「最初は俺についてきて」

「うん」

 にっこりと満開の花びらかと見紛うほどの笑みで応じてくれた。

 丘を二人で手を繋いで歩く。いい風が吹いている。気持ちのいい風だった。

 丘の上を歩いていき、俺は図書館に向かうことにした。この島に図書館は二つある。島の西の方にある施設が固まっているところにある。ここには学校や、教室、空き棟、体育館、プール、庭園、運動場などまさに学園チックな建物が満載だ。

 その中の図書館は入り組んだ庭園に囲まれている。渉達はその庭園を眺めた。綺麗な花達に囲まれて二人でいる。そうだ。渉はこの島が気に入っていた。全てが足りている。これ以上何か望むことがあるのか。ここにいることが出来きているのにこれ以上何かを望むものがあると言う人がいるのなら是非話を聞いてみたい。おそらく到底理解できないだろうけど。まったく理解できない話を面白がって聞けそうだ。

 色とりどりの花達はまばゆい光を放っている。神様が美しいものを求めたからこの花は生まれたのかもしれない。何故か今は美しいものを前にしても心を落ち着かせていられた。

 図書館。それは不思議な場所だ。図書館のアーチをくぐると絶妙な位置に花瓶に生けられた花が、本という無機質で生命を感じさせない。花瓶のその花が生命の存在感を天元のように見せられる。生命のないものの集まりとその中にひっそりとある花が妙に適合している。さっきの庭園が生命が芽吹き栄える場所だとするならば、ここはまさに生命の記録場所である。

「なんだか、あの花って渉みたいだね。そんな気がする」

 屈託のない笑みで彼女は言う。

 図書館は叡智の集積場所だ。この図書館にはありとあらゆるものがあり、同時にありとあらゆるものがない。そんな不思議な場所である。額縁に飾られた図書館憲章が渉達をま見守っている。
 そこには確かな意思と誇りと自負と歴史がある。

 

「渉?」

「私は知ってるよ。渉は今日頑張ったんでしょ。」

 同じ毛布にくるまりながら手を繋いだ。渉の部屋の大きな天窓からは美しいほし星が見える。

「うん。実はそうなんだ。」

 手がとても暖かい。テーブルに置いたコーヒーが美味しかった。未来が入れてくれたからだろう。他の家族でもなんでもない人のコーヒーならこんなに心が暖かくなることはなかっただろう。未来が入れてくれたからなんだ。
 おもいっきりベタな代物だけどさ。他の何ものにもつくれない隠し味。

 絹糸のように艶のある髪。その持ち主であるこの少女は渉と心臓が触れ合うくらいに近づいていた。

 未来の美しい手が伸び、渉の鎖骨から首元に届く。未来が渉をくすぐった。
 暗い中で二人は無邪気な小鳥のようにじゃれあった。
 渉と未来はくすくす笑いをした。二人とも飽きることなくくすくす笑った。
 渉は未来のことをもっと喜ばせたかった。もっと触れ合って、そして彼女の妖精みたいに綺麗な笑顔をもっと見たかった。

 未来は渉の事が大好きだった。昔から他の男の子よりも気になっていたけど、半年くらい前から異性としてより気になるようになった。気づけば渉を目で追っていた。彼の冗談も、彼のはにかんだ顔も、笑うと目元がくしゃくしゃになるところが一つ一つが好きだった。私の全てを上げたい。渉と一緒にいられることが本当に幸せ。渉はみんなと仲がいいし、みんなに好かれているから仕方ないけど、もっと渉と一緒にいたい。渉と一緒にいられるだけで、本当に幸せ。
 渉。大好き。大好き。大好き。
 未来は渉の顔をじっと見つめていた。その顔は女の子の顔で、とても色っぽかった。頬に赤みが差し、瞳は潤んでいる。

 渉は未来とキスをした。
 唇を重ねる。

 未来の真珠のように綺麗な歯。

「この日のこの時の未来をまるごと切り取ってショーケースに入れて自分だけが入れる部屋で鑑賞したい。」

 本気っぽい冗談を言う渉。

「なんか猟奇的だよ。」

 渉の頭を撫でている未来。
 渉は笑って、未来を抱きしめた。未来の華奢な体。未来の香りにいつもドキドキしていたけど今日は渉が独り占めだ。
 幅の狭い肩甲骨を渉は撫でた。白い肌に均整の取れた身体。

 
「とても綺麗だよ。」

 渉がそう言うと未来は嬉しそうな顔をした。

 膨らんだ胸を上気させる。未来の心臓の鼓動が渉にも伝わり、二つの楽器が愛と煎う名の音楽を奏でているようだった。心を重ねて、二人の思いが一つになる。心まで一つになるような。

「素敵だね。」

 微笑む未来。

「そうだね。」

 もはや言葉すら不要かもしれない。言葉というのは不完全なツールなんだ。

 そうしていつものように家族と晩御飯を食べて、みんなで遊んで、みんなで笑って、明日は何をしようか考えて、何が起こるかわくわくしながら自分の部屋で寝た。そういつも通りだったはずだった。これからとてつもなく後悔することになる。胸が裂けても足りないほどに。そうなる予感はしていた。最近自分で自分のことが分からなくなったり、自分が普段やらないことをやり始めたこと。これは前兆だったのだ。そして黒いあの何かもまた今から起こることの前兆だった。さぁ采は投げられた。幕が上がるのだ。真実という名の幕が。甘く、優しい時間は終わった。これからはどうしようもなく、最初から結論が出ている出来事に目を向けなければならない。そう。どうしようもないという結論は、もう出てしまっているのだ。そんなことに人は耐えられない。渉もまた、耐えることは出来なかった。


 6月12日


 モノトーンの彩度の低い、明るさのない天井。まぶたを開けて最初に見たのはそれだった。

「(知らない天井だ…………)」

 そんなことを言っている場合ではない。

「(なんだこここは)」

 早く体を起こさなければと思っているが何故か体が動かせない。それだけじゃない。何故か渉にはここの空気はおかしく感じる。世界の色が一段とあせたように見える。ぴくりとも体が動かせない。

 声を出して誰かを呼ぼうとしたが、声も出ない。

「(誰か!誰かいないのか!?おーい!)」

 声は出ない。
 頭がくらくらする。動くのは目だけみたいだ。現象を追う目だけが自由。まるで夢の中にいるみたいだった。

「(あれ……………?……………?)」

「(あれ…………?)」

 誰も来ない。ちょっと時間が経てばアリーシャか、久尊寺博士か、神威か、藍子か誰かが説明をしてくれると思っていた。だが、誰も来ない。さすがにこれが緊急状態であるということはわかる。いや、からだの五センチのところに薄い膜が張ってあるみたいな不安と恐怖がやってくる。

「(まままままぁ………落ち着いて。落ち着くんだ俺。落ち着いて状況をよく整理するんだ)」

 これは冗談やギャグで済まされることではないのではない。その事は頭のどこかに浮かんだが直視したくない考えだった。

「(あれ………?どうなってるんだ……?)」

 ピ……ピ……ピ……と断続して聞こえる電子音。

「(なんだこの音は)」

「(いつも通り昨日は家で寝たはずだ。いつも通り。こんなわけのわからないところに来るはずなんかない)」

「(なんだよ……なんだよこれ……)」

 喉からチューブが出ている。本当に、喉からありえないチューブが伸びている。喉に、穴が空いている。そして鼻にも管が二本通っている。頭の中で転がり、爆発しながら急転直下した。

「(うわぁあああああああああああああああああああっっあああっあああああああああああああああ!!!!)」

 だが恐ろしいことはそれだけではなかった。こんなに叫び、暴れまわりたいと精神が訴えているのに身体どころか表情すら動かないのだった。鼻に通る二本のおぞましい管からなんらかの液体が迫ってくる。

「(なんだこれ……………!!)」

「(水じゃない)」

 どろっとした緑色の液体がチューブを流れ鼻に入る。
 目を下に向ける。胸に白いシーツがかかっているのは分かる。そして今着ている服は昨日寝た時に着ていたものではない。薄緑色の見も知らない服だった。こんな服は着た覚えはない。渉の服ではない。何故ここにいるのか分からない。

「(いや…………分かりたくない)」

 ゴオオオオオオオ。
 暴力的にまでうるさい空調の音。この程度の音が頭に響く。

「(うるさい!うるさい!うるさい!)」

「(なんでなんだ……何がどうなってるんだ。分からない。分からない。誰か)」


  ◇ ◇


 ある一人の人間がいた。
 事のはじまりにさかのぼる。はじまり。
 あるところに浦賀という名字の家族あった。

  旦那は人の顔をしたげじげじのような生き物だった。 この男は溶けてのこぎりのような歯になっている。 名前は浦賀繁。虫のように客に媚びて絡みつき、金をしゃぶる、詐欺師のような男だった。
 奥さんは太ったガマガエルとカマキリを足して割ったような姿だった。名前は浦賀卯乃。 世の中のひどいと言われている人間の中でも最悪の部類に入るような人種だった。それはその旦那も同じことだった。
 
  彼は浦賀家に三男として生まれた。兄と姉がいる。二人とも歳は近かった。

 浦賀家に平等という概念は無かった。いろんなものが破綻していた。破綻していても、その家はやはり子供にとっては世界なのだ。やはり幼児は周りの人間についていってしまうものなのだ。しかし、卯乃と繁はそれを振り払った。生かさず、殺さず………そういうことに関してだけは才能のある人間だった。八歳の彼はみすぼらしく痩せていて、宇宙人のように頬はこけ、目も落ち窪んでいた。朝九時に起きて、家の雑事をする。店の前を掃除し、店の掃除をして、重たいバケツで何往復もしながら掃除をした。そしてようやく食べられる朝ごはんは昨日の客が残していった残飯だった。
 兄妹は母の方針で自分が作ったご飯を食べさせなくてはいけないと母自らが毎日つくった。彼はそれを食べることは許されなかった。
 ものごころついた兄妹は母や父が彼を冷酷に扱うのを真似して、残酷に扱った。
 彼は泣かなかった。泣くと余計ひどい目にあうからだった。

 彼は頑張った。毎日捨てると脅され、ミスをすると殴られるから、殴られることが嫌で頑張った。ある日から仮想の父と母を誰に教わったわけではなく自分の中につくった。仮想の父と母に褒めてもらう。仮想の父と母に愛してもらった。そうして彼は精神のバランスをとった。それは彼の成長と共にどんどん増長してゆくこととなる。

 友達もできなかった。小学校でも彼は働かなければならなかった。給食費や学校に必要な道具をなかなか渡してもらえないから彼は周りの人達の責めを受けた。だから、人一倍働いた。掃除も授業も。何一つ手は抜けない。学校に関係するありとあらゆる雑事をやった。誰もやりたがらないことを渉にある少ない時間でやった。とにかく先生に嫌われまいと必死にやった。正に命懸けで。だがそれはまわりのこどもたちとの軋轢となり、そのしわ寄せは教師に行き、結局は教師は彼に冷たくあたった。それでも渉は働くことをやめることはできなかった。それすら辞めたら、さらに惨めで暗い生活が待っていたから。

 まさに召使いのように働いた。気づけばそうだった。現状については特に考えることもなかった。ただしょうがないと諦めていた。仮想世界では父と母に兄妹もいるようになった。設定はどんどん細かく、増えていった。

 彼を取り巻く世界では彼が手に入らないものをみんな周りの人間は貰える。生まれてから彼にとっては辛い日々だった。辛いなんてものではない。同級生はみんな自分には持っていないものを持っている。兄妹は自分に持っていないものを持っている。辛くて惨めで悲しく辛かった。自分の味方は自分の体だけだった。だから、母や父、兄妹、学校のやつらにまけないように大きくなあれ。大きくなあれと思いながら体をさすった。
 

 父と母は言った。お前は黙って働いてりゃいいんだよ。と。母と父は渉が働かないならば捨てるつもりだった。父は金になるからという理由だけで実の息子を家に住まわせていただけだった。収益がマイナスになればどことも知らないところに売るつもりだった。母は彼が働いていても彼のことが嫌いで嫌いで仕方なかった。もっぱら彼を虐めるのは母の方だった。母は働いていても今すぐにでも渉を追い出したかった。だが彼の生殺与奪の権利は父にあった。この二人はこんなゴミのような人間を慈善で育てている聖人だと自分達のことを思っていた。

 家事や雑事をやっている時母の機嫌が悪くなると彼は全身が恐怖で震えた。

「早く寝ろ!」

「早く寝ろと言ったじゃない!」

「何でなの!何で言うことが聞けないの!」

 ヒステリックに顔を真っ黒に変える母。

 全身が恐怖で震えた。彼は渉に今一番できる笑顔で

「母さん。もう少しで終わるから」

 と言って急いでキッチンを片付ける。母に顔を向けてない時は恐怖で顔が引きつっている。

 母に頬を叩かれた。しかし、終わらせなければならない。震えながら皿のねっとりとへばりついた油をとる。その時は母は彼が振り向いた時に腕をすぱっと切った。直感的にこれはやばいと思った。

「口答えしてすいませんでした。もう寝ます」

 ハキハキと言って、回れ右をして寝床に行った。部屋の戸を開ける前に気づいた事があった。このままだと服を汚してしまうということ。それから布団まで血で汚してしまうということ。慌ててタオルをとってから布団に入った。明るいところでみると血がどくどくと溢れてきて、今まで生きてきて一番深い傷だということが分かった。タオルを腕に巻いて布団に入った。そしてそのまま眠った。ずきずきと頭が痛く、胸にバスケットボールが乗ったようだった。腕が焼けるように痛かった。このまま血が出つづけたら死ぬじゃないかという怖さが襲ってきたが、それ以上に父と母が怖くて、明日早く起きて今日の続きができるかどうかだけが一番の心配だった。

  この少年の名前は渉。性は浦賀。彼の戸籍謄本には無機質に、ただの書類の山の片隅に、浦賀渉と書かれている。埋もれていても、誰からも見えなくても、確かに世界から見れば彼の名前は間違いなく浦賀渉だった。

 ───────────────────

 何も、本当に何も無い、ただ苦しみだけが横たわるような病室に渉も横たわっていた。
 冷や汗が吹き出す。ここにいるのにたしかに自分がここにいると感じられない。ここに確かさはほとんど無い。

「(俺の名前は……上妻………渉だろ……)」

 何かが引きちぎれそうだった。限界を超えて張られていることは分かった。

 音が本当に煩い。そしてここは暗い。やけに暗い。何重にも見えないベールで目の前が覆われているようだった。空気の味が違う。

「(俺の家の匂いと違う。俺の家の匂いがしない)」

「(俺の家…………)」

「(か、帰らなきゃ。うちに帰らなきゃ。かえらなきゃ……カエラナキャ…………)」

 ────────────────────


  十二歳になった渉は父に金を稼いでこいと言われる。気づけば新聞配達の仕事をやらされていた。
 詳細を言えばキリがない。渉の中の意識だけの存在はより確かに、より優しいものになっていった。
 とうぜん家の仕事が免除されたわけではない。成長したので仕事を早くできるようになったので時間にむりやりにつめこんだだけの話だった。

 新聞配達が始まって半年すぎたころだった。その日は前日に客が多かったので、最後の客が帰ってから片付けをするのだが、短い時間に多い後片付け。そして大量に消費した食べ物の仕込み。すでにもうなにか一つアクシデントが起きるだけで破綻しかねないほど危険で、圧迫された渉の生活だった。
 まだまだ日は昇らない時間から新聞配達をしなければならない。新聞屋に遅いと怒られてからよたよたと自転車に新聞を積み込む。紐で結んだらいつものように出発。

 その日は本当に遅れていたので全部を配り終えるために必死で自転車を漕いでいた。そして全部配り終わったのは朝も明けきった時間だった。登校する周りの子供たちをもう見なくなったころに全部を投函し終わった。はっきり言って周りの、特に同い年ぐらいの子供にこの姿を見られるのが一番嫌だったけど、子供の登校時間までには間に合わなかった。そしてもちろん投函時間もとっくに過ぎていた。絶対に新聞屋に殴られるだろう。そして父にも殴られるだろう。とても疲れていたのでどこか怖さも麻痺していた。

 ふらふらと自転車を漕いでいたら、ぼーっとしていたらしい。道路に飛び出していたいうで、反対側から来た乗用車に正面衝突した。
 痛い。痛い。痛い。気持ち悪い。と思っていたけどじきにそういう感覚はなくなってきた。ばたばたと形相を歪ませ、大声で怒鳴る車に乗っていた人たちに、謝ろうとしたが声が出なかった。本当に申し訳なかった。こんな大事を起こしたんだ。これでもう父と母に完全に殺されると思っていた。そこで渉の意識はなくなった。



 手術は夜中まで行われた。
 病院に父と母がやってきた。

「息子は!?私の息子はどうなったんですか!?ああなんてこった。孝行息子がこんなことになるなんて……」

 演技派の浦賀繁が医者の前で涙を流しながら必死に息子を心配する父親を演じた。
 浦賀繁がちらっと浦賀卯乃を見る。何してる。お前も泣け。というサインだ。悪徳夫婦は彼らにだけは通じるアイコンタクトがあった。
 さめざめと粛々と浦賀卯乃は泣いた。

「なんてことでしょう。私の愛する息子がこんなことになってしまうなんて……」

 医者はすっかり、よくできた息子を心配する善良な夫婦だと思い込んでいた。

「命は大丈夫です」

「しっかり気持ちを持ってよく聞いてください。外傷は軽度なのですが、脳に損傷があります。」

「意識障害を起こしています」

「どういうことですか?」

「今のところ目が覚めません」

 浦賀繁と浦賀卯乃は黙っている。その態度を聞きたくないけど続きを促す怯えた夫婦とみた医者は続きを話す。この時浦賀繁は金のことと、虐待の事実が発覚するかどうかを考えていた。浦賀卯乃は渉が死んでくれるんじゃないかと期待した。

「病態は脳挫傷及び、びまん性軸索損傷。ここまでひどいのは見たことがない」

「そんな!!」

 父は大声を上げた。

「(せっかくの金づるが!!)」

「とても重傷ですが脳の中では手が出せません。おそらく……目が覚めることはないでしょう。奇跡でも起きないかぎり。それくらい絶望的です」

「目が覚めても大きな障害が残るでしょう。元の状態には戻らないと思ってください」

 誤診だった。これは誤診だった。昏睡状態で回復の見込みはないと医者は誤診をした。

 渉の意識はあった。
 その時の渉の本当の病態は閉じ込め症候群と呼ばれるものだった。
 交通事故で植物状態と診断されたが、渉には意識があった。しかし、それを周りに伝えることはできなかった。
 脳幹へ血液を送る太い欠陥がつまることで、近くにある運動神経の束が全て破壊され、手足が麻痺。その一方で運動神経とは全く関係ない触覚、味覚、嗅覚は普通の人と同じである。
 一番忘れてはいけないのは心もまた普通の人と同じなのである。
 大脳の動きも正常だった。これは完全な誤診だった。

 そこから渉の入院生活が始まった。


 ────────────────────

 無機質な部屋。気持ちの悪いところ。微動だにしない死んだカーテン。音は繰り返し繰り返し少年を叩きつけた。そうして下人は喜んだ。音を絶え間なく、やめることなく水滴のように使い叩きつける。音のひとつひとつがまるで脳みそを直接汚物に塗れた靴で小人が蹴りつけているようだった。ベッドの上に肉の固まりとその肉体の牢獄の中に幽閉されている魂がひとつ。
 この壁は少年に対してほほえみかけたりはしない。生命の輝きなどない。ただ、少年の死を待っている 。下人が待っているのは魂の死だった。下人は死神ではない。死神の望みは肉体の死だ。だが、少年の望みは死神のそれとまったく同じことだった。だからある意味では死神とは友達。下人は敵。下人は少年が諦めることが無常の喜びとなるのだった。だから下人は舌なめずりをし、よくこんな手まで使うものだと関心してしまうくらい残酷な手を使って少年の魂を殺そうとする。少年の魂から生を奪おうとする。

 この部屋に看護師が入ってきた。どこか余裕のないその足取り、アクセサリは最新のブランド物のをつけていたし、化粧も電車の中で彼女のまわりの世界で下に見られない程度にはやってきた。しかし、表情はのっぺりとして、機械のように一定の変化しか出来なかった。化粧の下の顔色も土気色だった。

「死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ!あの糞ババア!死ね!あぁ~?なーにが結婚適齢期だよ。死ねや糞ババア!」

  少年の体が音を振動としてその悪罵をとらえた。 クリップボードでがんがんと少年を叩く。
 疲れた看護師は何も答えることもできない俺にたびたびこう言う。何も言うことができないから。抵抗をしないから。
 悪意はつぶしてもつぶしてもどこからか湧いてくるゴキブリのように人の心に湧いてくる。看護師にとっては少年はただのストレス発散の人形でしかなかった。人でなく、生きてない。物。
 看護師が出ていく。

 それから長い時間が経ちのっそりとした歩きで部屋に医者の男が入ってきた。若い男だが研修医ではない。相当成績優秀な医者で、何の苦労もなく順風満帆に生きてきて医者になった。金を持っているので、この男には多くの人間が群がって、むちゃくちゃな生活を送っている。若いのに目の下にある隈は連日の酒池肉林の生活がたたってのものだ。ただそれ以外は女受けのいい誠実そうな笑顔を必要に応じて浮かべることができる、コミュニケーションという方面でも優秀な男だった。十人がこの男と会えば十人が好印象を持つことだろう。

「ちっ……どうせ脳挫傷なら即死ならよかったんだが……うちに来んなよ。ベッドの空いてる大病院行けや。まぁこのご時世どこも空いてねえだろうけど」

 医者や看護師がこの部屋に入るのに少年の許可は必要ない。ここは少年の部屋ではないのだから。いや、うまれてから今まで少年に自分の部屋というものはなかった。自分が安心することができる。自分がいてもいい部屋は。
 医者は俺の姿を見る度にこうした舌打ちをする。
 正確には少年の姿を見ているわけではない。少年を見てもいない。少年にそれが分かるのは少年の体が少年の音を拾わないからだ。規則正しく動くカウントダウンのような心電図の方を見ながら言っているらしい。


 何故医者が舌打ちをするのか二年くらい解らなかったが、最近分かった。どうやら少年は不良債権らしい。不良債権。お金を回収できない無駄なお荷物。
 もちろんこんな状態の少年に支払い能力はない。だけど、家族は少年の病院代を払わなかった。

「(まぁ・・・・ムリもないさ)」

 もともとあの人たちがそんなことをするとは思っていなかったのだから。

 十四歳までは国から補助金この病院に入っていたが、二年前に十四歳になってからはそれがなくなってしまった。

 少年は十六歳になった。この日まで少年は病院のみんなに迷惑をかけ、周りのみんなに迷惑をかけている。

 淡々と医者は必要なことだけをした。喉の呼吸器からちゃんと空気が送り込まれているか。この部屋の温度などの項目をだるそうにクリップボードに書き込んでいる。

 ドアが空いた。渉はその音を真昼の暗闇の中で耳で聞いた。
 昼間の病室に来るのは三種類の人間しかいない。医者か、看護師か、病室を間違えた患者か。
 この時入ってきたのは看護師だった。

 看護師は億劫そうに機材をチェックした。
 そして病室から出ていった。
 これだけが、渉を取り巻く世界のほとんどだった。

  「(父さんと母さんも最初の方は俺の病院代を払っていたんだった。それも世間体を気にしてからだったけど。もう回復しないとわかるとあっさり何もしなくなった。)」

 少年の名前は渉。性は浦賀。浦賀渉。これが彼の名前だった。




 唯一の渉ができることは瞑想すること。違う人生を想像してこの何もない極度の闇のような毎日を過ごした。
 人との触れ合いも全くない。そもそもこの身体はまったく動かず、誰にも触れることはできない。誰の顔も見ることはできない。
 十三歳でこの状態になってから最初の一年間は溢れる感情で発狂しそうだった。
 だがそれから波が引いたように収まった。心の中で折り合いをつけるしかなかった。それでも年に何回かは心に感情が溢れてしまうことがあった。

 太ももや腰のあたりに准層が出来ている。体の向きを変えないと血が鬱血し、真っ赤になる。

「(昔は・・・・やってくれていたのに)」

 体の向きを変えるのは看護師の仕事だったはずだ。

 たまに同じ病室になった患者は体が少し不自由でちゃんと話すことが出来た。その患者は看護師に体の向きを変えてもらってちゃんとお礼を言っていた。体の向きが変えられていなかったら文句を言ってもいた。

 文句を言う権利があるというのはその時渉にとってはけっこう衝撃的なことだった。

 その患者と看護師がよく笑って会話しているのを渉は聞いていた。ただ、横たわって誰にも意識を向けられることなく聞いていた。

「(俺にも喋ることができたら・・・・・でもできやしないんだ!俺にはなに一つ!周りの人が普通にできることが!何にも!・・・・・・・・・・・ただ、普通に話をしたいだけなのに。少しだけでいいんだ・・・・・・俺にも、その笑顔を分けて欲しいだけなのに。)」

 渉は世間話すらできない。
 お礼を言うことも、文句を言うことも。渉の体には准層で真っ赤になり、ずきずきと四六時中痛んだ。その痛みは辛かった。

 その夜、深夜。

「(今日は・・・・・誕生日か。)」

 24歳の誕生日。

 誕生日おめでとう。誰でもいい。誰か一人でもそう言ってくれたら。そう言ってくれたらもう充分だ。
 そんな時家族の顔が頭よぎるのだった。どうしても思い浮かべてしまう。呪縛のように。血の呪い。あんな仕打ちしかされなかったのに。心の中では渉に優しくしてくれた親の気まぐれの瞬間が強く留まれていた。
 親が気まぐれに渉にやさしくしただけだったが、幼い渉はそのことをほとんど忘れなかった。

 実際の親は渉のことなど忘れて、娘2人と息子1人で楽しく幸せを絵に書いたような暮らしをしていた。その家庭では息子の渉など初めから存在していないことになっていた。

「(・・・・・早く死にたかった。死んで何もかも分からなくなりたかった。もう何も感じたくはなかった。)」

  「(なんど最悪の気分、真っ暗な、そうどこまでも沈んでいくような・・・何のことも考えられなくなり、動くこともできなくなるくらいの絶望に全てを壊されながら!それもたった1回じゃない!何度も!何度も!!何度も!!)」


 Am1:14

 渉の誕生日真っ暗な遺体安置所のような場所でどこにも行けない魂がいた。
  渉は底なし沼に落ちていくような感覚だった。繰り返される苦しみ。無為に毎日が流れていく。人生の喜びも知らず、渇望も知らず、何にも知らず、何にも分からず、毎日が過ぎて行く。

「(こんな自分に誰が興味を持つというのだろう。こんな自分を誰が好きになるのだろう。自分は誰かに好きになってもらいたいのか?自分はまた、反対に誰かを好きになりたいのだろうか。分からない。気持ちがぼーっとしている。何故考えることによってさらに苦しまなければならないのか。考えることは苦しい。闘うことも。こんな自分の考えの裏付けや理由なんかを語っても何になるんだろう。何を生むんだろう。何にもならない。自分の心の井戸をいくら掘ったってそこには何もないのだ。・・・・・・ああ・・・ああ・・・・。ぼーっとしている。苦しみと苦しみのインターバル。自由への、光へのチケットはどこで買えるのだろう。何をすれば手に入れられるのだろう。)」

 Am1:44

「(・・・もう疲れたんだ。生きていたくない。もう無理だ。もう無理。もう限界だ。辛かった。辛い人生だった。辛くて辛くてしょうがない人生の最期はとても辛い気持ちだ。もう何もしたくない。何もかも中途半端だった。それを欲しいと望みながら心のどこかでは望んでいなかったのかもしれない。本当に望んで、望んで望んで望んで、一生懸命やって、それが手に入らないことの辛さを分かっていたからかもしれない。そんな辛さを味わうくらいなら最初から手を伸ばさなければいい。そうすれば傷つくことも真の絶望を味わうこともない。)」

 Am2;22

「( 疲れた。もう生きていたくない。辛いことしか起こらない。進んだ道はたったひとりになってしまった。辛い。辛いような激情はもはや起こらない。ただただ虚無感が広がっている。苦しい。今日始めてもう生きていたくない。ではなく、死にたいと思った。死ぬことを希求した。ここはどこなんだ?俺は何をしているんだ?疲れた。許してくれ。)」

 Am2:35

「( 毎日毎日もううんざりだ。誰か。誰かいないか。あー・・・もう疲れた。)」

 Am2:39

「( 分かるんだ。もっと・・・もっと生きていたいって思いたい。そう思えるほど毎日を幸せで満たしたい。満たされ、満たす。そんな日々になればいい。もっと生きていたい。そう強烈に思えるような出来事を。手に入れたくて手に入れたくて仕方ないものを手に入れたい。ああ・・・・誰よりも幸せになりたい。日本で一番幸せになりたい。中国を含めても一番幸せになりたい。韓国も。インドも。北朝鮮のどの人民より、アメリカの国に住んでいる誰よりも、誰よりも幸せになりたい。幸せで幸せで幸せで仕方なくなりたい。生きているっていうほとばしりが全身から出ているみたいに。かつて囚人だったら誰でもそう思うさ。まぁ今現在進行系で囚人なのだが・・・ああ、生きていてごめんなさい。生きていてすみません。ごめんなさいごめんなさい許してください____メンヘラみたいだね。異国の城に観光に行きたい。自分だけのものにしたい。ははは。ふふふ。あはは。あー・・・手に入れたら・・・・君は死んじゃうんじゃない?まさか・・・・手に入れて死んだやつはいない。)」

 Am3:57

「 (世界を滅ぼすことが出来る力が君に眠っているって言ったらどうする?嘘じゃないよ。本当だ。本当にある。でも君の中に眠っている。今すぐできるかどうかは君次第。君が望めば望んだことを実現できるのさ。君の心と、頭の中だけだけどね。何?そんなんじゃ意味が無い?思ったことは実現のための第一歩なんだ。考えなきゃ何も生まれない。考えることこそが人類の最大の武器かもしれないね。ああ、手に入れたいと考えている時だけが生きていられる?何をどうしたらいいんだ?ああ手に入れたい。勝ちたい。勝ちたいんだ。理不尽に。苦しみに。寂しさに。心に穴が空きっぱなしなのさ。手に入れたい。手に入れて手に入れて手に入れて手に入れて手に入れて手に入れて手に入れてそして死ぬ。いや、死さえも超越する。俺は死んだらその魂は誰かの人間の胎内に宿るのだ。強くてニューゲームってやつさ。あ_勝ちたい。自由になりたい。)」

 Am4:03

「( ああ、誰か助けてくれアリーシャ。助けてくれ。ちくしょう。こんなのってなんだよ。クソ。クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ。ああ糞糞糞。ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう。)」

「(耐えられない。いっそ殺せ。ああ・・・・)」

  「(ああ・・・・疲れた。もう生きていたくない。欲しい。欲しいんだ。手にいれたい。手に入れて、手に入れて手に入れ尽くしたい。)」

「(ここから出たい。)」

「(ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。ここから出たい。)」

「(死にたくない。死にたくない。。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。ここから出る。もう疲れた。イライラする。力が欲しい。力が欲しい。力がっ。力がっ!欲しい!寄越せよ!ちくしょう!)」

「(呪ってやる。)」

「(呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ!呪われろ!!呪われろ!!何もかも呪われてしまえ!!神も人も!何もかも!呪われてしまえ!!)」

 深夜の病院の中でどこにも行けない魂が悲鳴を上げている。


 誕生日の翌日。朝になった。

 病院は明るくなったが、まぶたを閉じたまま一指も自分の自由に動かすことのできないこの少年の心中には曙の光はまったくさしこまなかった。

 しかし、渉は澄んだ気持ちで頭の中で文をしたためた。


「( こんな世界にもうこれ以上いたくはない。これは私の遺書です。私は人生の戦いに敗北しました。
 私はこの戦いの連続にほとほと疲れました。もう生きていたくないのです。誰かに分かって欲しかった。それで、私は何がしたかったんでしょうか。誰にもわかりません。私にすら分からないのです。他の人が理解できるというのがおかしな話でしょう。それなのに、誰かに分かって欲しいなんて。つまり私はほぼ叶うことがない希望を抱いてしまったということになります。絶対達成できない願いを抱いてしまったことがいけなかったのでしょう。
 あんなことがなければ普通にそこそこ幸せになれたかも知れません。

  この病院と僕を取り巻く状況が例外中例外だっただけで世の中のシステムも、そこに生きる人もそんなに酷いものではないのでしょう。ただ僕には降り注がなかっただけのことです。テレビで誰かが言ってたが、確率論の問題なのでしょう。たまたま運の悪いくじを引いただけの話なのです。家のことだってそうです。どこの家にも抱える問題が運悪く、悪い形として、花を咲かせてしまっただけのことなのでしょう。それは爆弾とも言えますね。爆発する危険性はあるものの、いつ爆発するか分かりません。一生不発で終わるかもしれません。誰のせいでもありません。ただ、爆発してしまっただけ。 それだけのことだったんですよ。
 これで解放されます。ようやく終わるんです。終わるという喜びで僕の心はいっぱいです。嘘ではありません。

 それではここに筆を置きます。浦部渉)」

 太陽も登りきり病室では心電図の音しかしない。

「(こんなことをしても自殺すらできないんだけどね!あははははははははっははああはっはははああはははっはははあああ!!!!)」
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