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第18話

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※  ※  ※

 きっかけは、実はこの店だったんだ。
「バイトくん! 競馬にやたら詳しいな〜!」
 厨房のオヤジさんと『駿馬』の記者が親しい関係で、二人が競馬予想をワイワイ話している隙間に俺が挟まっていた。
 その甲高い声の記者は、庄田誠治という名前だった。それをオヤジの口から初めて聞いた時、とても驚いたものだった。
 庄田さんは有名だった。当時、駿馬の本紙担当だったからだ。あ、本紙って分かるよな? 簡単に言うとその新聞の予想を背負っている人なわけで、新聞の的中も不的中も本紙の印が基準になる。今は竹田さんが担当してる重責だ。
 当時大学四年生だった俺は、漠然と競馬関係の仕事に就きたいと思っていた。あまり具体的には見えてなかった覚えがあるよ。競馬関係って一口に言っても、色々あるしな。たとえば、本丸の中央競馬会を目指すなら、とんでもなく厳しい採用試験を受けなければならない。年収は相当良いらしく、競馬自体の人気も相まって倍率は高い。ただ、中央競馬会の職員になってしまうと、当然ながら中央競馬の馬券は購入禁止になる。インサイダーを疑われるからね。
 俺は、馬券を考えるのが好きだった。買うのも好きだ。だから、いくら待遇が良くて、尚且つ競馬に濃密に関われる仕事だとしても、馬券が買えなくなるのなら、やりたいとは思えなかった。庄田さんと話をさせてもらう内に気付いたんだ。俺に向いていそうな世界だって。やってみたいって。それが、トラックマンを目指した理由だ。
 その後、俺は駿馬発行元の採用試験を受けて、採用された。試験を受けていた人は他にもいたけど、採用理由はよく分からなかった。もしかしたら、庄田さんが口利きしてくれたのかもしれないけど、確証はないなぁ。結局、訊けないままだった。
 採用されてから、俺は自分の生半可さを散々思い知らされた。当時の駿馬製作の現場には、まだ中央競馬が鉄火場の雰囲気を色濃く残していた時代から記者をやってるようなベテラン記者が多く残ってて、みんな怖く見えた。ヘマをしようものなら、鉄拳制裁も辞さない雰囲気を感じてたな。実際殴られたことは……一度だけ、ある。怒鳴られもしたなぁ。言っておくけど、伊藤さんにもよく怒鳴られたからな? あの人、今は穏やかな顔してるけど、ホント怖かったんだから!
 …まぁ、そのお陰で鍛えられた面もあるよね。もっとも、付いていけない人は辞めたりしていたし、善し悪しなんだとは思うけど……ただ、俺はあそこで厳しくやられたからこそ今がある、と思うようにしてる。時代は変わったよな。今の方がまともだと思うよ。

 先輩トラックマンの中でも、伊藤さん、そして、庄田さんには、たくさんのことを教わった。競馬のことも、それ以外のことも。酒と煙にまみれながら。時には、スナックの喧騒の中で。時には、痛みも伴って。
「なぁ朝川! トラックマンはな、常に読者の目に晒されるんだよ! オモテの予想家になれば尚更な! だから今のうちに言っておく、常に説明できる仕事をしろよ! トラックマンにはそれが絶対に必要なんだ!」
 庄田さんに説教され、頰を殴られた。瞬間はイラついたし、怒鳴り返してやろうとも思ったりしたけど、でも、その時は俺が抜けた仕事をしていたんだ。
 採時に遅れ、仕方なく他社のトラックマンから数字をもらったんだけど、数字しかもらっていなかった。走りの雰囲気を聞き忘れていたんだ。一つ一つの事柄に全て意味があり、それを自分の言葉で説明できなければ、トラックマン失格だと。庄田さんにはそう言われたし、俺もそのとおりだと思ったから、何も言い返せなかった。
 あの当時、庄田さんは、あまりにも忙し過ぎた。競馬しかない人だったと思う。一週間は七日しか、一年は三六五日しかないのに、ほとんど毎日競馬について考え、行動し、確認し、研鑽していた。あれほど競馬のことしかしないでいる人、誰もいないし、あんまりいてはいけないと思う。
 月曜は先週のレースを全て観て、分析し。
 火曜は資料の整理をし、編集会議に出席し。
 水曜は調教の数字と映像をくまなく観て。
 木曜と金曜は土日の本紙予想を打ち、紙面全体の総チェックをし。
 土曜と日曜はラジオのパドック解説や正面解説をする。
 庄田さんはあり得ないことをやってた。本紙予想担当でありながら、同時に編集長も務め、さらに調教タイムやVTRの総チェックもし、ラジオの解説もほぼ出ずっぱり。常人にはこなせない業務量だった。編集長なのに、たまに時計班も手伝ってたことさえあったな……そこまで自分がやっていたからこそ、気の抜けた仕事をする同僚のことは許せなかったんだ。
 庄田さんを悪く言うトラックマン、他社も含めて聞いたことがない。日本一競馬に熱心なトラックマンだという評判しか聞かなかった。マネできないと。声のデカさも含めて。ラジオの解説なんて、そのせいでよく隣の放送局のマイクに声が入っちゃったりしてたしな……今となっては笑い話だ。
 伊藤さんだって、「年下だが、俺は記者として庄田に畏敬の念を抱いている」って話したことがあった。神々しささえ感じる、と。まぁ、それは、ハゲてたからかもしれないけど……
 俺だって、庄田さんが大好きだった。尊敬していた。たとえ怒鳴られても、殴られても、でもやっぱり好きだった。チャーミングな人だったんだよ。スナックなんか行くと「朝川、お前がよく歌うあの曲、またやってくれよ! 俺、普段音楽なんか聴かないけど、お前の選ぶ曲はみんな良かったからさ〜また何か歌ってくれよ!」とか、ほんと大きな声で……ウイスキー片手に。その時の笑顔がたまらなくて。豪快な人だった。内心憧れてたよ。
 俺は、競馬人として尊敬はしていたけど、でもマネしようとは思えなかった。マネなんてしなくていいんだよ。てか、マネしたらダメだよ。
 今から思い返せば、庄田さんは行きの燃料しか積んでいない飛行機のようなモンだったのかもしれない。

 …忘れもしない、今から三年前の秋だった。最初に気付いたのは明美さんだった。
「今日庄田さん見た?」
 誰も見ていないことに、そこで気付いた。いつも机にいる人じゃなくて、VTR室にこもりきりの時もあったから、そこまで気にしていなかったのもあった。
「そう言われれば、喫煙所でも会ってないですね……」
「そうだよね、いないよね? 普段なら、とっくに出てきてるのに……」
 その日は木曜日で、いつもであれば庄田さんは枠順確定前の仮馬柱と睨めっこしている日だ。ただ、さすがに社外でそれをしているなんてことは一度もなかった。
 携帯に電話したのは俺だった。出なかった。
「寝てるのかな? 珍しいよね、普段遅れる人じゃないのにね……」
「ちょっと行ってみましょうか。近くだし」
 木曜は忙しいし、あまり大勢で行っても仕方がないということで、俺も明美さんで庄田さんのアパートに行った。美浦トレセンから車で二〇分もかからない場所だった。
 呼び鈴を鳴らす。何度か鳴らす。ベルの音が消えて静寂が戻る。
「いないのかなぁ」
 明美さんがそう呟いた。
 俺は、何か胸の中が気持ち悪くなっていく感覚がしていた。それは治まる気配がなかった。
「…開けましょう、明美さん」
 玄関脇に置かれている小さな丸太の下に、合鍵が隠されているのを俺は知っていた。庄田さんは極度に酔っ払うとたまに物忘れをするので、自衛措置として講じていたことだった。
 その日も合鍵はやはりあって、俺は玄関を開けた。いつもの靴はあった。いる。
「お邪魔します」
 部屋に入った。いつもどおり散らかっていた。庄田さんは四十八まで独身を貫いていたし、競馬に没頭している人だから、自分の身の回りのことには頓着しなかった。ゴミのように見えるものの半分以上は競馬関係の記事や雑誌で、これらは庄田さんの栄養になった物たちだっただろう。
 居間にはいない。昨夜の夕飯の惣菜のパックの残骸がコタツに残されていた。隣の畳部屋が、寝室。
「庄田さん? いますか? 開けますよ」
 襖を開けた。庄田さんは布団にうつ伏せで寝ている、ように見えた。
「なんだぁ、寝坊かぁ」
 明美さんは呆れたように、けれども安心したように、息を吐いた。
 いや。違う。
 俺は枕元に駆け寄って、庄田さんの顔に耳を近づけた。呼吸がない。身体を触った。冷たかった……。
「…明美さん救急車ッ!!」

 既に手遅れだった。
 死亡推定時刻は午前六時頃。睡眠中の突然死、ということらしかった。睡眠時無呼吸症候群と診断されたことはなかったというが、そもそもほとんど病院にかからない人だったから、全くわからなかったんだ。
 俺たちからしたら、庄田さんにはエネルギッシュなイメージしかない。そのままのイメージで、逝ってしまった。
 俺と明美さんはともに病院へ行き、その後諸々の聞き取りや手続きを受け、美浦支社へ戻れたのは夕方過ぎだった。会社には先に電話で状況を伝えていたが、戻ると雰囲気が暗い気がした。
 何があろうと、新聞は発行しないといけない。たとえ大好きな人、そして新聞を作る上での最重要人物が居なくなったとしてもだ。だからみんな、何かを堪えている表情で、黙々といつもどおりの作業を続けている。
 本紙予想は竹田さんに決まった。竹田さんもとても熱心で、競馬のことしか頭になく、そしてよく当てるトラックマンだ。本紙として申し分ないだろう。
 そして、竹田さんが元いた馬柱の真ん中のスペースに、俺の予想が入ることになった。欄外の予想欄から突然馬柱に入ると聞いて、普通なら驚くだろうが、この時は何とも感じなかった。
 気持ちの整理? つかない。
 切り替えろ? 無理だ。
 だけどそれでもやるしかなかったんだよ。
 必死に予想して、印を付けた。
『"約束の地"って知ってるか?』
 不意に、庄田さんの声が聞こえてきた。
『馬は何も考えずに走ってるように見えるだろ? でも本当は目指す場所があって走っているんだそうだ。たどり着きたい場所があるからこそ懸命に走り続けるんだそうだ。それは、三歳の男馬なら、やはり日本ダービーってことになるんだろうなぁ。誰しもが立てるわけじゃない一生に一度、世代の頂点を決めるダービーの舞台で、真っ先に先頭でゴールを駆け抜けた馬にしか、たどり着けない世界があるんだろうな……』
 馬にとっての約束の地--それがダービーなら、競馬に携わる人間にとっての約束の地も、やはりダービーじゃないですか? 競馬とは、馬と人が寄り添いあってこそ成り立つものです。究極的には、馬と人とで、同じ景色が見えるようになるはずです。
『そうかもな! やっぱり、お前の見方はいいよ、朝川!』
 そう言ってくれた気がした。気のせいだろうか。仮馬柱に、水滴の痕があった。これは気のせいじゃなかった。
「朝川、忙しいところすまない」
 声をかけてきたのは遠藤さんだった。本紙予想が竹田さんに決まり、そして編集長は遠藤さんになったという。遠藤さんは時計班の同僚だったが、もとは編集畑の人で、その経歴を買われたのかもしれない。
「あまりスペースは取れないんだけど、土日版に庄田さんの追悼文を載せようと決めた。読者にも知らせないといけないから……それで、お前が書いてくれないか?」
「…いいんですか、俺で」
「お前が書くのがいいよ」
 それだけ言って、遠藤さんは足早に机に戻っていった。これから新聞が発行されるまでの間、竹田さんと遠藤さんには特に時間がない。
【突然のお知らせとなってしまいましたが、弊社トラックマンとしてこれまで本紙予想を担当してまいりました庄田誠治が急性心筋梗塞のため亡くなりました。生前中は皆様より格別なご愛顧を賜わり、まことにありがとうございました。『駿馬』として喪ったものはとても大きいのですが、それでも、残された社員一丸となり、これまで以上に読者の皆々様より熱い支持を受けられるよう努めて参ります】
 こんなようなことを書いた。
 庄田さんに話したいことは、まだまだたくさんあった。
 庄田さん、これまでもこれからも、俺たちは馬を追いかけ続けます。見続けていきます。そして、語り続けていきます。見ていてください。そして、もしも、俺が庄田さんの言った"約束の地"へとたどり着けたとしたら、その時はどうか、伝えてください。

※  ※  ※

 アリスはずっと朝川の目を見て聴いていた。
「…俺も今年で三十五だからさ、話が長くなってきちゃってるよな。昔話を長々とすまなかったな」
 アリスは何も言わず、ブンブンと首を横に振った。
「庄田さんの話は、叔父から聞いたことがありませんでした。でもその理由が何となくわかった気がします。あまりにも大事すぎる人のことは、おいそれとは口に出せなくなるものですよね……」
 そうか、伊藤さんはアリスには言わなかったのか。伊藤さんにとって、庄田さんは年下ながら、最大のライバルだった。そんな相手のことは、一部の人間にしか話さないことにしているのかもしれないな、と朝川は腑に落ちた思いだった。
「そうかもしれないな。いつか、伊藤さんがアリスのことを認めたら、話してくれるかもしれないよ」
 朝川が言うと、アリスはくすぐったそうに笑った。
「そんな日、来ますかねぇ? でも、頑張りたいです。実は私……今日、ザラストホースが負ける瞬間をこの目で見た時、なんだか、自分がトラックマンになれたような気がしたんです」
「どうしてだろうな?」
「悔しいと思えたからかもしれません。乗馬クラブで咲太くんを見た時は、虚しさを感じました。今回は悔しかったんです。もっともっと考えて、競馬を知って、良いトラックマンになりたいと、そう、思えました」
 ずいぶん良い表情になった、と朝川は思う。アリスはきっとこの先、駿馬を背負うようなトラックマンになるんじゃないか、と改めて期待を持てるような雰囲気になっていた。
「そう思えたから、今日、朝川先輩を誘わせていただきました。そして、情けない話を……先輩が怒らずに聴いてくださって、正直救われました……」
 照れ臭いような顔でフニャっと笑うアリス。怒るわけがない。情けなくもない。前を向こう、と決めた人間に対して、そんなことは思わない。
 アリスは表情を引き締めて、口を開いた。
「まだまだ駆け出しでこんなこと言うのは不遜かもしれませんけど……私にも、目指す場所、その、庄田さんがおっしゃった約束の地が見えてきた気がします。そしてそれは、今私がいる世界の中にあります!」
 これまでになく、しっかりとした口調でアリスは言った。翻って朝川は自身の約束の地について考えた。
 実は、まだ、確たるものがまだ見えてこなかった。その点について、自分が新人に負けている気がして、朝川は少しだけ焦った。
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