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第1話

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カップ麺の蓋を剥がすと、目の前が靄で隠れた。
ああ、そうか。今年もそんな季節だ。
早朝に吹く寒風が顔に突き刺さるようになる。その辛さは年々増していくような気がする。年齢を重ねているとはいえ、まだそこまで老けているつもりはないのに。
まさか、人より早いのか? 肉体が衰えていくのが。まさか。いくら、ちょっと人より睡眠時間が少なくて、ちょっと人より不健康な食事を摂りがちというだけで。そんなことを考えながら麺を啜っているうちに、寝惚け眼に光が戻る。靄も晴れた。空は未だ暗いが、あと30分もすれば太陽が馬場を明るく照らしてくれるだろう。毎年積み重ねてきた。経験則で分かる。
ごちそうさまでした、と小さく呟くように言う。
この仕事に就いていつの間にか10年を超えた。朝川征士は、眼前に迫った採時に備え、神経を研ぎ澄ます。いくら慣れていても、この瞬間だけは惰性ではいけない。いい加減に採った時計が紙面に載り、それを読者が参考に馬券を買う。現金を張る。そうなることだけは許せなかった。
『常に説明できる仕事をしろよ!』
忘れられない言葉がある。それは決まって、とうの昔に消えたはずの左頬の痛みと共に蘇るのだった。
競馬には100パーセントの正解はない。常に「正しい」仕事は、絶対に出来ない。しかし、説明は出来る。何故その答えに辿り着いたのか、言葉を尽くして伝えようとすることは出来る。
『トラックマンにはそれが絶対に必要なんだ!』
殴られた後に続いた言葉が胸を掠めた。その間に何頭かがゴールラインを駆け抜けて行った。ストップウォッチを機械的に止める。全て採時出来ている。
以前から気にしていた1頭がその中にいた。まだ2歳の未勝利馬だが、調教タイム的に未勝利で収まる馬ではないと感じていた。ここまで3戦して、まだ5着以内もない。どこが問題なのか。気性なのか、体質なのか、確認する必要性を感じた。
この馬ーーリバーザキャット。渥美厩舎所属、厩舎の担当トラックマンは……

「マサさん、眠そうっすね!」
五島とはトレセンの喫煙所で一緒になった。毎朝のことなのだった。五島はタバコに火を点けるより早く朝川を弄る。
「苗字に朝が入ってるのに朝弱いってのも面白いっすよね〜」
「どこがだ」
五島はいわゆる【競馬村】の出身だった。年は朝川より1つだけ下だが、見た目の印象からはそれ以上に離れて見えるかもしれない。少年のような屈託のない笑顔が人を惹きつける男だった。現役の中央競馬の調教師を叔父に持つことも大きいだろうが、それ以上に人物が良い。後輩ながら信用できる、朝川はそう判断していた。
煙を深く吐き出してから、訊いてみた。
「ごっちゃんさ、渥美厩舎の馬なんだけど……」
「ハイハイ、寅さんとこの」
冗談めかしているが、競馬のこととなると明らかに眼つきが違った。
「リバーザキャットって、ほら、今週東京に使う馬。入厩した頃にはもうセン馬だったよな?」
「そうそう、牧場で男女関係なく乗りかかっちゃってたとかで、早々にタマ取られたって話……たまにしかないですけどねぇ。女に乗るのはまだ分かるけど、男にも乗っちゃってたのがトドメだったんすかね?」
「今朝も坂路の走り見ててさ、こんなに走らない馬じゃないと思ったんだけど……去勢しても、気の悪い部分が抜け切ってないってことなのか」
去勢された牡馬のことを騸(セン)馬と呼ぶ。気性の悪い牡馬を矯正するために、去勢は最後の手段として用いられることが多かった。ただ、そうしたからといって、必ずしも全ての馬の気性が良化するわけでもなかったのだった。
「タマ取られたらもう……走り続ける以外に生き残る術はありませんから、頑張って欲しいんすけどね。寅さんトコの馬だし、余計に」
五島は儚げにそう呟いて、2本目に火を点けた。換気扇は煙の吹いたところから吸い込む。
「でも、今週は期待持てますよ」
朝川は、それを聞いて目を見開いた。
「材料あるか?」
「2つあります。1つは、初めてブリンカー付けること」
ブリンカーとは、遮蔽眼ともいい、馬の広すぎる視野を狭めるために用いられる用具のことである。馬は前方や側面のみならず、振り返らずとも自身の後方まで見えるほどの広視野を持っており、それにより気性の悪い馬は必要以上に周囲を気にしてしまうこととなり、競走に全能力を発揮することができなくなることが多かった。
「今朝試しに付けて走らせたんですけど、走りが違ったって乗った助手さんは言ってました」
朝川は調教を見ていたとはいえ、まだ暗い時間帯でもあり、ブリンカー着用の有無までは確認できなかったのだった。ううん、と唸った。
「そしてもう1つは、芝替わりですね。元々血統的には明らかに芝馬だし、先生も芝向きと捉えてました。それをデビューからずっとダート使ってたのは、まだ脚元が固まってなくて、壊れるのが心配だったんです。万全の状態で芝に送り出せればチャンス有り、って言ってましたし、僕もそう思ってますよ」
「調教の動きからも明らかだよな」
五島はニッと笑って、親指を立てた。
「万全ですよ!」
朝川と五島は、ともに競馬専門紙『駿馬』の紙面上で印を打つトラックマンである。
目を合わせた瞬間、お互いに確信した。本命馬が被る、と。

トラックマンの決断に審判が下される瞬間が近付いてきた。
場所は東京都府中市、東京競馬場。
日本最大のレースであるダービーをはじめとした名だたるGⅠレースが数多く行われる、まさしく日本競馬界の中心地である。
週末、すなわち中央競馬の開催日。朝川の今この瞬間の仕事は、調教をチェックして紙面に反映させることでも、厩舎回りをして調教師やスタッフのコメントを取ることでもなかった。
朝川は今、下見所ーー【パドック】を見下ろす席に腰を落ち着けて一頭一頭を凝視していた。
「本日の前半解説は朝川征士さんです。朝川さん本日もよろしくお願いします」
「よろしくどうぞ」
関東ローカルラジオ局の競馬中継で、今年の夏から急遽パドック解説を担当するようになった。初めのうちは、電波に自分の声を乗せることに必要以上に構えてしまい、上ずった声でたどたどしい解説になってしまっていたものの、最近は幾分慣れ、アナウンサーとのコミュニケーションも取れるようになってきた。そして何より肝心なこと、解説の中でどうしても伝えたい点について『熱を込める』ことも出来るようになりつつあった。
『腹に力を込める。思いを声に乗せる。言いたいこと、言うべきことは、たとえ時間がなかろうが余すことなく出し切るんだ。それが出来ないなら、仕事にするべきじゃない』
数え切れないほど共にした酒席の中で、"あの人"にくだらない事から大事なことまで、トラックマンとしてのイロハを叩き込まれた。あの時聞いていたから助かった、そんな経験はこれまで何度もあった。そして、これからもきっとそうだろう。
パドックでは、これから第1レースに出走する馬が番号順に並んで同じような速度で引かれている。競走馬の見方を知らない人からすれば、馬の見定めは難しい作業である。せいぜい見分けられるのは毛色くらいだろう。パドック解説者には、一頭一頭の状態の違いを的確に伝えることで、聴取者の馬券購入に資することが求められている。つまり、推奨した馬が3着以内になれば、役に立ったことになる。その精度を可能な限り高めることを、朝川のみならず、全てのパドック解説者は目指している。
「…5番、リバーザキャット、馬体重498キロ、前走からマイナス6キロです。単勝65倍、現在12番人気」
アナウンサーによる馬情報の読み上げが終わった。さあ、どうだ。朝川は集中を一段引き上げてリバーザキャットの気配を感じ取ろうとした。
具合は良いな。調教の状態のまま競馬場に来ている。
ブリンカーは……効いている、気がする。以前のパドックと比べて集中して歩けている。厩務員も、前のレースでは二人付いていたのに、今日は一人だ。
「5番のリバーザキャットー、これは、変わりましたね。馬体は前走より締まって走れる身体つきになっています。今回初めてブリンカーを着用しましたが、以前と比べて集中して歩けています。あとは初芝がどうかですが、お兄さんは芝で新馬勝ちしてますから、こなせる下地はあると見てます」
パドック解説のスタンスはトラックマンによってそれぞれである。ほとんどのレースでは自分が新聞紙面上で付けた印どおりの順番で推奨するような人もいれば、単勝オッズの上位から5頭をそのまま推奨、というような人も。
そんな中で朝川は、自分の目でよく見えた順で5頭選ぶことをモットーにしていた。そのため、時には下から数えた方が早い不人気馬を推奨することもあった。
「…それでは朝川さん、第1レース、秋の東京開幕戦のパドックから推奨する馬を教えてください」
「えー、まずは8番ローカルキング、14番ダージリン。人気の2頭ですが、甲乙つけがたい好気配でしたね。良いレースが出来ると思います。次が5番リバーザキャット、1番ダンカンセダイ、7番カリスマドットコム、この順番です」
アナウンサーは少し口角を上げて、朝川さんまたやったよ、と言いたげに笑いかけた。『駿馬』の中で、朝川は「穴予想家」という立ち位置にいるのだった。実際、朝川は1番人気になりそうな馬に◎を打つことはあまりなく、むしろこれまで上手くいっていなかった馬が好走する可能性を探り、可能性があると信じられる馬に本命印を打つことが多かった。
「『駿馬』の朝川さんの推奨馬は5頭、まずは8番ローカルキングと14番ダージリン。1番人気と2番人気ですが、パドックからもこの2頭がよく見えたということです。5番のリバーザキャットは紙面上も本命にされていますが、現在12番人気と、あまり人気がないんですねぇ!」
「そ、うですね、これまでのレースで良いところが全く、見せられて、いないので……ただ、坂路での動きはいいので、ブリンカーによって落ち着いて走れれば、変わってもおかしくはないと……思っています」
いつもどおりの流れでなら上手く喋れるんだが、アナウンサーから振られた時の返答がなぁ、上手くない。朝川は小さくため息をついた。
「以上、東京第1レースのパドックでした」

パドックブースから記者席へと移動した朝川は、出走直前のゲート前の様子を見て、念じていた。
「マサさん、買いました?」
五島が朝川の肩をポンと叩いた。
「買ったよ、単複勝負だ」
朝川は、購入した馬券を五島の目の前に突きつけた。
「単勝500円、複勝1,500円……マサさんにしては張ってますねー」
「何言ってんだ、いつもこんなもんだよ。毎レース5,000円とか買ってたら給料いくらもらっても足りないわ」
トラックマンは、一般のファンよりも情報を持っている。しかし、それでも馬券はなかなか当たらないのだった。馬券に対するスタンスもまた、トラックマンによりけり、である。
「五島はいくら買った?」
「僕は、人に自分の馬券見せないことにしてるんで。それよりそろそろですよ!」
発走を示すファンファーレが府中の秋空の下響き渡った。奇数番号順にゲートに向かって誘導され、続いて偶数番号の馬が誘導された後、最後に大外枠16番の馬がゲートに入れられる。
スタート。ゲートが一斉に開く。まず飛び出したのは人気の8番。前走では新潟競馬場の芝1,200メートルで逃げて僅差の2着に残っていた。ただ、今回は距離が200メートル伸びる上に、直線距離もまた200メートル近く伸びる。本当に力がないと逃げ切りは難しい条件だった。
展開的に、8番狙い撃ちの14番の方に向く。ただ、早めに捕まえにいけば、14番も直線途中で脚が持たなくなる。ここに展開のアヤが生じるかもしれない。
5番はどこだ? テレビは先頭から順に映していく。映像が中段グループに切り替わっても、まだ映らない。そして後方グループへ。
いた。リバーザキャット、後方2番手の内を追走している。どうなんだ、そこでいいのか。前が開くのか。もしも、リバーザキャットのギアが上がって、加速して前の集団に迫ったとしても、前に馬がいたらその隙間をぬって追いかけて行かなければならない。いや、そもそも加速がつかない可能性の方が高いのだが……
ごく一般的に。人気から考えれば。
いや、調教は良かった。
ブリンカーも効いている。
兄弟は芝で結果を出している。
厩舎の感触も良い。
変わる要素はある。はずだ。
朝川は祈るように叫んだ。
「行け! 5番!!」
その時。それは、たまにある瞬間だった。
脳が熱くなる。
手が一瞬激しく震えた。
叫んだ瞬間に、リバーザキャットが前進を開始した。
覚悟を決めて、最内から前方馬に噛み付かんばかりの勢いで、それでもただ前のスペースへと駆けて行く。騎手もなだめつつ、必死に手綱をしごいている。
最終コーナーを回り終わり、525.9メートルの直線へ。
前が開いた。我が意を得たり。馬がそんなことを思ったかはわからないが、明らかに、さらに、もう一段、ギアが上がった。
人気のローカルキングは、ダージリンに外から被せられ、直線に入って早々に首位戦線より脱落。逃げ馬は好走するときは強い印象を持たれるが、負けるときは呆気ないほど脆い。
ローカルキングを潰したダージリンは後続を2馬身、3馬身と突き離していく。他馬も次々ローカルキングを交わして前を捉えにかかるも、なかなか先頭との差が詰まらない。
ゴールまであと100。
ダージリンの騎手は勝利を確信したか、手綱を緩めて腰を上げ、後方を一瞥する。すると、すぐにまた追う姿勢に戻し、鞭を1、2発入れる。
一頭だけ、他馬とは違う脚色で猛然と鮮やかな芝生の上を突進してくる人馬があった。
それは、5番、リバーザキャット。
差が3馬身、2馬身、1馬身と、10メートルごとに縮まる。
「よし! 差せ!」

また、である。
朝川が叫んだ瞬間、リバーザキャットの前進が終わりを告げた。それは予期せぬ事態であった。
理由は判然とはしない。後で騎手の談話が出るだろうから、それを反省点にしなければならない。
とにかく、急に止まったのである。せっかく半馬身差まで詰め寄ったところで、急に馬が外側に逃避してしまった。直前まではブリンカーも効き、これまでとは違い競馬でも真っ直ぐ走っていたにも関わらず、である。
「ヨレなければ、勝ってた……」
秋の東京競馬の開幕を告げる第1レースの終了から5分ほど経ち、朝川はまだ記者席の机に突っ伏していた。
「なんでだろう、最後に苦しくなったのか? それとも、気性の悪さが最後の最後でまた顔を出したのか……あああ、単勝が、3万が」
「先輩、泣いたって馬券は帰ってこない。それより、2レースのパドック解説があるでしょ。戻らなきゃ」
そうなのだ。競馬は続く。外そうが、当たろうが、続いていく。これまでも、これからも。
「ラジオもそうだし、あと、僕らの紙面予想を参考に馬券を獲ったファンもいるでしょう。良かったじゃないですか、役に立って」
多くの外れと、少ない当たりを積み重ねて、競馬という終わりの見えないブラッドスポーツへの対峙は続いていく。
それは死ぬまで。
「…積み重ねていくしかないですよね、いけるとこまで」
朝川は、誰に対してでもなく呟いた。そして立ち上がり、パドックブースへと戻ろうとする。
あ、と五島が大きな声を上げた。
「てか、マサさん、複勝1,000円獲れてるじゃないっすか! 今配当出たけど、1,200円も付いてますよ! 大幅プラス、大幅プラス!」
そうだった。単勝的中を逃したことがショック過ぎて、すっかり失念していたのだった。
「昼メシ、ゴチで〜す!」
前進気勢が、ちょっと失われた。
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