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第20話

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 二月に入って、東の中央競馬の主場は東京競馬場に移った。
 中山から東京に移ると、傾向が大きく変わる。明け三歳馬の芝レースにおける出走頭数が激増するのである。例えば、フルゲートが十八頭のレースならば、ゲートは全て埋まり、それどころか抽選に漏れて出走さえ叶わない馬も多く出てくるほど、出走希望が殺到するのだ。一方の中山競馬場といえば、ザラストホースとシャインマスカットが出走した寒竹賞のように、寂しい頭数で行われるレースも珍しくないような有様だ。
 何故そのような傾向になるのか。それは、年明けの中山競馬場芝コースが非常に負荷が大きいとされていることに起因する。
 開催競馬場では毎週馬が走る。芝はそれによって痛んでいく。体重五百キロほどの生き物が、ひとレース最大十八頭、持てる限りの力で芝生を叩きつけて走る。降雨降雪があれば馬場も緩くなり、余計に芝が掘られやすくなる。中山競馬場の芝コースは、毎年九月の開催から張り替えられた芝でレースが行われるが、そこから、年末〜年明け開催を経て、芝の状態は悪化の一途を辿っていくことが多いのだ。
 丈夫な馬ならともかく、まだ体質に不安を残す馬を抱える陣営にとって、冬の中山芝コースは鬼門となっている。実際に、年末の二歳重賞を使った馬が故障し、肝心のクラシックへの出走が叶わない、という事態もあった。そうした理由から、十一月末の開催から約二ヶ月間空いて、芝のオーバーホールもある程度済んだ状態の二月の東京開催に矛先が向くのも当然といえるだろう。
 だが、そうして一時的に中山を避けた馬達も、三歳クラシックレースの第一弾、皐月賞を目指すのであれば、中山競馬場は避けて通れない。皐月賞は中山競馬春開催のラストを飾るレースでもあり、九月からそこまで酷使されてきた極悪条件の芝コースを、最大能力を駆使して走り抜けなくてはならないのである。そのために、あえて厳しい条件の中山を使い、皐月賞のために馬を慣らしておこうという考えの陣営もある。
 どの競馬場のどのレースを使って、クラシック本番の皐月賞、そして日本ダービーへの道を辿っていくか。クラシックレースを意識する全ての陣営が、馬に合った最善の道を模索し続けている。

 初めて見るが、噂どおりの大した馬だ。
 二月十二日の日曜日、一回東京六日目。この日のメインレース、共同通信杯におけるパドック解説の現場で、朝川は唸った。
 昨年秋に阪神競馬場でデビューし、二戦目の五百万下特別戦も圧勝。満を持しての東上となった有力関西馬、ワールドエンブリオの姿を、朝川はこの瞬間初めて眼前で観ていた。
 馬体は薄い。しかし、内包されている筋肉のつき方、バランスは、過去の名馬と比べても決して劣らないように見えた。気性は落ち着いたもので、あと二十分ほどでレースで走る馬とは思えないほどだった。
 これは、走るのも分かる。朝川個人としてはもっと厚みのある馬体が好みではあるものの、それとは別にして、これは素晴らしい馬体をしている。そして結果も今のところは見事に伴っている。
 レースVTRは確認していた。一番人気になりそうな馬のレースは当然のように観ている。
 緒戦は芝一八〇〇メートル。道中は三番手辺りにつけ、直線半ばで先に抜け出した馬に並びかけ競り落とした。派手さのない勝ち方ではあった。
 二戦目は二千メートル。緒戦とは打って変わって中段に付け、ゴール寸前でクビ差だけ交わした。俗に言う『着差以上の楽勝』だった。
 二戦目まででポテンシャルは見せている。後はここでの相手関係。共同通信杯はクラシックに直結するレベルの高いレースであり、他の出走馬にも既に力を見せたそれなりの馬が何頭か混じっている。
 ここでも勝つようなら、クラシックの主役候補がまた一頭生まれることになりそうだ。
「『駿馬』の朝川さんに、パドックの結論をお伺いしましょう。一番良く見える馬から教えてください」
 パドック担当アナウンサーから振られて、朝川は、えー、と一呼吸置いてから話し始める。
「この時期にしては良く見せる馬が多いですが、パドックから抜けて良く見せるのが八番のワールドエンブリオ。栗東からの輸送途中で雪による大渋滞に巻き込まれたという話なのですが、それを全く感じさせない落ち着きようです。また馬体が増えているのが良いですね。普通輸送時間が長くかかると、馬のストレスも大きくなり体重が大きく落ちることが多いのですが、その点この馬は精神力の強さを感じさせて、頼もしいなと思いますね。ウチの関西班の取材では、自身最高の体調というお墨付きも出ていましたし、ここは素直にこの馬から入りたいです。
 相手にはまず、重賞ホースのアイゼンスパーク。前走の重賞勝ちは展開面も大きく影響したことは否定できません。ですが、今にしてみれば相手のレベルが高かった。弥生賞出走予定の大器マイジャーニーや、寒竹賞で注目されていたザラストホースに競り勝ったシャインマスカットなど、負かした相手がいずれもこの三歳世代の注目馬。前走同条件の東京一八〇〇メートルなら、末脚がハマる展開になればまず間違いなく浮上してくる一頭です。
 次に前走寒竹賞で前の二頭には離されたものの、しぶとく三着に上がってきたノーエネミー。初の東京コースがどう出るかというところはありますが、こちらも展開次第で残れそう。馬券の組み立てとしては、ワールドエンブリオを軸として、この二頭を相手に取る三連複で行こうかな、と個人的には考えています」
「駿馬の朝川さん、本命は八番ワールドエンブリオ。ここでは抜けて良く見せるというお話。続いて十二番のアイゼンスパーク、二番のノーエネミーの順。朝川さん、今回はオススメ馬が少ないですが?」
 終わった気分でいた朝川は、アナウンサーの再びの振りに若干慌てながら、それを表に見せないように心がけようとした。
「えー、まあ、あくまで馬券妙味ということで考えれば、ワールドエンブリオは固い軸ですが、アイゼンスパークもノーエネミーも今回あまり人気がないので、極端な話、ワールドエンブリオとアイゼンスパーク二頭軸、ワールドエンブリオとノーエネミー二頭軸の三連複フォーメーションをそれぞれ総流しにしても、それなりの配当になるのではないかと。ワールドエンブリオが今回どういうレースをするのか掴めない面があり、この馬の出方によって展開が大きく左右されることになりそう。アイゼンスパークとノーエネミーは、どんな展開になっても、最低限片方は馬券になるんじゃないかということで、こういう買い方になりました」
 懸命に説明した朝川。時間が押してないかと心配しつつも、やはり言葉を多く費やしてしまった。
「なるほど。朝川さんの組み合わせで三連複の人気の方を見ますと、一番人気のある組み合わせで1-8-12の三十七倍。総流ししても合計二十五点ですから、確かにプラスになりますね」
 アナウンサーは流石にすごい、と朝川は毎週のように思う。頭の回転が早い。今回の共同通信杯、出走馬は十五頭。そこからワールドエンブリオとアイゼンスパークを二頭軸としてそこから総流しすると、馬券の点数は十三点となる。さらにワールドエンブリオとノーエネミーの組み合わせも同じように買うと十二点。十三点とならないのは、アイゼンスパークとの組み合わせの時点でノーエネミーが買い目に入っているので、重複しないためである。かくして二十五点、百円で流せば二千五百円の買い目となる。当たればマイナスにはならない配当ばかりだ。
「ただ」
 まだ少し時間があるようだから、これもついでに喋ってしまえ、と朝川はマイクに顔を気持ち近づけて、囁くように話す。
「個人的にはアイゼンスパークとノーエネミーが同時に馬券になるとは思えないので、この組み合わせを買う必要はあまりない気がしています」
「それだと一点節約できますね。皆さん、馬券の点数は極力減らしたいですものね。以上、東京メインレースのパドックをお伝えしました!」

 やっちまった。
「朝川先輩……」
「朝川クン……」
「朝川さん」
「…天才っすか、マサさん」
 アリス、戸田、吾妻、そして五島。共同通信杯終了直後の記者室で、いずれも畏怖の表情を浮かべ、頭を抱える朝川を見下ろしていた。
「…うん、初めて思った。俺天才かもしれない。あるいは物の怪の類が憑いているというか……」
 朝川にとって、今年の共同通信杯はしばらく頭にこびりついて忘れられないようなレースになりそうだった。
 内容としては、関西の雄、ワールドエンブリオが一番人気に応えて三連勝で重賞初制覇を果たすという、順当な結果であった。好スタートを決めて、道中は四、五番手で進む。ゆったりとしたペースでそのまま直線へ向かう、はずだった。ところが、前走でスタミナ勝負に自信をつけていたか、ノーエネミーがコーナーで前との差をグングン詰め、他馬もそれに応戦。四コーナーから一気にペースが上がった。ワールドエンブリオもノーエネミーの土俵に上がり、その結果として、ワールドエンブリオより前にいた組は壊滅。直線半ばでは二頭が並ぶ展開になった。
 朝川はここで的中を確信した。ノーエネミーはペースを上げ、先行勢を壊滅させる役割を果たした。ただ、ワールドエンブリオとは力が違う。無理が祟ってズルズルと下がっていき、差し追込み勢に呑み込まれる。大外からはアイゼンの勝負服が猛烈な勢いで追い込みをかけてくるのが見えていた。完璧!
 ところが、である。アイゼンスパーク以外の差し追込み勢が弱い。残り百メートルの時点でノーエネミーは三番手に落ちていたが、後続とはまだまだ五馬身程度の開きがあった。させさせさせさせ!! と競馬を知らない人からしたら物騒な魂の叫びが、記者室に響いていた--
「一着ワールドエンブリオ、二着アイゼンスパーク、三着ノーエネミー……完璧なのに……」
 パドック中継では、この三頭しか取り上げていない。こんなに上手くいくことは滅多にない。ないのに。
「…先輩、ラジオで……」
「…言うな」
 ほんの少し、時間が余っていたから。
『個人的にはアイゼンスパークとノーエネミーが同時に馬券になるとは思えないので、この組み合わせを買う必要はあまりない気がしています』
『この組み合わせを買う必要はあまりない気がしています』
『アイゼンスパークとノーエネミーが同時に馬券になるとは』
『思えないので』
 なってしまった。めっちゃ余計なこと言った。あああ。
「…素直に二十五点買ってれば、三連複二百八十七倍か……一点ケチって、大魚を取り逃がす。俺が当たらないのはいいんだ。リスナーがもし、俺の言うことを鵜呑みにして買ってたとしたら……あああ、申し訳ない、申し訳ない……」
 神懸かり的外し方。そして、その一部始終を見届けた駿馬トラックマン陣。
「………プッ、あははははッ!!」
「先輩……天才……!」
「…私、朝川さんのこと『神の子』と心の中で呼ぶことにします」
「凹んでる姿が、哀愁漂ってて笑えますね! 予想は完璧なのに! ははは!」
 みんな笑ってくれる。今この瞬間は、笑ってくれた方がいい。気が休まる。運が良いんだか悪いんだか分からない、感情をどう持っていいのか難しいような、この状況下では。
 それにしても、これはホントに強いな。頭の中の冷静な部分で朝川は数分前のレースを回顧する。
 ワールドエンブリオ。間違いなく、今年のクラシック戦線を賑わす一頭になる。週中からの雪で開催も危ぶまれた今東京開催だが、春はすぐそこまで近づいてきている。GⅠの、クラシックの季節がやってくる。
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