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第26話

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 GⅠデーと見紛うほどの大観衆から一様に発せられたどよめきは、雪崩となって中山競馬場のターフに押し寄せてきそうだった。
 単勝一番人気の本命、ザラストホース。『駿馬』を始めとする各種競馬専門紙や、スポーツ新聞。そのほかにも、テレビやラジオなどのメディアも、おしなべて「ザラストホース中団説」を唱えていたからこそのものだった。
 まさか、最後方から競馬をするとは。
 出遅れか? それとも意図的に?
 いや、そんなことはどうでもいい!

 大丈夫なのか!?

「大丈夫」
 観衆の思いを知ってか知らずか。鞍上の安斎は、心の中に念じる。
 安斎自身も、直前までは中団で競馬する心づもりだった。しかし、このレースの勝利を目指す上で、ただ一つの不安要素が、最後まで拭えなかったのだった。
 マイジャーニー。
 直線の切れ味では比べるまでもなくザラストホースが優っている。その自信はあった。しかし、マイジャーニーは直線ではなく向正面から最終コーナーにかけて勝負を仕掛けてくる馬だ。全てを飲み込まんばかりの勢いで直線に向かい、息の長い末脚でそのまま押し切ろうとするだろう。
 相手のペースに合わせてはいけない。勝負事は、自分がペースを握らなくては。
 先行勢が飛車角落ちの今回は、マイジャーニー、あとはせいぜいアイゼンスパーク辺りまでがザラストホースの相手となるだろうと、安斎は見ていた。ただ、脚質的に被るアイゼンスパークには末脚比べで劣る気がしなかった。となると、仕留めるべきは一頭。
 捲りは最後方からがやりやすい。
 捲りでやられると嫌なことは、なんだ?
 スタートゲートの中で、安斎は答えを出した。
 自分よりスピードのある馬に、後ろに居られること--

 マイジャーニーに跨る若武者、榮倉亮治は、同期の安斎がとったまさかの戦法に混乱していた。
 なんだよ、そりゃあ! お前ら、もっと前目に付けるって話だったじゃねぇか!
 混乱しながらも、レースは待ってはくれない。すでに先団は向正面に入っており、もうあと三〇秒ほど後、向正面中ほどでは、マイジャーニーを促し始めて前との差を詰めにかからねばならない。それが榮倉の元々考えていたレースプランだった。
 そんなに思い切り動いていいのか?
 そのプランは、あくまでも自身が最後方だという想定でのことだった。本命馬、ザラストホースが全馬を根こそぎ刈り取ろうという構えを見せている中で、先に脚を使っていいのか? それこそが、安斎の思う壺なんじゃないのか?
 榮倉の心は雁字搦めになっていた。そうさせたのは、紛れもなく安斎咲太とザラストホースであった。
 本来の仕掛けどころを過ぎたところで、手綱から伝う感触の変化に、榮倉はハッとする。
『お前、いい加減にしろよ?』
 マイジャーニーが、そう言っている気がした。実際、激しく行きたがっている。手綱を引く手が痺れるほどに。
 内からは、ザラストホースが安斎のアクションに応えて猛然と押し上げていく姿が見えた。今の中山は内側が伸びる。さしものザラストホースでも、大外を捲り上げて差し切るのは厳しいことは分かっていた。
 何をしてるんだ、オレは--
「…行くぞっ!」
 ザラストホースに並びかけられた辺りで、ようやく意を決して、榮倉は激しいアクションでマイジャーニーを促し始めた。ザラストホースに内側を取られてしまったので、大外を回すほかない。
 マイジャーニーにとっては、後手後手の厳しいレースとなってしまった。

 先頭集団はゆったりと第四コーナーを回っていた。遅いペースである。
 コーナーの中間で、一頭が仕掛けた。ブライダルハンターという馬。鞍上は紺田忠道。
 紺田はマイジャーニーに乗らなかった。乗れなかったのではなく、乗らなかった。この数ヶ月のうちに、劇的に状況が変わったのだった。マイジャーニーの可能性はよく分かっている。それでもこの先、継続騎乗できないことはもう確定的だった。自分には、クラシック路線で有力馬二頭をどちらもキープできるほどの器量はない、と理解できていた紺田は、ハッキリ代打ということを宣言して、このレース、ブライダルハンターに乗っていた。現時点では未勝利勝ちのみで、この程度の賞金額では皐月賞への参戦は叶わない。だが、ここで三着以内に入れば皐月賞への優先出走権を得ることが出来るのだった。
 本番では他の騎手に乗り替わることになるが、それでも陣営は、中山の先行馬の乗り方に長けている紺田に一縷の望みを託したかったのだ。
 とにかく先行勢の中で一番でゴールしよう、と紺田は考えていた。人気の追い込み馬のことを考えても仕方がない。その馬達に交わされたとしても、三頭に交わされなければいいのだった。ザラストホースとマイジャーニーには負けても問題ない。それ以外に勝てばいい。
 このペースの遅さでは、ラスト三ハロンは三十四秒台の決着になるだろう。それでなくても、今日の中山は時計が早い。直線で速い脚を使う馬の独壇場になる可能性もある。
 ただそれは、あくまでも後方勢に限った話だ。先団の馬達は、能力的に皆似たような脚しか使えないだろう。
 それならば、直線先頭で入った方が粘り込める。当然のことだ。だが、それを忠実に実行できる騎手はそう多くないのである。皆、相手より先に脚を使って馬を疲れさせ、惨敗させることを嫌がるのだ。紺田はそれを厭わない。もちろん代打の気楽さも関係してはいたが。
 ブライダルハンターが先頭でコーナーを曲がり終わり、中山のそこまで長くはない直線に入る。思った以上にうまくいった! と紺田は鞍上でほくそ笑みながら追っていた。先行勢にはもう負けないだろう。後の問題は、何頭に交わされるかだけだ。もちろん、交わされないでゴールまで辿り着ければ最高なのだが、そこまでは期待していなかった。
 既に気配は感じる。地面を叩く音が迫ってくるのを感じる。それはどの馬か。
 --やっぱりか。まぁ、しょうがない。
 紺田は、諦めの表情を見せた。その馬の力はよく知っていた。前走のVTRは穴が空くほど見返していたし、シャインマスカットが勝利を納めはしたものの、ザラストホースにとっては本来の戦法を取らずに敗れたレースに過ぎなかったのだ。やはり末脚勝負に徹すれば、このくらいやる馬だ。
 ザラストホースが、直線半ばで敢然と先頭に立った。コーナーでは最内を回って、スペースを見つけながら、矢のような勢いで一頭一頭仕留めていった。前走の敗戦による鬱憤を晴らすような勢いを見せ、初めての重賞制覇と、クラシック大本命の座へと駆け上ろうとしている。
 だが、その後が続いてこない。足音が遠い。ザラストホースとの差はどんどん開いていくが、他にはどうやら勝てそうだ。二着ならば本賞金も積める。皐月賞では厳しい闘いになるかもしれないが、もし完敗しても、賞金を積み増したことで、それでもダービーへの出走も可能になるかもしれない。
 紺田は充実感を覚えていた。ザラストホース以外の有力追い込み勢が下手を打っただけかもしれないが、結果として、ブライダルハンターに皐月賞への参戦権をもたらすことができたのだ。クラシックに出られるのと出られないのとでは、その後の馬生だって変わってくるし、この馬の馬主さんも、調教師も厩務員も、みんな喜んでくれるだろう。
 ただ、マイジャーニーのことは、降りた馬のこととはいえ、少し心配だった。亮治に、あの馬を上手く扱えるのか--?

『完全にザラストホースが突き抜けた! 正真正銘のクラシック大本命として、いざ皐月賞の舞台へ! ザラストホースゴールイン! 凄まじい末脚、炸裂! 離れた二着にブライダルハンター! そしてブライダルハンターから二馬身、三馬身ほどでしょうか? 大外から捲り上げたマイジャーニーが最後なんとか三番手まで上がってきました。しかし、それらを尻目にザラストホース! 内からスルスル上がってきて、直線半ばで粘り込みを図るブライダルハンターを楽々捕まえて後は離す一方。あえて馬込みに入れたデビュー戦が活きた好内容でした。これで堂々と、東の主役として皐月賞に挑むことになりそう。本番では、どのような走りを見せてくれるでしょうか?』
 場内実況の声が高らかに響く中、ザラストホースは首を小刻みに何度も何度も上げて、まるで大歓声に応えるようだった。
 これで、本当の意味で主役になれる。安斎は安堵した。賭けに勝った、そんな気分だった。恐らく、馬券を獲ったファンも多いだろう。
「これで、もっとたくさんの人がお前のことを見てくれる」
 だから、そんなに荒ぶるな。そんな思いで、安斎はザラストホースの首筋をポンと一度叩いた。
 重賞など通過点。目標はGⅠ、それもGⅠ中のGⅠ、クラシック。安斎は電光掲示板に目をやった。一着と二着の着差は、四馬身と記されていた。
 皐月賞では、この差をもっと広げる。日本ダービーでは、それよりもさらに。安斎にとっても、この日の勝利はザラストホースへの期待をさらに高めるものとなったのだった。

 よく三着まできた、と朝川は思う。
 レース回顧をするならば、今年の弥生賞はザラストホースと安斎咲太によって支配された、という一文で済むかもしれない。そのくらい、最後方待機策は効果的に機能した。マイジャーニー、というより、鞍上の榮倉亮治を完全に惑わせたという一点において、抜群に効いた。前を捉えることだけに集中したかったところに、後ろから差される恐怖を植え付けたその戦術に、朝川は驚嘆した。馬も馬なら騎手も騎手、竹淵厩舎は、人も馬も良く出来ている。そう思わざるを得なかった。
 それでも、あの仕掛け遅れで三着まできたマイジャーニーはやはり流石だった。さらに前が止まらない展開で、外をぶん回しているのだ。完全に致命的だったが、地力と榮倉の剛腕で何とかここまできた、というところだ。これで評価を落とすようなら、皐月賞では積極的に狙いたくなる。
 とはいえ、やはり今日ザラストホースが見せた走りは出色のもの。弥生賞組は本番で相手にもならないかもしれない。これを倒そうというのは、相当な力がないと無理だし、またレース展開や馬場の状態が自分に向かなければどうしようもないだろう。
 紛れがあるかどうか?
「皐月賞の本命選びが楽になりましたね?」
 パドックブース、横でニヤニヤしているのはアリスだった。アリスは、どうやらザラストホースの単勝をガッツリ獲ったようだった。
「…逆に迷うよ、俺は。ザラストホース、シャインマスカット、ワールドエンブリオ、マイジャーニー……」
「えー! もう勝ち馬は決まったと思いますけどね~。皐月賞も当てちゃおうかな~」
 そう言って飛び跳ねながら、アリスはパドックブースを出て行った。
 アイツ、調子に乗ってきたな。後で飲み屋で説教だ……
 実はマイジャーニーとブライダルハンターのワイドをキッチリ仕留めていた朝川は、大分慣れてきた愛弟子の姿に穏やかな視線を向けながら、今日の最後の仕事、最終レースのパドックに目を移したのだった。
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