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第30話

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 皐月賞前夜の船橋市は大雨だった。天気予報が見事的中してしまい、中山競馬場も大量の雨をもらった。
 朝川はラジオのパドック解説席にいた。第八レースの鹿野山特別に出走する各馬がパドックを巡回している。空を見上げる。今のところ雨は止んでいるが、またすぐにでも降り出してきそうな空模様だ。
 朝の八時前、中山競馬場スタンド内の記者室に到着した朝川は、まず始めに芝コースの第四コーナーから直線にかけてを上から見下ろした。
 元々、この時期の中山開催は芝にとって過酷としか言いようのないスケジュールである。
 十二月一週目から年をまたいで一月四週目まで、そこから短い東京開催を挟み、二月四週目から今日までと、二度に渡ってのロングラン開催を越えてきて、ようやく春の最終日、皐月賞デーに辿り着いているのである。
 馬場造園課も状態の維持に懸命に働いているし、芝の質も向上し、以前よりは遥かに痛みにくくはなっているが、さすがにここまでスケジュールがキツイと、痛みが出てくるのは仕方ないところ。そして、トドメに昨夜の豪雨である。
 ああ--午前中に行われた唯一の芝レースは第四レースの三歳未勝利戦。朝川はその模様を観ながら呻きを漏らした。
 どの馬も、完全に内ラチ沿いを避けて走っていた。コーナーを大回りし、直線でも外へ、外へと走っていた。距離を大幅にロスしてでも避けたくなるのが、今日の内ラチ沿いなのだ。
 ましてや、皐月賞に騎乗するジョッキーにとって、このレースは予行演習でもあった。
 今日の中山開催、芝のレースは第四レース、これから行われる第八レースの鹿野山特別、そして皐月賞直前の第十レース、春雷ステークス。春雷ステークスは一二〇〇メートル戦なので、皐月賞と近い距離で行われるのは、二二〇〇メートルだった第四レースと、本番と同条件で行われる二千メートルのこの鹿野山特別のみなのである。
 皐月賞に騎乗馬のあるジョッキーにとって、これは単なるレースではない。本番の乗り方をイメージするためにも重要なのだった。皐月賞で万全の騎乗をするためにこのレースを犠牲にする、と言えなくもないかもしれない。賛否両論はあるだろうけど、と朝川は思う。
 でも、そのおかげで、こちらも本番のイメージができる。皐月賞でも、この傾向は続くだろう。発走まであと二時間もない状況で、ここから急速に芝の状態が良くなるわけもない。太陽も出ていないから馬場も乾かないし、それどころかまだ小雨くらいなら降ってきそうだった。鹿野山特別と春雷ステークスで外の痛みもまだ進むだろう。恐らく、馬群は第四レースよりさらに大回りになる。
 その状況を利用できるのは、誰か。極めて特異な状況で、上手く立ち回るのは、どの人馬か。普段のレース以上に、特に騎手の判断が重要になってくるレースだろうと、朝川はイメージしていた。それ次第で、勝つ馬が変わってくる。


 皐月賞出走表(馬番順)
【1 シャインマスカット】
【2 ユトリクン】
【3 モスキートサウンド】
【4 アイラブチークン】
【5 オンザデスク】
【6 アイゼンスパーク】
【7 ザラストホース】
【8 ドリームプレンティ】
【9 ユーガットリズム】
【10 ストロングワカモト】
【11 ノーエネミー】
【12 ミュージックギフト】
【13 ロフト】
【14 ナミダノフルサト】
【15 ブライダルハンター】
【16 アンジェニック】
【17 ワールドエンブリオ】
【18 マイジャーニー】

『駿馬』トラックマンの予想一覧
(メイン予想陣)
伊藤敏幸…◎ザラストホース ◯シャインマスカット ▲ワールドエンブリオ 注ブライダルハンター
戸田明美…◎アイゼンスパーク ◯ザラストホース ▲シャインマスカット 注ロフト
朝川征士…◎マイジャーニー ◯シャインマスカット ▲ザラストホース 注アイゼンスパーク
吾妻乃梨子…◎ザラストホース ◯ワールドエンブリオ ▲マイジャーニー 注シャインマスカット
遠藤豊…◎ワールドエンブリオ ◯ザラストホース ▲ストロングワカモト 注ロフト
本紙竹田…◎シャインマスカット ◯ザラストホース ▲ワールドエンブリオ 注マイジャーニー
(その他トラックマンの印)
田畑嘉隆…◎シャインマスカット ◯ザラストホース ▲ナミダノフルサト 注アイゼンスパーク
五島忍…◎ザラストホース ◯ワールドエンブリオ ▲シャインマスカット 注ノーエネミー
伊藤有栖…◎ザラストホース ◯マイジャーニー ▲シャインマスカット 注ブライダルハンター


「こうやって自分の予想が新聞に載るっていうのは--」
 中山競馬場スタンド内『駿馬』記者室内。
 その姿は持っている新聞に隠れて見えない。あまりに小柄なので隠れてしまうのだった。
「なんか、感動しますね!」
 パッと手を離して新聞を机に放る。伊藤アリスは感極まったような表情だった。
「そんな大袈裟な……」
 朝川はそう言いつつも、アリスのことも理解できたのだった。もう十年以上前に、俺もそんな気持ちになったことがあったなぁ、と懐かしい気持ちになった。
 自分の名前と予想が、馬柱下の小さなスペースとはいえ載るというのは、何物にも代え難い感慨があった。最近はそれに慣れてしまっているが、考えてみればすごいことだと思う。
 競馬という、人によっては多額の金銭の絡むギャンブルで、「俺はこの馬がいいと思ってる!」と主張しているのだ。そして、それを毎週土日に何十万という読者が参考にしてくれている。こんな仕事はそれほどないだろう。
 しかし、アリスの紙面デビューのタイミングもすごい。まさか皐月賞週とは。俺の時は重賞開催もないローカル開催だったのに、とアリスに対して少し嫉妬のような感情が湧いてしまった朝川だった。
「感動してばかりはいられないぞ」
 鹿野山特別発走まであと数十秒に迫り、既に双眼鏡を胸の前に構え待機している、少々季節外れのトレンチコートを着ている男がアリスの方を見ずに言った。
「紙面に載った時点で、ファンはお前の印を見ている。それを参考に馬券を買う人もいる。その時点で、我々は責任を負っている。決して安くない専門誌を購入してまで競馬をしてくれているファンに報いる、責任を」
「…すみません、竹田さん」
 長らく『駿馬』関東予想陣の代表として、新聞の的中不的中をその一身に背負ってきた竹田の言葉は重かった。他の予想陣が当てているとしても、本紙予想が外れていれば、新聞として的中したことにはならない。それほど、本紙予想は重い責任を負っている。
 特に、今回の皐月賞のような一般の関心も高い大きなレースで見当外れの予想をしてしまうと、大いに悪目立ちしてしまう。それは新聞の売り上げにもダイレクトに影響してくる。かつて、竹田の前任の庄田もそのプレッシャーと戦い続けていた。いずれは本紙予想をやりたい、とは気軽には言えない。朝川は、庄田や竹田の悪戦苦闘を側で見続けてきたからだった。
「…まあでも、楽しんでやるのはいいことだ。責任を感じながらも、競馬を楽しもう。な、伊藤有栖。それより、これから始まるレースが皐月賞の直前でもっとも参考になるものだ。ラジオの直前解説もあるから、しっかり観ておかなければ……」
 竹田さんは自分の世界に入っている、と朝川は察する。あれはもう、独り言の世界だ。アリスはといえば、竹田の独り言に感動していた。
「さすが本紙竹田さんは言うことが違うね」
 言いながら、五島がアリスの頭にポンと手を置く。
「もう本当に……ダメだっ……あたし、頑張ります……っ!」
 昔の競馬場は"鉄火場"と言われた。金を胴元(競馬会)から掠め取るために限界まで血をたぎらせ、脳を燃やして熱くなる男達のフィールドだったのだ。
 それがどうだ、この雰囲気は。競馬は変わった。俺も、鉄火場の時代のことはあんまり知らないけど、と思いつつ、朝川は悪くない気分でいた。どうやら、良い感じで進んではいるようだ。
 鹿野山特別の発走と刻を同じくして、大粒の雨が落ちてきた。これは、さらに芝のダメージが進む。
 上手く生かせよ、マイジャーニー、榮倉亮治。そう、朝川は願った。
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