第35話
期待はしていた。しかし実際に眼前で展開されたレースは、『期待に応えた』などという表現で済ますにはあまりに陳腐なものと思えた。
破壊的--朝川の中でもっともしっくりきた表現がこれだった。
青葉賞。四週間後に迫る日本ダービーのトライアルレースであり、上位二頭に優先出走権が与えられる。それが今、新鋭ミスティックアークの圧勝で終わった。
青葉賞には不思議なジンクスがある。日本ダービーの代表的ステップレースであるにもかかわらず、ダービー勝ち馬をこれまで一頭も輩出していないのである。二着まで来た馬は何頭かいるものの、肝心の勝利が遠い。オープン特別時代から含めれば過去三十三回も行われてこの有様であるため、最近ではジンクスという概念を超え、オカルトの様相を呈し始めていた。
『ダービー馬になり得るのは、皐月賞直行組、京都新聞杯組、NHKマイルカップ組あたりまで。後はよっぽど図抜けた牝馬が牝馬クラシック路線から挑戦してきた時くらい』
こんな言説をよく聞くし、朝川もその認識を強く持っていた。そもそも日本ダービーは牡馬クラシックの二戦目であり、基本的には一戦目の皐月賞で揃い済みの役者が条件替わりで再戦してさあどうなる、という性質のレースである。勝ち馬が皐月賞組以外から出るというパターンは、デビューが遅かったり、不運で賞金を積むのが遅れた馬、あるいは小回りの中山競馬場を嫌って、所謂"裏街道"で密かに力と賞金を蓄えてきた馬など、数パターンに限定される。
ただ、そうだとしても、青葉賞が必ずしもそれらのパターンから外れるわけではない。むしろ東京芝二千四百メートルという、トライアルでは唯一本番と同一条件で走れる圧倒的優位性があるのである。それなのに、なのだ。
レース間隔を理由にするなら、青葉賞からダービーまでは中三週という十分な時間がある。好走率が比較的高い京都新聞杯やNHKマイルカップだとこれが中二週となり、よりタイトになる。これまた、説明がつかない。
青葉賞組がダービーを勝てない理由には、やはりハッキリとしたものがないのである。だからこそ、競馬ファンは毎年考える。今年の青葉賞馬はダービーを勝てるだけの馬か--イエス、かもしれない。ミスティックアークの今日の走りにはそれだけの可能性がある、朝川は素直にそうジャッジした。
「…おい、幸せモン」
「どこのボクのことですか?」
「そう、"ボク"のことだよ、ゴシ君……まあその話は、いずれたっぷり訊くとして--あの馬、すげえな」
東京競馬場スタンド内の競馬専門紙『駿馬』記者室。朝川の隣にいる五島は、眼下で記念撮影をしているミスティックアークと関係者の姿を見下ろして、うーんと唸った。
「…正直、竹淵厩舎番としては見落としてた一頭ではありますね。少なくとも、ザラストホースとは比較対象にもならなかったです」
だよなァ、と朝川は背もたれにグッと身体を預けて、記者室の天井を見るともなく見た。
「年に一頭いるかいないか、って馬だな。自分の成長曲線とダービーがかっちり合ったというか」
「そうそう、急激に伸びましたね。前走の五百万下での勝ちっぷりは確かに派手だったんですけど、そこからさらにパフォーマンス上げるとは……」
ミスティックアークの前走は、中山芝二千二百メートルで行われた山吹賞。今月一日のレースだった。三番人気というそこそこの人気で迎えたレースで、ミスティックアークは果敢に先頭に立ち、後続を引き付けながら最後は突き放し、二馬身差で勝利していた。しかしタイムは平凡であり、その時点で特別評価が高まるということはなかった。
しかし、今日を境に状況は一変するだろう。関東の名伯楽・竹淵幸二郎調教師のもう一頭の秘蔵っ子として、有力馬の一頭として勇躍ダービーへ向かうことになる。それほどまでに、二着以下に付けた着差も、勝ちタイムも評価できる内容なのだった。
前走の二馬身差は倍の四馬身差に広がり、タイムは青葉賞レコードを更新する二分二十三秒五。これは例年のダービーでも十分に勝ちタイムとなり得る数字である。しかもこのタイムは最初から最後まで自身が先頭に立ち続けて叩き出したものであり、より価値が高いと思われた。
これで単勝八倍付くなら美味いよな、もったいない。この馬を一番手で予想出来なかった自分に腹が立っていた。
そもそも、騎手起用の段階で気付くことが出来なかったか。竹淵調教師は、ミスティックアークの鞍上をチェンジしてきていた。権利を目指すだけなら、既にザラストホースでのダービー騎乗が決まっている安斎をそのまま継続騎乗させれば良かった。そして、ダービーでは別の騎手に頼めばいいだけの話である。
それを、わざわざ関西所属のアレッシオ・ナッツオーニに替えてきた。これは、余程馬の仕上がりに自信がなくては出来ないことではなかったか? ナッツオーニの本来のクラシックパートナーとなるはずであったワールドエンブリオに骨折が判明し、ダービーでの乗り馬がいなくなっていたとはいえ、ナッツオーニは今年の騎手リーディングを独走している現在ナンバーワンのジョッキーなのだから。そんな騎手を、下手な馬には乗せられない。
セット依頼だったんだ--
竹淵調教師は、青葉賞とダービーの二戦、ミスティックアークに乗ってもらうよう、ナッツオーニ側に依頼したのだ。
「…オカルトが解けるかもしれないな」
「ですかねえ……俺は、まだザラストホースを上に見ますけどね。それに、マイジャーニーだって、このくらいは捲り切ると思いますし」
そうかもしれない。そうだろうか。
次々に追い縋ってくる馬を切って捨て切って捨てを繰り返した今日のミスティックアークの姿は、朝川には眩く映った。新しく見たものほど良く見える、というのは人間の習性ではあるが、実際にハイパフォーマンスであったのは疑いようもない。もちろん、ダービーの相手は今日の相手の比ではない。だが、それでも……と一発を期待できるだけの魅力はあったように思えてならなかった。
ダービーの予想に至るプロセスが、また複雑になった--そんなことを思い、最終レースのパドック解説のために記者室を出ると、
「アサちゃん」
声を掛けられた。聞き覚えのある、それも好ましい声だった。
「リンさん!」
懐かしい顔だった。競馬専門紙『紙の競馬』トラックマンの林敬。朝川にとっては大学の、ひいては競馬業界の先輩であり、会社は違えど様々な局面で世話になっていた恩人であったが、最近は朝川の多忙もあり、ほとんど会うことがなくなっていた。
「忙しそうだねー。観てるよ、テレビ。毎週あれだけネタ揃えるの大変でしょ?」
そう言われると嬉しくなる。『ライフ・ホース・オン』までチェックしてくれているとは。製作の苦労は多いが、こうして反響があると、出演を決めて良かったと思えるのだった。
「おかげさまで。これから最終のパドック解説があって!」
「息つく暇もないね……ゴメンね、忙しいとこ。あ、今日、どう?」
林が、口にグラスを運ぶような手の動きをした。今夜は別に飲みの誘いはなかった。ないが……
『奥さん、いいんですかァ?』
心の中に、なぜかアリスの声で響いた。
だがしかし、林の表情がこれまで見たことのないほど真剣であり、何となくこの誘いを断ってはいけないような気がしたのだった。
今度、休みの日に家事を全部やろう--
「…いいですよ、行きましょう! 店はいつものとこで!」
「ああ、アサちゃんの"いつもの"ね」
本当にすまない。でも。
このやり取りで通じ合える人の誘いを無下に断るわけにもいかない、と朝川は瞼の奥に見える妻へ詫びるのだった。