「本当に、それで終わりか?」
石動堅悟は問いかける。
「お前は本当に、動かないのか? 終わったのか? ――死んじまったのか?」
足許に転がる生首は、かつて装甲竜鬼と恐れられた過激派準悪魔の旗頭であるバハムートこと馬場夢人のものだ。無残に切り離されて胴体はさぞ寂しかろうに、固く握りしめられたまま硬直するその両手は、再びの生を求めて彷徨うこともなく沈黙している。
「……そぉかよ」
わかっている。死んでいる。もう二度と動き出すことはない。この男は、敗北したのだ。殺された。他でもない――石動堅悟がその命を奪い取ったのである。
それでいい。これでいい。
しかし、
「もっと、“ひりつく”かと思ったんだけどな」
残念だよ。
そう言った。
そう言って、何故か。
「――――」
堅悟は、僅かに目を見開き、外を見ようとする。
デビルタワー最上階に位置する本会議室の全面に張られていたガラスは、先の戦闘の衝撃で全て砕け散っている。そこから望めるはずの埼玉の夜景は階下から立ち上る黒煙によって遮られている。
見えない。
何も――見えないはずなのに。
「石動先輩、僕たちもそろそろ撤退しよう」
四谷は暇を持てあましたような顔をしてスマートフォンを片手でいじっている。
「ほら、さっきからリリアックのグループライン、引っ切りなしに鳴りまくってる。海老名ちゃんも燐ちゃんもお疲れ様でした――ってさ」
「まだ、終わってねえ」
「もちろん、そうだよ。これで終わりじゃない。始まりに過ぎないって話だよね。バハムートを倒したからって、僕たちは――」
「そうじゃない」
「そうじゃない?」
「わからないのか、四谷。何かが――」
嫌な予感。
いや、それよりも具体的な。
気配が。
「先輩?」
想定外など想定内だ。ここは戦場。そしてリリアックの――石動堅悟の敵は、バハムートだけではない。
四谷の顔が曇る。
足許が揺れる。地震とは違う。下で何が起きているのか。時折聞こえる爆音が、このビルの崩壊を予感させる。
最大の目的は達せられたのだ。ここに留まる理由はない。今すぐにでも撤退すべき。四谷は間違いなくそう思っている。堅悟も、同じ事を考えている。しかし、同じ思考が同じ行動を喚起させるとは限らない。
堅悟は――待ってしまった。待ち構えて、対応しようとしてしまった。それが慢心なのか悪手なのか。
ずっとわかっていた――来るはずだ、と。現れるはずだ、と。そう確信していた何かが、黒煙の壁を突き破って堅悟と四谷――二人の前に躍り出た瞬間。
四谷の腕が飛んだ。
絶叫が響く。ぼだぼだと血を|零《こぼ》す傷口が気を狂わせる激痛を訴えている。
「よりにもよって――」
現れたのは、死に神だ。
少なくとも堅悟の目にはそう映る。
震える。軋む。淀んで、腐って、透明になる。
死に神の目はすでに、自身が一撃で戦闘不能に追い込んだ少年を向いてはいなかった。
視線がかち合うのは、まるで運命のような――。
「久しぶり……だな、石動堅悟」
「間遠、和宮……!」
堅悟の瞳と口許には、二つの感情が複雑に絡み合ったように浮かび上がっている。
「ここに来れば会えると思っていた」
静かな口調。しかし、その心臓は激しく脈打っている。
「へえ、情報が流れてたってぇわけか。いいね。……あぁ。いや、残念だが、ここでテメェ等と雌雄を決するつもりはねえ」
個々の作戦が完遂され次第、順次撤退するように命じている。既に多くの仲間が現場を離れているから、このまま全面戦争突入だけはあり得ない。
「等、じゃない」
「は?」
「ここに来たのは、俺ひとりだけだ」
「意味が、わからねえな」
「お前と、話がしたかったんだ」
間遠は飽くまで穏やかだ。その口許には笑みすら浮かんで、どこか狂気染みてすらいる。
堅悟は、間遠の肩越しに四谷を見遣る。歯を食いしばり、苦悶に顔を歪めてはいるが、意識ははっきりしているらしい。きつく――間遠の背中を睨み付けている。
「話をするのに、おれの仲間の腕をぶった切る必要はあったのか?」
堅固の問いに、間遠は肩を竦める。
「そいつの噂は聞いていた。何をするにせよ、先に潰しておく必要があると思った」
邪魔をされたくない――と。
確かに、こうなっては四谷のサポートは期待できない。
堅悟は、まっすぐに扉を指さし、言う。
「行けよ、四谷」
四谷は何も言わず首を振る。
流れ出る血は止まらない。止まるはずがない。
「久慈か菱村にでも拾ってもらえ。どうせまだその辺にいるんだろ。手当てしないと、マジで死ぬぞ」
これ以上は、足手まといなんだよ。
堅悟がそう言うと、四谷は悔しげに顔を歪ませ、顔を伏せた。
「僕、……なしで。か――勝てるのかよ、先輩」
残れと言えば、このまま居残りそうな雰囲気だ。
「俺は知ってる」
間遠和宮という男を知っている。
一度、剣を交えた。
殺してやろうと思って、戦ったから。
「こいつは、バハムートよりは弱い」
そう断言できる。
四谷は、堅悟の目を見た。これ以上、四谷に語りかける言葉は残していないらしい。この場に留まり、ただ無意味に命を落としても、彼は|微塵《みじん》も興味を傾けてはくれないだろう。
堅悟は間遠に、間遠は堅悟に。すでに相思相愛の構図は出来上がっていた。
今まさに幕が上がろうとしている舞台には、四谷の居場所は残されていないようだった。
二人だけの世界で、間遠が笑う。
「そこの死体よりも俺が弱い、と? 言ってくれるな、石動。あれから俺も色々あった。強くなったんだ」
「はっ、風俗通いしてかよ」
きぃん、と空気が凍り付く音が響く。|尤《もっと》も、それを聴いたのは間遠ただ独りだけであったが――。
「ど、どうしてそれを知っている!」
声を震わせる間遠に対して、今度は堅悟が不敵に腕を組む。
「おいおい、神がいようが悪魔がいようが、結局この世は情報に支配されてンだぜ、間遠くんよ」
「ふ、はは。――それにしても石動、お前も偉くなったものだな。リリアック。非正規英雄と準悪魔の混合軍、か」
ずうん、とビルが重たく揺れる。誰かが戦っているのか、単にこの建物が崩れているのか。堅悟も間遠も気にもとめない。
「ああ、力をつけた。今じゃあ独りじゃ出来なかったことも出来るようになった」
「それは、純然たる非正規英雄としてでは、いけなかったのか?」
「――さあな」
「言いたくないのか? 言語化出来ないだけか? それとも、最初から考えなんて何もないのか?」
「さあ、どれだろうな」
「……わかった。もういい」
話はもう――。いや、まだ。
「石動堅悟」
「なんだよ、間遠和宮」
「お前は毎日、眠れているか?」
「はあ?」
「飯は食べているか? 息抜きは出来ているか? 体調はどうだ。ストレスを感じてはいないか? 悩み事があるんじゃないか? 一重に、健康か?」
「なんだよ、急に。俺は――」
万全だ。
「そうか、それなら」
間遠はアンスウェラーを現出させる。武器を構える。その切っ先に、殺気を宿す。そして、安堵しきったような笑みを浮かべて、眼前の敵を見据える。
「心置きなく、お前と戦えるというものだ」
第二十三話 そして終わりは始まらない (宮城毒素)
まるで世界の終わりみたいだと思った。
さいたま新都心駅。そのアーチ状の屋根に上った鈴井鹿子は、近くのコンビニで買ってきたチョコ味のチュロスにかぶりつきながら、火を上げ、煙を噴き、咳をするように瓦礫を散らす――デビルタワーの最期を見届けていた。
野次馬は、鹿子ひとりだけではない。辺りを見回せば、敢えて捜さずとも目に留まる。名うての非正規英雄。いつか取り逃したA級の準悪魔たち。
噂の|真贋《しんがん》を確かめに、遠路はるばるやってきた――多くの人ならざる者たちの影と影がデビルタワー周辺に集い始めている。
今日、バハムートが討たれるか、それともリリアックが滅びるか。
どちらにせよ、ここで起きた戦いはこの場所だけのこととして終わらない。終わるはずがない。。無論、カイザーが動く。それに合わせてリザも動くだろう。リリアックが敗北したとして、まるで初めからそうであったようにばらばらになった四肢が個々の意思を持って動き始めるはずだ。
これは――石動堅悟が始めた戦いだ。
世界はぎりぎりのところで上手くバランスを保っていた。カイザーの暗躍があれど、英雄が楽しみのために人を殺そうと、全ては世界という名の巨大な装置を動かす歯車として――正常にその役割を果たしていたのだ。
それを、奴が狂わせようとしている。
だから、集う。非正規英雄も、準悪魔も、それらを統べる不可視の存在も。
無数の目が向く。彼の――彼らの戦いを、その結末を見届けるべく、鈴井鹿子も崩れゆく塔から決して目を離さない。
「戦いが、始まるんだ」
鹿子が呟く。
「いつも通りだけど、いつもと違う。英雄と準悪魔の――? ううん、もう、そんなに簡単な話じゃ、なくなってる」
簡単じゃないということは、これから先は、これまで通りではいられないということだ。
鹿子は想う。つい数分前まで隣にいた男の姿を。
滾る何かを隠しきれず、黒煙の塔に向かって走り出した、あの男の背中を。
「ねえ、間遠。あんたは、どうするつもり?」
誰のために戦う。何のために、剣を抜く。
「って、愚問もいーとこか」
鹿子は自嘲するようにため息を吐く。
「――それを、確かめに行ったんだもんね」
最上階が爆炎を吐き出すと共にオレンジ色の光を放った。
デビルタワー最上階。決戦の本会議室。
すでに剣と剣との間に火花は散らない。
涼しい顔の間遠に対し、堅悟の動きに余裕はない。
「正直に打ち明けよう、石動堅悟」
魔力が切れる。堅悟の手から剣が消える。
「俺は、正義も悪もどうでもいい。そもそも俺に、帰属意識なんてものはない」
和宮は機械的に堅悟との間合いを詰める。その挙動に、五感の一部を失った様子は感じ取れない。
「石動、お前の正体は――どれだ? うだつの上がらない高卒フリーター? それとも善性を権威ある他者から承認され、正義を標榜して浮かれていた英雄としてのお前か? 或いは、適性という名の現実に絶望し、天使たちに剣を向けた反逆者としての己か」
「黙れ!」
指輪の力を使う。熊のような腕を生やし、アンスウェラーの一撃を受け止める。けれど、これ以上は――。
「言葉でお前自身を規定しろ。俺に説明するんだ。お前が何者であるかを、俺に――教えてくれ。でなければ、俺はお前を」
「殺す――ってかい」
底をついた魔力、体力も限界に近く、先刻躱しきれずに抉られた脇腹の傷は見た目よりもずっと深い。
限界。
その二文字が脳裏を過ぎる。
間合いが、遠い。
目もかすむ。
そもそも連戦には不向きな能力だ。
だからといって|間遠和宮《イレギュラー》を責めることは出来ない。
これはむしろ想定されていた事態だからだ。
堅悟は、時間稼ぎに――笑う。
「間遠、俺を潰したところで、リリアックは死なんぜ。なんせ、俺たちは――」
「集団であり、個でもあるのだろう」
間遠はじらす。
自ら剣を消し去り、丸腰で堅悟と対峙する。
「お前が組織の細胞のひとつに過ぎないことは、理解している。だが、お前という男を形作る細胞は? お前を動かす歯車は、一体どこに眠っている。あまりに|茫洋《ぼうよう》としている。漠然としている。俺は、その答えを知りたい。定義づけるのは、飽くまでお前自身であると思っている」
「はは、茫洋ってかい」
堅悟は、やはり嗤う。
「よくわかんねーけどよ。まあ、なんつーか。どこで死のうと、文句は言わねえ。……そういう約束だ」
「ならば石動、お前はただ|蒙昧《もうまい》に海へと向かう、|自殺者《レミング》の一匹に過ぎないのか?」
「支配されたくないだけさ」
「支配、か」
ああ。
堅悟は頷く。
額の汗を拭う。
「生きるも死ぬも、俺が――決めるってことだ!」
そう言って、堅悟は間遠に背を向ける。
走る先は、黒煙の壁。
波打つ壁。
有機的でも無機的でもない、それは虚無という名の――
転落である。
「待て、石動堅悟――ッ」
声が響く。遠ざかる。遠ざかる。追っては来ない。来られない。
音は風だけになる。風は音だけになる。熱を持った黒い疾風。それが全ての呪縛を断ち切り、堅悟を緩やかな死へと誘った。ありとあらゆる音が消える。それと同時に音が満ちる。空が離れていく。死が近付いてくる。
傷口からぼろぼろと肉が削げ落ちていく。やがて骨だけになった身体も空に置き去りにされ、石動堅悟という個を持った何かだけが地上へと向かう。
「――いや」
まだ。
肉も骨も、意識という名の魂も、まだ自分自身という殻のままだ。
「さい、ごの――ちか、ら」
残っていた。
いや、残していた。
堅悟は強がる。
あと、何秒かだけ。
まるで人間のような黒い影が落ちてくるのを見た――と、誰かが言った。
ふ、と。それが光を放った、と。
そしてその直後、黒い影が、忽然と空から消えてしまった、と。
雨が、降っている。
傘を差して歩く人々の群れ。
歩く足取りは幼児のように|覚束《おぼつか》ない。不良同士のくだらない喧嘩か、或いは置き去りにされた酔っ払いか。そんなカラスに荒らされたゴミ捨て場を見るような目つきが、路上に|蹲《うずくま》った彼の背中に突き刺さる。
雨が、降っている。
アスファルトが膝を濡らす。脇腹から滲んだ血が、じわじわと広がり、痛みを抑えるためにと呼吸は次第に小刻みになっていく。
通行人たちは迷惑そうに素通りしていく。
この季節の雨を温かいと感じるのは、何かしらの末期症状なのだろうか。凍える、凍える、凍える、凍える。けれど、人々の無関心はそれ以上に冷たく感じる。
そして冷たさが、今度は彼にある種の心地よさのようなものをもたらした。
――いいさ。
そのまま死ぬまで興味を向けないでくれ。そして死体になった俺を見て、より蔑んだ目を向けるか、情けない奴だと嘲笑ってくれ。
石動堅悟は、朦朧とする意識のなかで、
「そこで、何をしているのですか」
やけに鮮明な声を、耳にする。
雨が止んでいた。それと同時に、|煩《わずら》わしかった雑音も、視線も、何もかもがぷつりと途絶えた。
ああ、死んだのか。
そう思った。
これでようやく楽になれるな、と思って立ち上がろうとして、すごく――痛くて、血が、また溢れてきて。
顔を、上げた。
そこにあるはずの誰かの顔を、見たかった。
見て、確認したかった。
やっぱりそうだ、と言いたかった。
「やっぱり、そうだ」
堅悟は顔をくしゃくしゃにする。
「翼、ちゃん」
スウェット姿にサンダルで髪もドライヤーで乾かしたばかりのようにぼさぼさだけれど、知性的で愛嬌なしの――天使のような女の子が、そこにいて。
「立てますか、堅悟様」
応えられず、|呻《うめ》き声をただ漏らすと。
「あまり、情けない姿を見せないで下さい」
眠るように気を失った堅悟の頭をそっとその胸に抱き留めて。
用なしになった傘が、こつんと音を立てて黒々と濡れたコンクリートに転がった。
第二十三話「そして終わりは始まらない」 完
さいたま新都心駅。そのアーチ状の屋根に上った鈴井鹿子は、近くのコンビニで買ってきたチョコ味のチュロスにかぶりつきながら、火を上げ、煙を噴き、咳をするように瓦礫を散らす――デビルタワーの最期を見届けていた。
野次馬は、鹿子ひとりだけではない。辺りを見回せば、敢えて捜さずとも目に留まる。名うての非正規英雄。いつか取り逃したA級の準悪魔たち。
噂の|真贋《しんがん》を確かめに、遠路はるばるやってきた――多くの人ならざる者たちの影と影がデビルタワー周辺に集い始めている。
今日、バハムートが討たれるか、それともリリアックが滅びるか。
どちらにせよ、ここで起きた戦いはこの場所だけのこととして終わらない。終わるはずがない。。無論、カイザーが動く。それに合わせてリザも動くだろう。リリアックが敗北したとして、まるで初めからそうであったようにばらばらになった四肢が個々の意思を持って動き始めるはずだ。
これは――石動堅悟が始めた戦いだ。
世界はぎりぎりのところで上手くバランスを保っていた。カイザーの暗躍があれど、英雄が楽しみのために人を殺そうと、全ては世界という名の巨大な装置を動かす歯車として――正常にその役割を果たしていたのだ。
それを、奴が狂わせようとしている。
だから、集う。非正規英雄も、準悪魔も、それらを統べる不可視の存在も。
無数の目が向く。彼の――彼らの戦いを、その結末を見届けるべく、鈴井鹿子も崩れゆく塔から決して目を離さない。
「戦いが、始まるんだ」
鹿子が呟く。
「いつも通りだけど、いつもと違う。英雄と準悪魔の――? ううん、もう、そんなに簡単な話じゃ、なくなってる」
簡単じゃないということは、これから先は、これまで通りではいられないということだ。
鹿子は想う。つい数分前まで隣にいた男の姿を。
滾る何かを隠しきれず、黒煙の塔に向かって走り出した、あの男の背中を。
「ねえ、間遠。あんたは、どうするつもり?」
誰のために戦う。何のために、剣を抜く。
「って、愚問もいーとこか」
鹿子は自嘲するようにため息を吐く。
「――それを、確かめに行ったんだもんね」
最上階が爆炎を吐き出すと共にオレンジ色の光を放った。
デビルタワー最上階。決戦の本会議室。
すでに剣と剣との間に火花は散らない。
涼しい顔の間遠に対し、堅悟の動きに余裕はない。
「正直に打ち明けよう、石動堅悟」
魔力が切れる。堅悟の手から剣が消える。
「俺は、正義も悪もどうでもいい。そもそも俺に、帰属意識なんてものはない」
和宮は機械的に堅悟との間合いを詰める。その挙動に、五感の一部を失った様子は感じ取れない。
「石動、お前の正体は――どれだ? うだつの上がらない高卒フリーター? それとも善性を権威ある他者から承認され、正義を標榜して浮かれていた英雄としてのお前か? 或いは、適性という名の現実に絶望し、天使たちに剣を向けた反逆者としての己か」
「黙れ!」
指輪の力を使う。熊のような腕を生やし、アンスウェラーの一撃を受け止める。けれど、これ以上は――。
「言葉でお前自身を規定しろ。俺に説明するんだ。お前が何者であるかを、俺に――教えてくれ。でなければ、俺はお前を」
「殺す――ってかい」
底をついた魔力、体力も限界に近く、先刻躱しきれずに抉られた脇腹の傷は見た目よりもずっと深い。
限界。
その二文字が脳裏を過ぎる。
間合いが、遠い。
目もかすむ。
そもそも連戦には不向きな能力だ。
だからといって|間遠和宮《イレギュラー》を責めることは出来ない。
これはむしろ想定されていた事態だからだ。
堅悟は、時間稼ぎに――笑う。
「間遠、俺を潰したところで、リリアックは死なんぜ。なんせ、俺たちは――」
「集団であり、個でもあるのだろう」
間遠はじらす。
自ら剣を消し去り、丸腰で堅悟と対峙する。
「お前が組織の細胞のひとつに過ぎないことは、理解している。だが、お前という男を形作る細胞は? お前を動かす歯車は、一体どこに眠っている。あまりに|茫洋《ぼうよう》としている。漠然としている。俺は、その答えを知りたい。定義づけるのは、飽くまでお前自身であると思っている」
「はは、茫洋ってかい」
堅悟は、やはり嗤う。
「よくわかんねーけどよ。まあ、なんつーか。どこで死のうと、文句は言わねえ。……そういう約束だ」
「ならば石動、お前はただ|蒙昧《もうまい》に海へと向かう、|自殺者《レミング》の一匹に過ぎないのか?」
「支配されたくないだけさ」
「支配、か」
ああ。
堅悟は頷く。
額の汗を拭う。
「生きるも死ぬも、俺が――決めるってことだ!」
そう言って、堅悟は間遠に背を向ける。
走る先は、黒煙の壁。
波打つ壁。
有機的でも無機的でもない、それは虚無という名の――
転落である。
「待て、石動堅悟――ッ」
声が響く。遠ざかる。遠ざかる。追っては来ない。来られない。
音は風だけになる。風は音だけになる。熱を持った黒い疾風。それが全ての呪縛を断ち切り、堅悟を緩やかな死へと誘った。ありとあらゆる音が消える。それと同時に音が満ちる。空が離れていく。死が近付いてくる。
傷口からぼろぼろと肉が削げ落ちていく。やがて骨だけになった身体も空に置き去りにされ、石動堅悟という個を持った何かだけが地上へと向かう。
「――いや」
まだ。
肉も骨も、意識という名の魂も、まだ自分自身という殻のままだ。
「さい、ごの――ちか、ら」
残っていた。
いや、残していた。
堅悟は強がる。
あと、何秒かだけ。
まるで人間のような黒い影が落ちてくるのを見た――と、誰かが言った。
ふ、と。それが光を放った、と。
そしてその直後、黒い影が、忽然と空から消えてしまった、と。
雨が、降っている。
傘を差して歩く人々の群れ。
歩く足取りは幼児のように|覚束《おぼつか》ない。不良同士のくだらない喧嘩か、或いは置き去りにされた酔っ払いか。そんなカラスに荒らされたゴミ捨て場を見るような目つきが、路上に|蹲《うずくま》った彼の背中に突き刺さる。
雨が、降っている。
アスファルトが膝を濡らす。脇腹から滲んだ血が、じわじわと広がり、痛みを抑えるためにと呼吸は次第に小刻みになっていく。
通行人たちは迷惑そうに素通りしていく。
この季節の雨を温かいと感じるのは、何かしらの末期症状なのだろうか。凍える、凍える、凍える、凍える。けれど、人々の無関心はそれ以上に冷たく感じる。
そして冷たさが、今度は彼にある種の心地よさのようなものをもたらした。
――いいさ。
そのまま死ぬまで興味を向けないでくれ。そして死体になった俺を見て、より蔑んだ目を向けるか、情けない奴だと嘲笑ってくれ。
石動堅悟は、朦朧とする意識のなかで、
「そこで、何をしているのですか」
やけに鮮明な声を、耳にする。
雨が止んでいた。それと同時に、|煩《わずら》わしかった雑音も、視線も、何もかもがぷつりと途絶えた。
ああ、死んだのか。
そう思った。
これでようやく楽になれるな、と思って立ち上がろうとして、すごく――痛くて、血が、また溢れてきて。
顔を、上げた。
そこにあるはずの誰かの顔を、見たかった。
見て、確認したかった。
やっぱりそうだ、と言いたかった。
「やっぱり、そうだ」
堅悟は顔をくしゃくしゃにする。
「翼、ちゃん」
スウェット姿にサンダルで髪もドライヤーで乾かしたばかりのようにぼさぼさだけれど、知性的で愛嬌なしの――天使のような女の子が、そこにいて。
「立てますか、堅悟様」
応えられず、|呻《うめ》き声をただ漏らすと。
「あまり、情けない姿を見せないで下さい」
眠るように気を失った堅悟の頭をそっとその胸に抱き留めて。
用なしになった傘が、こつんと音を立てて黒々と濡れたコンクリートに転がった。
第二十三話「そして終わりは始まらない」 完