バンは川沿いの道を走り続けている。
「それ、まだ着ていたんですね」
源静香は俺の羽織るコートを指して言った。
「大事にさせてもらっているよ。これ、結構な高級品らしいな」高価な物だと知ったのは最近の事だが。
みそかが変身に使用する際に言っていたもう一人の人物とは、静香だったのだろう。
「だけど、そのフリースとの組み合わせは微妙かな」
「これも大切な物なんだよ」
すると静香は、フリースをじっと睨み付け、「浮気性は相変わらずですね」と呟いた。
なんだそれは。
・
二年前
「今回の見積書になります」俺は茶封筒を差し出す。古典的な手段だが、情報漏洩を防ぐためには一番確実な方法らしい。
「はい」使用人の男は無機質に言って、封筒を受け取る。
俺が踵を返し出入り口に足を向けると、そこには静香が立っていた。
「いつもありがとうございます」
彼女は権威者さながらの傲慢さなどは少しも感じさせず、謙虚に頭を下げる。
「それでは、私が送っていきます」
彼女の言葉に使用人は一瞬たじろぐが、いつもの事だと引き留めることはしなかった。
二人そろって木々の生い茂る庭へ出て、俺はシャツの襟とネクタイを直す。
「そうやってすぐに身なりを整える癖は、女性慣れしていないみたいで格好悪いですよ」
「うるさいな」
「ところで、そのカバンにつけたストラップは誰にもらったんですか」
「客にもらったんだよ」俺が選んで購入した物ではない事はお見通しらしい。
「モテるみたいで、羨ましい」
「そういうのじゃない」
贈り主が女性であることも悟っているようだ。
源邸の周囲に広がる森の中での密会。
都心では見かけない野鳥が休んでいる。
「週末の虎ノ門、覚えてますよね」
「ああ。ちゃんと計画してる。静香が上手く抜け出せる事を期待しているよ」
今週末は虎ノ門で開かれるイベントを抜け出し、俺と密会する予定がある。
俺と静香の間柄は、やはり公に出来ない関係で、毎回こんな手段を選んでいる。
公になった場合のリスクは大きく、俺はともかく、会社への損害は計り知れない。正直、社会人として失格だろうが、関係を解消することは出来なかった。
冴えない日常に突如現れた非日常への分岐点。その道に足を向けずにはいられなかった。
そして、その非日常から目を醒ます事は未だできずにいる。
「難しいね。世間には七人の敵がいる」
「七人?誰の事だ?」俺が聞くと、静香は軽蔑するような眼差しを向ける。
・
現在
源邸宅まで数キロと差し迫り、多摩川沿いに車を停車した。
他にも数台のバンが停まっている。
降りると、百人は近い群衆。
俺は隣の源静香に視線を移すと、彼女はそっと頷く。
「既に説明した通り。私の集めた仲間達です」
俺が集めた数人の仲間に対して、静香が集めた圧倒的な数の同志達。数が全てではないだろうが、流石に差が開きすぎていると惨めな気分に包まれる。
実際、彼等は源静香の影響力に集まってきている訳なのだから。
「こんな目立つ事をしていて大丈夫なのか?」
「ここからは急行なので問題ありません。行き着く先は、見えませんが」
そして俺は彼女に背中を押される。
何か言えという訳だろう。
「今回、リーダーを務める竹ノ内だ。それぞれ秘める思いは違うだろうが、志は共有している筈だ。どうか、力を貸してほしい」
リーダーか。自分で言っておいて、おかしく思う。
「悪くなかったんじゃないですか」静香は言う。
「うるさい」
「そんなに深く考えない方が良いですよ」
「なんだって」
「彼等はあくまで同志ですから。どんな被害を受けようと自己責任なんですよ。そもそも、この騒動を始めたのは、」
静香が話している途中で、諸星が割って入るように、「そろそろ。私のお仲間にも声をかけますね」と言った。
彼の言う仲間とは、以前宗教団体に捕まった際に、桐谷の能力を披露し、心を掴み引き抜いた人々らしい。
・
寂しい人とむかしの人
再びバンに乗り込むと、静香が作戦の説明を始める。
「桶狭間の戦いは御存知ですね」静香は人差し指を立てる。
「織田信長と今川義元?」諸星が尋ね返す。
「はい。信長に倣って敵の背後から奇襲をかけるんですよ。すなわち、狙うは、源美咲です。彼女さえ人質に取れば、勝利はこちらの物です」
「簡単に言うな」俺は言う。
「私が連れてきた同志達には、源邸の本館正面で混乱を起こしてもらい、その機に乗じて、警戒の薄くなった別館に住む源美咲を討取る訳ですよ」
討取っては駄目だろう。
「各自の細かい動きはそれぞれ伝えますので、確認してください」
全員が静香の作戦を聞き終えた頃に、源邸の庭である莫大な森が視界の一面に広がる。その森の中央辺りの天頂から洋館の一角が見える。源家の邸宅、本館だ。
館を囲む外壁などは無く、周囲の森が結界として機能しているのだ。
だが、その侵入者を拒む迷いの森も静香が仲間に居る以上は格好の隠れ蓑である。
所定の場所へバンが停まり、俺達は降車して一斉に走りだす。
俺も仕事で此処を訪れていた時は、案内人に頼り切って邸宅まで行っていた。
そして今、俺は源静香の後を追う。
監視カメラの位置は把握している為、指向性の高い集音マイクに気を付けた方が良いとの事で呼吸を、足音を鎮めて歩く。
静香は「他人の作戦は聞かない方が良いですよ。豊さんは優しいので」と言った。
彼女はハッキリと言わなかったが、つまるところ、囮なのだろう。
そして、囮となる事に反発しない同志達は覚悟の上だったのだろう。
「あの灯りが見えますね、あそこが源美咲の館です」
深い闇のせいで識別できていなかったが、既に目的地の直前だったらしい。
静香は裏口の扉に近づく。
「指紋認証よ」
俺が「どうするんだ?」と尋ねるより先に、透明のシートを取り出し、認証機器にあてがう。
すると、ピピッと軽快な音が鳴る。
「厄介な鍵じゃなくて良かった」静香は言って、さっさと中へ入る。
俺もすぐに後を追う。彼女一人で片づくのではないだろうか。
・
影に隠れた大衆に混じる。
時刻を確認する。
「あと三十秒」
あと三十秒で突入の時刻になり、源静香の集めた大衆が一気にはじける。
騒ぎにより集まった使用人たちへの囮になることが目的だ。
「ゼロ」
誰かが言った。
それと同時に先頭の集団が走り出す。
勝ち鬨を上げる様に、唸り声が鳴り響く。
間もなくて、警報が鳴る。
途中で数人が道を分ける。そして、また数人が分散する。
あっという間に私達の目的である本館が姿を現す。それとほぼ同時に大量の使用人が溢れ出るのが見えた。
私達の規模を把握した上で差し向けたのだろう。
倒すでもない。足止めをするでもない。
ただ気を逸らすことだけが、私達の使命だ。
隣の諸星が息を切らしている。
「無理しないでくださいよ。そもそも適材適所ってものがあるんですよ」
「今更そんなこと」
「私達の使命は本館への突入です。私の見立てでは、本館内部に残された使用人は僅かである可能性が高いと思います」
「幸いですね」諸星は言った。
・
裏口を抜け、曲がり角から廊下を覗く。
6名の使用人。
「すぐそこが、姉様の部屋です」
その時、警報が鳴り、異常事態を伝えるアナウンスが流れる。
「ベストタイミング。それではナイフを」
俺は直ぐに用意する。
「ここからはノンストップです。内村さんお願いします」
「はい」内村さんもとい、みそかは丁寧な返事をして源美咲の姿へ変わる。
警報に従い6名の使用人が出ていくのを確認する。
「マニュアル通りであれば、使用人の一人は安全確認後に表口から戻ってくるでしょう。それを引きつけるために、表口まで向かってください」
彼女は頷き、出ていく。
「じゃあ、準備は良いですか。姉様は一人で過ごされている可能性が高いですが。もし、偶然に使用人が居た場合は戦闘を避けられません」
「分かってる」
「では、行きます」そう言った途端、静香は部屋の中へ飛び込んだ。俺もすぐに後を追う。
居間だろうか。部屋がいくつも分かれている為、六畳程度のそう広くない部屋。
籐椅子に座る源美咲と隣に、若い使用人が立っている。二人とも驚嘆の表情をみせる。
静香は動作を止めることなく、手にしたスタンガンを起動し、使用人の腹部へ差した。
使用人は全身をこわばらせ、直ぐに倒れこむ。
俺は、少し遅れて源美咲の口を塞ぎ、ナイフを喉元へ当てる。
瞬く間もない、出来事だった。
「成功ね」溜息をするように、静香は言った。
そして、ソファのカバーを剥ぎ、使用人の口と四肢を縛り、続けて源美咲の両腕を背後で縛る。
「間抜けな使用人で助かりました」
俺は、口の拘束を解く。
「どうするつもり?」源美咲は初めて口を開く。
「分かりきった質問は辞めてください。とにかく、余計な行動は避けてください。僅かでも抗う様子や、変身能力の兆候が確認できた場合、間もなく喉が開きますよ」
「それは人質に使う手段ではなく、従う他に選択肢の無い捕虜や奴隷に使う手段だと思うけど。例えば私が源家を守る為に自分を犠牲した場合は?」
確かに、源美咲の言う通りだ。
一方、静香は首を振る。
「傲慢な貴方は自己犠牲の精神なんて持っていない。自分が高みに立つ為なら家族だって犠牲にする人間ですから」
静香が言うと、源美咲は「確かに」と笑った。
「女性相手はやりにくいでしょう」静香は、俺と役割を交代すると、直ぐに歩き始めた。
しかし、静香の作戦は不確定要素が多すぎる。相手が強大であるが故の妥協点。だとしてもだ。
そもそも、俺は静香の本懐を知らない。
俺に協力する理由。いや、俺が彼女の作戦に組み込まれた本当の理由を知らなかった。
・
本館は歩兵がいなくなり、後は王将を残すのみとなった。
「竹ノ内さん達は無事、成功したみたいですね」
「ええ」
「僕達の役目も一先ず終わりですかね」
「そうですね」
では、これからどうするべきか。
もともと私を切り捨てた源家への復讐へ来たわけで、その為に私へ課せられた役割は達成された。
源静香にとってみれば私達など使い捨ての駒に過ぎず、私の生き死になど、計画に入っていないだろう。
だが、そんな扱いを受けるのも一度で慣れてしまった。
今、私がするべきことは最後の闘いの場であるこの聖域を守る事に徹することだろう。
本館の奥へと進み続ける。警報のせいでもあるが、この広い館には相変わらず人がいない。
扉を開けると、再び廊下が広がる。そこに並んだ幾つかの木造椅子。
その最奥の席に、男は座っていた。
「久しぶりだな。8号」
筋骨隆々の男。
金将のおでましだった。
しかし、この男の反応は、何だろうか。
「お知り合いですか?」
「私と同じ被検体の一人。第1号と呼ばれていた男で見ての通り、屈強な体躯が自慢だけど変身能力の適合者にはなれなかった結果。今では使用人として再雇用されて楽しくやってるみたいね」
「相変わらず癪に障る奴だな」1号は地に響きそうな、低く太い声を出す。
「相変わらず癇が強いですね」
「やばそうですよ。喧嘩売ってないで、逃げましょう」
「逃げる?」
「直に竹ノ内さん達が源美咲を連れてくれば、戦闘は避けられるじゃないですか」
道理的に考えればそうなるが、直情型のこの男が、人質で簡単に退くとも思えない。
むしろ冷静さを失ったこの男は何をしでかすのか分からない。
ならば。
やはり、リスクを減らすべきだ。
「合流までに処理する」
指輪をはめ、傭兵に変身する。
それが戦闘開始の合図となり、お互い一気に間合いを詰めると、先ず1号が右腕を振りかぶる。
私が1号の腕を払い、左腕を腹へ入れるがすかさず下段受けで払われ、そのまま腕を掴まれ、一気に地面へ倒されてしまう。
「ちょっと何してるんですか。桐谷さんと呼べばいいですか?」諸星が戸惑う。
諸星に構っている暇はない。
1号の追撃を逃れ、すぐに立ち上がると今度は蹴りが飛んでくる。身体を屈め上段受けの構えを作り蹴りを受け止める。あまりに重い一撃。反撃に転じるよう姿勢を整えていたが、立て直すことは出来ず、1号の鉄拳が腹にめり込む。
視界がゆがみ、思考が停まる。
視界が落ち着いた時には、世界の角度が変わっていた。
私の身体が崩れ落ちていたのだ。そう気づいた時には、1号の蹴りが再び懐へ入り込んでいた。
吹き飛ばされ、胃液が口から漏れ出る。
「いい加減にしろ」諸星が叫びながら、1号に飛びかかる。
半紙でも相手にするみたいに軽く薙ぎ払う。
ああ、ここで死ぬかもしれない。それも、仕方ないのか。偶然繰り越された死が、今訪れただけだ。
まだ決まっていなかった死に場所が、ここに決まっただけだ。後悔はない。
1号は倒れる私に目もくれず、興味は諸星に移っている。
このままでは諸星から殺される。
それは、許せなかった。
「お、まだやるのか」
気づけば、身体を起こしていた。
真っ当にやり合って敵う相手ではない。
私は変身装置の腕輪を外した。
「降伏のつもりか?そんなに甘くない」
1号はニヤリと笑い、一気に詰め寄り、大振りする。
私はそれを避けるでもなく、正面から両手で受け止める。格闘技としてはあり得ない行動であるが、私は腕輪を彼の腕に巻きつける。
その途端、彼の全身が反り返り身体の底から、絞り出すような雄叫びを上げる。
叫び声は呻き声に変わり、上腕に血管が浮かび、身体が屈曲していく。
これ以上はまずい、そう判断し、腕輪を外す。
「殺す訳にはいかないですから」
1号は、息を荒げて倒れている。
これで一先ず、役割は終わりだろう。
だが、1号が私を見た時、少しも不審に思う様子がなかった事が気にかかる。。
・
半年前
生きて、この館を出られるとは、思わなかった。だが、命と引き換えに全てを失った。言葉の通り、命以外、何も無くなってしまった。
俺と静香の関係が華族に知られてからは、あっという間だった。
築き上げてきた、地位と権力、家族までも。
失ったものが多い分、空虚は大きくなり、最早、空虚感など無い。虚ろである事が正しく、唯一残った、命こそが異物である気がして、それこそが、華族の狙いなのだろう。
ただ、もう一つ残ったものがある。
「このまま、泣き寝入りしませんよね」
静香は、俺の瞳をじっと見つめる。
「悪いが。今は何も考えられない」
「そうですか」
俺は静香の後を追う。
昼間でも薄暗い森の中は、幻想的で、静香の姿は神聖な物に見える。
この期に及んでそんなことを思う。
「私を責めないんですか?」
「そんな事できない」
「貴方だけ辛い思いをして、私が御咎め無しなんて、あまりに不公平ではないですか」
「そんな問題じゃないだろう」
しばらくして静香は足を止め、大きな切り株に腰掛ける。
「こんな切り株。あったっけ?」
「ちょっと寄り道」
そして、差し出された左手を俺は受け入れる。
二人並んで切り株に座り、息を合わせるように、ゆっくりと上体を倒した。
大人二人分くらい、余裕で許容してしまう程に立派な切り株の年輪をそっと撫でる。静香も、その仕草を真似する。
「こんな時に何してるんだろうか」
「もう失う物なんてないじゃない」
皮肉な言葉だ。
静香は「ねえ」と言い、繋いだ右手の指と指の間をくすぐり始める。
「…いいのか?」
「大丈夫。豊さんは音を立てない方だから」
静香の仄めかす表現は、かえって猥らに感じる。
陽が沈み、森の中は完全な闇に包まれた。変な獣でも出てきそうだ。
俺達は絡めた指をゆっくり解いていき、残った小指を静香は強く固めた。
「やっぱり、このままでは駄目だと思う」
「何?」
そして、静香は源家打倒の作戦を語り始める。
「そんな事を考えてたのか」器用なものだ。そして、なんとなく不服である。
「ええ。どうですか?」
「分からない」それが正直な意見だ。静香が仲間になるとはいえ、源家の牙城など崩せるのか。
「だが、どうしてそこまで献身してくれるんだ?何故、源家の打倒なんて考えるんだ?」
「情夫の為ですから」
胡散臭い言葉だが、今はそれ位が丁度良かった。