「恋の形」作:エイピー(0416 00:12)
この窓から、彼を見るのが好きだった。
彼は陸上部の短距離選手で、いつも校庭の端で練習していた。
校舎の影になりがちなその場所を見下ろせるところは限られていて、美術室はそのうちの一つだった。そしてそれが、私が美術部に入った唯一の理由だった。直接陸上部に入らなかったあたりから、私の性格を推し量ってほしい。
彼とは同級生だったが、雑談という意味で話したことは一度もない。
ただ入学直後のキャンプで、私が取り落とした薪を拾い、運ぶのを手伝ってくれたことがあるだけだ。彼は覚えてもいないだろう。しかしそれ以来、私は彼のことを好きになってしまった。
不純な動機による入部だったので、美術部で何をするべきかについてはしばらく悩んだ。この窓際の席に、いつも座っている理由が必要だった。
石膏像でも作ったらどうだと先輩に言われたので、ありがたくそれに従うことにした。
右利きの私にとってモデルにし易かったという理由だけで、ひたすら左手をモデルに作り続けた。
なぜ左手ばかり作るのだと何度も訊かれたが、時間潰しなのだから何でもよかった。石膏像を作るためには様々な工程がありそれなりに面倒だったが、立体を作るのは意外に性に合っていたらしい。油絵を描く先輩の姿を見るたびに、あれだったら早々に辞めてしまっていたなと思っていた。
新緑が繁り、蝉が鳴き、葉が落ちるまでにたくさんの左手ができた。決して真面目ではないのだが、石膏像は大体一月で一つ出来上がってしまう。毎回一から作り直していたので、同じに見えて全部違う。美術室の一角は、私の左手のレプリカで埋まっていった。
彼とはクラスが違っているので、特に近付くチャンスはない。
私は一方的に、自己満足にしかすぎない思い出を増やしていた。それは廊下ですれ違ったとか、登校するところを見かけたとか、そのくらいの小さいものだったが。
年が明け、来年のクラスは一緒になれたらいいななどとぼんやり思っているうちに、ふとした話題から彼に恋人ができたことを知ってしまった。
私の友人が、なぜそのことを知っていたのかは分からない。
そしてなぜ、それを話題にしたのかも分からない。
もしかしたら私の気持ちはみんなにバレバレだったのかもしれない。もしかしたらただ偶然、そういう話題になっただけかもしれない。よく覚えていない。
それを聞いた瞬間、世界と私の間に大きな隔たりができたようで、景色は色褪せ、友人の声はどこか遠くで響いていた。
その話にどう答えたのかは覚えていないし、どのようにして家に帰ったのかも覚えていない。そんな状態だったが真っ先に私の頭を駆け巡ったのは、「あの石膏像、どうしよう」というものだった。本当に馬鹿げたことだ。
家に着いてからも涙は出ず、少しぼんやりとはしていたもののいつもと同じように振舞えた。それは寝るときも、翌日目覚めてからも、登校してからも同じだった。
彼の恋人は陸上部の同級生だそうだ。小さくて可愛らしい女の子で、私も見かけたことがあった。彼の隣にいる彼女を想像するだけで、とてもお似合いだった。
その日の放課後、私は美術室に向かった。
真面目な部活でもないので、誰もいなかった。夕日の満ちる静かな部屋に、遠くの運動部の声が散らばっている。
戸を開けた姿勢のまま、私は私の左手たちを眺める。これを見た他の部員たちが「怖い」と言っていた意味が、やっとわかった気がした。
私はゆっくり左手の棚に近付いた。
窓の外に視線がいかないように注意しながら左手たちをもてあそんでいると、たまたま手首と掌がぴったりと噛み合った。
片方は、六月に作ったものだ。
下駄箱の前で、傘を忘れて空を見上げる彼を見かけたことを覚えている。相合傘を申し出ようかと悩んだが、そんなことは到底できるはずもなかった。開いた傘の隙間から彼の横顔を盗み見て、そのまま帰ってしまった。
もう片方の手は、秋口に作ったものだ。体育祭で彼は百メートル走に出ていた。他のクラスの男子のずるいぞという野次に笑顔で答えていた。
一つ一つ、覚えていないと思っていた。
しかし実際に手に取ってみると、彼の思い出と共にはっきりと思い出せる。
私は次の左手を手に取った。
これは最初に作ったものだ。初めての作業だったのでとても苦労した。改めて見ると、やはり色々と荒削りだ。この時の私は、九ヵ月後の私にもっと期待をしていただろう。彼と仲良くなって、名前を呼んでもらえて。そんな未来を想像していただろう。
最後に、つい先日出来上がったばかりの像が残された。これを作っているときは、恋人がいるなんて考えもしなかった。
苦労しながらそれを一番上に載せると、七つの左手が一つにまとまった。
奇跡的にバランスの取れた、左手だらけのおかしなオブジェ。
これが私の恋だったのだ。
夕日に照らされたそのオブジェの前で、私は初めて泣けた。