「ただいま」
返事がないことに慣れていた。バッグをベッドに投げ捨て、ジャケットをハンガーにかける。部屋に充満する、私のではない匂い。机の上には原稿が散らばっていて、物語を紡ぐ音が部屋に響く。錆びて捨てられたペン先が、床を墨汁で汚していた。彼の横顔をじっと見つめる。煙草の煙が、彼の顔と女の匂いを少しだけ消していた。純粋に打ち込む姿が好きだった。彼には漫画しかないのだと思っていたのは、もうはるか昔。なんとなく気付いたときに放ったらかしにした私が悪いのか、最近は証拠があちらこちらに転がっている。もう今さら昔に戻る術はなく、前に進む道しか存在しない。私はもう一度、口を開いた。
「ねえ、結婚しよっか」
煙草の煙が揺らぐ。
現実では何も起こらず、漫画の中でだけ、時が進んでいった。