クオリアというものがある。
あなたは5を何色だと思うだろうか。優しい緑?中途半端な黄土色?
数字を見て色が浮かぶ。料理を食べて音が聞こえる。それがクオリア。「共感覚」と言われるものだ。
篠目洋子は紅く染まったアスファルトを踏んでいた。数人の友達と学び舎からの離脱を図ったのだった。
退屈な学校。真っ白な校舎は感情を失った人間のようにいつまでも白く聳えていた。
色を感じない建物。そこから開放される事は、とてつもない至福に思えた。
「あーあ。ほんっとタルいよなぁ」
一人が口を開く。洋子の目にはその子が紅く染まるのが見えた。
「マジ長谷川の奴うぜぇ。エロ目使ってくんじゃねーよ」
もう一人も紅く染まる。
「マジ学校とかいらねぇ」
友達は次々と紅く、黄色く、オレンジに染まっていった。
洋子にもクオリアがある。しかし他人とは少し違う。
人の感情の移り変わりが色として頭に浮かんでくるのだ。
怒りは赤、笑いは黄色、混ざればオレンジ。悲哀は青、冷静は緑と言った具合だ。
目の端でカラフルな友達を写しながら、洋子は空を仰いだ。
いつもと変わりの無い夕日。こればっかりは感情の移り変わりなくとも鮮やかに色を変えていくものだなと目を細めた。
やがて線路が見えてくる。近づくにつれて細い黒と黄色の棒も見えてきた。目の前まで来たとき、生まれたての赤ん坊のように、警鐘が鳴った。
降りてくる踏切。まだ学校に文句を垂れる友達。民家の近くのゴミをあさる猫。―――日常だ。
そして通り過ぎる長方形も、生じる轟音も、目が合いそうで合わない長方形に乗り込んでる人間も。
唯一、たった一つ、轟音が消えた後、向かいの踏み切りの前に立つ青年だけが、非日常を具現化したように置かれていた。
黒いのだ。その青年だけが、友達とも、空とも、線路とも違い、ただひたすらに黒かった。
黒は―――殺意。
過去に一度だけ見たことがある。黒い人間が目の前で人を刺し殺すところ。
何故殺したのかは分からない。ただその黒は、噴出す血と共にゆっくり引いていった。
洋子はそんな危険な感情を持った人間に恐怖し、そして、すごく興味を覚えた。
踏切が上がる。歩き出す友達。歩き出す洋子。足を踏み出す青年。
「あ、あの人イケメンじゃなかった?」
「マジで?あたしもそう思った。」
線路の上ですれ違うとき、数人がそう漏らした。
洋子は興味に負けた。その不謹慎な興味は、洋子を行動させるに十分なほど膨れ上がっていた。
「私、ちょっとあの人知ってるかも。ちょっと話してくる」
本当は知らない。だがそんな嘘を付いてしまうくらい洋子はその黒い男に惹かれていた。
「あんなイケメンと知り合いとかマジ嫉妬なんですけどー」
既に走り出した洋子の耳に届いた言葉は、少し赤みがかかっていた。
「あの」
洋子は短く声をかけた。黒い人は少し長めの髪を揺らしながら、ゆっくり振り向く。
「なんですか?」
ちょっと低い、だけど優しい声で黒い人は答えた。
さて、どうしたものか。いきなり「人殺そうとしてますよね?」は不味いだろう。いや不味すぎるか。
微笑みながらこちらの返事を待つ青年がとても人を殺そうとしているように見えないのが、余計に洋子の返事を遅らせていた。
「具合が悪いのですか?」
青年は洋子の心配までしだす始末。以前黒いまま、青年は不安そうな顔をする。
「あ、そ、そうではなくてですね。貴方が少し知り合いに似ているたものですから、もしかしたらと思いまして……」
普段使いなれていない敬語を駆使して言い訳をする。決して不謹慎な興味を悟られてはいけない。洋子はそう思った。
「そうですか。でも僕は少し覚えがありませんね。人違いでは?」
「そ、そうみたいです。ごめんなさい。」
思わず普通に答えてしまう。青年の言葉にはそうさせる何かがあるように感じた。
「えと、そうですか。えーと、それじゃあ……さようなら。」
青年も青年であまりに普通な対応に面食らったようだ。以前黒いままで。
不謹慎な興味はどんどん膨らんでいくのに、上手くいかない現状に、少なからず洋子はやきもきしていた。
もう言ってしまおうか、「人を殺そうとしてますよね?」もう頭のおかしい娘だと思われてもいい。
知りたかった。昔見た、返り血にまみれながら色を失う人の考えていることを。
脳裏に焼きついたあのシーンの前後は曖昧で覚えていないが。洋子はそこにもう一度たどり着きたかった。
自分でもおかしいと。狂っていると分かっている。しかしそれは止まることなく、今までずっと心の片隅にあった。
ゆっくりと会釈をしながら、青年は進行方向に向き直った。それは別れの合図。もう二度と会うことのない黒い人との別れを表していた。
「人を……人を殺そうとしてますよね」
遂に口から出してしまった。分かれ道になる言葉。こちらは興味がある。そして相手の興味を引けるか否かの。
青年はまたゆっくり振り返る。先ほどの優しさは消えていた。細めた目からは黒い光が漏れ出していた。
―――狼。
洋子はそう感じた。自分には向けられていないのが分かるが、殺気が大きさを増し、どす黒くなっていくのを感じた。
「何故……そう思いましたか?」
尚も優しい声で青年は問う。
「分かるんです。人の感情が」
洋子は答える。馬鹿げた答えだ。しかし確信があった。この人はこの言葉に興味を示す。
細めた目を更に細めながら、狼は納得したようにうなずく。
「なるほど……でも貴方ではなさそうだ」
意味深な言葉。洋子はもちろん理解できなかった。狼は続ける。
「僕の名前は天城透。多分また会うと思います。あなたの名前はそこでお聞かせください」
ふんわりと優しい笑みを顔に貼り付けながら、狼は消えていった。
洋子はへなへなと、既に紫に染まりつつあるアスファルトに座り込むと、これから壊れていくであろう日常に、少し恐怖し、すごく興味を覚えた。
オルトロス
あれから三日が経った。
相も変わらず三角関数は分からないし、副詞節を使わない英文を量産していた。
「おい篠目。ちゃんと聞いているのか?」
猿のような顔をしている古文の教師が洋子を叱咤する。赤に若干の黒が混ざっていた。
仮にも教師が、注意力散漫の生徒に対して軽く殺意を覚えていいのか、と洋子は呆れながらも背筋を伸ばした。
猿教師から黒が消える。子供だましの黒だ。あの程度じゃ行動までは行かない、それは分かっていた。
見える色の種類と濃さが人間の感情と行動を表していることを、長年の「クオリア」生活で理解していた。
例えば、『赤』
赤は怒りの色。感情の昂ぶりを表している。ちょっとイラっとしている時は薄い、半分透明のような赤
本気で怒り、後一歩キレるかキレないかは真紅。鮮やかな紅。
感情が見えてしまうと、他人のご機嫌取りはまるでゲームのようで、洋子にとってはお手のものだった。
「ここに青を足して……そうそう、そのまま色を薄く……あぁおしいなぁ。もう一押しか」
こんな風に他人の感情を直で「見る」ことが出来る能力は、誰にでも好かれる「篠目洋子」を作り上げる要因の大半を担っていた。
だが、疲れる。何の刺激も無く。ただ淡々と流れる時間が、シャンパンをジャバジャバと便器に注いでる様に感じる。
それが日常と分かっていても、どこかで求めていることは誰しもの中で気づいているのではないのか。
「私は求めている。交錯する意識の中心に突き刺さる巨大な槍を」
「私は求めている。見渡す限り続く墓の下から無数に腕が生える瞬間を」
「私は求めている。死刑囚に振り下ろされる無慈悲な一鎚を」
だがそれはいつまで経ってもこちらに歩み寄って来てはくれない。
そして自分で捜し歩いても全く見つからない。それが洋子にとって一番の悩みだった。
くだらない、と斜に構えている訳ではない。寧ろ、それら日常に立ち向かってさえいた。なのに―――
洋子は自分の顔がだらしなく緩んでいるのに気が付いた。いけない。誰にも悟られてはいけないのだ。
いつも通りの誰にでも好かれて、ちょっと日常にうんざりしている、どこにでもいる女子高生を演じなければ。
頭の中でどんなに「いつもの日常」を描いても、それが崩壊を始めてることを知っている事が必然的に頬を緩めた。
誰にも悟られてはならない。横取りや妨害にあうのはごめんだ。これは幸せな不幸なのだから。
黒い人。真っ黒な色をしていた青年、いや―――狼。
猿教師とは違うどす黒い明確な殺意を持っていた。誰を、何のために、いつ、どこで、どんな風に殺すのか。それは分からない。
もう殺してしまっているかも知れないし、まだ殺していないかもしれない。
しかし彼は言った「また会うと思います」
その言葉だけで洋子の中で十分なカオス因子となりえた。
あの色は何かを壊してくれる。あの便器に垂れ流されていたシャンパンを、しっかり私に口移してくれる。胸が高鳴った。
ニヤニヤが止まらない洋子に二度目の叱咤が来るのに、そう時間はかからなかった。
今日は一人で帰ろう。そう決めた。
まぁいつも一緒に帰っていた友達が数人休んでいたし、サボらなければ自分以外の友達には部活があるのだ。
この前はたまたま7時限目をその友達の思いつきでサボっただけであって自分から動いた訳ではないのだから。
自分の本質はおそらく「根は真面目で人嫌い」
だけど「見えてしまう」洋子にとって、それを表に出すことはすなわち、汚い色を自分に向けられているのが分かるため苦痛だった。
周りに合わせて、周りの機嫌を取って、普通に生きる事が当たり前になっていた。
そういえば、市営の図書館で借りた本の貸し出し期限が今日だったな。学校目の前の十字路でそれを思い出し、家とは逆の方向に洋子は足を向けた。
少し小高い丘の上に、その図書館はある。学校と同じ白い壁なのに空虚な感じはしなかった。
優雅な貴婦人を思わせるその色は、感情を失った人間とは絶対に言えないなと自動ドアをくぐりながら思った。
本の臭いがする……嫌いじゃない。古本も新刊も全部混ざった臭い。とても落ち着くものだった。
カウンターで借りた本を返すと、洋子は広めの本の森を散歩し始めた。
一番奥の、一番日の当たらない、一番じめじめした場所がちょっとしたお気に入り。
神話、宗教、心理学の本がずらりと並ぶその場所から、長い間誰も手にしなかったであろう古い本を取り出す。
「神の贈りしもの」
その題名はとても嫌なものだった。洋子にとって、いや世界にとっての預言書のように感じた。
日本の詩人、尾田正拓は「神が芸術に目覚めた。そして天使はコピー機を愛という電源に繋げた」と自身の著書に記した。
今から17年前、世界中で全く症状の違う原因不明の病気が急激に増え始めた。
患者からは決まって同一のウイルスが見つかったにも関らず、症状は全て異なっていた。
ある者は、体中の筋肉が全て溶けた。
ある者は、まるでスイッチを切るかのように突然五感を失った。
ある者は、体内で自分を複製し、内臓を圧迫して死んだ。中の自分も死んだ。
粘土を捏ね、絵を描くが如く新種の病気は増えていった。
性交による感染率はほぼ100%
その他感染者体液摂取による感染率が2%
夫婦、恋人、親子。感染を恐れた末に離れていくケースは少なくはない。
これら全てを踏まえて尾田正拓はああいった表現をした。
現にその半年後彼は妻との性交の果て、妻と同じように全ての骨を収縮させて死んだ。遺書には「共に」とだけ書いてあった。
WHOはこれら原因不明の病気を総じて「神からの贈り物症候群(ギフト)」とした。
日本はこの異常な事態を重く見て、一つの法律を制定した。
「ギフト患者のみ安楽死を認める」
今は2012年。この本が出版されたのは1973年。差し引いてもギフトが確認される22年前にはこの本は既に存在していたことになる。
洋子はその本を棚に戻した。嫌な気分になってしまった。題名も見ずランダムに本を一つ引き抜いて、近くの机に向かった。
神話の本だった。中国、ヒンドゥー、ゾロアスター、日本、ギリシア、様々な神話、神々の紹介が延々と紙の上でなされていた。
特に面白くもつまらなくも無い、暇つぶしにはちょうど良い本だった。
パラパラとページをめくる。おそらく明日には忘れるだろう神々の勇姿を頭で思い描きながら、ふっと壁にかけてある時計を見た。
16時30分。まだ家に帰っても暇なだけだ。もう少し読んでいようか。洋子は止まった手をまたページを捲る作業に戻す。
誰かの咳が静かな図書館に響く。そしてまた静寂。
紙が擦れ合う音が、ただ壁に染み込んでいった。
ふっと何かが首筋を撫でた。物質ではない感覚的な何かがはっきりと洋子に触れていた。
バッと洋子は振り向く。
「こんにち……」
その声と洋子の振り向きはほぼ同時だった。その声の主は、まるで声をかけられるのを分かっていたかのような洋子の反応の速さに、細い目をパチパチさせた。
洋子も驚いた。そのシンクロに対してではなく、そこに立っている男に。
「あの男がいるかもしれない。あの黒い人、天城透が。」
そう考えて振り向いて、ホントにいたらそれは驚いて当然であろう。
数秒見つめあった後、黒い人、透が口を開いた。
「隣、いいですか?」
洋子は頷く。しなやかな動きで椅子を引き、座る。無駄のない一連の行動は訓練された兵士のようだった。
「久しぶりですね。また会えると思っていましたよ」
黒さが全く変わっていないことに対し、洋子は少し安心する。この黒さが日常を壊すウイルスとなりえると洋子は確信を持っていた。
「私もです。会えると思っていました」
徹は切れ長の目で洋子を見つめながら微笑む。洋子も目を逸らさない。互いが互いを獲物と思っている。そんな空気が図書館の一角に漂っていた。
「そうそう。この前聞かなかったあなたの名前、今教えて貰えますか?」
「篠目……篠目洋子です」
偽名なんてちゃちな真似はしない。狼は嘘が得意な生き物だ。すぐバレる。どうしても頭の中で相手の思考を読もうとしてしまう。
黒によって全ての感情が飲み込まれている透の考えは、他の「日常付き合う人」とは違って少しも読むことが出来なかった。
「洋子……洋子さんですか。良い名前ですね」
笑顔が張り付いたその顔の下はどんなに長い牙が隠れているのか。洋子は透のどんな動きも見逃さないように、全神経を開いていた。
透は洋子が今まで読んでいた本を覗き込む。
「オルトロス……ですか」
悪魔から生まれた双頭の犬。
その名を口にした透の顔は更に笑顔になり、目を極限まで細めていた。
「僕はね……犬として育てられたんです」
急に突拍子の無いことを言い出す。しかし洋子は目を爛々と輝かせてその話を聞こうとしていた。
これは絶対に面白い話だ。そう思った。
「つまらない話ですよ?聞きたいですか?」
明らかな興味を全身から発しているのに気づいているだろうが、透は焦らす。ニヤニヤとしながらもう一度本に目を向ける。
「是非」
少し鼻息を荒くしながら洋子は懇願した。
透の色が濃さを増した。既に暗黒の様に黒いのに、さらに濃く、深くなった。
―――底なしの殺意。
「そうですか。それでは少しお話しましょう」
すぅっと伸びをしたあと、洋子の目の奥の洋子自身を見据えながら、透の声はなおも優しく、恐ろしかった。
相も変わらず三角関数は分からないし、副詞節を使わない英文を量産していた。
「おい篠目。ちゃんと聞いているのか?」
猿のような顔をしている古文の教師が洋子を叱咤する。赤に若干の黒が混ざっていた。
仮にも教師が、注意力散漫の生徒に対して軽く殺意を覚えていいのか、と洋子は呆れながらも背筋を伸ばした。
猿教師から黒が消える。子供だましの黒だ。あの程度じゃ行動までは行かない、それは分かっていた。
見える色の種類と濃さが人間の感情と行動を表していることを、長年の「クオリア」生活で理解していた。
例えば、『赤』
赤は怒りの色。感情の昂ぶりを表している。ちょっとイラっとしている時は薄い、半分透明のような赤
本気で怒り、後一歩キレるかキレないかは真紅。鮮やかな紅。
感情が見えてしまうと、他人のご機嫌取りはまるでゲームのようで、洋子にとってはお手のものだった。
「ここに青を足して……そうそう、そのまま色を薄く……あぁおしいなぁ。もう一押しか」
こんな風に他人の感情を直で「見る」ことが出来る能力は、誰にでも好かれる「篠目洋子」を作り上げる要因の大半を担っていた。
だが、疲れる。何の刺激も無く。ただ淡々と流れる時間が、シャンパンをジャバジャバと便器に注いでる様に感じる。
それが日常と分かっていても、どこかで求めていることは誰しもの中で気づいているのではないのか。
「私は求めている。交錯する意識の中心に突き刺さる巨大な槍を」
「私は求めている。見渡す限り続く墓の下から無数に腕が生える瞬間を」
「私は求めている。死刑囚に振り下ろされる無慈悲な一鎚を」
だがそれはいつまで経ってもこちらに歩み寄って来てはくれない。
そして自分で捜し歩いても全く見つからない。それが洋子にとって一番の悩みだった。
くだらない、と斜に構えている訳ではない。寧ろ、それら日常に立ち向かってさえいた。なのに―――
洋子は自分の顔がだらしなく緩んでいるのに気が付いた。いけない。誰にも悟られてはいけないのだ。
いつも通りの誰にでも好かれて、ちょっと日常にうんざりしている、どこにでもいる女子高生を演じなければ。
頭の中でどんなに「いつもの日常」を描いても、それが崩壊を始めてることを知っている事が必然的に頬を緩めた。
誰にも悟られてはならない。横取りや妨害にあうのはごめんだ。これは幸せな不幸なのだから。
黒い人。真っ黒な色をしていた青年、いや―――狼。
猿教師とは違うどす黒い明確な殺意を持っていた。誰を、何のために、いつ、どこで、どんな風に殺すのか。それは分からない。
もう殺してしまっているかも知れないし、まだ殺していないかもしれない。
しかし彼は言った「また会うと思います」
その言葉だけで洋子の中で十分なカオス因子となりえた。
あの色は何かを壊してくれる。あの便器に垂れ流されていたシャンパンを、しっかり私に口移してくれる。胸が高鳴った。
ニヤニヤが止まらない洋子に二度目の叱咤が来るのに、そう時間はかからなかった。
今日は一人で帰ろう。そう決めた。
まぁいつも一緒に帰っていた友達が数人休んでいたし、サボらなければ自分以外の友達には部活があるのだ。
この前はたまたま7時限目をその友達の思いつきでサボっただけであって自分から動いた訳ではないのだから。
自分の本質はおそらく「根は真面目で人嫌い」
だけど「見えてしまう」洋子にとって、それを表に出すことはすなわち、汚い色を自分に向けられているのが分かるため苦痛だった。
周りに合わせて、周りの機嫌を取って、普通に生きる事が当たり前になっていた。
そういえば、市営の図書館で借りた本の貸し出し期限が今日だったな。学校目の前の十字路でそれを思い出し、家とは逆の方向に洋子は足を向けた。
少し小高い丘の上に、その図書館はある。学校と同じ白い壁なのに空虚な感じはしなかった。
優雅な貴婦人を思わせるその色は、感情を失った人間とは絶対に言えないなと自動ドアをくぐりながら思った。
本の臭いがする……嫌いじゃない。古本も新刊も全部混ざった臭い。とても落ち着くものだった。
カウンターで借りた本を返すと、洋子は広めの本の森を散歩し始めた。
一番奥の、一番日の当たらない、一番じめじめした場所がちょっとしたお気に入り。
神話、宗教、心理学の本がずらりと並ぶその場所から、長い間誰も手にしなかったであろう古い本を取り出す。
「神の贈りしもの」
その題名はとても嫌なものだった。洋子にとって、いや世界にとっての預言書のように感じた。
日本の詩人、尾田正拓は「神が芸術に目覚めた。そして天使はコピー機を愛という電源に繋げた」と自身の著書に記した。
今から17年前、世界中で全く症状の違う原因不明の病気が急激に増え始めた。
患者からは決まって同一のウイルスが見つかったにも関らず、症状は全て異なっていた。
ある者は、体中の筋肉が全て溶けた。
ある者は、まるでスイッチを切るかのように突然五感を失った。
ある者は、体内で自分を複製し、内臓を圧迫して死んだ。中の自分も死んだ。
粘土を捏ね、絵を描くが如く新種の病気は増えていった。
性交による感染率はほぼ100%
その他感染者体液摂取による感染率が2%
夫婦、恋人、親子。感染を恐れた末に離れていくケースは少なくはない。
これら全てを踏まえて尾田正拓はああいった表現をした。
現にその半年後彼は妻との性交の果て、妻と同じように全ての骨を収縮させて死んだ。遺書には「共に」とだけ書いてあった。
WHOはこれら原因不明の病気を総じて「神からの贈り物症候群(ギフト)」とした。
日本はこの異常な事態を重く見て、一つの法律を制定した。
「ギフト患者のみ安楽死を認める」
今は2012年。この本が出版されたのは1973年。差し引いてもギフトが確認される22年前にはこの本は既に存在していたことになる。
洋子はその本を棚に戻した。嫌な気分になってしまった。題名も見ずランダムに本を一つ引き抜いて、近くの机に向かった。
神話の本だった。中国、ヒンドゥー、ゾロアスター、日本、ギリシア、様々な神話、神々の紹介が延々と紙の上でなされていた。
特に面白くもつまらなくも無い、暇つぶしにはちょうど良い本だった。
パラパラとページをめくる。おそらく明日には忘れるだろう神々の勇姿を頭で思い描きながら、ふっと壁にかけてある時計を見た。
16時30分。まだ家に帰っても暇なだけだ。もう少し読んでいようか。洋子は止まった手をまたページを捲る作業に戻す。
誰かの咳が静かな図書館に響く。そしてまた静寂。
紙が擦れ合う音が、ただ壁に染み込んでいった。
ふっと何かが首筋を撫でた。物質ではない感覚的な何かがはっきりと洋子に触れていた。
バッと洋子は振り向く。
「こんにち……」
その声と洋子の振り向きはほぼ同時だった。その声の主は、まるで声をかけられるのを分かっていたかのような洋子の反応の速さに、細い目をパチパチさせた。
洋子も驚いた。そのシンクロに対してではなく、そこに立っている男に。
「あの男がいるかもしれない。あの黒い人、天城透が。」
そう考えて振り向いて、ホントにいたらそれは驚いて当然であろう。
数秒見つめあった後、黒い人、透が口を開いた。
「隣、いいですか?」
洋子は頷く。しなやかな動きで椅子を引き、座る。無駄のない一連の行動は訓練された兵士のようだった。
「久しぶりですね。また会えると思っていましたよ」
黒さが全く変わっていないことに対し、洋子は少し安心する。この黒さが日常を壊すウイルスとなりえると洋子は確信を持っていた。
「私もです。会えると思っていました」
徹は切れ長の目で洋子を見つめながら微笑む。洋子も目を逸らさない。互いが互いを獲物と思っている。そんな空気が図書館の一角に漂っていた。
「そうそう。この前聞かなかったあなたの名前、今教えて貰えますか?」
「篠目……篠目洋子です」
偽名なんてちゃちな真似はしない。狼は嘘が得意な生き物だ。すぐバレる。どうしても頭の中で相手の思考を読もうとしてしまう。
黒によって全ての感情が飲み込まれている透の考えは、他の「日常付き合う人」とは違って少しも読むことが出来なかった。
「洋子……洋子さんですか。良い名前ですね」
笑顔が張り付いたその顔の下はどんなに長い牙が隠れているのか。洋子は透のどんな動きも見逃さないように、全神経を開いていた。
透は洋子が今まで読んでいた本を覗き込む。
「オルトロス……ですか」
悪魔から生まれた双頭の犬。
その名を口にした透の顔は更に笑顔になり、目を極限まで細めていた。
「僕はね……犬として育てられたんです」
急に突拍子の無いことを言い出す。しかし洋子は目を爛々と輝かせてその話を聞こうとしていた。
これは絶対に面白い話だ。そう思った。
「つまらない話ですよ?聞きたいですか?」
明らかな興味を全身から発しているのに気づいているだろうが、透は焦らす。ニヤニヤとしながらもう一度本に目を向ける。
「是非」
少し鼻息を荒くしながら洋子は懇願した。
透の色が濃さを増した。既に暗黒の様に黒いのに、さらに濃く、深くなった。
―――底なしの殺意。
「そうですか。それでは少しお話しましょう」
すぅっと伸びをしたあと、洋子の目の奥の洋子自身を見据えながら、透の声はなおも優しく、恐ろしかった。
僕がこの世に生を受けたのは17年前。丁度ギフトの存在が確認された年です。
え?洋子さんもですか。それはそれは……ふふふ。
僕の母は世間における「愛人」という存在でした。
父、とは言っても一度も会ったことは無いのですが、その人との間に儲けた子供を反対を押し切って産みました。
僕を産んですぐに、父は母に一軒の家と、当面の生活費を渡し関係を切りました。
母と、僕と……そうそう、一匹の犬にとってはあまりに広すぎる一軒屋でした。
僕が一歳になるまでは貰った生活費で暮らしていけましたが、その生活費が尽きてから母は働きだしました。
母には頼れる人間も無く、僕を保育所にやる金も無く、僕は犬と一緒に長い長い一日を送っていました。
食事は哺乳瓶三本がテーブルに置いてあるだけ。
固形物は喉に詰まる可能性があるし、他の栄養は自分が帰ってきてから補わせればいいと、拙い母親なりの考えだったのでしょう。
もちろん僕はそんな考えが分かりません。
初めの頃は母の手で与えられるのを朝から晩まで待っていましたし、
三本飲み尽くし、その後の時間ずっとひもじい思いをしていたりもしました。
……そうですね。自分でも不思議に思います。だけど本当にしっかり覚えているのです。
いや、正確には思い出したというのでしょうね。
あの天井からぶら下がっている光る傘も、フローリングの傷も、寂しい思いも全て。
数週間そういう生活が続いたある朝、母は僕に器に入った何かを差し出しました。
僕は久しぶりに母によって与えられた食べ物をむさぼりました。
どこかしっとりとしたもの、生臭くもある。
それが何か分かりませんでしたが、僕にはそれがとてつもないご馳走に見えていました。
「今日も透を頼んだよ」そう言って母は出て行きました。
その時の僕は自分の名前が何なのかも、頼む、や、今日、といった言葉が分かりませんでしたが、
それが何処と無く僕に向けられた言葉ではないことだけは感じていました。
その日、帰ってくると母は真っ先に犬の元へと行きました。「あれぇ?ミルク飲んでないねぇ。おなか空いたでしょ?すぐご飯にしてあげるからね」
犬の両頬を手のひらで包み優しく話しかける様子を、僕はフローリングに転がりながら見ていました。自分がそうしてもらえる時を待ちながら。
しかしいつまで経っても母は僕を構ってくれません。犬をどうにかこうにかテーブルの傍まで持って行き、必死にスプーンを持たせようとしています。
「透ちゃんにはまだ無理かな?」なんて言いながら、ドロドロになった米を犬の口に運んでいました。
犬がぼろぼろと溢しながら米を食い終わったあと、母は立ち上がり、器に缶詰を開けて僕の前に出しました。
「ごくろうさま」そう言ったあと、また犬とじゃれ始めました。
ギフトでした。頭の中で情報が入れ替わるという、なんの意味も無い、神の贈り物でした。
彼女の中で、僕が犬、犬が僕になったのです。
もちろんこれらの情報は、もっと後に知ることになるのですが、たとえそれを教えられても、僕には理解できなかったでしょう。
本当に一人ぼっちでした。この広い一軒屋で、家族と共にありながら孤独でした。
次の日も、また次の日も、器にあけられた缶詰の中身を食べ、孤独を味わいながら過ごしました。
そして僕を犬にする決定的な出来事が起こりました。
あれは……新月の日でしたか。いつものようにフローリングに寝転びながら、窓の外に広がる闇を延々と眺めていました。
ガチャリ、という鍵を開ける音の後、いつもとは違った様子で母が入ってきました。
母の態度から機嫌を察しようとしたとき、僕は吹き飛びました。
腹を蹴り上げられたのです。
胃の中でぐちゃぐちゃになった缶詰の中身をぶちまけながら壁の下で痙攣しました。
心配そうに駆け寄ってくる犬を抱き上げて、母はさっさとリビングに消えていきました。
あぁ……自分はもうヒトではないのだな、と吐瀉物に塗れながら思いました。
ふと缶詰に書かれた絵を思い出します。僕はきっとあの生き物なんだ。
あの生物は、今、母が抱えているのに良く似ている。きっと僕はいらない方のソレなんだろうなぁ。
もう一度吐いて、その日はプツンと幕が下りました。
次の日から夜帰ってくると母は必ず僕を蹴りました。何度も、何度も。
僕は昼間、必死に犬を真似ました。必要とされる存在になりたい、
その犬と同じ様にすれば、きっともう一度愛してもらえる。
今でこそ、その頃の思いにたくさんの修飾を付けられますが、当時の僕は、もっと根本的な部分の欲求を満たそうと、
吼えました。犬用の玩具に、同じように噛み付きました。犬は僕が犬自身を学習したいことが分かったのでしょうか、
僕がその一連の動きが上手く出来るようになるまで何度も同じ動きを繰り返してくれました。
夜は暴力、昼は犬の訓練。そうやって地獄のような日々を過ごしていました。
そんなある日、いつまで経っても母は帰って来ませんでした。僕は久しぶりに穏やかな睡眠を得ました。
強制的な一日の幕引きではない、自発的な眠り。
しかし、僕の体は、心は完全に犬に成り果てていました。
真夜中、誰かが玄関の前へ歩み寄る音。おそらく人間には聞こえないほどの幽かな音。
漂ってくるタバコの臭い。丸めた体をバネのように跳ね上げ、四足で唸り声を上げました。
一緒に寝ていた犬も、同じように唸り声を上げています。
ガチャリと鍵を開ける音がした後、僕らは玄関へと疾走しました。
丁度開いたドアから大きな黒い塊が見えました。
僕は教えられた通りに、飛び掛り、噛み付きました。肉に牙を食い込ませ、爪で肌を抉る。
塊がうめき声を上げながら僕を引っぺがそうとしました。だけど僕の牙は深く食い込み、離れるときに、肉を幾らか食い千切りました。
ドサッと倒れこむ塊を睨みながら、もう一度飛び掛る体勢を取りました。
そこで終わっています。僕の記憶はここまでです。
おそらくもう一つの塊がいて、僕を何かしらの方法で気絶させたんだと思います。
先ほどから塊と形容しているものが警察だとわかったのは、やはりもっと後になります。
僕の母、いえ飼い主が帰ってこなかった理由は人を殺したからだそうです。
僕の異様な格好、ぼさぼさの髪、伸びきった爪、むき出しの牙、幾つか折れているあばら骨、四足歩行。それらは当時の警察を驚愕させたそうです。
この後、約一年をかけて僕の異常は、様々なカウンセラーや医者によって矯正されました。
そして施設に入れられました。ちなみに母は五年服役を命じられていたようです。
施設での生活はとても幸せでした。友達も、親代わりも、食事も、今まで僕が持つことの無かった全てがありました。
中学にあがってから、僕は施設長から全てを聞きました。
僕がどのような経緯でここに入れられたのかということと、母が獄中自殺をした事と。
母がギフト患者だと分かっていれば、刑務所ではなく病院に入れられていたかもしれません。
しかし当時はギフトという言葉も無く、ただの殺人として扱われていたのが母にとっての不運でした。
同じ様な症状の人間が、それから10年後に数名発見され、やっとギフトだと分かったのだから。
中学を出てから、僕は気づきました。何に気が付いたかは、今はまだ言えません。
その「気づいた事」を利用して、僕は警察になりました。ホントですよ!嘘じゃないです。ほら手帳。いやいや偽者じゃないですって。
昔とは違うんですね。今は能力さえあれば何にでもなれるんですよ。たしか今の医者の最年少が9歳でしたか。
それだけギフトの存在は今と昔を完全に変えてしまうほどの影響を持っているということです。
そして二年の訓練の後、僕はこうして正式に活動している訳です。
もちろん普通のお仕事なんてしませんよ。
ギフトは全てを奪います。愛を、家族を、自分を。そうした時、人はどう動くと思いますか?
それらを取り戻そうとする。他の人間を同じ目に合わせようとする。自分だけ不幸なのは嫌。
いつ動けなくなるか、いつ死ぬかも、どうやって死ぬかも分からない。そういう人間は倫理的な箍が外れる可能性が高いのです。
そういうギフト患者の犯罪を受け持つのが僕です。正しくは僕ら、なんですけど、他の仲間に貴方のことを紹介するつもりもありませんし、
やはり貴方は僕だけを知っていればいいのです。……そんなのじゃありませんよ。僕は何も愛してはいけないんです。
空がもう闇だ。……あぁ、今日は新月ですか。嫌な色です。本当に光のない黒。暗黒。
え?洋子さんもですか。それはそれは……ふふふ。
僕の母は世間における「愛人」という存在でした。
父、とは言っても一度も会ったことは無いのですが、その人との間に儲けた子供を反対を押し切って産みました。
僕を産んですぐに、父は母に一軒の家と、当面の生活費を渡し関係を切りました。
母と、僕と……そうそう、一匹の犬にとってはあまりに広すぎる一軒屋でした。
僕が一歳になるまでは貰った生活費で暮らしていけましたが、その生活費が尽きてから母は働きだしました。
母には頼れる人間も無く、僕を保育所にやる金も無く、僕は犬と一緒に長い長い一日を送っていました。
食事は哺乳瓶三本がテーブルに置いてあるだけ。
固形物は喉に詰まる可能性があるし、他の栄養は自分が帰ってきてから補わせればいいと、拙い母親なりの考えだったのでしょう。
もちろん僕はそんな考えが分かりません。
初めの頃は母の手で与えられるのを朝から晩まで待っていましたし、
三本飲み尽くし、その後の時間ずっとひもじい思いをしていたりもしました。
……そうですね。自分でも不思議に思います。だけど本当にしっかり覚えているのです。
いや、正確には思い出したというのでしょうね。
あの天井からぶら下がっている光る傘も、フローリングの傷も、寂しい思いも全て。
数週間そういう生活が続いたある朝、母は僕に器に入った何かを差し出しました。
僕は久しぶりに母によって与えられた食べ物をむさぼりました。
どこかしっとりとしたもの、生臭くもある。
それが何か分かりませんでしたが、僕にはそれがとてつもないご馳走に見えていました。
「今日も透を頼んだよ」そう言って母は出て行きました。
その時の僕は自分の名前が何なのかも、頼む、や、今日、といった言葉が分かりませんでしたが、
それが何処と無く僕に向けられた言葉ではないことだけは感じていました。
その日、帰ってくると母は真っ先に犬の元へと行きました。「あれぇ?ミルク飲んでないねぇ。おなか空いたでしょ?すぐご飯にしてあげるからね」
犬の両頬を手のひらで包み優しく話しかける様子を、僕はフローリングに転がりながら見ていました。自分がそうしてもらえる時を待ちながら。
しかしいつまで経っても母は僕を構ってくれません。犬をどうにかこうにかテーブルの傍まで持って行き、必死にスプーンを持たせようとしています。
「透ちゃんにはまだ無理かな?」なんて言いながら、ドロドロになった米を犬の口に運んでいました。
犬がぼろぼろと溢しながら米を食い終わったあと、母は立ち上がり、器に缶詰を開けて僕の前に出しました。
「ごくろうさま」そう言ったあと、また犬とじゃれ始めました。
ギフトでした。頭の中で情報が入れ替わるという、なんの意味も無い、神の贈り物でした。
彼女の中で、僕が犬、犬が僕になったのです。
もちろんこれらの情報は、もっと後に知ることになるのですが、たとえそれを教えられても、僕には理解できなかったでしょう。
本当に一人ぼっちでした。この広い一軒屋で、家族と共にありながら孤独でした。
次の日も、また次の日も、器にあけられた缶詰の中身を食べ、孤独を味わいながら過ごしました。
そして僕を犬にする決定的な出来事が起こりました。
あれは……新月の日でしたか。いつものようにフローリングに寝転びながら、窓の外に広がる闇を延々と眺めていました。
ガチャリ、という鍵を開ける音の後、いつもとは違った様子で母が入ってきました。
母の態度から機嫌を察しようとしたとき、僕は吹き飛びました。
腹を蹴り上げられたのです。
胃の中でぐちゃぐちゃになった缶詰の中身をぶちまけながら壁の下で痙攣しました。
心配そうに駆け寄ってくる犬を抱き上げて、母はさっさとリビングに消えていきました。
あぁ……自分はもうヒトではないのだな、と吐瀉物に塗れながら思いました。
ふと缶詰に書かれた絵を思い出します。僕はきっとあの生き物なんだ。
あの生物は、今、母が抱えているのに良く似ている。きっと僕はいらない方のソレなんだろうなぁ。
もう一度吐いて、その日はプツンと幕が下りました。
次の日から夜帰ってくると母は必ず僕を蹴りました。何度も、何度も。
僕は昼間、必死に犬を真似ました。必要とされる存在になりたい、
その犬と同じ様にすれば、きっともう一度愛してもらえる。
今でこそ、その頃の思いにたくさんの修飾を付けられますが、当時の僕は、もっと根本的な部分の欲求を満たそうと、
吼えました。犬用の玩具に、同じように噛み付きました。犬は僕が犬自身を学習したいことが分かったのでしょうか、
僕がその一連の動きが上手く出来るようになるまで何度も同じ動きを繰り返してくれました。
夜は暴力、昼は犬の訓練。そうやって地獄のような日々を過ごしていました。
そんなある日、いつまで経っても母は帰って来ませんでした。僕は久しぶりに穏やかな睡眠を得ました。
強制的な一日の幕引きではない、自発的な眠り。
しかし、僕の体は、心は完全に犬に成り果てていました。
真夜中、誰かが玄関の前へ歩み寄る音。おそらく人間には聞こえないほどの幽かな音。
漂ってくるタバコの臭い。丸めた体をバネのように跳ね上げ、四足で唸り声を上げました。
一緒に寝ていた犬も、同じように唸り声を上げています。
ガチャリと鍵を開ける音がした後、僕らは玄関へと疾走しました。
丁度開いたドアから大きな黒い塊が見えました。
僕は教えられた通りに、飛び掛り、噛み付きました。肉に牙を食い込ませ、爪で肌を抉る。
塊がうめき声を上げながら僕を引っぺがそうとしました。だけど僕の牙は深く食い込み、離れるときに、肉を幾らか食い千切りました。
ドサッと倒れこむ塊を睨みながら、もう一度飛び掛る体勢を取りました。
そこで終わっています。僕の記憶はここまでです。
おそらくもう一つの塊がいて、僕を何かしらの方法で気絶させたんだと思います。
先ほどから塊と形容しているものが警察だとわかったのは、やはりもっと後になります。
僕の母、いえ飼い主が帰ってこなかった理由は人を殺したからだそうです。
僕の異様な格好、ぼさぼさの髪、伸びきった爪、むき出しの牙、幾つか折れているあばら骨、四足歩行。それらは当時の警察を驚愕させたそうです。
この後、約一年をかけて僕の異常は、様々なカウンセラーや医者によって矯正されました。
そして施設に入れられました。ちなみに母は五年服役を命じられていたようです。
施設での生活はとても幸せでした。友達も、親代わりも、食事も、今まで僕が持つことの無かった全てがありました。
中学にあがってから、僕は施設長から全てを聞きました。
僕がどのような経緯でここに入れられたのかということと、母が獄中自殺をした事と。
母がギフト患者だと分かっていれば、刑務所ではなく病院に入れられていたかもしれません。
しかし当時はギフトという言葉も無く、ただの殺人として扱われていたのが母にとっての不運でした。
同じ様な症状の人間が、それから10年後に数名発見され、やっとギフトだと分かったのだから。
中学を出てから、僕は気づきました。何に気が付いたかは、今はまだ言えません。
その「気づいた事」を利用して、僕は警察になりました。ホントですよ!嘘じゃないです。ほら手帳。いやいや偽者じゃないですって。
昔とは違うんですね。今は能力さえあれば何にでもなれるんですよ。たしか今の医者の最年少が9歳でしたか。
それだけギフトの存在は今と昔を完全に変えてしまうほどの影響を持っているということです。
そして二年の訓練の後、僕はこうして正式に活動している訳です。
もちろん普通のお仕事なんてしませんよ。
ギフトは全てを奪います。愛を、家族を、自分を。そうした時、人はどう動くと思いますか?
それらを取り戻そうとする。他の人間を同じ目に合わせようとする。自分だけ不幸なのは嫌。
いつ動けなくなるか、いつ死ぬかも、どうやって死ぬかも分からない。そういう人間は倫理的な箍が外れる可能性が高いのです。
そういうギフト患者の犯罪を受け持つのが僕です。正しくは僕ら、なんですけど、他の仲間に貴方のことを紹介するつもりもありませんし、
やはり貴方は僕だけを知っていればいいのです。……そんなのじゃありませんよ。僕は何も愛してはいけないんです。
空がもう闇だ。……あぁ、今日は新月ですか。嫌な色です。本当に光のない黒。暗黒。