『どういうきっかけだか教えて欲しいなー参考までに』
などと言われておいてアレなのだが、本当にきっかけなんか無かった。
先生とこういう関係になったのはただの偶然で、今こうして続いているのはただの惰性だ。と、僕は思っていたし、先生もそう考えていると思っていた。
でも、どうもそうでは無かったらしい。
先生がああして僕との関係が崩れることに取り乱すのは、本当に予想外だった。先生だって、僕のことは替えがきく『代用品』ぐらいにしか思っていないと思っていたのに。
関係を修復した、だなんて軽々しく考えていたけれど、今までの僕たちの関係は果たしてどのようなものだったのだろう。そして、僕はその関係をどのようにか変えてしまったのだろうか。
僕たちは『恋人』ではない。そのはずだ。だから、僕は先生に『好き』だと言った事は全く無い。
そのはずなのに、先生が僕に詰め寄ったときの様子は、どう見ても恋愛関係にあるものに向けてのそれだった。しかも僕はその時、その事実に歓喜していたのだ。
必死な相手に、一方的に冷めた視線を向けられることに興奮した。
理由は簡単だ。彼女が昔僕にしたことを僕が他人にできる。圧倒的な優越感を感じられる立場から、一方的に相手の全てを自由にできる。
恋愛は惚れた方が負け、なんて言葉はよく聞くけれど、あの時の僕はそれで言えば完勝していたのだ。そしてその事実は、僕たちの関係に少なからず恋愛が入り込んでいることに他ならない。
それが、先生からの一方的なものだったとしても。
『オトナを舐めると後で痛い目見る事になるよってこと』
彼女の言葉が、ちらちらと頭の中を掠め飛ぶ。
先生を全て受け入れるのか、それとも切り捨ててしまうのか。決めなければいけないのは分かっていても、僕はそれをどうやって先延ばしにするかしか考えられなかった。
とか色々と悩んでいる気分を見せていようが、結局やることはやるのだから本当に僕ってしょうもない。
彼女と話したあの日から、僕は毎日図書準備室に入り浸っていた。
「んっ……あ、はっ……」
彼女に言われたことを振り切りたかったのかもしれないし、先生に触れることで関係が分からなくなった不安を取り除きたかったのかもしれない。
でも、結局求めてしまうのは快楽だけで、後には何も残らない。
「きちゃ……あ、だっ…め……ぅあ!」
いや、まぁ残るものはあるのかもしれないけれど、そんなものはすぐにティッシュに包んでゴミ箱の中だ。
空しいとか、悲しいとか、思うところはあったのかもしれないけれど、捨ててしまえばみんな闇の中。見えないことを憂うもの無し。世は全てことも無し。
「あの、先生。前から思ってたんですけど」
「何?」
「そうやってポイポイ学校のゴミ箱の中に捨てちゃってるの、いいんですか? ゴミ収集の時とかにバレたりしません?」
半ば答えが分かっていながら、僕は先生にそう問いかける。先生は笑って、「大丈夫よ」と自信満々に答えた。
「教室のゴミって、清掃の時にゴミ集積所に持っていくでしょ? これも同じ。教室みたいに毎日って訳じゃないけど、頻繁に集積所に捨てに行くの。持っていくのが自分の手なら、バレたりするわけないでしょ」
「じゃあ、もし先生がゴミを捨てている時に、ゴムがティッシュからはみ出てるのとか何かを、ちょうどゴミを捨てに来た誰かに見られたら?」
「ちょっとはみ出てた位のものを、そんなに注意深く調べようとする? モノがモノだし、ゴミの中に手に突っ込んでまで確かめようとする人なんていないでしょ。見間違いかもしれないしね。だったら、普通そういうのは見て見ぬフリをするものよ」
なるほど、と納得したフリをする。
どんな回答が来るか分かっている、時間つぶしのような会話。核心には触れない当たり障りの無いコミュニケーション。
『先生は、僕のことが好きなんですか?』
そんなこと、聞けるわけが無い。
それを言うという事は、どういう形であっても今の状態を変化させるという事だ。それは決して望ましいことじゃない。
もしも崩れるとしたら、それは先生の方から。それも先生の方に罪悪感が残るように、僕はあくまで被害者のように振舞える状況にならなければならない。教師とこういう関係になるという事は、そういうことだ。絶対に後腐れを残すわけにはいかない。
「それじゃあ僕は、そろそろ行きます」
「そう? もうちょっとで仕事一通り終わるから、今日は一緒に帰ろうと思ってたのに」
「……それ、本当ですか? まぁ、僕が毎日来てるせいなんですけど、最近全然机に向かってる姿を見てない気がしますよ?」
苦笑しながら言う。
彼女の研修期間が終わって教育実習生たちが引き上げれば、そのすぐ後には期末試験がやってくる。教育実習生関係の書類もあるだろうに、現国の試験問題も作らなければならないのだ。とても簡単に一区切り付くとは思えない。
「僕ももう少し、ここに来るの控えた方がいいかなと思ってたんです。このまま仕事が遅れるのは悪いですし、今日は一人で帰ります」
図星だったのだろう。先生は気まずそうにしながらも仕方ないといった様子で、俯きながら答えた。
「そう……こっちの仕事の事とか全然気にしなくていいから、気が向いたらいつでも来てくれればいいからね? しばらくは忙しいかもしれないけど、試験が終わったら時間もできると思うから」
「その頃には僕のほうが受験前で忙しくなっちゃいますよ」
「うん……まぁ、無理はしなくていいんだけどね」
口ではそんなことを言いながらも、顔からは期待している雰囲気が溢れ出ているようだった。本当に分かりやすい。うざったいくらいに。
「じゃあ、また明日」
そう切り上げて図書準備室を出ようとした僕に、名残惜しむような声が聞こえてきた。神経を逆撫でするような、甘ったるい声。
「あのさ、二人でいる時くらい敬語止めたら? 呼び方だって、先生じゃなくて下の名前で呼んでもいいんだよ?」
先週のような苛立ちが、ほんの一瞬だけ頭に熱を持たせる。喉本まで来た言葉を、ぐっと押さえ込んだ。
「いや、それはちょっと止めておきましょう」
「どうして?」
「何かの拍子で普段出ちゃわないとも限りませんし、なんていうか学校の中にいるときの『けじめ』みたいなものじゃないですか。そういうのは、大切にしたいんです」
「そっか……」と呟いた先生の顔は、とても人にものを教える立場の人間の顔ではない。
その嗜虐心を煽るような、いじめられっこのような、捨てられた子犬のような、
寂しそうな表情は僕が作ったものなのだと、そう感じるだけで再び昂奮が頭まで駆け上がってくる。
僕は振り返って、先生を抱きしめた。頭を抱え込むようにして髪を撫でる。
「呼び方なんて大した問題じゃないじゃないですか。それに、僕たちは始まりからこの形だったんです。今さら変える方が不自然ですよ」
「……うん」
肩口で綺麗に切り揃えられた髪先を指で弄びながら、ゆっくりと離れる。
「また明日来ますよ」
そう言って図書準備室を出て、昇降口に向かった。
校門から出て、ため息を付く。一週間前、三年ぶりに彼女と話したあの日と同じように。
そして、この一週間ずっとそうしてきたように。
「今日もお疲れ様」
「はいはい、どうも」
そう言って歩き出す彼女の後に、付き従って歩き出す。
まるで、鎖に繋がれた犬みたいに。
Child play(3) -道化-
先週、僕と先生との密会が彼女にバレた日。彼女は言った。
「あたし、いっつも放課後図書室に残って日報っていうかレポートみたいなもの書いてたんだ。だからこれからもあそこで何かやってるなら、あたしに気づかれるかもって思ってた方がいいよ?」
それは多分、僕の自制を促すために言ってくれたことなのだろう。他の人に見つからないようにと気遣ってくれた、彼女なりのやんわりとした警告。
だからこそ、僕はそれに従うわけにはいかなかった。
それから毎日、不自然なほどに図書準備室に入り浸った。
彼女に見せ付けたかったのだ、僕がもう子供ではないと。先生を組み伏せて、好きなようにして、自分より目上の人間をさらに上から見下ろすことができる。
自分は変わったのだ。『あの時』よりもずっとずっと大人になったのだと知って欲しくて。
自覚はしていた。それは自己主張にしては、あまりに幼稚だってことに。
「でもさ、やっぱり若いよね。一週間毎日とか」
「そんなんじゃないですって。……っていうか、別に会ってる時だって毎回そういう事になってるわけじゃありませんから」
「え、そうなの?」
彼女と話すようになってから、一日に吐く回数の平均が二倍くらいになったため息を吐き出して、僕は彼女を見下ろす。
「あなたには僕が、そんなに飢えてるように見えるんですか?」
「いや、そういうわけでも無いんだけど、それはそれでもったいなくない? せっかくできるんだし。ホラ、据え膳食わぬは男の恥、とか」
うんざりしたような目を向けても、まるで堪えた様子もなく飄々としているのも相変わらず。
「そんな喩え、清水先生に凄い失礼だとか思いません?」
「……まぁ、それはそれってことで。今はもう学校の外だし、勤務時間外だし」
僕たちはこの一週間、校門から駅までの短い時間を使って空白の三年間に起こったことを報告しあった。それしか話題が無かったとも言える。
家族や共通の知り合いが今何をやっている……なんて話がほとんどで、自分たちの人間関係の話は意図的に避けていた、ような気がする。少なくとも僕はそうしていた。
特に恋愛関係の話は、示し合わせたように触れることすらしなかった。
先生とのことをからかわれたりはするけれど、馴れ初めについて聞いてきたのだって最初だけで、それ以上突っ込んでくることは無い。
僕の方も、彼女の大学での恋愛は気にならないわけではなかったが、彼女から話す気が無いなら僕から聞く気にはなれなかった。
そんな感じで一週間。いい加減話題も尽きてくる頃だ。
夕暮れの中を並んで歩く彼女の横顔を、盗み見るような気持ちで見つめた。
三年前はせいぜい同じか、むしろ小さいくらいだったはずの背丈も、今では僕の方が頭一つ大きい。ウェーブのかかった茶髪が歩くたびに揺れて、髪の乱れを直す細い指は握ったら折れてしまいそうに細くて。
きっと、抱きしめたりなんかしたら、すっぽりと腕の中に納まってしまうだろう。
「なに?」
見ているのに気付かれ、目を合わせられる。それだけで心臓の鼓動がいやに大きくなった。
「いや、こんなに小さかったかな……と思いまして」
彼女は少し笑って、
「今さら? っていうか、それはそっちが大きくなったんでしょ。こっちだって、あの時の子がこんなに大きくなると思わなかったよ。……最初にこっちで顔見た時は、ちょっとびっくりした」
「中学出てから急に伸びたんですよ。……あの頃は、まだあなたの方が上でしたっけ?」
「そうだね、確か。今じゃ逆転しちゃったけど」
立ち止まって、僕の前に立った。思わず後ずさってしまう。彼女は僕を追って一歩踏み出して、頭の上に手をかざす。
「もう、背伸びしなくちゃ……できないね」
本当に、何気ない口調で言った。でもそれは、僕の心を酷く揺らすには充分すぎて、僕はその手を振り払うように前へ一歩踏み出した。
何を、と聞くまでもない。そんな必要は欠片も無いほど、それは鮮烈に焼きついた記憶だったから。だから避けてしまった。期待してしまう自分が許せなくて。
後ろに彼女が着いてくる気配を感じながら、距離を詰めないようにして歩いていると、程なくして駅の前まで来た。
大学の寮からここまで通っている彼女とは、いつもここで別れる。
振り返って一言。
「それじゃ、ここで」
彼女は微笑しながら、少し眉を寄せて寂しそうな顔を見せた。
「あたしが実家に戻ってれば、もうちょっと一緒に歩けるんだけどね」
彼女に何の気も無いことは分かっている。本当に彼女は、昔馴染みとの懐かしさでそう口にしているだけなのだ。こちらが勘違いしてしまいそうなセリフだって、彼女は何の自覚も無しに口にしている。
僕の気持ちなど、微塵も想像することも無く。
「もう、話すことなんて無いじゃないですか」
一瞬、思いのほかキツい言葉になってしまったのを後悔した。でも、すぐにまた思い直す。
だからどうした。今の彼女に悪印象を与えて、僕にデメリットがあるか? いや、全く無い。
彼女が僕に振り向くことはもう有り得ない。いや、最初から有り得なかったんだ。
だったら、これはチャンスなんじゃないのか? 引き摺っている過去なんて、ここで断ち切ればいい。明日また先生に会って、いつも通りに振舞えばいい。それが大人な対応だ、何も間違っていない、何も悔やむことは無い。
踵を返した。顔を合わせる気にも、謝る気にもなれなかった。
足早に立ち去ろうとしていた背中に、声をかけられるまでは。
「ねぇ――――」
些細な声だった。
彼女の方に意識を集中していたので無ければ、聞き逃してしまいそうなほど。
立ち止まってしまったのは、やっぱり僕が子供だからなんだろう。
「また……キスしてみる?」
「あたし、いっつも放課後図書室に残って日報っていうかレポートみたいなもの書いてたんだ。だからこれからもあそこで何かやってるなら、あたしに気づかれるかもって思ってた方がいいよ?」
それは多分、僕の自制を促すために言ってくれたことなのだろう。他の人に見つからないようにと気遣ってくれた、彼女なりのやんわりとした警告。
だからこそ、僕はそれに従うわけにはいかなかった。
それから毎日、不自然なほどに図書準備室に入り浸った。
彼女に見せ付けたかったのだ、僕がもう子供ではないと。先生を組み伏せて、好きなようにして、自分より目上の人間をさらに上から見下ろすことができる。
自分は変わったのだ。『あの時』よりもずっとずっと大人になったのだと知って欲しくて。
自覚はしていた。それは自己主張にしては、あまりに幼稚だってことに。
「でもさ、やっぱり若いよね。一週間毎日とか」
「そんなんじゃないですって。……っていうか、別に会ってる時だって毎回そういう事になってるわけじゃありませんから」
「え、そうなの?」
彼女と話すようになってから、一日に吐く回数の平均が二倍くらいになったため息を吐き出して、僕は彼女を見下ろす。
「あなたには僕が、そんなに飢えてるように見えるんですか?」
「いや、そういうわけでも無いんだけど、それはそれでもったいなくない? せっかくできるんだし。ホラ、据え膳食わぬは男の恥、とか」
うんざりしたような目を向けても、まるで堪えた様子もなく飄々としているのも相変わらず。
「そんな喩え、清水先生に凄い失礼だとか思いません?」
「……まぁ、それはそれってことで。今はもう学校の外だし、勤務時間外だし」
僕たちはこの一週間、校門から駅までの短い時間を使って空白の三年間に起こったことを報告しあった。それしか話題が無かったとも言える。
家族や共通の知り合いが今何をやっている……なんて話がほとんどで、自分たちの人間関係の話は意図的に避けていた、ような気がする。少なくとも僕はそうしていた。
特に恋愛関係の話は、示し合わせたように触れることすらしなかった。
先生とのことをからかわれたりはするけれど、馴れ初めについて聞いてきたのだって最初だけで、それ以上突っ込んでくることは無い。
僕の方も、彼女の大学での恋愛は気にならないわけではなかったが、彼女から話す気が無いなら僕から聞く気にはなれなかった。
そんな感じで一週間。いい加減話題も尽きてくる頃だ。
夕暮れの中を並んで歩く彼女の横顔を、盗み見るような気持ちで見つめた。
三年前はせいぜい同じか、むしろ小さいくらいだったはずの背丈も、今では僕の方が頭一つ大きい。ウェーブのかかった茶髪が歩くたびに揺れて、髪の乱れを直す細い指は握ったら折れてしまいそうに細くて。
きっと、抱きしめたりなんかしたら、すっぽりと腕の中に納まってしまうだろう。
「なに?」
見ているのに気付かれ、目を合わせられる。それだけで心臓の鼓動がいやに大きくなった。
「いや、こんなに小さかったかな……と思いまして」
彼女は少し笑って、
「今さら? っていうか、それはそっちが大きくなったんでしょ。こっちだって、あの時の子がこんなに大きくなると思わなかったよ。……最初にこっちで顔見た時は、ちょっとびっくりした」
「中学出てから急に伸びたんですよ。……あの頃は、まだあなたの方が上でしたっけ?」
「そうだね、確か。今じゃ逆転しちゃったけど」
立ち止まって、僕の前に立った。思わず後ずさってしまう。彼女は僕を追って一歩踏み出して、頭の上に手をかざす。
「もう、背伸びしなくちゃ……できないね」
本当に、何気ない口調で言った。でもそれは、僕の心を酷く揺らすには充分すぎて、僕はその手を振り払うように前へ一歩踏み出した。
何を、と聞くまでもない。そんな必要は欠片も無いほど、それは鮮烈に焼きついた記憶だったから。だから避けてしまった。期待してしまう自分が許せなくて。
後ろに彼女が着いてくる気配を感じながら、距離を詰めないようにして歩いていると、程なくして駅の前まで来た。
大学の寮からここまで通っている彼女とは、いつもここで別れる。
振り返って一言。
「それじゃ、ここで」
彼女は微笑しながら、少し眉を寄せて寂しそうな顔を見せた。
「あたしが実家に戻ってれば、もうちょっと一緒に歩けるんだけどね」
彼女に何の気も無いことは分かっている。本当に彼女は、昔馴染みとの懐かしさでそう口にしているだけなのだ。こちらが勘違いしてしまいそうなセリフだって、彼女は何の自覚も無しに口にしている。
僕の気持ちなど、微塵も想像することも無く。
「もう、話すことなんて無いじゃないですか」
一瞬、思いのほかキツい言葉になってしまったのを後悔した。でも、すぐにまた思い直す。
だからどうした。今の彼女に悪印象を与えて、僕にデメリットがあるか? いや、全く無い。
彼女が僕に振り向くことはもう有り得ない。いや、最初から有り得なかったんだ。
だったら、これはチャンスなんじゃないのか? 引き摺っている過去なんて、ここで断ち切ればいい。明日また先生に会って、いつも通りに振舞えばいい。それが大人な対応だ、何も間違っていない、何も悔やむことは無い。
踵を返した。顔を合わせる気にも、謝る気にもなれなかった。
足早に立ち去ろうとしていた背中に、声をかけられるまでは。
「ねぇ――――」
些細な声だった。
彼女の方に意識を集中していたので無ければ、聞き逃してしまいそうなほど。
立ち止まってしまったのは、やっぱり僕が子供だからなんだろう。
「また……キスしてみる?」