中学生になって、私はまた一人に戻った。
今まで『幼馴染』という義務感で私の傍にいたシュウくんは、学校の違いという免罪符を得て、二度と私に近づくことはなかった。
私はそれでも平気だった。元から一人の方が好きだったのだ。
シュウくんがあれこれ気を利かせてくれて、わざわざ作ってくれた小学校時代の友達も、すぐに新しい学校でのコミュニティを築き始める。そこに、私の居場所なんてあるはずもない。
私はそれでも良かった。その方が良かった。お茶を濁すような会話を貼り付けたような笑顔でするよりも、一人で本を読んでいたほうが何倍も楽しい。
そうして三年間、私の中学生活は何事もなく終わった。
学校行事とか、一人だと気まずいときは多かったけれど、それでも何事もないと言える範囲のことだったと思う。いじめられるんじゃないかと覚悟もしておいたのに、不思議とそういうことにはならなかった。
もしかしたら、夏には死ぬほど暑いこの長髪が上手く働いてくれたのかもしれない。
シュウくんは「気味が悪いから切れ」と繰り返し言っていたけれど、一人になって人避けになると分かってから、私はさらに長く伸ばしたのだ。
根暗で、口下手で、気味が悪くて。こんな人間に進んで話しかける人間がいるわけがない。私は本当にそう思っていた。
「ねえねえ、それ何の本読んでるのー?」
高校に上がってしばらくして、そう彼女が最初に話しかけてきたときも、その考えは全く崩れなかった。
硬い笑顔、取って付けたような話題。こういった手合いは、中学生のときにも見たことがある。
すなわち、『あのつまはじきものを仲間に入れてやってくれ』と、教師に頼まれた人間。
シュウくんと同じ。義務感が強く、人に頼まれたことは断れない人間だ。
(めんどくさいな……)
それが初対面の河島夏希に対する、嘘偽りの無い気持ちだった。
「え、普通の小説だけど」
会話がブツ切りになってしまうのを承知で、私はそう答える。
案の定、彼女は困った笑みを浮かべ、
「へー……。あ、じゃあジャンルは?」
なんとか搾り出すように、そう続けた。
「ミステリ……だけど」
「へー、そうなんだ。面白い?」
「まだこれは、ついさっき読み始めたところだから」
「そっかー。いつも本読んでるけど、ミステリが好きなの? 他のジャンルも読む?」
おそらく、彼女は『いい人』なのだろう。その時の私は彼女について良く知らなかったけれど、確信のようにそう思ったのを覚えている。
少なくとも、周りからそう見えなければこんなことを頼まれるはずがないし、知らない人間から見ても分かるくらい、彼女は私なんかの相手に真剣だった。
だからこそ、私は彼女に負い目を感じてしまう。
もういいよ、と言ってあげたかった。一人にしておいて、と突き放したかった。どう考えても、彼女が好きで私と話しているわけがない。こんな会話、お互いに息苦しいだけなんだから。
でも私がそうして拒絶したことで、彼女を私の相手に選んだ教師から、彼女が評価を落とす理不尽が今後無いとも限らない。そんなことになるのは嫌だった。
「あの……この本の前の巻。さっきの休み時間に読み終わったから、気になるなら読んでみる?」
「え、いいの?」
彼女は驚いた声を上げる。初めて会話したクラスメイトに、私物を貸してくれるような人間には私は見えなかったのだろう。
「ちゃんと返してくれるなら」
「それはもちろん!」
私がかばんから取り出した文庫本を受け取ると、彼女はさっそくパラパラと最初の方をめくり始めた。
別に全部読んでくれなくても構わない。そのまま捨てられたって、文句を言う気はなかった。
ただ、私と本の貸し借りをしたという既成事実さえあれば、彼女が行動をした証明になると思っただけの話。
(これで、この面倒も済んだかな)
私は彼女に気付かれないように息を吐き出すと、そう思って再び本に目を落とす。
面倒とは、お互いにとっての、という意味だ。彼女も私が本を貸した意図には気付かなくとも、これで一区切りだと思っただろう。義務感をある程度満たされ、ほっとしていることだろう。そう、私は勝手に思っていた。今までに私に近づいてきた人間は、みんなそうだったから。
「あ、じゃあさ、ちょっと待ってて!」
だから頭の上からかかった声に、私は心底驚いた。
顔を上げたときにはもう、彼女は自分の机で何かを探している。止める間もない。
彼女は私の席まで小走りで戻ってくると、手に持っていたものを差し出した。何の変哲も無い、一冊の文庫本。
「あたしもたまたま本持ってきてたから、良かったら読んでみてよ。そんな難しいのじゃなくて普通の恋愛小説だから、雪崎さんには合わないかもしれないけど」
私は、絶句していた。
何も言わずに席に戻れば、これで終わりになるのに。これ以上面倒を続ける義理も、私に対する興味も無いでしょう? 少し話して、私と自分が合うなんて思わなかったでしょう? 放っておけば、時間が経てば、貴女に私を頼んだ教師だって諦めるだろうに。
そう思っていたのに言葉にすることができなかったのは、彼女の行動に驚いたから――ではなかった。
彼女は笑っていた。私が貸した本を手に持って、本当に嬉しそうに。
本の貸し借りなんて、彼女ならいくらでも友達とやっていることだろう。特別なことなんかじゃあ絶対にないはず。
なのに、なんでそんなに嬉しそうな顔ができるのか、私には分からなかった。
「ありがとう」
気が付けばその笑顔に押し切られたように、私はその本を受け取っていた。
彼女はまた嬉しそうに笑う。義務からでも義理からでもない、本当の笑顔に、少なくとも私には見えた。
彼女に付き合ってみよう。そう思った。
ずっと一人で、何も変わらずに過ごしているのも悪くない。でも、こんな笑い方ができる人と接する機会ができたのだ。
それはそれで、楽しいことがあるのかもしれない。新しい発見があるかもしれない。
河島夏希が私を見限るまで……ほんの少しの間でいい。
『友達』をやってみようと、そう思った。
それがどんな感情に変わるかなんて、想像もしないまま。
言った。言ってしまった。
今まで誰にも言ったことがなかった。『協定』を結んでいた清春君にさえ、ハッキリと口にしたことはなかったそれを。
思い切り、声に出してしまった。
「……え?」
ナツキちゃんは、何が起こったか分からないという顔で私を見つめている。
当たり前だ。シュウくんや清春君が言う場合とはわけが違う。
今まで友達として接してきた――哀しいけれど――そんな対象だとは一度も考えたことのないだろう相手が、突然告白をしてきたんだから。
「なに、それ……からかうんだったら止めてよ」
生気のない声で、ナツキちゃんは言った。
「からかってなんかないよ」
「からかってるんでしょ!?」
再び上がった大声に、店中の視線が私たちに集まる。
今度は止まらず、ナツキちゃんは立ち上がらんばかりの勢いでまくし立てた。
「あたしのこと、馬鹿にしてるんでしょ! 自分の気持ちもろくに分かってなくて、引っ込みもつかなくて、どうしようもなくなっちゃてさ。無理だなんて分かってんのよ! ハルと付き合ってなんて頼みたくないに決まってるでしょ! 友達になってやったんだから、一つの無理くらいどうにかしなさいよっ!!」
感情を思い切り叩きつけるような言葉に、鼻の奥がツンとする。
……ああ。まずい。
私の方が先に、泣いてしまいそうだ。
『友達になってやったんだから』
本心かどうかはさて置き、昂ぶった勢いで言った部分はあるだろう。だけど、最初にナツキちゃんが話しかけてくれたとき、私に気を使ってくれたとき、そこに第三者の意図が混じっていることに、私は気付いていた。
だって私に、何の思惑もなく善意だけで話しかけてくる人なんて、いるわけがないんだから。
そう思えば耐えられると思っていた。そういうセリフをぶつけられても。
でもやっぱり、ナツキちゃんの口から直接聞くのは段違いだ。
胸が張り裂けそうで、血の気の引くような寒気が背筋に走って、なのに変な汗が手に滲んでいる。
「そうじゃないんだよ、ナツキちゃん。私は、ナツキちゃんを助けたいだけ」
それでも、私は冷静を装った。私までそれを欠いてしまったら、ただの感情の押し付け合いになってしまう。それでは本当に意味が無いから。
「助けるんだったら……あたしの言うとおりにしてよ、お願いだから……」
ぐったりとナツキちゃんがうな垂れてしまったところで、様子を伺っていた店員がこちらに向かってくるのが見えた。
私はそれを片手を上げて制すると、立ち上がってナツキちゃんの肩に手をかける。
「ほら、出よう? これ以上ここにいたら迷惑だよ」
ナツキちゃんはほんの少し頷いて立ち上がった。私は会計を済ませ、店の中に一礼して外に出る。空は、まだかろうじて明るい。
「どこか、公園にでも行こうか」
そう言って、私は前を歩き始めた。ナツキちゃんは黙って付いてきてくれる。
「私ね、ナツキちゃんが清春君を好きなこと、ずっと前から気付いてた。多分、ナツキちゃんが自覚するよりも、ずっと前から」
後ろを振り返ると、ナツキちゃんと目が合った。私が笑いかけても、ナツキちゃんは泣きそうな顔のままで目を逸らす。
「ナツキちゃんは気付いてなかったかもしれないけど、清春君のことを話してるときのナツキちゃんは、本当に可愛かったから」
仕方がないと、私は自分に言い聞かせて前に向き直った。
「だから私は自分の気持ちに気付いても、それを伝える気なんてなかった。ナツキちゃんが清春君と付き合うなら、それは仕方がない。一緒にいた時間も、積み重ねてきた思い出も、お互いに向けている気持ちも、きっと私なんかじゃ敵わないからって」
大通りから外れた道を進んで、小さな公園に入る。本当に小さな、簡単な遊具と砂場だけがある公園。明るいとは言っても時間は五時を過ぎていて、子供の姿は見当たらなかった。そこのベンチに腰掛ける。ナツキちゃんとの距離は、人一人分。
「シュウくんを紹介した時も、私は安心してた。ナツキちゃんには好きな人がいるんだからって。シュウくんには恩もあったけど、その確信が無かったら紹介はできなかった。なのに、その後うまくいっちゃって……」
清春君に『協定』の話を持ちかけたとき、私は自己嫌悪と罪悪感でいっぱいだった。
シュウくんが強引に交際を強要したんじゃないか、清春君の気持ちはナツキちゃんのそれと違ったんじゃないか、そして私は、一番やってはいけないことをしてしまったんじゃないか。
でも、それはどれも正解じゃない。全部が全部ナツキちゃんの望み通りになって、でもそれはナツキちゃんの理想とは違っていたという話。
「私はナツキちゃんの真意が分からなくて、しばらく様子を見ることにした。清春君と付き合ってたのは、そういう利害が一致してたからっていうだけ。悪いけど、シュウくんとは上手くいって欲しくなかったから」
本当は、様子を見るなんてレベルじゃない邪魔をしていたんだけれど、それをわざわざ言う必要もないだろう。
今思えば妨害と呼ぶにはあまりに浅はかな、本当に邪魔レベルのことしかできていなかった。
「見ていてすぐに、ナツキちゃんはシュウくんのことが好きで付き合ってるんじゃないのは分かったけどね」
「……なんで?」
喫茶店を出てから初めて、ナツキちゃんの口が開いた。
表情は硬く、言葉は逐一選んでいるみたいにぎこちない。私は、できるだけ上手く笑おうとしながら言う。
「だって、シュウくんと笑っているときのナツキちゃんの顔、昔の私みたいだったから」
小学生の頃。シュウくんが集めてくれた形だけの友達。お茶を濁すような会話を、貼り付けたような笑顔でしていた私。
「ナツキちゃんは清春君と話してるときが一番自然で、一番可愛いんだよ」
私が好きになった――友達をやってみようと思った、本当の笑顔。それには、隣にいるのが清春君じゃないとダメなんだ。
そんなこと、最初から分かってた。
きっと、一番現状を維持したかったのは私だ。ナツキちゃんをちゃんと笑わせてあげるために、一番いいのは清春君と付き合わせる事だって分かっていたのに。それを自分でしてあげられない私は、そうなってしまうのも嫌だった。清春君と付き合いだしたら、ナツキちゃんが離れていってしまう気がした。好きでもないシュウくんと付き合っているなら、一線を越えるのも遅いだろうという打算もあった。
清春君をけしかけたり唆したりする権利なんて、私には無かったのだ。
「そんなに……可愛い可愛い言わないでよ」
照れた風に、ナツキちゃんがそっぽを向く。そういう動作が可愛いんだっていうのに、自覚がないのが困りものだ。
「さっきは酷いこと言って、ごめん」
顔を背けたまま、ナツキちゃんは頭を下げる。
きっと、全部を納得したわけじゃない。シュウくんと清春君の間に何があったかを知らないナツキちゃんは、ただ私と清春君が好き合っていたんじゃないという事実にほっとしているだけだ。
「分かってくれた? 私がちゃんと、ナツキちゃんのこと好きだって」
赤い顔で頷くナツキちゃんを見て、そうさせているのが自分であることに嬉しくなる。
私が好きでいるのを認めてくれるなら、私はこれからだって平気で嘘を吐き続けるだろう。
でもきっと、ナツキちゃんとの『友達』は今日で終わってしまう。
ずっと好きで、多分これからも好きで、彼女はそれを知っていて。それでこれからも自然に友達だなんて、お互いに無理だろうから。
「……さっき、あたしを助けてくれるって言ってたよね。それって、どういう意味?」
期待のこもった眼差し。それに答えるのは簡単だけれど、わざと冗談めかして私は返す。
「ついさっき告白してきた相手に、もう別の相手との相談なんて……。ナツキちゃん、案外残酷なんだね?」
「そ……れはその……。ごめん」
しゅんとした顔で謝るナツキちゃんは、やっぱり可愛い。
これくらいの悪戯は許して欲しい。今まで嫌われるのが怖くてできなかったこと、遠ざかるのが怖くて言えなかったこと、全部を今するなんでできないから――
「ううん、こっちこそごめん。……私は『みんな』の中で、多分誰よりもみんなの事情を知ってる。だから、ナツキちゃんがこうしたいと思うこと、それを手助けすることが、多分できる」
「それって――」
「でもね、ナツキちゃん。それを手伝う前に……ほんの少し。ほんの少しでいいから、私も見返りが欲しい」
「見返り?」
「……私にキス、して欲しい」
このくらいの我が侭は、許して欲しい。
「それはっ! えっと……」
戸惑って手を身体の前で振るナツキちゃんの顔は真っ赤で、多分私の顔も同じようになっているだろう。
「ダメかな?」
そんなことを言いながら、私は自覚している。これは質問ではなく脅迫だ。してくれなければ手助けはしないと、かなり直接的に言っているのだ。
でも、この我が侭だけは譲れなかった。これは、この見返りは友達としてじゃなくて、ナツキちゃんに恋をした私としての、最初で最後の我が侭だから。
「でも、えーと、やっぱりね、女の子同士っていうのは抵抗があるというかなんというか……」
定型文のようなごね方をするナツキちゃん。分かっていた。こういうことになるってこと。こういう時のために保険を用意しておいて良かった。
「私ね、昨日、ハルくんとキスしたよ」
わたわたと振られていたナツキちゃんの手が、ピタリと止まった。
雰囲気が一変して、喫茶店にいた時のようなピリッと張りつめた空気になる。
「え、なんで?」
真顔で、平坦な声で、本当に信じられないという様子でナツキちゃんは聞く。
私と清春君は好意で付き合っていたわけじゃない。しかも昨日は別れ話をしていたはずで、キスする理由なんて何もない。
ナツキちゃんは、そう思っていたんだろう。
「なんでって……それなら、してくれると思ったから。私とするって考えるより、ハルくんと間接キスって思う方がナツキちゃんもいいでしょ?」
わざとらしい神経を逆撫でするような言い方にも、ナツキちゃんの表情は変わらない。
ナツキちゃんの手が私の頬に伸びる。熱くなった肌に、手の冷たさが心地いい。
ゆっくりと近づいてくる顔。閉じられた目。薄く開かれた唇。それをずっと見ていたくて、私はギリギリまで目を開けていた。
やわらかい感触。ずっとずっと、自分には訪れないと諦めていた感触。
ほんの短い間だけでも、それを味わえて本当に嬉しかった。
「……つっ!」
輪ゴムが千切れるような音とともに、その感触は刺すような痛みに変わる。
思わず口元を押さえて仰け反ると、その手を確認するより早く何が起こったか理解した。
ナツキちゃんの口元から、血が垂れていた。もちろんそれはナツキちゃんのものではない。
「これで、ハルを取り戻せたなんて思わないから」
私の唇を噛みきった口で、ナツキちゃんはしめやかに終わりを告げる。
それでいい。私の友情の終わりは、恋の終わりは、これでいいから。