本田が泣き止んだ後、俺達は帰路についた。
たまたま帰る方向が同じだった俺達は、自然と一緒に帰る流れに。
「ごめん、情けない姿見せちゃったなー。あはは……」
「ほんとだよ。まさか本田があんなに泣き虫だったとは……」
「泣き虫じゃないし!!」
わざとらしく言った言葉に本田は即座に反応し、鞄で殴りつけてくる。
「てか、泣いてたのはマジ内緒だからね!?」
「わかってるよ」
生憎、言いふらすような相手もいないしな。
それはそうと、折角の機会だし、本田には色々と聞きたいことがある。
こいつが巻き込まれている悪い流れを断ち切るためにも。
「そもそもお前、なんでオロチから嫌がらせされてるんだ?」
とりあえず、ストレートに聞いてみた。
「いきなりね…。たぶん、なんだけど……」
本田は何かを思い出すかのように目を瞑り、しばらくした後に目を開け、意を決したように話し始める。
「あのね、オロチがあたしの事を好きだって噂があってね」
そんな噂があったのか。全く知らなかった。
「でね、友達からその話を聞いて、あたしはあいつに対して好きとかそういう感情なんて全くなかったから、興味ないかなって話を友達としてたんだけど、どうもその話をあいつ聞いてたみたいで…」
なるほどな。大体全体像が掴めてきた。
「それで、その腹いせに嫌がらせをしかけてきてるってわけか」
「たぶん…。その後、面と向かって、覚えてろよって言われたから……」
そんな理由であれだけの事をするのか、と思いたいところではあるが、人間なんてそんなものなのかもしれない。
クラスの皆もそれを聞いたら呆れるんじゃなかろうか。
よし、道筋は見えた。
あとは、やつに仕掛けるタイミングさえ間違えなければ。
「本田、ありがとよ」
「うん…。ま、どーせあんたなんかに何も出来ないだろうけどね!」
「こらこら、やってみなきゃ分からんだろ」
「じゃあ一ミリくらい期待しとくー」
「なんだよそれ」
その後、本田は暗い話を払拭するかのように他愛もない話を度々ふっかけてきた。
俺にはよく分からない話ばかりだったので適当に相槌を打ってやり過ごした。
*
翌日。
お昼の休憩時間中、その時は唐突にやって来た。
オロチは学食で昼食をとってきたようだが、食べ足りなかったのか購買で買った菓子パンを頬張っている。
そして、ひどくつまらなそうな顔をしたかと思えば、奴の近くで弁当を食べていたグループの椅子を突然蹴飛ばし、蹴飛ばした椅子に座っている男子の名前を呼ぶ。
「おい、鈴木」
椅子を蹴飛ばされ、オロチに呼ばれた鈴木は恐る恐る振り向く。
「なんだよ……」
鈴木はサッカー部で、こいつも中々に体格が良く強そうに見えるが、こんなやつでもオロチを恐れているということから、いかにオロチが危険なやつかが分かる気がした。
そして、振り向いた鈴木に対しオロチは顎で本田のことを示した。
やれ、ということだろう。
鈴木は渋い顔をし、やりたくなさそうなのは一目瞭然だった。
しかし、断ることなんて出来ないといった様子で立ち上がる。
「はやくしろ」
「あ、ああ……」
オロチに催促され、鈴木は重い足取りで弁当を食べてる本田の前まで行く。
相変わらずクラスの連中は我関せずといった様子だ。
本田も本田で、鈴木の存在に気付いてはいるものの、気にしない様子で弁当を食べ続けている。
鈴木はそんな本田の様子をしばらく見続け、葛藤しているようだった。
そして、自分の中の何かに負けた鈴木はとうとう手を出してしまう。
「……!」
鈴木が本田の手から弁当を奪い取る。
そして、それを投げ捨てようとした所で俺も立ち上がった。
「やめるんだ鈴木、そこまでだ」
瞬間、今まで知らぬ存ぜぬを突き通してたクラス全員が一斉に鈴木と俺に視線を向ける。
誰かの蛮行を止めに入るなんて事が今まで一度もなかったからだろう。
本田も驚愕の表情でこちらを向いている。
だが、今はその方が好都合だ。
俺は構わず続ける。
「鈴木、お前、本田に手を下すの何回目だ?」
「な、なんだよ急に……」
鈴木はオロチの機嫌を損ねないか気にしているようで、チラチラと横目でやつの事を確認していた。
しかし今のところオロチは何もアクションを起こしていない。
「いいから早く答えろ」
「に、二回目、かな……」
鈴木がバツの悪そうな顔で答える。
そんな鈴木に追い打ちをかけるように俺は言葉を続ける。
「そうか。お前は確か彼女がいたよな。彼女はそれを知っているのか?」
「馬鹿かお前…。言えるわけねぇだろうが!」
「だろうな。だが言えないということは、それだけ後ろめたい事をしているという認識はあるんだな」
「ぐっ……るせー……」
「これからずっと、彼女に隠し事して付き合っていくのか?」
「うるせぇ……」
「もし、いずれ彼女がお前の蛮行を知ったら、その時どうなるかなんて容易に想像できるだろ? それは不味いんじゃないのか?」
「うるせぇ!! 言われなくても分かってんだよそんなこと!!」
鈴木は鼓膜が震える程の怒号をあげる。
しかし俺はその言葉が聞きたかったとばかりに、手応えを感じた。
「そう、分かっているんだ。本当は、これはいけない事だって」
「うっ……」
鈴木は図星を突かれたかのように言葉に詰まる。
「鈴木だけじゃない。お前らだって本当は分かっているんだろう? いけないことをしてるって。こんなこと本当はやりたくないんだって。そう思ってるんだろ?」
俺は周囲を見渡しながら、皆の心に訴えかけるように呼びかける。
クラスの皆は先程の鈴木のように渋い顔になり、これまでの自分の行いを考え始める。
しかし、そこでとうとう奴が動き始める。
「おいおいおい、何なんだおめぇは。黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって。まるで誰かにやらされてるみたいな言い方じゃねぇか」
オロチは不遜な態度で言う。
だがネタはあがっている。今更とぼけても無意味というものだ。
「寝言は寝て言え。お前が皆にやらせてるんだろう」
俺はオロチを睨みつけ、同じように不遜な態度で言い返してやった。
「ハッ、何言ってんだてめぇ。確かに俺が指示は出しているが、別にやりたくない奴はやらなきゃいいだけだろ。だが現実はどうだ。皆やってるじゃねぇか。皆やりたいからやってんだろ? なぁ!?」
オロチは先程の俺のように周囲を見渡し、両手を広げ、わざとらしく皆に訴えかける。
いや、これは訴えかけなどではなく、一方的に圧力をかけているという表現が正しいだろう。
おかげで、皆考えなおそうとしていた顔が一気に恐怖で引きつり始めている。
だが、このまま奴に流れを持っていかれるわけにはいかない。
俺はここで、昨日、本田から聞き出したカードを切ることにする。
「皆、何をそんなに恐れているんだ。こんな奴にびびる必要なんて全くないぞ」
「あ…? んだとてめぇ」
オロチが俺の言葉に反応し、眉をひそめる。
俺はその様子を見て、ふっと悪戯な笑みを浮かべ、話を続ける。
「そもそも、こいつが本田に嫌がらせを始めた理由なんだが、皆知っているか? すげぇ下らないんだぜ」
「てめぇ!! いい加減に――」
オロチは途端に焦り始め、話を止めさせようとする。
しかしここで止めるわけにはいかない俺は、オロチなど意に介さずお構いなしに続ける。
「こいつは本田のことが好きで好きでどうしようもなかったんだが、本田にはその気が全然無いってのをたまたま知ってしまってそれに腹が立ち、嫌がらせを始めたんだよこいつは!」
瞬間、教室内が一斉にざわつき始める。
「どうだ皆、下らないだろう? そんな理由でこいつは本田に嫌がらせをし続けていたんだよ。そんなことでお前達は今までこき使われてたんだ。何だか腹が立って来ないか?」
「この野郎ォ!!!! ぶっっっ殺す!!!!」
オロチは固く握りしめられた拳を振りかぶり、その巨体から重い一撃を繰り出してくる。
俺は、俺の姿勢、行動、言葉、全てをクラスの皆の目に焼き付けさせる為、クラスの視線を惹きつける為、敢えてその一撃を受け入れる。
「がっ…!!」
オロチの一撃は俺の顔面に直撃し、殴られた勢いで吹っ飛び、倒れこむ。
教室内が一層ざわつく。悲鳴をあげる女子もいるようだった。
鼻の奥から滴れ落ちてくるものを感じ、手の甲で鼻を拭うと鮮血で染まっていた。
量が半端ない。鼻が折れてるかもしれない。
だが、クラスの注目を集めることには成功したようだ。
「おいコラてめぇら!! スバルの言うことなんて信じるなよ!? こんないつも一人でいるようなやつの言うことなんてよぉ!! ただの妄想だ妄想!!」
オロチは威圧するようにして、再び全員に呼びかける。
俺は脳震盪一歩手前のふらつく体にムチを打ち、どうにか立ち上がる。
そして呼吸を整え、しっかりと敵を見据えて言い放つ。
「ああそうだよ。お前の言う通り俺はいつも一人だ。一人の方が気楽だし、自由にやりたいからな。だから、だからな、お前の指図なんてもう受けない。俺の意志は俺自身のものだ。お前なんかの圧力には決して屈しない」
「あ…? いい度胸だなてめぇ」
オロチは再び眉をひそめ、不快感を露わにする。
すぐにでも襲いかかってきそうな雰囲気であった為、俺はすぐに次の行動を起こす。
「だが、お前らは違う」
俺はクラスの連中を見渡し、そう言った。
「お前らはゴミクズだ。ゴミ虫だ。オロチと然程変わらない。お前らは所詮、他者に流され、迎合して生きていくことしか出来ない甘ったれのクソ野郎だ。そこに自分自身の意志など存在しない。そんなの死んでいるも同然だ。生ける屍だ」
俺は、敢えて口汚く罵るように言い放ち、皆の心を煽る。
このクラスに巣食っている腐敗した流れを断ち切るには、誰かが犠牲になってきっかけを作らなければならない。
皆だってそれにはきっと気付いているだろう。
しかし、きっと誰もが犠牲になりたくないと考えているんだ。
そうならない為の方法が思いつかないんだ。
失敗すれば今度は標的が自分になり、高校人生が終わるかもしれない。
そう考えると足が竦み、結局何も行動が起こせなくなる。
だったら、その役を立ち回れるのは俺しかいない。
いつも一人で、実はすでに死んでいて、失うものなど何一つない俺しかいない。
だから、どんなに口汚い罵詈雑言を浴びせて皆から恨まれようとも、やり通さなければならない。
俺は気を強く保ち、言葉を続ける。
「だが、お前達にはそれがお似合いだ。一生そこで這いつくばっていればいい。一生底辺で馴れ合っていろ。そうしてお前達は後々気付くんだ。あの時、ああしていれば良かったと。そうやって、後悔に生きる人生を歩んでいけばいい」
すると何人かが立ち上がり、お前は何様だと口々に俺を非難してくる。
だが、そうなることが俺の狙いである。それでいい。それでいいんだ。
「お前ら、悔しいか? 俺のことが憎たらしいか? だったら俺と同じことをしてみろ。オロチに歯向かってみせろ。それが出来ないようなゴミ虫には、俺を非難する資格は無いね!」
重い体を引きずり、俺はオロチに向かっていく。
勝ち目がなかったとしても立ち向かう姿をクラスの皆の目に焼き付けさせなければならない。
その姿勢を見て、皆それぞれの、内なる何かを呼び起こさせる為に。
「かかってこい、クソ野郎」
俺はオロチを敢えて挑発し、戦いやすい環境を整える。
「上等だカス野郎、望み通り捻り潰してやる!!」
直後、再びオロチの一撃が飛んでくる。
俺はそれを擦れ擦れで躱し、空振りに終わったことで体制を崩したオロチの頭部にお返しの一撃をお見舞いしてやった。
「がっ…!!」
手応えはあった。
しかし、頑丈なオロチは倒れること無く体を仰け反らせた程度で、すぐにこちらに向き直る。
そしてその表情は先程のキレ顔とは打って変わって、非常に落ち着いた冷静なものとなっていた。
これは、オロチが本気でキレてしまって手に負えない状態の時の顔らしい。
正直、その雰囲気に圧倒されてしまったが、皆にあんなことを言った以上、俺から引くわけにはいかない。
俺は自分を奮い立たせ、再びファイティングポーズをとり、オロチに向かっていく。
「うおお…!!」
俺は気合とともに一撃を繰り出すと、いとも簡単に奴の顔面にヒットした。
しかしオロチは敢えて一撃を受け入れていたようで、食らった瞬間に俺の腕を掴まえてくる。
突き出した腕を掴まれ、硬直したその瞬間にオロチから圧倒的な暴力が襲いかかる。
俺は意識が飛びそうになり、膝の力が抜け倒れそうになるが、掴まれてる腕を引っ張られ、崩れ落ちることを許されない。
そして、そのまま腹部に前蹴りをモロに食らい、文字通り吹っ飛んだ。
腹部を蹴られたことで呼吸困難に陥り、若干生命の危機を感じる。
そんな俺にはお構いなしに、オロチが近づいてくるのが見えた。
これはマジでやばいかも。
そう思った時、俺とオロチの間に割って入ってくる少女がいた。
「もうやめて!!」
本田だった。
まるで俺を守るかのように両手を広げ、昨日のように涙で顔をくしゃくしゃにしながら、大声をあげていた。
「もう、いいでしょ…!? もう、やめてよ…!!」
「そこをどけ、由香」
オロチが圧倒的な威圧力で本田に命令する。
「どかない!! 絶対どかない!!」
本田も負けじと抵抗する。
「今すぐどけ、じゃないとお前も…」
そう言ってオロチは拳を振りかぶる。
本田は一瞬恐れたものの、すぐに気を強く持ち直し、決して動こうとはしなかった。
俺はその姿に本田の強さを感じた。
だが、彼女が傷つくのは俺の望むところではない。
「本田、どくんだ。俺に任せろと言ったはずだ。下がっているんだ」
「馬鹿!! 何言ってんのよ!! こんなに血出ちゃってるのにさ!!」
本田は慌ててスカートのポケットからハンカチを取り出し、鼻血を拭き取ってくれる。
白く綺麗な布切れが一瞬にして赤く染まっていき、何だか申し訳ない気持ちになった。
しかし、俺は目の前に集まりだしてくるクラスメート達を見て、安堵した。
自分の行いが正しかったかは分からないが、決して間違いではなかったはずだと。
少し気持ちが軽くなり、本田に言った。
「違う、これでいい。これが、ベストなんだ」
「意味わかんないよ…あんたがここまでする必要ないでしょ…!! あたしの問題なのに…。あんた一人がこんなに頑張ることない…!! もう十分だって…!」
「本田、それは間違ってる」
「なにが間違ってるのよ…!」
「これはお前だけの問題じゃないんだ。そして、俺は最初から一人で頑張るつもりなんてなかったぜ」
「え…? それってどういう意味――」
本田は言いかけて、ハッとしてオロチの方へ振り返る。
するとそこには、クラスの皆がオロチの周りに立ち塞がり、今にも奴を取り押さえようとしていた。
俺は、勝負に勝ったと思った。
「この戦いはオロチ対俺ではなく、初めからオロチ対クラス全員だったんだよ」
オロチは謂わばこのクラスの独裁者だ。
自分にとって気に入らない人間を虐げ、貶める。
そして独裁者は圧倒的な力や恐怖で民衆を支配する。決して自らに反逆してくることのないように。
しかし、その独裁体制が崩壊する時は毎回同じパターンである。
それは、民衆による反乱だ。
つまりこの戦いでの勝利条件は、クラスの連中がオロチの圧力に屈さず、恐怖に打ち勝ち、全員であの坊主頭のクソ野郎に立ち向かうことだった。
「なんで…、皆、どういうこと…!?」
予想外の出来事だったのか、本田が慌てふためいている。
だが、俺にとっては予定通り。
この腐った現状を打破する為、俺には二つの考えがあった。
一つは、クラスの連中の心を煽ること。
例えどんなに汚い言葉を使ってでも、煽り、焚き付け、まずはオロチの恐怖支配から脱却させる。
途中、偉そうなことを言う俺に対して非難の声が浴びせられたが、オロチへの恐怖から俺への怒りに対象が移り変わり、良い傾向だと思った。その時点で、一つの目的は達成できた。
そして二つ目は、クラス全員でオロチに立ち向かうきっかけを与えること。
俺に向けられた敵意をそのままに、上手く扇動し、その敵意をそのままオロチに移行させる。
俺なんかが一人で歯向かった所で、あいつに勝てるわけがない。
当然だ。そんなこと百も承知だ。
だが、全員で戦えば必ず勝てる。
だから俺は、自分の身を犠牲にしてでも立ち向かった。
勝ち目のない戦いに突っ込んでいく馬鹿がここにいるぞ、と。
悔しくないのか、お前ら。
散々憎まれ口を叩かれ、敵意を抱いた相手が一人でオロチに立ち向かっている。
ここで何もしなければ、本当に俺以下のゴミ虫に成り下がるぞ。
立ち向かえ。
立ち向かって、クラスのあるべき姿を取り戻せ。
俺はそう皆に訴えかけるように、一人で戦った。
勝ち負けは問題では無かった。
皆が立ち向かうきっかけが作れれば、何でも良かった。
そしてその試みは、どうやら上手くいったみたいだった。
「なんだてめぇら。揃いも揃って」
オロチが、自らを取り囲むクラスの連中を一瞥し、いつものように威圧する。
しかし、皆はそんな圧力にはもう屈さず、強気の表情を保っている。
すると、本田の弁当を投げつけようとしていた鈴木が一歩前に出て言った。
「いい加減にしろ、オロチ」
「ああぁぁ!?」
オロチは声を荒らげ、一層威圧するが、覚悟の決まっている皆は動じない。
「もうお前の言うことは聞かない。俺だけじゃない、皆もだ。元々、あんなことするの乗り気じゃなかったんだ。皆だってそうだろ!?」
鈴木はサッカー部でイケメンであることに加え、色々と気が利く奴で、度々クラスメートの相談に乗ったり手助けをしていた事もあり、クラスの皆からの人望はかなり厚い。
そんな鈴木が問いかけるのだから、皆、頷いてみせる。
オロチのように威圧して頷かせているわけではなく、皆、本心でそうしているようだった。
「オロチの指図はもう受けないって見せつけてやろうぜ!! 俺達の意志は俺たちのものだってことを分からせてやろうぜ!! みんなで自由を掴み取ろうぜ!!」
鈴木が良い方向で皆を煽る。
するとクラスの皆は、おぉ!!と一斉に応え、士気が上がる。
やはり敵わないなぁと思った。
しかし、その様子をみたオロチは再び怒りが爆発する。
「てめぇら!! 全員ぶっ殺す!!」
顔を真っ赤にしてそう言い放ったオロチは、目の前にいた鈴木の胸ぐらを掴みあげ、拳を振り下ろそうとする。
しかし、近くにいた数名がオロチを押さえつけ、拳が振り下ろされることは無かった。
オロチは舌打ちをし、押さえつけていた数名を弾き飛ばして再び暴れようとするが、また別の数名に押さえつけられているようだった。
ここまでだ、と思った。
ここまでで十分だ。これ以上はただの乱闘騒ぎになってしまうかもしれない。
そう思った俺は、本田に指示を出す。
「本田……」
「な、なに!? どこか痛いの!?」
「違う。そうじゃない。先生、先生を呼んでくるんだ。誰でも、いい」
とにかく今は、この泥沼化しそうな状態を一旦収めてくれる権力者が必要だ。
「そ、そっか。そうだよね! 分かった、すぐ呼んでくるね!!」
本田は俺にハンカチを渡し、すぐさま教室を出て行く。
「よし。あとは……」
あとはもう、鈴木に任せよう。
きっと良いリーダーシップを発揮してくれるはずだ。
そうなれば、もう、きっとこのクラスは平気だ。安泰だ。全てが上手くいくはずだ。
何も問題は無い。何も心配はいらない。
そう思った瞬間、気が抜けたせいか全身から力が抜け、崩れるように倒れ込んでしまう。
そうしてそのまま、スイッチが切れたかのように意識が途切れた。
*
目覚めるとそこには知っている天井があった。
「保健室、か」
俺は保健室のベッドで寝ていたらしい。
誰かが運んでくれたのだろう。
顔を傾けると、そこにはあの日と同じように夕日に照らされている少女の姿があった。
「やっと起きたね、おはよう」
そう言う彼女の表情は、普段のやんちゃな印象とは裏腹にとても美しく見えた。
まるで見る人全てを安心させるかのような、とても穏やかで優しげな顔だった。
「やっぱり待ってて良かった。なんとなく、そろそろ起きるんじゃないかなって思ってたんだ」
本田はニコッと笑みを見せる。
ああ、彼女が笑っている。
あれほど見たいと願っていた笑顔。
あれほど取り戻してあげたいと思っていた笑顔。
その笑顔が今、ここにある。ここにあるんだ。
俺は胸に込み上げてくるものを感じた。
少しは頑張った甲斐があったかなと思う。
俺は起き上がろうとしたが、動かそうとするとすぐに体中に激痛が走り、気力を全て奪っていく。
「まだ動いちゃダメだよ。ボロボロだったんだから」
本田が心配そうに言い、俺を再びベッドに寝かせる。
痛みで震える唇を必死に動かし、俺は言った。
「わざわざ、待っていたのか? こんな時間まで」
「だって、起きた時に誰もいなかったら寂しいでしょ?」
再び聖母のような優しい表情で、本田が言った。
あの鉄仮面が嘘のようにころころと表情が変わる様を見て、これが本当の本田なんだと嬉しく思った。
しかし、そんな心を悟られぬよう強がってみせる。
「そんなことはないさ。俺は一人の方が性に合っているんだ」
「はいはい」
さらっと流された。
「それに、ひとこと言っておきたいこともあったし。なのに、意識不明になってるんだもん」
「む、すまん……」
なぜか申し訳なくなってくる。
「あの後、先生を呼んできたは良いものの、あんたが気絶しちゃってたから、あたしどうしたら良いか分からなくて大変だったんだからね!?」
そう言う本田の表情からは相当の苦労がうかがえ、非常に申し訳ない気持ちになる。
しかし、きっと鈴木あたりが上手く動いてくれていたんだろうと俺は思う。
「でも、何とかなったんだろ?」
「まーね。鈴木が色々と上手くやってくれたけど」
予想通りだった。
あいつなら全て上手くやってくれると思っていた。
「だろうと思った。やはり鈴木はすごいな」
今まではオロチの影に隠れていたが、オロチがいなければ確実に鈴木がクラスの中心になっていただろう。
そしてオロチを退場させた今、それが現実のものとなる。
これからが鈴木の真価が問われる時だろうが、あいつならクラスを良い方向に引っ張ってくれるはずだ。
是非、そうしてもらいたい。
しかし、本田は納得出来ないような表情で俺を否定する。
「……そうかな?」
「そうだろ。皆をあんなに上手くまとめてオロチに立ち向かってた」
そう言う俺に対し、本田は真っ直ぐに俺の目を見据えて言う。
「でも、そのきっかけを作ったのはあんたじゃん」
本田の顔は、至極真面目な表情になっていた。
「確かに鈴木はすごかったかもしれないけど、それは、あんたがいたからじゃん。あんたの行動があって、言葉があって、必死さがあって、それで、あいつもようやく覚悟が決まった。あたしはそう思ってる」
「そ、そうか?」
そう言ってもらえて、俺は素直に嬉しかった。
自分の成した事が無駄ではなかったと、そう思えた。
「それにあんたがいなかったら、きっと、あたしは明日も明後日も今までと何も変わらずに嫌がらせを受けていたと思う。だから、だからね……」
本田は意を決したような表情になる。
そして、少し気恥ずかしそうに言った。
「助けてくれて、ありがとうって。あたしを救ってくれてありがとうって、一言、どうしても言いたくて」
本田の顔は明らかに赤くなっていた。
対する俺は、感謝なんてものをされるとは思ってもいなかった為、頭が真っ白になり何も言えずにいた。
「ぁ……、ぅ…」
そんな言葉、予想していなかった。期待もしていなかった。
自分の考えと現実にギャップがありすぎて、思考がまとまらなくなる。
「な、なんだよ。やめろよ。俺はそんな事言われるような人間じゃないぞ」
気恥ずかしさから、明らかに動揺した口調になってしまった。
「なに赤くなってるの。案外かわいい所あるんだね」
本田がからかうように言ってくる。
俺はそれから逃げるように、話題を逸らそうとする。
「しかし皆に酷いことをかなり言ってしまった。皆、俺のことを恨んでいるだろうな」
実際あんなに悪態をついてしまったし、皆どう思っているのだろうか。
今度は俺が敵意を向けられてしまうのだろうか。
もしそうなったとしても、仕方がない。
オロチの呪縛から解放するための必要な犠牲だったんだ。
俺一人が耐えれば済む話だ。オロチが支配していた時よりもずっとマシじゃないか。
「ぷっ。あはは、なにそれ、ダサっ! てか、被害妄想すぎ!」
本田が悪戯に笑った。
俺の心にかかりはじめた靄を吹き飛ばすかのように、笑った。
何だか、拍子抜けした。
「あんたに怒ってる人なんて、一人もいなかったよ。むしろ、みんな感謝したいって言ってたくらいだし」
「…マジか」
どうやら俺は本当に被害妄想していたらしい。
急に自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「うん。でも、あたしは許さないよ」
本田の表情が唐突に真剣になったかと思うと、俺の顔に向けて両手が伸びてきた。
「おい……」
その意味を理解した時には既に遅く、本田の両手は俺の顔をしっかりと掴み、俺はそのまま彼女の胸へと抱き寄せられる。
「あんたにはほんと、感謝してもしきれないくらい、ありがたく思ってる。きっと、あんたっていう人間はこれからも、どうしようもない程に困っている人がいたら、あたしの時みたいに助けちゃうんだろうね。それでまた、一人でなんとかしちゃうんでしょ」
誰もやらないのであれば、誰も出来ないのであれば、やはりそうするしかない。
例え一人でも、何とかするしかない。
一人だからこそ、何か出来ることがあるかもしれない。
今回の一件のように。
自分が生き返る為に。
それもあるが、それだけではないような気がした。
自分の心境も多少変化しているようだった。
何か自発的なものが芽生え始めているのを感じた。
「でも、あたしは怖いよ。一人で頑張りすぎて、いつかあんたの方が壊れちゃうんじゃないかって、心配だよ。今日みたいに、あんただけが傷つくのはもう見たくない。あんなやり方、もう絶対に許さない」
本田は抱きしめる腕に一層力を込め、言った。
「だから、だからさ。これからは、あたしを頼ってよ。いっぱいいっぱい頼ってよ。あたしに出来る事なんて大してないかもしれないけど、それでも頼って欲しい。少しは恩返しさせてよ」
こんな体勢で、しかも、今にも泣き出しそうな声で言う彼女はずるいと思った。
「……こんなことしながら言うのはちょっとずるくないか?」
「だって、こうでもしないとあたしの言うことちゃんと聞いてくれないでしょ?」
何もかも計算済みってことか。
意外と侮れない女なのかもしれない。
「分かった、分かったよ。そうさせてもらう」
俺は観念し、そう言う他なかった。
そして、本田は自身の胸に抱き寄せていた俺の頭部をようやく解放し、満面の笑みで言った。
「よしっ」
そう言う彼女の顔は、今までで一番の、極上の、最高の笑顔だった。