第八打席「The lefty killer has come back」
俺は、カスガDOOMDOOMスタジアムにようやく帰ってくることができた。一歩グラウンドに足を踏み入れた途端、実家のような安心感を覚えた。
由宇球場で過ごした長い時間に、どこか違和感を覚えていたのが不思議だったが、ドムスタに足を踏み入れたことで、ようやくその理由に気付いたのだった。
俺の場所はここなんだ。
そう思えるようになったことを、去年の今頃の俺にもし話せたら、どういうリアクションを取っただろう? まぁ、信じられないだろうな……
試合前練習が始まり、バッティング練習の順番が回ってきた。すると、ふいに大方監督がバッティングケージの後ろに陣取るのが見えた。
特にそれを気にすることなく、俺は黙々と打撃投手の投げ込むボールを打ち返し続けた。そして、練習が終わる頃には、監督の姿はすでにケージ裏にはなかった。
さて、どう判断されるだろう。
『二番、ライト、山﨑太郎』
一回裏、第一打席。大方監督は、俺を開幕戦と同じ打順で使ってくれた。
久し振りの一軍での打席。不思議と緊張はしない。
打席でのテーマソングを変えた。曲はRHYMESTER『ONCE AGAIN』。今月の頭くらいからリピートしていた曲で、俺にもう一度立ち上がるための力を与えてくれた。
ライトスタンドのアイロンズファンは、曲の終わりに合わせて『おかえりおかえり山﨑!』と、打席に入る俺に大声援を送ってくれる。
これだ。この光景を待っていた。あなたたちの声援のおかげで、また頑張ろうって思える。絶対にやってやろうと、バットに想いを込められるんだ。綺麗事のように思う人もいるかもしれないから、殊更話しはしないけれど、本当に感謝している。
プロ野球選手は様々なファンの期待を背負って生きている。そう、俺は今、生きている。
自分のために生きている。あなたたちのために生きている。
まだ生きている今のうちに、やっておかなくてはならないことがある。死んでしまったら叶えられないこと。
俺は、俺がここにいた証を残したい。プロ野球選手として死を迎えるその日までに……
今年二十七歳の俺に残された時間は、それほど多くない。
さて、今日の相手は平塚ドルフィンズ。先発はルーキーの永瀬。大卒でドラフト一位。即戦力としての期待に応え、ここまで既に六勝を積み上げている。
ちなみに俺の大学の後輩で、試合前には律儀に挨拶しにきてくれた。プロ野球はかなりの縦社会だから当然といえば当然なのだが。
だからといって、グラウンドでは手加減してはくれないし、こちらも全力で立ち向かう。それが勝負の世界だ。
永瀬はサウスポーで、武器はツーシーム。ツーシームとは、指先にボールの縫い目をかけないような握りで投げる球のこと。ピッチャーによって変化の仕方や曲がり幅が違い、攻略に手こずることが多い。
ツーシームは永瀬の躍進を支えている球だ。百四十キロ前後のスピードで、永瀬の場合は縦に大きく曲がる。はっきり言って、ほとんどフォークボールだ。
ムービング・ファストボールと呼ばれる類の球は、バットの芯を外させ凡打を打たせるために使われることが多いが、永瀬のそれは完全にウイニングボールだ。追い込まれてから投げられたら、捉えることは極めて困難になる。
ならば攻略法は、追い込まれる前にキチンと振ることだが--ムリだった。まさか、全球ツーシームでくるとは。このツーシームは、初見で捉えるのは厳しい。
あっさり三球三振を喫した俺は、とぼとぼとベンチに下がった。
「"左殺し"が泣きますよ」
ネクストバッターズサークルですれ違った三番の洗川が、吐き捨てるようにそう言った。そして打席に入った洗川は、永瀬のツーシームをいとも簡単にバックスクリーンに叩き込んで、チームに貴重な先制点を与えたのだった。
これを繰り返したら、ダメだ。
なにが『ムリだ』だ。新陳代謝が活発なプロ野球の世界で、初見投手を打てないなんて言ってたら、レギュラーなんて務まらないだろ!
もっと、もっと集中しないと。
リベンジの機会がすぐに訪れるのが、スタメン出場の良いところだ。代打なら基本的に一打席勝負で、その日の失敗をその日のうちに取り返すことはできない。だが、スタメンなら一日最低三打席は回ってくる。
第二打席は、かなりの重要局面になった。ドルフィンズ打線が三回表に爆発。一挙五点を挙げ、試合の舵取りはドルフィンズに奪われてしまった直後の回、アイロンズも一死一塁二塁とすぐに反撃態勢を整える。そこで俺に回ってきた。
ここでの俺の役割は、とにかく塁に出ることだ。ランナーを帰すのは、後ろのクリーンナップに任せていい。最悪塁に出られないとしても、今いるランナーを先の塁に進めなければ。一塁二塁ではワンヒットでせいぜい一点だが、二塁三塁となれば、ヒットで確実にランナーを一人帰せるし、上手くいけば二人。その差は大きい。
永瀬はどう攻めてくるか? さすがに一打席目と同じようにツーシーム連発はないだろう。あの時はランナーもいなかったし、最悪見られて、フォアボールになっても仕方ない、というような構成だった。永瀬のツーシームはその変化量の大きさゆえに、ボール球になる可能性も高い。
使ってくるとしたら、ツーストライクに追い込んだ時か。
スコアラーのデータによると、永瀬の前回までの投球のうち、約四十パーセントがツーシーム。残りの約二十パーセントがフォーシーム、つまり普通のストレート。そして残りの約四十パーセントがスライダー、フォーク、シュート、スクリューなど。
歩かせたくないなら、初球でストライクを取りにくるか? だからといって、当然ど真ん中には投げてこないだろう。
たぶん、ストライクゾーンに収まる程度の、小さな曲がりの変化球を使ってくるか。一打席目を踏まえて考えると、ツーシームと曲がりの似ている、けれども変化量はツーシームよりも小さい……フォークか?
優れたキャッチャーほど、配球に一貫性がある。永瀬はルーキーだ。ベテランキャッチャーの角川さんのリードにクビは振れないはず。一打席目のツーシーム連発を伏線に使うとしたら……
決め打ちだ。一球目、ストライクゾーンに落ちてくるフォーク。永瀬はフォークをよくカウント球として使う。
こい!
一球目--インハイのフォーシーム。
自然と身体が動いた。何度も何度と打ってきたコース。たとえ読みと違っても、昨日まで散々してきた打ち方が染み付いていた。
身体をボールから逸らしながらも、重心は真っ直ぐ残す。バットの芯で捉えて、流し打つ。そうすると、三遊間に強いゴロが打てた。園田さんと磨き上げてきた打撃は、レフト前へのクリーンヒットという形で結実した。
当たりが良すぎてランナーは帰せなかったが、これで一死満塁。合格点だろう。
塁上で、俺は不思議な心地だった。
今まで、主に配球読みで打ってきた俺が、ほとんど初めてその場の反応で打てた。事前予測と違う球でも、しっかり捉えることができた。
『練習、練習、練習、実践じゃ!』
あの日、どん底だった俺に向けられた園田さんの言葉。本当にそうでしたね。
これまでの俺は、練習のための練習というか、"やったつもり"になっていただけだった。園田さんの教えてくれた練習の仕方は、実戦のための練習。目的を持って励むこと。
さっきの球、春までの俺なら、間違いなく打てていなかった。園田さんは、テレビで観ているだろうか。頷いてくれているだろうか。
そして、洗川。"左殺し"はまだいただろう? 頼むぞ。俺達をホームに帰すのがお前の仕事だ。そんな気持ちでバッターボックスに立つ洗川を見ていたら、目が合った。洗川はニヤリと笑っていた。
試合はこの回さらに動き、クリーンナップの連打で一気に同点まで追いつき、その後はお互いの投手が踏ん張り、延長十二回引き分けとなった。もちろん勝てれば最高だったが、長いシーズンを見据えれば、"負けなかった"ことが最後に順位を分けるかもしれない。接戦になればなるほど、負けを一つでも減らすことが重要になってくる。
常に、最大目標はチームの優勝だ。レギュラーは、それに大きく関与する八人のことを指す。キャッチャー、ファースト、セカンド、サード、ショート、レフト、センター、ライト。代替要員はいるものの、やはりメインで出る八人の活躍がチームの勝敗を大きく左右するのは間違いないことだ。
俺は、ライトのポジションをがっちり掴んで、チームのリーグ三連覇、そして二年連続日本一への助けとなるべく、働く。
日々、積み重ねていく。弱点が出てきたなら、早期に克服する。テーマを持った練習で。それが、園田さんの教えだ。
今シーズンの残り試合はまだまだある。全試合スタメン出場を目指す。俺は"左殺し"で終わらない。チャンピオンチーム、安芸島アイロンズのレギュラー選手になるんだ。そして来年こそは、百四十三試合全てに出場する。
今日の仕事が明日に繋がり、明日の仕事が明後日に繋がる。連綿と続くその流れの中でしか、プロ野球選手は生きられない。
俺は生きる。生き続けてやる。いつか死を迎えるその日、晴れやかな顔でバットを置けるように--