働きたくない
日曜の入浴は寂しい。
コンタクトレンズを外したくない。アクセサリーを外したくない。オフィスにいる時よりもかわいく華やかに決めたメイクを落としたくない。オフィスには絶対に着ていかないようなお洒落な服を脱ぎたくない。バラ色のチーク、ピンクブラウンのアイシャドウ、平日は使わないアイラインにマスカラ、サクランボ色のリップグロス。
これが明日になったらファンデーションに、ついてるかどうかよくわからない程度のチークに、やわらかい赤のリップだけ。服装だって白の無地シャツに、グレーのパンツ。本当はもっとスイーツ女子な格好をして、街を歩くのが好きなのに。
会社で許可されていないわけではないが、派手なメイクをして仕事ができないんじゃ最悪だ。だから私は地味なメイクで、地味な服装で、ミスをしても最小限のダメージで済むようにしている。仕事の腕を上げればいい話なのだが、おそらく一生仕事の腕は上がらないので、オフィスでは一生地味なままだ。
入浴前に、まずアクセサリーの類を外す。ピンクゴールドのチェーンに、ハートのトップがついたペンダント。小さなピンクサファイアのついた、同じくピンクゴールドの華奢な指輪。白地にきらきらとカラフルなスワロフスキーがたくさん輝く、少し大ぶりなお気に入りの腕時計。使ったものを所定の位置に戻せないため、この手のものはちょっと目を離すとすぐなくなる。そのため今はコルクボードにピンフックをつけ、そこに引っかけることで紛失防止に努めている。ただ、明日はどうなっているか定かではない。
続いて浮かない気持ちで透け感のあるピンクのブラウスと、ベージュの生地に赤い花が散ったフレアスカートを脱ぐ。スカートは風でめくれても大丈夫なように、今日はふんわりレースの白いペチコートも履いていた。普段はパンツスタイルだが、たまには私だって女の子らしいものを着たりもする。ペチコートとストッキングを脱ぎ捨て、白のキャミソールを脱ぎ捨て、洗濯籠にぽいと放り投げて浴室に突入する。
名残惜しいと思いながらも、まずはメイクを落とすところから始める。
「メイクも落とせる洗顔料!」との記述を見て秒速で買ったピンクのボトル。押すだけで泡が出てくるスグレモノ。自ら石鹸を使って泡を生成することすら面倒くさがる私にとってはこれ以上になく重宝するアイテムである。2、3回プッシュして、出てきた泡で肌をそっと包み、強くこすらないように注意しながら肌になじませる。特に目元はメイクが落ちにくいので、念入りに何度も指でなぞる。
ある程度なじんできたらシャワーのお湯を出し、手でお湯をすくいながら顔についた洗顔料を洗い流す。ぬるぬるした感じから解放され、さっぱり流し終わったところで、鏡を確認する。目尻のアイラインが少し残っていたので、追加で泡を出して、落とす。
素のままでもメイクをしてもさして顔は変わらない気がする。いいことなのか、悪いことなのか。そう思っていられるのも今のうちだけで、風呂から上がってしばらく経ち、眼鏡をかけた瞬間にそんなセリフは二度と吐けなくなる。そこには絶望の闇だけが広がっている。
メイクを落としたので、次はシャンプーである。
深緑のボトルに入った、ハーブの香りのするシャンプー。ちょっぴりほろ苦い大人の匂い。といっても実感できるのは風呂上がりの時くらいで、乾いてみるとそこまで主張するほど香らない。でも髪はとても柔らかくなるし櫛通りもよくなるし、何よりその控えめさがいい。
シャンプーが終わったら、コンディショナー。本当はリンスと言うが、ちょっぴりお洒落な感じを出したくて、あえて一度コンディショナーと言ってみた。私の中では明確な区別はない。困った時の文字数稼ぎにはいいかもしれないという、その程度である。毛先からつけて、前髪にもつけて、全体になじませたらヘアゴムで髪をまとめてアップし、体を洗う準備をする。まとめてアップなんて、普段ファイルをサーバーに上げる時くらいしか使わないからもう少し良い表現があるのかもしれないが、私は知らない。
固形石鹸と、目の粗い薄緑のボディタオルを使って体を洗う。まずは左腕から。続いて右腕、左足、右足、お腹回り、胸のあたり、背中、首回りの順番である。
肌の老廃物がごっそり落ちていく感じがたまらなくよい。特に夏は汗をかくせいで毎日肌が汚くなるので、こするだけでとてもさっぱりする。洗い終わった後に肌を指でこするとぬめぬめ感が取れていて、すすいだ瞬間きゅきゅっと落ちる洗剤を思い出す。メイクを落とすときは強くこすらないようにとあれほど気を使うのに、全身を洗うときは平然とした顔でガシガシこする。どうせそこまでは見えないし、見せる相手がいるわけでもない。
子供の頃から肌の一部が荒れている。父親からの遺伝である。
父はイケメンで優しく、仕事が大好きである。加えて勉強家でマメ、センス良し。転職活動にも成功し、あっという間に出世した。
今は海外をあちこち飛び回り、相変わらず楽しそうに仕事をしている。小さい頃は、私もきっとこんなエリート社会人になるんだ、と信じて疑わなかった。
が、彼の良い部分は一切引き継がれず、ズボラで仕事嫌いでセンスのかけらもないぐうたらOLに育ってしまった。そんな中唯一得られたのが二の腕及びふくらはぎの肌の一部が謎に荒れる病というわけである。調査したところどうやら一生治らないらしいのだが、一生ものの贈り物が名前とこれというのは何とも微妙な気分である。彼からもう少し役に立つ何かを得られていればもう少し人生違っていたんじゃないか、などと考えながら洗面器でボディタオルを洗い、全身を熱いお湯で洗い流す。ここまでで約20分が経過している。
ヘアゴムで上げていた髪を下ろし、もうそろそろ浸透したと思われるリンスをシャワーで一気に流す。流しすぎると残らないし、かといってほどほどで済ませるとリンスが残ってぬるぬるする。加減が大切である。が、そんなことを気にしても仕方がないし、面倒くさい。
とりあえず勢いよく出るお湯を髪にじゃんじゃん当て、満足するまで流す。
あとは浴室を出るだけである。
浴室を出た後もまだやることは残っている。
まずはその辺にある適当なバスタオルをひっつかみ、髪の水分を抜いて、体もある程度拭いてしまう。バスタオルを肩にかけながら、透き通った深い青の瓶に入った化粧水を手にたっぷり出して、肌に叩き込む。
インターネットの海を泳いでいたら「叩き込むのはいいですが、乱暴に叩き込むと肌に刺激が伝わりよくありません」との記述があったが、今更そんなことを言われても手遅れである。本当は洗顔コットンを使って優しく沁み込ませるのがいいらしいが、そんな綿は家にないし、知ったことではない。
次に乳液を顔に少しずつ塗り、手のひらで優しく押し当ててあたためながら時間を置く。塗りすぎは翌朝のテカリの原因になるので、ほどほどに済ませる。
本当はこの後、保湿クリームだったり保湿ジェルだったりで仕上げをして終わるのだが、前回使用していた保湿ジェルを切らして以来、「明日買おう」を続けていたら1年が経過していた。ほんのりバラの香りのついた、ケースも中身も淡いピンクのジェルを愛用していた。
ようやく重い腰を上げて買おうとしたところ、なにやら限定品だったらしく販売は既に終了していた。とはいえ別になくても死なないし、現状特に問題はない。ただ若干の物足りなさを感じるため、代用品は明日あたり適当に探して買おうと心に誓う。
顔の手入れが終わったら、全身にローションを塗る。無論、いかがわしさはない。
上品な薄緑の丸いボトルに入った、ラベンダーの香りのローションで保湿する。お店のお姉さんに勧められ、とりあえずで買ってみた代物である。ベリーやら紅茶やらいくつか香りの種類があり、心はスミレの香りに傾いていたのだが、「夏はラベンダーがおすすめですよ!」との言葉に押され、購入した。実はラベンダーの香りが苦手である。相変わらず押しに弱い。
とはいえほのかに香る程度だから私でも心地よいし、少量でもよく伸びる。心なしか肌がもちもちする気がする。微塵もいかがわしさなどないと断言したいところだが、あろうことか中身の液は真っ白なのでつける場所によってはどうしても感じてはならない何かを感じてしまうことが多い。煩悩を呼び覚ますためボディーバターへの乗り換えを検討したが、使い心地がよいのでしばらくは変えられそうにない。
ローションを塗り終わったら、タオルドライした髪にヘアクリームを塗る。
何の匂いかは不明だが、思わず抱きしめたくなってしまうような女の子らしい甘い匂いがする。これをつけるつけないで、翌朝の髪の仕上がりが格段に変わる。ただつけすぎるとかけているパーマが取れるという謎の現象が発生するため、ほどほどで済ませる。ホテルのアメニティかなにかの適当なブラシで髪をとかし、その後もう少し目の細かい櫛で髪をとかし、ドライヤーをかける。この時点で入浴開始から約40分が経過している。
暑いのでキャミソールもつけず、そのままパジャマに着替える。柔らかい生地の半袖半ズボン。薄い水色の生地に映える、カラフルなカクテルの柄に一目惚れして衝動買いした。後から実は色違いでかわいらしいピンク色もあったと知ったときは半ば絶望したが、これはこれで涼しげだし、悪くはない。
ここまでにかかる時間は、大体いつも1時間。
明日の準備をしなければならないが、そんなこんなでもう今日である。
パソコン、電源、データカード、社用携帯、社員証。あとはプライベートの携帯と、イヤホンと、定期、財布、家の鍵。このへんがあればとりあえず死ぬことはない。あとはブラジャーを忘れなければ問題ない。先週はパソコンより恐ろしい忘れ物があることを思い知った。こうして無駄な経験値だけが上がっていく。
着る服は明日適当に、散らかった部屋の中から引っ張り出すから特に準備はしない。絶対に起きないことはわかっているのに、7時半にアラームを設定してみたりする。自室に戻り、電気は豆電球だけにして、足の踏み場もない床を歩きながらベッドに寝転がり、スマートフォンをいじり出す。
時刻は午前1時。
一通りネットサーフィンを終えた後、ツイッターを開き「会社に行きたくない」と呟いて、目を閉じた。
あとは無情なアラームが、悪夢の始まりを告げるのみ。