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レインメン⑵

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────雨が降りさえすれば、例え本命彼氏と会うはずだった日曜さえも、僕と会う日に塗り替えることができる。君に呼び出された今日が、まさにその日だった。ヴィクトリア駅へ着くと、僕は制限速度ギリギリで改札を突破、そのまま扉の閉じゆく電車内に体をねじ込んだ。
この時点で僕は勝ち誇った顔をしていた。現在本命彼氏の座に居座っているのは、ボブという男。君と同じ大学のラグビー部のエースナンバーを背負い、殴り合いをすればまず僕には勝ち目がないほどのガチムチマン、ボブ。今日の僕の成果によっては、こいつから本命彼氏の座を奪うこともできるんじゃないかとさえ思えてきた。
とりあえず今は電車の席に着く。君を傘に入れて歩くときの癖が染み付いている僕は、一人で傘を差しているときも右肩を濡らしてしまう。その右肩越しに振り返り窓の外を眺める。濃紺に濁ったテムズ川、そして、それより黒ずんだ雨雲がどこまでも広がっている。
休日の早朝。数人とはいえ、車内には人が点在していた。
仕事へ行く人。朝市へ向かう人。恋人の家から帰る人。
こんな時間から恋人の元へ向かってるやつなんて、この中で僕くらいだろう。
「すると、恋人が病気に?」
誰かに問われれば答えるだろう。
「いいえ、病気なのは恐らく僕のほうです」
自分で言って自分で吹き出しそうになる。きっと僕は頭がおかしいんだろうな。そう言われることが逆に褒め言葉に聞こえるくらい、僕はバカなんだ。
バカでもいいさ。信じてることに間違いがないなら。って、昔トリシアおばさんが言ってたっけ。
「とは言ってもねノエル、あんたは天性のバカだ。何でも素直に信じちゃう性格は一生治らないだろう。くれぐれも他の宗教の勧誘には気をつけなさい。決して耳を傾けないようにね」
たしか、僕が10歳のころだった。
「おばさん、僕は決してイエス様を裏切らないしカトリックゾッコンだから、そんな心配いらないよ。先週の礼拝で打ち明けたでしょう?僕はイエス様を一生信じると誓ったんだ」
後にニルヴァーナを敬愛しロック魂に目覚め、イエスなんてファックだぜと豪語しながらロンドンへ旅立つ以前の僕は、本当に純粋無垢だった。思えば僕のこういう危険な内面に対して最初に警鐘を鳴らしてくれたのは、トリシアおばさんだったのかもしれない。
今の僕のゾッコン対象は、言わずもがなペギー、君なんだけど。それこそ熱心な宗教家が献金するがごとく、パリから特注のオーダーメイド雨靴を取り寄せて君にプレゼントしたりした。君に振られでもしたら僕は殉死してしまうのだろうか。ともかく君を好きになってから、僕の生活が回心者のように激変したのは決定的だろう。


そしてついには、その本性をライブのステージの上でも隠しきることができなくなってしまったようだ。
そう、まず言っておきたいのは、僕のロックバンドは君が夢見るようなポップで小綺麗なものではないということ。
70年代の元祖パンクロックをリスペクトしたアンダーグラウンドといった感じで、荒削りで反社会的で攻撃的で激しい。オーディエンスも軒並みサイコパスでクレイジーな化物の集いだ。ギターが鳴れば、ハコはアナーキーな檻の中と化す。ライブでは毎度出血者が絶えない。
僕がどうしても君を自分のライブに誘えないのはそれが理由だった。血の気に飢えた糞野郎が君に襲いかかるかも分からないからね。
話を戻そう。僕のその些細な変化にいち早く勘づいたのは、バンドメンバーたちだった。
「ノエル、香水変えただろ。なんだよそのトイレの芳香剤みたいな臭い」
「レニーから聞いたんだがお前、最近カフェ巡りしてるってマジか?しかもバイト帰りにラブバラード口ずさみながら帰ってるってのもマジ?」
「今日のライブ全然声にハリがなかったな。女できてからカマっぽくなって男性ホルモン減ってるんじゃないか。だからオナ禁しろって言ってんだよ」
「なんでお前らに射精管理されなきゃいけないんだよ」
僕は冗談気味に答えたけど、どうも三人とも憮然とした表情をしていた。ベースのアーティとリードギターのトニーが顔を合わせる間から、ズカズカとドラムのダンがこちらに詰め寄る。
「ここのところずっとだ、ノエル。お前の声もギターも女々しすぎて聴いちゃいられねぇ。そんなナヨナヨしたのがお前のロックだって言うなら、俺もただじゃおかねえぞ」
ダンが指の関節を鳴らした。背骨をへし折ったんじゃないかというほどの大音量。背は僕より低いけれど、色黒の肌に筋肉質でずんくりした体型のダンは、僕が知りうる中で最もボブとの殴り合いに勝つポテンシャルを持つ人間だった。ファンからは「南イタリアのマフィア」と密かに呼ばれ、恐れられている。
「いやちょっと待てよ。なんで僕ばっかり」
僕は恨めしそうにアーティとトニーを見やった。
「なんだよ?」
アーティは冷淡にこちらをにらみ返し、トニーは面白いものでも見るようにヘラヘラと笑っていた。孤立無援の中、僕はダンに向かって主張した。
「だいたい恋人を作ったくらいで何が悪いってんだよ」
「悪くはないが、間違いなくお前に悪い影響を与えている」
「ペギーが?そんなわけない。むしろ以前より調子良いくらいだ」
「その思春期真っ只中のガキみたいな調子がか?すっかりションベン臭くなりやがって」
「ロックだってガキの遊びみたいなもんだろうがよ」
「どうやらお前とは考え方が違ったみたいだな。お前が女と別れるか、俺が抜けるか、どっちかにしたほうがいいようだ」
「こりゃオノ・ヨーコだな」
トニーが茶々を入れてきた(オノ・ヨーコとは、いわゆるサークルクラッシャーのこと。ビートルズ解散の起因であるジョンとポールの決裂を助長した戦犯女の名前だ)。
とはいえダンの剣幕は怖かったし、目がマジでイッていた。なんで、どうして僕だけが責められなくちゃならないんだ。
僕はその不公平さを憎んだ。そもそも、ロックらしさってなんなんだ?
例えば、ダンの後ろでさっきから変顔を僕に見せつけているトニーだ。ライブが盛り上がるとヘドバンしながら観客席にダイビングする奇行に走るお調子者だが、実際はとてもピュアな一面を持っている。
「親に貰った体は大事にしたい」がモットーらしく、耳、鼻、口に大量のピアスをつけているものの、そのすべてが穴開けではなくフェイクピアスである。タトゥーも簡単に落とせるタイプなので、週一ペースで描き直してもらっている。
冷淡な眼差しのアーティだってそうだ。薬物中毒者としてキャラを売ってはいるが、本当にそうだったのは4年前までのこと。愛しのステディと家庭を持つためにキッパリと薬物を断ち、今じゃお腹に命を宿した彼女の前では煙草のひとつも吸わない愛妻家だってこと、僕は知っている。
鬼の気迫を見せるダンと、怖気づきながらも不満を表情に滲ませる僕。発火しそうな雰囲気に割って入るように、ついにアーティが口を開いた。
「ダン、今日もペットショップに寄って買い物して帰るのか?」
「は?」
「聞いた話なんだが、お前アパートの近くに住みついてる野良猫に毎日餌付けして、ずいぶんと可愛がっているようじゃないか」
「どしぇー、俺らのバンド名『ジェノサイド・キャッツ』なのにマジかよ?」
トニーが奇声をあげた。
ダンは意表を突かれたらしく、「なぜそれを・・・」といった感じで黙りこんだ。萎縮してしまった体は、もはやマフィアというよりそこらのコソドロみたいだ。よっしゃ、形勢逆転だ、と、一転攻勢に出かかった僕をアーティが再び冷たい目でたしなめる。
「ノエル、さっきお前はロックを遊びだと言っていたな?」
「あ、あぁ・・・、ごめん、言いすぎたとは思うけど」
「いや、その通りかもしれない」
アーティはため息とともに視線を落とした。
「昔のパンクと比べたら、な。シド・ヴィシャスが俺たちを見たらあまりのぬるさに呆れちまうだろう」
「そりゃ昔とは違って今は表向き上法規制も厳しくなってるし、そもそもラリってるやつが売れる時代じゃないだろ?」
「そうさ、時代が違う。せいぜい俺たちができることなんざ、Twitterで政府要人に向けて殺害予告して炎上させるくらいさ。それが今できるエセパンク染みた品行だろう」
でもな、と言い置く。
「品行はともかく、音は嘘じゃ騙せねえんだよ。ここがロンドンのライブハウスである以上、聴かせる音を奏でなくちゃならない。スタイルが変わろうが、聴衆が求める音は70年代のまま変わっちゃいない。俺たちは聴衆の期待に応えられてるか?いや、違うだろう。いまだにインディーズで燻ってんだからな。俺たちは俺たちの出すべき音を完成させなきゃいけない。お前が内心どう思おうが、ナリは整えなくちゃいけないんだ」
冷え冷えとしたアーティの瞳の奥に、青い炎がうっすら浮かんだ。
「だから、少なくともライブでは己を取り繕え、ノエル。ステージの上では夢を歌え。アンダーグラウンドに現実は必要ない」

最終的に、アーティのおかげでその場は丸く収まった。僕は一人で悶々と反省した。アーティの言葉が彼の奏でるベースの重低音のようにずしりと響く。そうだ、僕も音を奏でる立場である以上、聴かせる音を鳴らさなければならない。僕は今になって気づかされた。僕自身もロンドンの一部なんだ。
現代と70年代は別物だ。現代ロッカーは常に過去の重みを抱える必要がある。体裁を取り繕ってイメージ通りのロックを奏でなければ、現実ではなく夢を提供しなければ、聴衆は熱狂してくれない。
たしかにそうかもしれない。恋愛なんて甘ったれた現実、持ち込むべきではないのかもしれない。
「ロックの核心は反体制、反権力だ」
かつてカート・コバーンは言った。
「成功した俺にロックはもう歌えない。成功したから俺は死ぬ」
現代のロックは何に抗っているのだろう。今や音楽シーンにおいてかけがえのないジャンルとなり成功したロックには、もはや抗う対象などないのではないか。成功した故に、ロックが死んでいるのだとしたら。
もしかしたら、ロックは酷く形骸化したパフォーマンスになれ果てているのではないか。
そんな戯言みたいな疑念が浮かんだ。
でももしそうならば、そのロックという潮流に逆らう反体制、反権力を僕が歌えないだろうか。
それは絵空事のような革命への模索だった。疲れた笑いがこみ上げそうになる。そもそも革命なのか、これは?
きっと何が正しいかなんて神様にも分かりっこない。イエスが正しいのか、ロックの神が正しいのか、大都市ロンドンが正しいのか、ド田舎アイルランドが正しいのか。
僕に残された選択肢は結局、バカなりに信じ込むということしかないのだろう。
僕の最も信じること。今のところ、それは甘ったれた現実にある。
雨音の聞こえる日に、雨男に変身して君に会いに行く。そんなわけの分からない情熱に黙ってついて行くしかない。
でも、ついて行きたいとも思う。
一滴ずつ落ちる雨水が、やがて海となって心の表面を覆う。そうなるまで続けていれば、革命後のように一変した世界の様相が、僕の目にも映っているのだろうか。


サウスクロイドン駅に着いた。僕は電車を降りた。
住宅街を駆け抜け、君の住むアパートへ。
やっと、ようやく君の部屋の前に到着した。
時間はまだ6時過ぎ。まぁ、早いに越したことはないだろう。なにより胸の高鳴りを止めることができないでいた。
今日はどこへ出かけよう。僕は、パリ産のオーダーメイド雨靴を履いた君が笑うのを想像した。
二人で相談しながら決めることにしよう。僕の右肩以外は安全が確保されてる傘の下で。この前たまたま通った脇道で見つけた隠れ家的なカフェを勧めようかな。それとも君の部屋でまったりするのもいいな。いや、いっそブライトンまで遠出するのも面白いかもしれない。
頭の中でいろいろと張り巡らせながら、僕はチャイムを押した。
途端、弱風が吹いた。それに水の粒が乗っていないことに気づいて、僕はハッとした。
雨が、止んでいる。
「ノエル?」
インターフォンから君の声がした。
「あぁ、うん、おはよう」
「まだお化粧中なのよ」
カチャカチャと気忙しい音が聞こえてくる。
「無理に出てこなくて大丈夫だよ」
「午前中ときどき雨、午後は曇りがちなものの雨が降るほどではないでしょう、って言ってたわ、天気予報」
「あぁ、そうなんだ」
知ってたよ。知ってた上で来たんだ。
「ねぇ、今雨は降ってるかしら?」
「えっと・・・降ってないよ」
「そう。あのねノエル、悪いんだけど」
君は流暢に告げた。
「今日はボブに会わなきゃ」
鼻がツンとした。なぜだか一瞬、アイルランドでの雨の匂いを感じたからだ。
僕は「そっか」と呟いた。さぞ情けない嘆息だったろう。でもそれすら、ボブのためにメイクをしてる君の耳には届かない。ほんの足掻きにすらなり得ない。
ロンドンの天気は変わりやすい。
君の気分もすでに、雨雲が消えて晴れ渡っていたんだ。
「顔も見せられなくてごめんね」
「いいんだよ、ペギー。じゃあ僕は行くよ。楽しんでおいで」
最後は明るく取り繕ってさよならした。これにて、僕は使命を果たした。たったこれだけで、僕は僕の役目を終えた。
だって、僕は雨の日担当だから。雨が上がってしまったら、雨男は用無しなんだ。


まだ薄暗い早朝の冷たい空気を切り裂きなながら、僕を乗せた電車は帰路を辿っていた。窓の外では、灰のガラスを着飾ったビルが次々と流れていく。
「コンドームはともかく、スコーンはすぐ消費しないとなぁ」
そう独りごちる。とりあえず口を動かさないと、視界がおぼろげになりそうだった。
車内は、行きのときより人が多かった。
仕事へ行く人。朝市へ向かう人。恋人の家から帰る人。
恋人と顔も合わさずトンボ帰りしているやつなんて、この中で僕くらいなもんだろう。
ガタ、ゴト、ガタ、ゴト。
と、電車の揺れは、慰めるように僕の肩を叩く。
その平板な音符の羅列が、永久不変に続くものと誤信してしまいたかった。
けど分かってる。永遠なんてありはしない。
BPMを算出することすら気だるくなり目をつぶる僕には、うたた寝する猶予すら残されていなかった。もうそろそろテムズ川を渡るころだろうし、そうなるとヴィクトリア駅はすぐそこだ。
家に帰ったら、泥のように眠ろう。そして起きてもなおセンチメンタリズムが収まらないようなら、バラードでも一曲作ってやろうか。タイトルは、「次君に会えるのは、いつだろう」。それを聴かされたダンが目をまんまるくする姿が容易に想像できて、僕は小さく笑った。
そのときふいに、瞼の裏に白い幕が下ろされた。針先でつつかれるような痛撃が追って被さる。眩しい何かが目の前にあるのだろうか。僕はゆっくりと、目を開けてみた────。

────光。視界は光ばかりだった。
雲やビルといった一切の遮蔽物に隠されることなく、窓の外では朝日が剥き出しにされていた。テムズ川は無数の鉱石を転がすかのように黄金色に瞬き、その輝きは電車内を余すことなく包みこんでいる。
僕は感嘆の余り、涙も出なかった。
まるで心の表面を覆う海が、一瞬で、すべて焼き焦がされるかのようだった。

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