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 評論と感想界隈の考察

 作品と評論がある。
 評論は対象無くしては成立しないので評論はあくまで作品に副次している。が、ある意
味の、副産物であるにも関わらず作品そのものの精神性の深化を幇助したり、或いは作品
価値を貶めさへもする。
 一般的に評論に望ましいのは影であって、照らし出された作品の陰影として、読者の理
解を助けたり印象を保全し、読後感を壊すものであってはならないような風潮もあろう。
けども、それが評論の本質かというとそうではないはずだ。

《名・ス他》物事のよしあし・優劣・価値などについて論ずること。また、その文章。
 ↑「評論」で検索すると出る奴

 端的にいうと
「この作品は素晴らしい」→「なぜ素晴らしいか」
「この作品はクソ」→「なぜクソか」
 という構造である。評論の必須要素に「仮定」というものがあるが、つまり「素晴らし
い」或いは「クソだ」だと作品を仮定して言葉が展開される訳だ。
 ま、荒れますわな。
 今の夥しく創作物で満たされた世の中で、息を吸うように創作物を取り込みながら生き
てる我々であるので、誰しも作品に対して言葉を述べることが出来てしまう。そしてそれ
が出来ることは作品を内的に取り込んだ証でもあって、またそれをする権利も同時に持っ
ている。

 そこに匿名のベールを剥いで作品価値の断定を図る人がいる。
 それらのコメント欄に散見されるのが「お前がそれを言っていいのか」いった通底観念
だ。
 これはしょうがない、それらを跳ね返すために文章の格式を高くしたり、権威を笠に着
たり、ともかく色々頑張るんだ。
 書いててほんとどうでも良くなってしまった。
 もう全員評論やろう、感想は知らん、自分で書いて自分で評論しよう。
題『偽中国大戦で死んだ人』

「なんたってウチの芋粥はうまいですよ、そらもう、碗の底まで舐めたくなるってなもん
で……少尉殿?」

 私はボロ切れを引き摺っていたのだろうか、階級帯の付いただけのみすぼらしいこれは
何なのだろうか。先ほどまでの親しみが嘘のようになって私はボロ切れを打ち捨てた。

 身も軽くなって歩を進めようとすると転がるようにこけた。右足があらぬ方向に曲がっ
てしまっている。いつからだろうか。

 未練たらしく二粒ほど残して置いた仁丹を懐から取り出して舐めようしたが落としてし
まう。這うようになっていたので、目の前に落ちた。拾い上げて口にいれると土の味とハ
ッカの味が同時に広がる。砂が軋む。

 中国は広ぇ、広すぎる。

 何がラバウル帰りの猛者だ、死んだじゃねぇか。
そこで木の皮みてぇな顔して転がってるじゃねえか。

 バカヤロバカヤロ……あー芋粥が食いてぇ、ニシン煮たのが食いてぇ、甘いもんが食い
てぇ、おまんこしてぇ、おまんこしてぇなあ。



                                   (おわり)










 今回、比家千有先生の『偽中国大戦で死んだ人』の評論を預かることになった比家千有
です。
 金を貰っているわけでもないので、書きやすいようにこれより口語に移らせて頂く。

 先ずもってこれは評価する価値のない駄文、一節だけ抜き出したかのような拙文を随筆
と言い張っているのかどうだか知らないが、こんなものを人様の目に触れさせようとは大
変おこがましい話だ。
 10秒もあれば読み終わって、内容もあってないようなもの、このようなものを生み出し
た筆者の意図を私は15秒で看破した。
 意図というのも虚飾がある、理由としておこう。さて、これが生まれた理由は「怠慢」
であろう。
 一に、戦記物を描こうというのに時代考証が全くなされていない。「少尉殿」、「階級帯」、
「ラバウル帰りの猛者」、これだけ、これだけしか戦記物の要素がない。経緯もない。あま
つさへ、タイトルが『偽中国大戦で死んだ人』だ。「偽」と付けて免罪符の代わりにでもし
ようと思ったのだろうか。
 冒涜だ、無意味に殺された名もないこの二人の男も浮かばれない。
 筆者が代わりに死んだらいい。
 たったこれだけ書いたら筆者の駄文よりも私の文章の方が長くなろうとしている。
 やる気がないなら筆を折れ。以上
2, 1

比家千有 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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