俺と大家は、夜を駆ける。
俺は中学時代から陸上部であり、走るのは得意であるし、将来的にも昼夜問わず走り回る職業を志している。
しかし、こんな状況は望んでいない。
「おい、古畑!」
大家はどこぞの手配書みたいに俺を呼ぶ。
「何でこんなことになった?誰が悪い?」
この状況を齎した人物を挙げるならば、俺の隣を妙なフォームで並走する大家に他ならない。
いや、俺達は悪い事なんて何もしていない。
少なくとも、大家はそう言うだろう。
「そろそろ良いだろう」
大家はそう言って、裏路地へ入り足を止める。
俺達を追いかけてきた青い箱型の車は、裏路地へ入る様子を確認し、動きを止めた。
間もなくして、運転手が降りてきた。
大家はその様子を確認すると再び走り始める。
それにしても。夜の逃避行というのは、物語の導入としては悪くないシーンじゃないか。
・
俺は清々しい気持ちで街を歩く。
大学1年生の秋というのは、無敵である。
それなりに緊張感を持って迎えた前期試験はすんなり乗り越えてしまって、長い夏季休暇も過ぎると、大学生活が再開された。
そこには責任感や緊張感などまるでない怠惰な日々が広がっているのだ。社会という荒波もまだまだ我が身に届かず、試験や単位の取得なんていうのも、恐れるに足りない。
やはり無敵である。
だがしかし、ゲームと同じで無敵の時間が短い事も、薄々気づいてはいる。
そして、無敵の人間がもう一人。
俺の隣を往く、大家。
こいつは、ある意味最初から無敵で、いつまでも無敵のままなだ。
なにかと、破天荒で型破りな男で。よくいえば凄くマイペース。といったところか。
とにかく、掴みにくい。他の追随を許さないこの男も、まさに無敵といえる。
「20時30分開始なんて遅すぎないか」大家は飲み会の集合時間に文句をつける。
「みんなバイトなんだ、仕方ないだろう」
「バイト上がりには早すぎる気もするが」
細かい男だ。不満なら参加しなければいいだろうに。
「言いたいことは分かった。だけどな」
「なんだよ」
「俺達は遅刻してるんだよ。文句の言える立場じゃない」
そう言うと、大家は口をへの字にして、早歩きになった。
気取ったことばかり言うくせに、拗ねるのは早い。
「おかしいな」
早歩きの大家が足を止めて指さしたのは、拡声器を握り選挙活動に励む一人の中年男だった。
市議員選を間近に控え、本腰を入れて遅くまで勤しんでいるのだろう。
大音量の選挙活動も最初の内は煩わしく感じることもあったが、数日たてば気にならなくなっていた。この地方の政治にはその程度の関心しかないのだろう。
いつしか大家は選挙男に向かってずかずか歩いていく。
大家は彼を知っていて興味があるのかもしれない。大して政治に関心の無い俺にとって、選挙男はただの他人と変わりないのだが。
混み合った街角でビラ配りから演説まで一人でこなしている。予算がないのか、分からないが、なかなか大変なものだ。
そんな事を考えていると、大家は選挙男の真正面に立っていた。
彼はビラを受け取るつもりなのか選挙男に向かって手を伸ばす。
しかし、大家が手に取ったのは拡声器だった。
驚きのあまり、彼の横暴を制止する余裕なく。拡声器のノイズが鳴り、大家が息を吸う音がした。
「何のつもりか知らないが、妙な真似は辞めるんだな」
拡声器を通して、街中に大家の罵声が響く。
俺は全身が緊張し、思わず肩が上がる。
しかし、妙な真似をしてるのは、大家じゃないか。
選挙男も口をパクパクさせている。
多少なり、彼の奇行に免疫のある俺は、誰よりも早く行動を始めることが出来た。
「やめるのは、大家だろ」俺が言うと、大家は拡声器を下した。
そして、「こいつらの眼はごまかせても、俺にはお見通しなんだよ」と選挙男に向かって言う。
「どういうことだ」選挙男は初めて口を開く。彼が肩に掛けた襷を改めて見ると、山田と名前が記されていた。
「山田さん、貴方は偽物の市議選立候補者だろう」
「は」俺と山田さんの声が揃った。
「偽物ってなんだよ、立候補者に偽物なんてあるのか」
「あるだろう。そのままの意味じゃないか。彼は立候補者ではないんだよ」
「何を馬鹿な事を言うんだ」山田さんは言う。まったくである。
「根拠はあるぞ。俺がまた、拡声器を使わない内に白状するんだ」大家がいつものように自信に満ち溢れた様子で言う。
「拡声器だ」山田さんの言葉を待つ間もなく始める。「拡声器を使っていいのは、午後8時までなんだよ。立候補者がそんな基本的な事を間違えると思うか?」
俺と山田さんは、何となく顔を見合わせる。
「もしかすると、時計が壊れただとか、つい忘れていたとかそんな些細なミスがあるかもしれない。だが何よりの根拠は、そもそも山田さんが立候補者じゃないという事だ」
どういうことだ。
「俺は立候補者の名前と顔を全員覚えているんだよ。だから、山田さんが立候補者じゃない事はすぐに分かったのさ」
「本当かよ。政治に関心があるのは立派だけど。全員覚えているってのは信じ難いぞ」
「別に興味関心があるわけじゃない。むしろ逆でさ、選挙活動の騒音が不快で、不快で堪らなくてさ。立候補者全員に文句を言ってやろうと、名前と顔を記憶していったんだよ。だが、立候補者達の演説を聞いているとなかなか良い事を言ってるもんで、まだ行動には移ってないんだ」
頓狂だが、大家らしい話である。
「そして今、時間も守らずに騒音を鳴らす立候補者がいるもんで近づいてみると、なんだ。俺の記憶にない人物じゃあないか。だからこうして今、問い詰めてるんだよ」
目を丸くして、人形みたいに固まったままだった山田さんは頭を下げる。
「すみません。一度やってみたかったんです。騙すつもりはないんです。ただ、立候補する予算もなくて」
彼はまとまらない言葉で言う。なかなか透き通るいい声をしているから、政治に向いている気がする。政治に関心の無い俺は、そう思った。
「まあ、山田さんの演説も興味深い内容だったよ。今度からはルールを守ってやってくださいよ。とりあえずビラ配りぐらいなら咎められることもないだろうし」
唐突にフォローを始めた。
山田さんは戸惑いながらも、喜んでいるように見える。
・
街角
「鮭のホイル焼きです」
湖南は店員が運んできたホイルの塊をじっとみつめる。
彼女は家庭教師のバイト中のスタイルのままやってきたのだろう。豊富な長髪は後ろで結ばれており、普段は剥き出しでしつこいほど大きく迫力ある瞳も縁なし眼鏡のおかげか、柔らかい印象を受ける。
結局、飲み会には30分以上の遅刻しての参加となったのだが、湖南は予見していたらしい。
日ごろの行いから遅刻の常習犯だとレッテルを貼られているとか、そういう訳ではなく。湖南は特殊な眼力を持っているのだ。
その眼力をもってして遅刻を予見したというのだ。
最初に言っておく。眼力なんてもの俺は1ミリも信じてはいない
眼と力と書いて、「がんりき」と読む。そんな経験20年近く生きてきて、ほぼ初めてに近い。
そして20年間、生きてきた分の常識が邪魔をして信用できないのだ。
湖南の紹介に戻ろう。
彼女は幼少のころから視界に入った人間の過去や記憶、思考を読み取ることができたという。
その能力は成長と共に能力も成熟していき、現在は対象の未来予知まで行えるという。
つまり、彼女は全てスリッとまるっとお見通しなのだ。
「なるほど」湖南はそう呟いて眼鏡を整える。
すると大家はポンと手を叩き、「何か見えたか」と期待を寄せる。
「大家、さけだ。ホイルの中身は鮭だよ。つまり、いま運ばれてきたのは鮭のホイル焼きといったところか」
「おお!古畑。早速開けてみろ」
店員が鮭のホイル焼きと言っていただろう。それに注文したのは大家じゃないか。
俺は深く溜息をつく。
やはり俺は、1ミリも信じることはできない。
解答を見て二人がひとしきり感動し合ったあと、俺は冷や水をかけるようなことを言う。
「正直、うさんくさいんだよな」
言い終えた後、俺はひたすら険悪感を示す視線を浴びせられる。
「もう少し、確信に近い。なんというか、桁違いの力を見せてもらわないとな」
これまで俺の個人情報など他人では知り得ないことを当てられたりしたが、その程度は下調べすれば簡単に分かる事で、詐欺師の常套手段だと思う。
だから尚更騙されている気分になる。
「例えば?」湖南はあからさまに不愉快な様子で言う。
「俺がいま考えていることを的中するとかさ」
「興味ない」一蹴された。なんだそれは。
「なんだよ。それじゃあ信用する術がないだろ」
そう言った俺を見た大家が呆れたように溜息をつき、「分かってないな」と言った。
「どういうことだ」
「湖南は興味のない事に能力を使う事は出来ないんだよ」
そんな
「私にとってドキドキしない物は見えないんだ。まあドキドキしない物なんて価値が無いから、同じなんだけどな」
つまり、湖南にとって俺には何の価値もないという事か。
「厳密に言うと、私の心拍数に関係してるみたいだ。心拍数の上昇につれて、色々な物が見えるようになる。つまりだね、私がある対象に心を奪われることで交感神経が働き、心拍数が上がることで、神経の閾値が低下して力が使えるようになるんだよ」
うーん、分からん。
湖南は焼酎の注がれたグラスをつまんで言う。
「つまり、アルコールは私の眼力と親和性が高い。人間はアルコールを摂取する事で自然と心拍数が上がるからな。酒が進めば古畑の粗末な思考だって読み取れないことはないだろう」
ひどい言われようである。
「なんだ。小言を腹にしまっている様じゃないか」湖南が俺を凝視する。
「読めたのか?」
「いや。そのカカシみたいな顔に書いてある」
「…」
つくづくひどい扱いだが、疑問が残っている。
「大して興味の無い俺の経歴を知ることが出来たのはなぜだ?」
「それは、大家に頼まれたからさ。彼の頼みであれば、喜んで眼力を発揮できるんだよ」
なるほど。俺が大家に目を向けると「もう、古畑の透視は必要ない」と首を振った。
結局、今日も確信を得ることはかなわなかった。
「やはり黒霧島は最高だ」
湖南は透き通るグラスをうっとりと眺める。
俺は今一つ芋焼酎の良さは理解できない。いや、むしろ嫌いである。あの独特の臭みが気に入らない。
ちなみに彼女の知り合いにも、ちょっと変わった目を持つ人間がいるらしいが、詳しい事は分からない。
その人物もなかなか個性がある人物ではあるらしい。
とりあえず今回の大筋に関わらない、湖南とその知人の話はこれぐらいにしておく。
あえていうのであれば、彼女は中々の美人である。これだけでも語るに値するだろう。
・
湖南との会合を終えた俺と大家は帰路についた。
「何で救急救命士なんだ」
駅までの通い慣れた道で、大家は話始める。いつもの説教が始まる予感だ。
「何度聞かれても同じ答えだよ。俺が高校2年生の時、救急救命士に命を救われた。それ以来、憧れなんだよ」
俺が言うと、大家は「なるほど」と頷き「仮にそうだったとして」と疑ってかかる様子を見せる。
「ああ」
「わざわざ大学に入らずとも救急救命士にはなれるじゃないか。むしろ、大学から始めることが一番遠回りじゃないか」
「根本から否定か」
「そうだ。分かったら、大学なんて辞めて、消防隊に入隊したまえ」
「簡単に言うなよ」
俺がぼやくと、大家は再び頷いた。
「とどのつまり」
「俺が同じ学舎にいることが気に食わない。だろ?」言葉を先取りする
「その通り。湖南のおかげで予知能力でも身についたか」
とは言うものの、同じ大学ではあるが、大家の学部は圧倒的に偏差値が高いし、俺は推薦入試だ。大家にはまるで敵わない。
「昔のエピソードにこだわり続けるなんて、極端で、すごく君らしい」
「なんだよ」
「出会って半年だが。やはり君は極端な奴だと感じるよ」
お前に言われたくない。
「悪かったな」
「いや、ほめてるんだよ」
「そうなのか」つい顔がほころぶ。
いけない。本当に極端だ。
いや、単純というべきじゃないのか。
何にしても格好が悪い。
こうして大した話もしないまま歩いていると、大家は突然立ち止まる。
再び何かへ興味を奪わてたようだ。
「あれ見てみろ」
大家は路肩に停められた青い箱型の自動車を指さした。
「なんだ?」
俺が首を傾げると、大家は自動車へ向かって歩き始める。
「そうか、君は運転免許を取得してなかったな。だが救急救命士を志すなら覚えとくべきでもあるが」
そう言って自動車の真下を指さす。
自動車の下には、見知らぬ模様が描かれている。
「これは、緊急車両通路の印で一般車は絶対に駐車禁止だ。信号待ちで停まるのもダメ」
「そうなのか」運転手は運転席で呑気にスマホを弄っている。
「由々しき事態だな。ランクル40は良い車だが、仕方ない」
「仕方ない?」
「俺達は、正義を掲げる。勧善懲悪が基本原理だろう」
そう言った時には既に行動が始まっていて、大家は体幹を屈めている。
そして身体を起こすと同時に、自動車にぶつけた。
快音鳴り響く。
何をぶつけたか?
それは、道路に転がっていたビール瓶だ。
衝撃で砕け散る瓶の破片。
大家はそれを眺め、「あとで掃除しないといけないな」と呟いた。
俺は呆気にとられ、言葉が出ない。
「さあ、逃げよう」
大家は走り去るでもなく、ゆっくりと通りを歩いた。
「早く逃げないのか」
「あまり早く逃げると、車から降りてきそうだからな。まずは、あそこから車を移動させないといけない」
そんな大家の思惑通り、青い車は俺達を追って走り出した。
・
裏路地をしばらく走ったところで、大家は足を止めた。俺も慌てて走るのをやめる。
「逃げるのはやめだ。そもそも正義はこちらにある」
あくまで正当性を主張するが、相手が納得するとは思えない。
運転手は一見、筋肉質の屈強な男だが、自信に満ち溢れた佇まいをみせる大家のおかげで、あまり恐怖を感じなかった。
「どうするつもりだ?」
「力でねじ伏せる、のは無理そうだな」
じゃあどうするんだ?そう尋ねる前に大家は一歩踏み出す。
「追いかけっこは辞めよう」目の前まで迫った男に言う。
「なんだと?」男は険しい顔をみせる。
物々しい雰囲気で、まさに一触即発だ。
「そもそも。貴方が違法駐車なんてしなければ、こんな事にならなかったんだ」
「…それで俺の愛車に暴力を振るったってのか」
「分かったら追いかけるのは辞めてほしい」
「追いかけるのは辞めてもいい。だが許すことは到底できない」
やはり許してはくれないだろう。しかし、男の第一印象からすると、思いのほか冷静で、受容的である。
「許してもらいたいものなんだが」一方、大家はあくまで傲慢な態度を崩さない。
「まあ。話次第だな」
「いいのか?」つい口をはさんでしまう。
「なんだと」男は俺を睨む。
「いや、見た感じ柄も悪そうだし、血気盛んで話も通じないんじゃないかと思って」
「血気盛んで柄が悪いのは否定しないが。いまどき冷静さがないと生き残れないからな」
どの業界で生き残るつもりなのだろうか。
「おい。話が逸れてるぞ。貴方が車を違法駐車してるのが悪い。あそこは救急車両出入り口だ。罰則もある。何が話次第だ」
大家はどこまでも譲歩する気のない様子で言う。
「なんだと?」
「正しい事をするのに理由はいらない。貴方が冷静かどうかなんて関係ないんだよ。俺が正義で貴方が悪だ」
「…」男は沈黙する。ここまで落ち着いた様子をみせてきたが、ここで怒りが満ちてきたようだ。身体の内で熱水をたぎらせているようで、全身がこわばっていく。
つまり。やばい雰囲気だ
「それに違法駐車の証拠写真も撮ってある警察に届けることもできるんだよ」大家はスマホをちらつかせる。だが、そんな写真を撮った様子はない。はったりだろう。
「警察?」
男は目を開き、ゆっくり息を吐く。急に熱が冷めたような様子を見せる。
「面倒はごめんだ。これぐらいにしておく」
面倒はとっくに起きているのに。なんだこの反応は?
右肩を下制して歩く後ろ姿。
妙に特徴的に感じる。
そうだ思い出した。
あいつは。
「連続空き巣犯だ」
俺が言うと、男は急に立ち止まる。
「半年前、ニュースになった。連続空き巣犯だ」
「確かに連続空き巣は話題になったな。犯人と思しき似顔絵も発表されたが、あんな顔だったか?」
俺達の会話を聞いた後、男は走り出していた。
改めて、男を連続空き巣犯だと認識する。
「あの反応がなによりの証拠じゃないか」
「じゃあ追うか」
「え」
どうこう言う前に大家は走り出した。俺も大家を追いかける。
「追いかけられた分、追いかけ返してやる」
なんだそれは。趣旨が変わっているじゃないか。
「報道された顔と違うのは俺が間違えたからだ」
「どういう意味だ?」大家は顔をしかめる。
「俺は偶然、家の塀を降りてくるあいつと遭遇したんだ。巷で話題の連続空き巣犯だと直感して、警察に通報した。そして警察に似顔絵を作らされたんだよ。急かされて緊張したせいか、全然似てない似顔絵に」
「似顔絵による検挙失敗の代表例だな。君のせいじゃないか」
「そうかもしれない」
「つまり尻拭いという訳だ。がんばりたまえ」
「しかし、こんな偶然あるもんだな」俺が言うと、「そうでもないさ」と大家は返す。
「罪人は罪を重ねるということだろう。勧善懲悪を掲げる俺達の前に現れるべくして現れたんだろう」
いつから勧善懲悪を掲げたというのか。
「とにかく、あいつはまた次の罪を重ねそうだ」
「なぜ?」
「車と別方向へ逃げている。なにか企んでるかもしれない」
人通りのまばらな通りに出る。
しかし、そんなに差は開いていなかったのに、男の姿はない。
路肩に数台のタクシーと乗用車が並ぶ。タクシーに乗り込んでいたらどうしようもない。
丁度、エンジンを鳴らして発進する乗用車を大家はみつめる。
彼は「いまのプリウスだ」と言いながら、手を挙げタクシーを止める。
丁度良く止まり、ドアの空いたタクシーに大家は飛び込む。
「早く乗れ」
俺も慌てて乗る。
「前の黒いプリウス追ってくれ」
バックミラー越しに俺達を見ていた運転手は目を見開き、こちらへ顔を向けた。
「早く」見兼ねた大家が急かす。
運転手は深く頷き、タクシーが発車する。
「いつか、こんな日が来ると思ってた」運転手。
「は?」
「車の追跡を依頼されるなんて、ドラマの世界だけだと思ってたよ。ありがとう」
「良かったですね」返す言葉に困る。
大家は「ふん」と鼻で笑う。
とはいえハリウッド映画のように派手なカーアクションなど、こんな地方の繁華街で起こるはずもなく、信号待ちで黒のプリウスに追いついた。
「なんであの車だと分かったんだ?」
「プリウスはあんなにエンジン音を立てて発車しない。あれは普段からマニュアル車になれた人が、突然オートマ車に乗った際、アクセルを強く踏み込んで発進することで起こるミスだ。まあ、自動車免許を持ってない君には、些か理解しにくいとは思うが」
「どうして、マニュアル車になれた人間だと分かったんだ?」
「空き巣犯の青い自動車。ランドクルーザー40系はマニュアル車しかないんだよ」
「なるほど」良く知ってるものだ。
「じゃあ、警察に電話してくれ」
「え」
「あとは、警察の仕事だ。運転手さんは、このまま後ろに張りついてくれ」
「お安い御用さ」
地味な追跡劇だが、本人は大満足であることが伝わってくる声色だ。
・
路肩に停められたプリウスは2人の警官に詰め寄られている。
「最後まで見届ける必要はないんじゃないか?」俺は尋ねる。
「好奇心だよ」
「そうか」
彼の基本原理は勧善懲悪と、もう一つが好奇心であった。
もしかすると、善悪の無い卑しき好奇心を勧善懲悪と言う体の良い言葉で隠しているだけかもしれない。
「もしも、あいつが会話の成り立たない、抑制の効かない奴だった場合はどうするつもりだったんだ?ねじ伏せるのは無理なんだろう」
「別の手段を取ったさ」
別の手段とは何なのか。聞いたところで教えてはもらえないだろう。
「何にしても。借りは返すと約束してるからな」
借り、か。
あの約束はまだ有効だったのか。
そうだ。俺達が入学してまだ間もない頃に俺と大家ともう一人が出会って。
そして巻き起こった出来事。
もう一人?
それは、誰だったか。
そもそも、その出来事は、何だったか?
「大家、俺達が出会った時の出来事は何だったかな。もう一人は、誰だったか」
「…」彼は沈黙する。何の沈黙だ?
「まだ健忘症は続いてるみたいだな。まあ、無理に思い出すこともないさ」
なんだそれは。
そう言っている間に、男が降りてきた。
流石は大家。車内から現れた人物は彼の読み通り、連続空き巣犯だった。
だが次の瞬間。一人の警官が後方へ倒れこんだ。
一瞬、虚が生まれる。
空き巣犯は再び走り始めた。
「流石は空き巣犯、警官を押し倒すとは隙を突くのはお手の物らしい」
呑気な様子で言っていると思えば、大家はすでに走り始めていた。
俺もすぐに後を追った。
空き巣犯が逃げ出して間もないが、既に彼の姿を見失いつつある。
警官も面子を保つ為か、必死に追いかけていく。
しかし、この人混みでは分が悪い。人混みの隙間から時折見える空き巣犯の後ろ姿。このままでは、まずい。
そう思った時。
「よし」と大家が言った。
何か思いついたのだろうか。大家は一旦足を止め、周りを見渡し始める。
ここは。見覚えのある通りだ。それも、すごく新鮮な記憶だ。
大家は歩道の脇へ進み始めた。
そして、彼が立ち止まった先に居たのは、まやかしの選挙活動に興じていた山田さんだった。
「拡声器。貸してもらいますよ」
そう言って大家は、山田さんが地面に置いていた拡声器を取った。
山田さんの様子を見るに、大家の言いつけを守って架空のビラ配りのみに勤しんでいるようだ。
大家が拡声器を強く握り、ノイズが鳴る。
「危ない。伏せろ」
大家の罵声が喧騒をかき分け響き渡る。
間を空けずに再び、繰り返す。
二度目を言い終える頃の歩道には慌ててしゃがみ込む者と、その場に硬直する者ばかりになった。
そんな静に徹する周囲に反して、ひとり走り続ける者がいる。
空き巣犯だ。
大家は空き巣犯を指差し、「あそこだ」と叫ぶ。
警官の走るペースは、ギアを変えたみたいに格段に上がる。流石は本職である。
あっという間に追いつき、空き巣犯は取り押さえられた。
「御仕舞だな」大家は言った。
・
パトランプが忙しく回り、ビル街に赤い色を付けている。
野次馬達が集まりきったころ、空き巣犯は収容されていく。
俺は、山田さんから拡声器のお詫びに受け取ったビラを眺める。
そして、「大家、お前の夢はあるのか?」と何の気なく、脈絡もなく唐突に尋ねてみた。
敢えて言えば、なんとなくそんな流れと言うか、雰囲気である気がするのだ。
結局、この一連の出来事によって、俺もタクシー運転手の様に舞い上がっているのだろう。
「探偵だ。喫茶店を開いて。片手間で探偵をするのさ大家はあっけらかんと答えた。
意外だった。夢の内容とかではなく、まともに答えを返してもらえるとは思っていなかったからだ。
「大家らしいよ」俺はいたって冷静な様子を取り繕う。
「そんなことより、人の顔はちゃんと覚えた方が良い。今回の教訓だ」
確かにその通りだ。極端な俺はどこまで覚えてしまうだろうか。
駅などに貼られた指名手配犯の顔は皆覚えようと躍起になるかもしれない。
いやいや、そんなことはない。
俺はそんな単純ではない。極端な奴ではない。
筈である。