「さらば海底二万里」
-東へ!
降り注ぐ日差しの中、帆船が向きを変える
新たなる航路の開拓とまだ見ぬ生物の探索に男たちの目は輝いていた-
-西暦3000年を過ぎた現在-
人類の科学の進歩は目覚ましく、深海の90パーセント以上が白日のもとにさらされた。
特に海底資源は人類の発展には必要不可欠あり、また、利益として魅力的であったため、
あいまいな環境評価のお墨付きの下、競うように開発が行われた。
何万年と堆積された深海底が一瞬で撹拌され、よどみ濁った。
深海の地形の人為的変化や掘削土砂による海水成分の変化による海洋環境の悪化、
また、乱獲と気候変動により食用魚種の多くが激減したため、養殖以外の漁業は全滅した。
今は可食部が多くなるよう遺伝的改良を行った魚種が
限られた海域のいけすで生産されているだけである。
海洋の浄化機能を持つ深海底の一方的な開発は多くの生態学的危険をはらんでおり、
これに反対の声を上げた市民や科学者は一定数いたが、多数の前に意見は黙殺された。
深海底のレアアースが宇宙産業にとって必要不可欠であったのも大きい。
深海こそが地球最後のフロンティアと言われたのも今は昔、
人類の興味は完全に宇宙へと向いていた。
月の模擬人工都市にて宇宙飛行士の滞在記録が20年を超え、一般の移住も間近かと
ささやかれているが・・、あまり宇宙関連に詳しくないのでここで辞めておこう。
「しかし、よくこんな企画がとおったものだな」
昼下がりの日差しが木陰から漏れてまぶしい、よく晴れた日だ。
海洋センターに向かう途中、偶然でくわした田中は言った。
「ああ、俺もびっくりしてるよ」
俺はひょいとおどけて見せた。
「海水サンプルの採取、成分測定、プランクトン採取・・・、一昔前の海洋調査とかわらんぜこりゃ」
信じられないという顔で笑う田中。
「ああ、そうだ。胸が躍るだろう?」
そういって顔を見返した瞬間に
おもわずおかしくなって、とたんに二人とも笑いが来た。
「はははっ!俺たちゃ化石みたいなもんだなぁ」
「ああ、まったくだ」
ひとしきり呼吸を整えた後
「ところでお前は何してるんだ?」
見たところ海洋センターでの用事は済んでいるらしい。
「ああ、おれはケビン商事関連で来週からインドネシアさ」
ケビン商事は世界各国で養殖事業を手掛ける大手の商社だ。
田中は養殖関連の漁具の開発を行っているため出向も多い。
「ろ過装置の開発かい?」
「ああ、試作機の稼働データがほしいからね。現地で半年間ぶっとしで回すさ」
何気ない調子でそう答える田中。
「半年!?」
あまりの長さだと驚いたところで、
「おい、お前は二年だろうよ」
笑いながらたしなめられる。
ああ、そうだったな、俺は二年間は日本の地を踏むことはない。
「まぁ、半年といえどもさ、しばらく日本食ともお別れっ・・・、て、
あっちにもアヤソンできたんだってな」
どこかさびしそうに言う田中。
アヤソンがあるということは、国内どこに居てもアプリ一つで一汁三菜が届くということだ
風情もなくなったものだ、こうやってお決まりの別れの挨拶もできないではないか。
グローバル化の進歩も目覚ましいのだ。
田中と別れ、実験棟へ向かう。
ここは、日本で唯一海洋調査を目的とした研究開発拠点が置かれている鯨浜海洋センターだ
水産業界が斜陽になり、学部の編纂や研究所の閉鎖が相次いだ今、最後の砦となっている。
職員の割に広大な敷地には、各地で使われなくなった調査機材がごまんと保管されている。
当時は処分する予定であったらしいが、所長の天童さんが後進に海洋学の歴史を
見せるためとか言ってどうにか保管している。
ならばということで、現在、それらは陳列され、海洋博物館の展示物となっているのだが、いかんせん客足は伸びない。
客足はほぼない。
今日は平日ということもあって誰も見学者はおらず、立派なコンコースはがらんとしていた。
ドームの下にはいる。
さっきまでまぶしかった日差しが消えとたんに涼しい空気が体を包む。
蝉の声が遠くなり、歩を進めるにつれ、周囲は徐々に静謐な空間へと変わっていく。
俺は此処が好きだ。たまに時間があると用事もないのにふらりと立ち寄る。
奥へ進むにつれ暗く静かになり、古い紙の匂いと、木の匂い、そして自分の足音だけが響く。
左右の展示物は大昔の採水器具、プランクトンのスケッチ、世界の海水の配色パターン、
さらに先には、近世の漁具、無人温度計、海中探査機など、まるで先人たちの苦労の歴史を
追体験しているような気分だ。俺の祖父のころに現役だった深海3000を
過ぎてしばらく行くと、アーチ状の屋根が終わり、急に視界が開ける。
まぶしい日差しの到来とともに潮の匂いが一層強くなり、
波音と光の反射が五感に圧倒的な存在感を刻み付ける。
-海が広がっていた-
左右に長く伸びる防波堤の先と沖堤は陽炎で揺れ、いかにも夏を感じさせる。
日本にどこにでもある原風景-
しかし、漁港には研究所の小型エンジン付きボート2隻のみが係留してあるのみで、
在りし日の漁港としての活気は失われて久しい。
「ふう」
と一息吐き、左にそびえる研究棟へ向かう。
博物館のアーケードは研究棟への近道でもあるのだ。
研究棟は予算が付かないためか長い間改修されず、床のタイルは剥げ、雨漏り箇所も放置されたままだ。
鉄骨5階建てで昭和53年設立という歴史的建築物である。
3階の五味研究室は扉が開けっ放しになっており、上部のカギ部には干物用の網籠がかかっている
風通しを良くするために長い廊下の端のドアを両開きに開き切っている。
さっきまでの澄んだ気持ちは、暑さと風によってもたらされる生臭さで
霧散し現実に引き戻された。
「失礼します」
そういって入ると
「おぅす」
シャツ一枚の巨漢がうちわ片手に挨拶をした。が、PCのほうを向いたままだ。
「おっす」
そういって隣の部屋に移動しようとすると、
「玉ちゃん、あの企画通ったんだってぇ?」
ああ、やっぱりその話だわな。
そう思って立ち止まり横の椅子を引っ張り座る。
「まじか~。俺もいきてぇなー」
相変わらず画面を見たままでいう。
「残念でした、うちからは俺だけだよ。予算も一人分で精いっぱいなのさ」
「まねー。そもそも通ったのが奇跡なんだからっさ・・・」
興味を惹くものでもあったのだろう、神田は画面に食いついた。
「今月終わりに出発して、帰ってくるのは二年後、留守をたのんだぜ」
「おけ~」
気のないような返事をしてキーボードをたたき始めた。
「よいしょっと」
立ち上がり、隣の部屋に入る。
入ると同時に、声がかかった。
「玉名君、さびしくなるねぇ」
と言って六実先生が振り返った。
六実先生は鯨浜海洋センター海洋調査部の部長を務めている。
自身は水産生物生理学の出身で別分野と言えばそうなのだが、
調査部の存続のため精力的に活動なさってくださるお方だ。
「ええ、私もさびしいものがあります。ですが、こんな機会はめったにありませんから、
多くの成果を持ち帰りたいと思います。期待してお待ちください」
「あまり無理せず、体には気を付けるんだよ。なんたって海の上で二年間・・・、
ああ、たまに港に寄るだろうけども」
六実先生の笑顔を見るとさらに頑張らなくてはとうい気持ちになる。
今回の科研費だって先生のご尽力がなければ付かなかった可能性もあるのだ。
「ありがとうございます。先生もお元気で、また、報告会開きますから、出席よろしく
おねがいします」
そして、しばらくは遠出の準備や関係各所との調整のため研究室を空ける旨を
報告し、部屋の扉を開けた時、
「行けよ若人!現代のヴァスコダガマ!」
振り返ると今しがた食べていた取り寄せ弁当に刺さっていたらしい
日の丸を振る笑顔の六実先生
「行ってきます!」
多少恥ずかしくなりながら挨拶し、研究室を後にした。
相変わらず暑い日差しが照りつけている。
宇宙開発に浮かれる世間が嘘のようにここは時間が止まっている。
研究室では幾年にもわたり同じ営みが繰り返されている。
そして、人類の繁栄の陰で、海洋探査という一つの歴史がひっそりと終ろうとしている。
(・・・俺は何をしているんだろう)
ふと、心をよぎった疑問。
この研究だって先があるわけではないのだ。
採択の後で水産庁の知り合いから聞いたのだが、
今回の航海で調査船「ぎんれい」は現役を退くことになっているため、
最後の航海として過去のさまざまな業績を鑑みた上での一種メモリアル的な
調査内容を計画していたらしい。
そのため、通常は採用されない古典的な海洋調査企画も選考対象であったそうだ。
無論、六実先生と私もその辺りは多少予想した上での応募だったが、
まさか通るとまでは思っていいなかった。
つまり、これは一回限りの調査であり、
次の関連研究にお金が回ることは全く期待できないということである。
長い敷地を抜け、門の前で後ろを振り返ると
全時代からずっと変わらなかった建物と風景があいかわらずそこにあり、
しばらく見とれているとふと、
それがまるで場違いなもののように思え、
先の事を全く見通せない、やるせない気持ちでいっぱいになった。
海はもはや憧れではなく、ただそこにある風景の一部として
研究対象から外れようとしている。
人々に興味を失われた分野はひっそりと衰退してその命を終える。
それは昔から繰り返し行われてきた当たり前の話だ。
そう割り切る一方で、この業界を切り捨てられない自分に
憤りを感じた。
-三日後、田中が話をしたいとのことで、新宿のレストランで顔を合わせることとなった。
私も出発前に顔を見ておくいい機会と快諾した。
「悪かったな、急に電話して。」
「いや、大丈夫だよ。」
二人で雨をよけながら地下鉄からレストランまで急ぎ足で向かう。
席に着き、アイスティーを注文した。
「ほんとは、ラーメンとかのほうがよかったのかもしれないけど」
そういう田中に
「いや、俺ももう若くはないし、最近はあんまり食べられなくなってきたんだ」
率直な感想を述べる。
「ええ、お前がかい?あんなに食べる奴だったのになぁ」
まぁ、確かに昔は食べたがな。
「ははは、学生のときはよく二人で食べに行ったな」
店員がアイスティーを運んできた。
外の雨は強さを増したようだ。
「足は大丈夫か?」
ふと交通機関が気になった。
一息コップの半分くらいまで飲み干した田中は
「大丈夫。時間も余裕にとってあるから。」
そう言った後、少し考えたような顔をして
「今回の調査で「ぎんれい」終わりなんだってな」
ああ、やはり田中も聞いていたのだ。急な電話に妙に納得した。
「ああ・・、そうらしい」
少し沈んだ調子で答える。
店員の声が聞こえる。
また客が入ったらしい、昼前とはいえ雨のせいか客は多い。
「あの船は・・・、
学生時代にもだいぶお世話になった船だから、
最後に乗るお前に出発前に一度会っておきたいと思ってな」
「ぎんれい」は互いに思い出のある船である田中とも何度か乗船していた。
今回の航海が終わったら田中に話を聞かせるつもりである。
「ああ、しっかりとこの目に刻み付けてくる」
田中は少し下を向いた後
「すまない。ほんとに残念だ。お前たちを見送ってやることができない。
ろ過装置の開発なんて後回しでもいいんだ。全く、ツイてないな」
ふうと息を漏らした田中、しかし、取り直して、
「すまん、変なこと言っちまったな。いまの仕事だって分野は違うが
やりがいはあるんだ。上司にはないしょだぞ?」
すっと空気が軽くなり、互いに笑いあった。
なにか俺にできることはないのか?
ふと口をついた言葉。
「なぁ、俺がこの航海でできる事はないか?」
「えっ」
予想もしていなかったように田中が驚いた。
「お前の気持ちを少しでも「ぎんれい」に届けたいんだ。
あの船をこのままひっそりと終らせたくない」
「うーん、そうだな」
いつになくまじめに考える田中
注文をとりにきた店員が空気を見て離れていく。
「食堂のさ・・・」
ふと言葉が漏れる
「ん?」
「船内食堂の本棚に海底二万里って本があるんだけど・・・」
ああ、その本なら知っている。
俺も読んだことのあるジューヌ・ベルヌの結構有名な小説だ。
子供のころに夢中になって読んだ。今の進路にも多少は影響している。
「学生の頃、初めての航海で夜寝られないときに、たまたま食堂でその本を手に取ったんだ。
恥ずかしながら読んだことがなくてさ、で、読み始めたら止まらなくって朝方まで読んじまった」
懐かしさとともに笑いが込み上げた。
当時の潮の匂い、船室の狭さ、広大な海、すべてが遠い昔のことのようでしかし、。
夜の食堂で一人一心不乱に本を読む田中の姿はおれの目にもはっきりと想像できた。
「それでさ、読み終わって裏表紙を見たときに気が付いたんだが、
短いが日誌がつけてあったんだ」
「日誌・・・」
「俺たちのずっと前の先輩が、「ぎんれい」処女航海の
日に記念として書いたらしいんだが、書き出しはええっと、
東へ・・・、なんだっけかな」
(知らなかった、そんなものがあったなんて・・・)
「まぁ、小説を読んだ後で気分も高揚してたからか、余白に俺も書いちまったんだ」
すこし気恥ずかしそうな田中
「へぇ、で、なんて書いたんだよ」
まったく、いい話だ、思わず前のめりになる。
互いに気分が高揚している
「それははっきり覚えてるんだ。日付と一緒に「俺はここにいるぞ!」って
あんたらの思いは確かに俺が見てやったぞってさ」
田中の目が少しうるんでいるように見えた。
ああ、そういうことか。俺にできること。
「わかった。そこに俺とお前の連名で続きを書いて来ればいいんだな」
「ああ、「長い間お疲れ様でした」とそう伝えてくれないか」
「ようし、わかった!」
笑いながらお互いにじっと目を見た。
過ぎ行く時代の中
共通の思い出を介在して
お互いに確かな存在を確認しあった瞬間であった。
「さーて、なんか注文するか!」
ごまかすように田中が言う
「ようし、今日はお前のインドネシア壮行会だ!
なんでも好きなもの頼めよ」
「おっ、いいの?じゃあ、遠慮しないぜ」
ようやくかといった感じで店員がやってくる。
アイスティーの氷もとけ切っていた。
俺はここにいる。
俺の役目は終わってなんてなかった。
周りのすべてが消えて行っても
俺は歴史の証人として生き続けていくのだ。
雨が上がったような気がした。