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どこかで会った、いつかの誰か

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 ひどく負けて、どうでもよくなった夜だった。


 無一文で博打をしよう、というのがそもそも甘い考えなのは、誰だってわかっている。財布の中をパンパンにして、負けても悔しい思いだけして、引き際の良さを侠ぶりにでも変換して済ませてしまうのが一人前の旦那衆というものだ。
 本業があって、負けてもよくて、夜が明ければ自分の棲家と、生業と、家族がいる。そうなれないやつらが、本物の賭博師に身を堕とす。
 慶は殴られて切った唇を親指で拭ってみた。血がまだ赤い。
 ゴミ捨て場に放り込まれたのは、いつもの夜とは違って慶だけではなかった。真嶋慶は根っからの一匹狼だったし、ほとんど群れたりしなかった。山崎は最近、何か思い詰めて一人でふらっと姿を消すことが多くなっていたし、狭山新二は新しい狩場を探して地方巡業に精を出していると聞く。
 ちょうど時代の暖流にどこから溶け出してきたのか、人の寝覚め顔にぶち当てるには相応しい温度の冷水が流れ込み始めた頃で、史上稀に見る大恐慌が近付こうとしていた。
 泡銭が無ければ賭場は潤わないし、こんな風に紛れ込んだ鼠二匹を思い切りぶん殴るだけで捨ててしまう。昔のように刃傷沙汰になったりはしない。そもそも、熱くなるようなレートではなかった。
 もうそんな時代ではないのだ。

「おい、生きてるか、葉与(はぐみ)」

 慶がゴミをたっぷり孕んだソファから呼びかけると、むっくりと夜明け前の薄い青から小柄な男が一人、顔を上げた。
 葉与とは知らない仲ではない。下手すると山崎と同じくらいの付き合いになる。
 慶にはこんな、お互いどうにか死なずに生き延びた仲間があちこちにいた。敵同士だが、実力差が大きすぎるため、正面からかち合ったことはない。だが、軽蔑するには手強すぎる相手。それが葉与だった。

「痛いな」
「当たり前だ。あの野郎、……くそっ、腹が減ってなけりゃ殴り飛ばしてやったんだが」

 慶の軽口に、葉与は返事をよこさない。徹夜続きで充血した目が、路地裏の壁面をじっと見つめている。何か視線で殺せる羽虫でも食おうとしているようだ。

「おまえがしくじったせいで、俺までこのザマだ。おい、葉与、俺は今夜、なんにもしてねェんだぞ。なんで殴られなきゃいけないんだ」
「おまえに拳を貸してるやつはいくらでもいる。返済の時期だったんだろ」

 葉与はぺっと、歪んだ唇から血まじりの何かを吐き出した。よく見れば、夜食で宿屋の女将が持ってきてくれた鶏の骨片だった。ゴシゴシと葉与は破かれた袖で口元を拭う。何か口答えするたびに教師から掴まれて引きずり回された唇は、歪んだ形のまま戻らなくなってしまって、それが葉与の悪相をさらに凶悪なものとしている。
 だが、ギャンブラーだけのボクシング・デイ――勝って浮いた贈り物の朝には、捨て猫にエサをやる甘さがあることも慶は知っている。長い付き合いだからだ。

「必ず上手くいくはずだった。たった二つに一つ……半分に一度の確率で、俺が勝つはずだったんだ」
「そうかい、そいつァよかったな」

 慶はようやく乱闘でダレた身体を起こし、路地に降り立った。が、空腹があまりにもひどく(慶は勝負中、断食する悪癖があった)ふらついて、その場であぐらをかいて座り込んだ。――思ったよりも、疲れが深い。まだ哲学者のように顔をしかめている葉与を見上げる。

「だが、そんなこと言ったって、おまえの仕込みはバレてたんだ。諦めるんだな」
「そもそも、白(ヒラ)打ちでやって、追い込まれたから積んだ。おまえが逆の立場でもそうしただろうが」
「俺は白(ヒラ)でやって負けたことがないんでね」
「抜かせよ」

 葉与は面白くもなさそうに吐き捨てる。こういう、賭博師にしては逆説的だが、堅物な男にだけは慶もよく冗談を言う。導電率のように、友人のなりやすさとか……あるいはなりにくさゆえに軽口を叩ける関係というのもあるのかもしれない。

「くそっ……どうして俺が負けるんだ。俺が負けていいはずがない」
「いいぞ、その調子だ」慶は大の字に伸びた。
「もっと吠えて眠気に勝つんだな。このまま気絶したら、起きた時には栄養失調だぜ?」
「俺は間違っていない」
「そうだな、その通りだ。ポケットを探ってみろ、ゆうべ勝ったズクが山ほどあるだろうよ」慶はあくびをした。
「間違ってるのは、神様だ。どうして俺が負けなきゃならん」
「神様ね。やつは人を見てる。おまえにゃ徳が足りんのさ」

 葉与はゴミの山から出てこない。
 声だけが沈んだ録音機のように流れてくる。

「人を見てる。確かにな。やつは誰が勝つのか決めてる節がある」
「やつ、か。友達みたいに言うんだな」
「おまえが言い出したんだろ」
「そうだったか?」
「あいつは人が何をやろうとしてるのか読めるんだ」葉与は歯ぎしりしながら続けた。
「俺が捨てたカードが、あとで戻ってくるように仕向けてる。逆を突いて残しておけば、それ見たことかとほくそ笑みながら、希望のカードは全部相手の手の中だ……そんなことを、俺達はもう、数えきれないほど繰り返してきた」
「ああ、そうだな」
「どうしてこんなひどいことをする? おい、聞いているかっ!」

 慶は自分が怒鳴られたと思いビックリして飛び起きたが、葉与は地獄に埋められた悪魔のように、首だけゴミ山から突き出して、丁寧に四角く裁断された夜明けに向かって怒号していた。

「おまえはいつも、そうやって、俺たちを苦しめ、笑っている! どうしてそんなひどいことをする? おまえに少しでも了見があるのなら、俺たちに報いてみせろ!」
「オーケー、わかった。落ち着けよ、葉与」

 ゆさゆさと、真っ黒な顔で叫ぶ葉与を揺すってみたが、もうこちらを見ようともしなかった。

「おまえのせいだ! いつだって、おまえの采配、気まぐれで、俺達は苦境に追いやられる! 何が望みだ? 勝つもの、負けるもの、おまえの気分で乱雑に仕分けして、それで何か美しい流れでも組むのかと思って待ってみれば、……何も起こらん! 誰も救われず、何も変わらず、おまえの望んだ世界は退屈だぞ、え、いいかよく聞け――退屈だぞ!」
「わかった、わかったよ。それ以上は喚くな。人が来る」
「俺はガキの頃に教師に口を掴まれて二度とまっすぐにはならん顔になった――」葉与は叫ぶのをやめない。
「誰も助けてはくれなかった、誰も同情などしてくれなかった! だから俺は一人で生きていくことにした――それはいい! もう構わん! だがな……だが、俺も、コイツも」

 ゴミ山から息を吹き返した竜のように這い出てきた手が、慶の胸ぐらを掴んでグラグラと揺さぶった。空腹にこの振動は利く――慶は気が遠くなった。

「おまえが考えているよりもずっと長く戦い続けてきた……おまえが想像もできないくらい長く……ああ、いいさ、好きなだけ選り分けすればいい。自分の意に沿う人形だけ飼い慣らして、天国にいればいいさ! なんにもない、空っぽの天国に……おまえはこれからも、俺たちに、見る気にもならんカードばかり配るんだろう? それがおまえの『楽しみ』なんだよな? ハッハッハ、ざまあ――――見ろ!」

 慶の服を掴む拳に、満身の力が籠もる。ずたずたに殴られた後の男とは思えぬほど、岩のように硬い拳が慶の頸動脈をさらに圧迫した。

「配ればいいさ、勝てない札を。俺たちはずっと、それで戦ってきた。どんなカードが来ようとも……やるしかないんだ。他に『手』はないんだからな、え? 俺は……俺はどんなカードが配られようとも、おまえがどんなに嫌なヤツだろうと、絶対に戦うのをやめない。最後までやってやる。不服に思え、せいぜい……おまえにも、俺の魂だけは奪えない」


 ようやく手を離し、
 そこで葉与は慶を掴んでいたことに気づいたらしい。
 ゆっくりと倒れて動かなくなった慶を見て、パチクリと瞬きをし、それまでの絶叫すべてを忘れたような純真な目で、ダストボックスから身を乗り出した。

「おい、大丈夫か、真嶋?」

 慶の視界はグルグルと回転している。空腹と首を絞められた(本人にその気はなかったが)ことによるダブル・パンチで、ノックアウト寸前だった。
 もはや気取る元気もなく――泡を吹くようにポツっと呟いた。

「おまえは立派だよ、葉与……」











































 配られたカードを見ながら、慶はそんな古い戦友の言葉を思い出していた。











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