「ここから」
「人に迷惑を掛けなければ何をしてもよい」
このことに気が付いたのは俺が30になってからだった。
一般的に悪人の理屈として理解されているこの文句だが、
そいつらは現に迷惑をかけているから使うべきではない。
自分の行動を規定する要因の中のモラルや空気といったものの無意味さを主張したい。
たとえば、それらを無視して選んだ行動が一貫して迷惑でなければ問題はないのだ。
モラルや空気は不変ではないし、人によっても温度差がある。
そんなものを気にするより、迷惑をかけていないか、結果、謝るにしても筋が通っているかとか
考えたほうがいい。
実際に信じて動いてみるのだ。
もし、不愉快に思う人がいれば注意してくれるから直しようもあるし、
それを積み重ねることで自己の形成に役立つ。
思うに、昔からモラルや空気を重んじ、具体的な行動を抑制していた人は
大人になっても自分がわからないことがあるのではないだろうか。
自分の中にある行動を抑制する要因は
自分の外界によって作られる場合もある。
例えば、最近は迷惑の範囲が広くなっているように感じるが、
それは社会に迷惑な部分を無理矢理あげつらう風潮があるからなのではないだろうか。
他の人に合わせろとか
大人としてみっともないとか
貧乏だとか
職業とか
そんなことで差別され見下されるのは、
モラルと空気、そして、それを増幅させる集団の心理のせいである。
具体的に迷惑ではないのだが、今の社会では迷惑になりえるのだ。
そんなのは間違っている
社会が人の命を握ってはいけない
一人一人が、目の前の現実に即した行動をしなければ
真に成熟した人間にはなれないし、つまり成熟した社会の到来には程遠いのである。
強い人間であれ
潔い人間であれ
齢30にしてようやく、この世界で少しだけ生きやすくなったようなきがした。
そんなある冬の日。