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第一話 夢幻

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 正義は信仰に支えられ、世界の秩序は保たれていた。
 古びれた鉈は振り下ろされ、戦士の兜二つにを割った。脳漿が噴出す。視界が赤に染まる。時間が止まったようにコマ送りに進み、彼の体は糸の切れた人形のように倒れ込む。自重で槍の柄を圧し折ると、彼は大地の方々へ四肢を投げ出した。生暖かな血液が草むらを満たし、錆の臭いが暗澹とした雨雲に飲み込まれていく。人々に見放された森で墓標となるものは、家紋の刻まれた丸い盾だけだった。虚空。
 刺客は刀身を拭い外套を翻すと、それを腰に帯びた鞘に収めた。
「やはりな。想像してはいたが、見事な手並みだ」
 切り株の上で老人が拍手をする。だが、その表情は暗い。
「模範的な最期とは、こうでなくてはな……」
 口を開く度に白髪と繋がった顎鬚が揺れた。藍色の外套の下に着込まれた鎧が薄暗く輝く。塗り重ねられた艶消しと陰を作る傷跡が、その年季を感じさせた。
「君はどう思う……? ラビ……」
 刺客は彼に背を向けると、
「良い気分では……ないです……」
 と言い、瞬きをすると頭巾を下ろした。女だ。深緑色の髪と褐色の肌が、さながら大樹の様に冴えていた。
「はい、そう思います」
 と答え、
「私の耳には今でも彼の息遣いが聞こえ、私の腕には彼の脈動が感じられ、私の瞳には彼の勇姿が焼き付いています」
 と言葉を選ぶように、
「彼は私の中で生きているのです」
 老人は眉間に皺を寄せ、何とも言えない表情をした。
 ラビは彼に訴えかけるように、
「私は……彼を──」
「初めは、誰もがそうだ。誰もが」
 老人は繰り返し言うと、
「わしとてそうだった。そして、私の中には、今でも何千もの刃を交えた英雄達が息衝いている。いや、寸分の勇気も惜しまずに言うならば、中には女子供、良い者も悪い者もいた。一度だって忘れた事はない。皆が生きていた。生きていたんだ。しかし──」
 ラビは唾を飲み込んだ。老人は続け、
「人はいつかは死ぬ。私がそうせずとも、彼らは自ずと死んだだろう。言い訳だと思われることを恐れずに表現するならば、だが」
「分かっています」
「それは」
 と老人は付け加えた。
「分かっていた気になっていただけだ。……そこに、真実はない。偽りの海に心を沈めてはならん」
 老人は遠い目で、
「わしも、お前も、神の恩寵たるこの国さえも、いつか終わりは来る」
「しかし、今ではありません」
「そうだ。今ではないかもしれん」
 ラビは目を細め、
「では、彼は──」
 老人は険しい表情で沈黙を支配すると、
「彼は闘いの中で死ねた。それだけは確かな事だ。最期まで彼は彼であれた」
「……」
「ラビ……お前は法の刃となれ。そして、いつか騎士である事が誇りとなる日が来ると、信じろ」
「先生……」
 とラビは呟き、
「私は、政治や権力、そんな利害などにはもとより──」
 彼女が殺めた遺骸を見つめても、それが動き出すことはなかった。

 この世界では、生きて良い人間の数は決められている。一人が増えれば一人を殺す。一人が死ねば一人を産む。それが掟。誰もが知る常識であり、ラビが生まれるより遥か昔から定められていた法。これは統治下である世界の果て──火の壁の端から端まで有効であり、全ての営みは管理の中でのみ行われる。限られた資源と領地で争いをなく生きるための苦肉の策であった。そして、ラビは──執行人。指定された日時に指定された人間を消す。全体への奉仕者。神に仕えるものだけが許される。それは聖なる仕事とされた。
 ラビがこの職を得たのは、今から五年前。武勲によって爵位を賜った彼女の家系にとって、家督を継ぐ者は騎士でなければならなかったが、既に三女をもうけた時点で両親共に高齢であった。故に次女として生まれた彼女が適齢とされ、八歳から小姓として主君に仕え騎士として必要な技術を学び、十五歳の頃には従士となって盾持ちとして戦場に同行するようになっていた。騎士となるために。
 だが、彼女が叙任を受ける前に、継母が長男を出産する事となる。最早、政略結婚の材料としても次期当主としても存在意義を失ったラビの存在は、家門にとって邪魔なものとなっており、追い出されるように修道女となることを余儀無くされた。これは騎士が社会的な身分や階級とは異なった概念であるものの、その装備の維持には一定の経済力が必要となったためである。
 半生を闘争に勝利するための訓練に費やしたラビの実力が、教会に知れ渡ったのは、荷馬車を襲撃した野党五人を返り討にしてからになる。その功績が評価され、この職に就く事を許された時に流された涙。それが、何の為に流されたものか? 彼女を除いて、それを知る者は誰一人としていない。
 ──今でも。

「先生……」
 ラビは擦れるような声を出した。急に振り出した雨が彼女の額を打つ。冷たい。
「いつか人は死ぬのなら、必ず終わりが来るのなら、私が成す事にどれだけ意味はあるのでしょうか? 全ては、一瞬の夢幻に過ぎないのに……」
 老人は頭巾を被ると、
「その心が……」
 眼を瞑り、
「……その優しさが、いつかお前を傷つけそうで怖い」
「私は──」
 ラビは歩き出した。
 頬に滴る水滴が心を溶かすようだった。
「私の心が凍り付いていくのが怖いです」
 誰もが正しかった。
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