「行ってきます」
今日の厩舎仕事をひと通り終えたので、いつものトレーニングジムに向かうところだった。
「志乃ちゃん」
自転車に跨ろうとしたところで、丘野先生の奥様、茜さんに呼び止められた。何事だろうか。
「電話よ、記者の星野さんて方から」
記者? 取材だろうか、珍しい。
今の私はスポーツ選手の端くれであり、また、愛知県競馬組合所属の新人競馬騎手というあまり陽の光の当たらない存在を世に知らしめて下さるのは感謝すべきことだろう。
だが、正直なところ、そうした取材というものが苦手だった。これまでもいくつか受けたことはあるのだが、満足に話せたためしがない。写真が掲載されるのもまた嫌だった。決まって笑って下さいと言われるのだが、笑顔など作れるわけがない。その結果、いつもカメラマンを睨んでいるような仕上がりになってしまう。いつしか、自分の記事は読まないようになっていた。
気は重いのだが、取り敢えず、電話には出なければ。奥様から携帯電話を受け取る。慌ただしく、奥様はまた別の携帯を持って駆け出して行った。厩舎の電話番なのだった。
「あなた〜! 『駿馬』の五島さんから電話! 中央遠征馬のコメント取りだって!」
「五島って男か? それともお嬢ちゃん? お嬢ちゃんの方ならちゃんと喋るか」
先生と奥様のそんなやり取りを聞いてから、私は保留を解除した。
「もしもし」
『どうもお世話になります、『競馬FUN!!』の星野ユリ子と申します! お久し振りです〜』
「…どうも」
星野記者。以前取材して頂いたような記憶はある。私には出来ない笑顔を作れる方だった。これまで受けた取材の中では、比較的答えやすい方だった。
『今お時間ありますか?』
「これからトレーニングに行くので、少しであれば……」
そう言うと、携帯電話の向こう側が焦り出したように感じられ、率直に言うべきではなかったか、と少し後悔した。どうも、気配りというのが苦手だ。
『今日はインタビューのお願いと日程確認だけなので! 手短に! 早速ですが、川添彩華ジョッキーはご存知ですか?』
「…中央競馬の」
知っている。知らないわけがない。中央と地方の違いはあれど、同じ年にデビューした同性の騎手は気になる。特に川添騎手は、中央競馬では十数年振りの女性騎手ということで、普段競馬など取り上げないような一般のメディアでも大量に露出されていた。世間で言われているように、ルックスが良いのもそれに拍車を掛けているのだろう。『美少女騎手』という見出しを何度見たことか。
ただ、実際にお会いしたことはないし、これからもないだろう。遠い世界の人という印象だった。
『そうです、その、川添騎手と山乃木騎手の対談を企画しまして……【ネクストジョッキーズチャンピオンシリーズ】特集記事の目玉として、中央と地方でそれぞれ輝く同期の女性ジョッキーとして、シリーズの決勝ラウンドで対決するかもしれないお二人に、競馬観やシリーズへの意気込み、それからプライベートなど、自由に語っていただきたいなぁと!』
--驚いた。会えるのか。
「…そのお話、是非お受けしたいと思いますが、愛知県競馬組合と丘野先生から承認を受ける必要がありますので、少々お時間を下さい。お返事は電話で宜しいですか?」
『はい、もちろんです! 私の番号教えますね! メモ取れますか?』
「少々お待ち下さい……どうぞ」
仕事柄、手帳は肌身離さず持ち歩いている。先の予定を一つでも落としたら取り返しのつかないことになる世界に私はいるのだ。
『090……』
「確認致します。090……で、お間違えないでしょうか?」
『はい、それで間違いないです! では、連絡お待ちしています! 本日は大変お忙しい中ご協力いただいてありがとうございました! 失礼しまーす!』
電話が切れた。星野記者は明るい方だと思う。余韻が耳に残っている。
それにしても、あの、川添騎手と会えるのか……胸が高鳴っている。一体、どんな方なのだろうか。上手く話せるだろうか……
今から緊張している。
対談の日取りは、当然ながら名古屋競馬の非開催日ということになった。場所は名古屋競馬場の事務所エリア、応接室。
一人で待っている。約束の時間が近づいてくる。心臓が騒ぐ。レース前より緊張している。
会いたいけれど、会いたくないような。妙な感情だった。
私は、自身の認識以上に川添騎手の存在を強く意識していたのかもしれない、と思うようになっていた。中央競馬のレース映像はかねてからよく観ているが、今思えば川添騎手のレースは特に多く観ていた。
意識していたのだ、無意識のうちに。
何故こんなに気になるのか、それは……分からない。羨望なのか、はたまた嫉妬なのか。分からない。
感情がまとまらないまま、ドアが開く音がして、星野記者と、女性騎手としては長身の川添騎手が入ってきた。
あぁ、私とは違う--そう思った。