前編
1
201x年xx月xx日、午前一時三十分、深夜。
僕はベランダに立っている。やることがない、わけでもない。
衝動に身を任せて、ベランダの手すりに手をかける。
――この手すりの向こう側に行けば、つまり飛び降りれば、この苦しみから解放される。
そう思うと、途端に向こう側に行きたくなる。このちっぽけな自分にまとわりついている、"生きている"という感覚を手放したくなる。
――もう死んでもいいだろう。
僕は、社会からは爪弾きにされ、同級生や教師からは嫌われ、親からも忌み嫌われ、恋人はおろか友達も一人もできず、何の芸も何の才能もなく、虐げられてきた。何度も他人に傷付けられてきたし、何度もリストカットや自殺未遂をして、何度も自分で自分を傷付けてきた。幾度か精神病院にも入れられたが、担当の精神科医とも折り合いが悪く、精神状態も一向に改善することもなく、日々希死念慮に駆られながら、ただただ無為に歳を重ねてきた。気が付けば二十歳もとうに過ぎていた。
こんなにも報われず、不遇な人生だったのだから、自殺の道を歩んだとしても、きっと神様は罰を与えないはずだ。
そう思うと、少しだけ体が軽くなる気がした。僕は右手に握りしめていたスマートフォンを見た。スマートフォンは暗がりを照らすかのような眩い灯りを放っていた。
「人生 限界」と検索をかけると、「いのちの電話」や「死んでもどうにもならない」という趣旨のサイトが検索の上位に表示されていた。
――死んでもどうにもならない。
――止まない雨はない。
そんなことは知っている。
死んでもどうにもならない、止まない雨はない、辛い経験が人を優しくする、悩んでいるのは君だけじゃない、まだやり直せる、……等々。
深い睡眠に誘うマイスリーという薬が効いてきたのか、何だか意識が朦朧とする。
まるで眠りに落ちるかのように、体が前のめりに倒れていく。すると、ものすごい勢いで目の前に地面が迫ってくる。朦朧とする意識の中で、果たして今の自分が一体何をしているのか、しばらく理解できなかった。だけど地面に存在するであろうコンクリートに頭をぶつける瞬間に、ぱっと目が見開いたような感覚に襲われた。その時はじめて、今現在自分がどのような状態に置かれているのかをようやく理解した。
そうか、僕はベランダから飛び降りたのか。だけどこれでようやく僕も苦しみから解放される。そう思うと、特に悪い気はしなかった。
僕は精神限界オタクだった。僕はもう苦しまなくていいのだ。
そう思った次の瞬間、頭の中にある自分の考え、思考が全てコンクリートにぶつかって、ぐにゃりと溶けていった。コンクリートで覆われた地面は、赤い液体に染まっていく。
めでたしめでたし。
2
ボートに乗って川から流れてきた青年の顔をまじまじと見つめながら、僕達はこの青年の処遇について話し合っていた。青年は死んでいた。現世からの情報が書かれたカードによると、この青年は飛び降り自殺をしたらしい。
「……彼は飛び降り自殺をしてしまったのですね。これは残念ながら地獄行きでしょうか……。閻魔大王様はどう思われますか」
白い翼と白い衣をまとい、頭には黄色の輪っかを浮かばせている男が、僕に話しかける。僕に話しかけてきたこのいかにも天使という風貌の男は、『天使』と呼ばれている。
『天使』とは死んだ人間を天国へと誘う者のことをいう。もちろん、『天使』とは概念に過ぎない。僕の目の前にいるこの『天使』と呼ばれている男にも、きっと名前はあるのだろう。だけど僕はこの男の名前は知らない。仕事仲間の名前など、知る必要もないし、お互いに名前を聞くこともないのだ。
『天使』とは死んだ人間を天国に導く者のことをいう。それに対して、死んだ人間を地獄へと誘う者を『閻魔大王』と呼ぶ。『天使』の仕事着が白い翼と白い衣であるのに対して、『閻魔大王』の仕事着は赤黒い衣となっている。
僕達は三途の川からボートに乗って流れてくる現世からの死者を振り分ける仕事をしていた。
『天使』と呼ばれている男が僕に向かって話し始める。
「この青年は、愛に飢えていたのだと思います。ほんの少しでもいいから、この世の誰かが彼を愛してあげていれば、この青年はきっと自死を選ばなかったのだろうと思います」
「愛は世界を救うだなんて、そんなきれい事言うなよ。この青年は、どうしようもなく人生に絶望していたから、自殺してしまったんだ。絶望の中に居る人間をたかが"愛"で救うことなんてできるわけがない」
「……そうかもしれない。でも、それでも、です。誰かが彼を愛してあげれば……きっとこんなことには……」
「夢と希望、愛と勇気。ポップソングでうたわれるような、そんな安いっぽいワードの欠片がこの青年のまわりに少しでも転がっていたら、この青年は自殺しなかったとでもいうのか」
「そうです。その通りです。だけど夢も希望も勇気も、そしてひとかけらの愛さえも、この青年のまわりには転がっていなかった。だから彼は自殺を選んでしまったのです」
「……何が言いたい」
「この青年のまわりにいる人間は……、どうして彼を救ってあげられなかったのでしょうか。彼を少しでも助けることができる人間がまわりに一人でもいれば、こんなことには……」
「確かに誰かが彼を少しでも彼を助けていれば、彼は自殺をせずに済んでいたかもしれないね。だけど彼はひきこもりで、ニートだ。社会と何ら接点も持たない上に、友達の一人もいない孤独な彼を救うことは不可能だと思うよ。もしも誰かが彼のことを助けてあげたいと思ったとしても、彼を助けてあげられる立場の人間が一人もいないんだ」
「……父親や母親、弟といった家族が彼を助けてあげることはできなかったのでしょうか」
「それは無理な話だろうと思う。彼は自分の部屋からも滅多にでないほどの重度のひきこもりで、家族ともろくにコミュニケーションをとっていなかった状態にある。彼は家庭内でも孤立していた。だから家族が彼を助けることも無理だよ」
「それでは……どうすれば彼を救えたのでしょう……。私は彼が自殺を選んでしまって……本当に本当に……悲しいのです……虚しいです……」
「それは僕も同感だ。だけど、"インターネット"なら彼を救えたかもしれない」
「なるほど。それはどういうことなのでしょうか」
「これは……いわばゼロ年代におけるインターネット空間に抱いていたある種の希望なのかもしれないが……、インターネットには人を救う力があるかもしれないと思うんだ。ナードの夢といった方がいいかもしれない。現実世界では爪弾きにされている奴らが、インターネットという自由でクリエイティブに富んだ空間で、身の丈を吐露したり、思い切り自己表現をして、その自己表現をインターネットの住人同士で面白がったり、承認しあったりして、その先にオフ会等があって、そこからやさぐれた者達……いわゆるナード達の人生が好転していったり、インターネットがなければ今まで出会うことのなかった人と出会ったり、巡り合うことができる……そういう可能性を、インターネットは秘めていると思うんだ。僕はそう思うんだけど、『天使』の君はどう思う」
「……なるほど。言いたいことはわかります。ですが、今閻魔大王様が語ってくれたのは、あくまでゼロ年代のインターネット空間における"ある種の希望論"です。今はゼロ年代でもないし、もうすぐ2020年に突入しようとしています。この十年でインターネットの様相だって随分と様変わりしました。インターネットは現実世界と結び付きがあまりに強くなってしまいました。有名人や芸能人はおろか、国内外の政治家でさえもtwitterを情報発信ツールとして利用するのが普通になってしまった時代になってしまいました。匿名同士の人間達が作り出す匿名特有のインターネット文化なるものもだいぶ廃れてしまいました。それに、一番大きい影響を及ぼしているのが、ナードなどの社会的に爪弾きにされている人達以外の人間、つまり"一般人"がtwitter等のインターネット空間に大量に流入してしまいました。その結果、インターネットはナードの遊び場ではなくなってしまいましたし、インターネット空間と現実世界が同一視されるようになってしまいました。インターネット上での発言は、現実世界での発言と同等のものであるように解釈されてしまうようになりました。ネットはネット、現実は現実、と住み分けができなくなってしまいました。だから、現実世界で居場所がない人はネットでも居場所がなくなってしまいました。現実世界とインターネット空間が完全に同一化されてしまいましたからね。リアルでぼっちな奴は、ネットでもぼっちなんだ、という具合に」
「……どうにか反論したいところだが、反論の余地がないな……。まさしくその通りだ。現実世界で居場所のない人間は、インターネットでも居場所がなくなってしまったのだ。……非常に窮屈な社会になってしまった」
「果たして、自殺してしまったこの青年を救うためには、一体どうすればよかったのでしょう」
「……わからない。多分、きっと答えは出ないと思う。だけど、たとえばtwitterだったら、たった一人でもいいから彼のことを少しでも想ってくれる人が彼をフォローしていたら、彼は思い留まっていたかもしれないね。だけど彼にはそういう自分を想ってくれる人間が、現実はおろか、ネット上にさえも一人もいなかった、というわけだ」
「……そういうことですね」
やるせない口ぶりで天使は言う。
「彼には生きていて欲しかった。twitter上で、彼に少しでも寄り添ってくれる人が一人でも彼をフォローしていれば……彼はきっと自殺を選ばなかったはずなのです……」
天使は肩を落としながらそう言った。
閻魔大王の職に就いている僕は、死因が自殺であることを理由に自殺した青年の魂を地獄に振り分けようとしていた。
それを見た天使は、僕に向かってこう言った。
「閻魔大王様、お願いがあります。この青年を地獄に送るのはやめませんか。彼には、生きて欲しいのです。彼を天国に送るのか地獄に送るのかという審判は、一旦取りやめて、彼を生き返らせましょう」
「しかしそのようなことをすれば、僕はいいとしても、君も上の者に何を言われるかもわからないのだぞ。天使の職に就いている君の地位も危なくなる。それでも君はこの青年を助けるのか? この青年のことだ、また何かの拍子で自殺を選んでしまうかもしれないのだぞ。それでもいいのか」
一呼吸をおいた後、天使は覚悟を決めたような低い声でこう言った。
「……それでもいいのです。私は、彼に生きていて欲しいのです。あんな理由で自分で死を選んでしまうなんて、悲しすぎます」
3
死んだと思っていたら、目の前が白い光に包まれていた。一体どういうことだろう。
ここは一体どこなんだろう、と思ってあたりを見回そうとした瞬間に、白い光の先から、何やら天の声が聞こえてくる。
「私は天使です。今からあなたは生き返ることになります。ですが、これからのあなたの人生が上手くいくだとか、信頼のおける友人が出来たり、最愛の恋人に巡り合えるだとか、そういう保証は一切できません。生きていてもいいことは一つもないかもしれません。だけど、あなたは死ぬべきじゃないのです。孤独を理由に自殺を選ぶなんて、あまり悲しすぎます。だから僕は君をこれから生き返らせます。悪く思わないでください。あなたには生きていて欲しいのです。孤独の内に死んでいくなんて、悲しすぎます」
意味がよくわからなかった。僕は自殺に成功したはずなのに、なぜ今更現世に戻らなくてはならないのか。
天の声が再び聞こえてくる。
「……本当はですね、一度死んでしまった人間を生き返らせるということは、してはいけないのです。生命の冒涜ですからね。でも、それでもあなたにはどうしても生きていて欲しかったのです。だから私はあなたを生き返らせます。悪く思わないでください。そして、もう自殺を選ばないようにがんばって人生を生き抜いてください」
そして、最後に……、と、天の声が聞こえてくる。
「そして、最後に……。私はあなたがどうして死を選んだのかも知っています。あなたが社会から爪弾きにされて、学校の先生や両親とも上手く意思疎通がとれず、苦しんでいたことも知っています。恋人や友達ができず、とても寂しい想いをしていたことも知っています。ですが、それはあくまで表面的な部分です。私はあなたの悩みや苦しみの全てをわかっているわけではありません。でも、あなたの孤独をやわらげてあげることくらいなら、こんな私でもできると思うのです。だから、寂しくなったら、いつでも私に連絡してください。かまってあげることくらいなら、いつでもできますから。だから、もう孤独に想わないでください」
そう言い終わるやいなや、白い光が僕の体を髪の毛の先から足の爪の先まで包み込んだ。