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 薄暗い部屋の中、タイピングの音とクリック音が延々と続いていた。
 作業は昼下がりに始まったが、日が沈んだ今も終わる気配は見えない。
 ディスプレイの前に腰掛けた男は、目の前の画面が部屋の中で唯一の光源となったことに気付くと、伸びをするついでに電灯のリモコンに手を伸ばした。
 数時間ぶりに明るさを取り戻した部屋の中で、男はまた画面へと視線を戻した。
 画面に写されているのは、書きかけのレポートと、いくつかのwebサイト。
 キーボードの脇には、週刊誌の山。
 webサイトや週刊誌の見出しに載っているある文言は、また彼のレポートの題材でもあった。
 青少年連続失踪事件。
 各地で、何の変哲も無い青少年達が、ある日を境に忽然と姿を消していくという異常事態に付けられた呼称である。
 全国的、同時多発的に起こったそれは、事件というよりは現象と呼ぶべき代物であったが、いずれにせよ、この現代に蘇った神隠しは、世間の大きな関心事の一つとなっていた。
 「ダメだ、さっぱり分からん。まぁ素人のやってることだしなぁ……」
 そう言って溜息を漏らす彼の目的は、この現象の真相を探る事であった。
 彼自身はジャーナリストでもなければ学者でもない。
 時間を持て余した、どこにでも居る一人の学生である。
 その一学生が、課題でもないレポートに取り組んでいるのには些細な訳が有った。
 一月前、彼の友人も失踪したのである。
 失踪したその友人は、特別に彼と仲が良いというわけでもなければ、特別人となりが優れていたわけでもない。
 普段大人しい割に妙なところで自己主張の強いその性格が、彼を煩わせたこともしばしばである。
 彼をしてその失踪を些細と表現せしめるには、そうした微妙な人間関係も手伝ってはいたが、ともあれその一件以来、彼を取り巻く状況は僅かに変わった。
 対岸の火事と決め込むには、その異常はあまりに身近になってしまったのである。
 「しかし、調べれば調べるほど意味が分からないな……」
 彼は憤りのこもった指で頭をかいた。
 この出来事について、何故事件ではなく現象と呼称すべきなのか。
 それは、仮に事件だとするならば、実行者が何者で、動機が一体何なのか、まるで分からないからである。
 つまりは事件性と呼べるものがそこには存在しないのだ。
 勿論、件の出来事が世間を騒がせてからこちら、各方面の有識者がこの件にしかつめらしい説明を与えようと試みてはきた。
 組織犯罪説、集団家出説、キャトルミューティレーション説。
 犯罪組織にも不文律で守られる一応の縄張りというものがある、国土の両極で同日に姿を消した若者の例を一体どう説明するのか。
 集団家出だとして、一青少年が示し合わせたように同時期に姿を消し、また一人として見つからないなどという事がありえるか。
 キャトルミューティレーションだとすれば、そもそも異星人の存在を立証しなければならない。
 百の仮説には百の反論が付き纏い、そのくせ一つの証拠も出てこない。
 結局、どの説も単なるオカルトや陰謀論の域を出る事はなかったのである。
 彼が調べた話の中には、あるトラック運転手が一瞬の不注意から横断歩道で人身事故を起こし、あわてて車から降りたところ、そこに居たはずの人影が消えており、運転手は後になってそれが失踪事件の当人だと知った、等という怪談じみたものまであった。
 「動機にしても、色々人が居る中で何でわざわざこいつらを攫うかね……」
 失踪した当人達は、揃いも揃ってどこにでも居る普通の若者、それも多くは男子高校生である。
 体力があることと臓器が新鮮である事を除けば、所謂商品価値というものを見出すのは難しい人種。
 少なくとも彼にはそう思えた。
 人間の詳しい相場など一介の学生に分かるわけが無いという指摘や、人命には等しく価値があるとする思想は、彼の見解に対する反論にこそなるだろうが、動機の説明にはなりそうになかった。
 或いは臓器の需要がここ最近急騰しているのでは……と頭をよぎった所で、彼は凡百の陰謀論者の轍を踏みかけている事に気付き、急いで頭を振った。
 「今日はこれくらいにしとくか……そもそもあいつがこの件に関ってるかも分からないし……」
 「関ってますよ」
 聞き覚えの無い少女の声が彼の背中を叩いたのは、彼が一端夕食にしようと思い立ったそのときであった。
2, 1

  

 私は怪しいものではありません、という怪しい人間以外口にしない文言を三回ほど聞いたところで、110番を押そうとした彼の指はようやく止まった。
 尤も、彼の警戒を解いたのは三度の念押しではなく、目の前の相手の姿である。
 必至に警戒を解こうとするその少女の背丈は、多く見積もっても彼の半分といったところだった。
 いざとなれば貧弱で鳴る己の腕力でも、どうにか制圧できるのではないかと言う打算に塗れた余裕が、図らずも彼に話を聞く暇を作らせたのだった。
 「どうもありがとうございます」
 居間に通された少女は、勧められた麦茶を慇懃に受け取った。
 その立ち居振る舞いを見ている内、初めは優越感に支えられたものであった彼の精神的余裕も、徐々に相手への信用によるものへと変わり始めていた。
 「それで……あなたはどちら様で?」
 「あ、申し遅れました。私はオリンと申します」
 少女は受け取ったコップを脇に置いて、恭しく頭を下げた。
 「おりんさんですか。妙に古風な名前ですね」
 相手とは初対面であったことを思い出した男は、しまったとばかりに自分の口をふさいだが、当のオリンの方は特に気にするでもなく麦茶を口にしていた。
 「私が何者か、もう少し詳しくお話したいのですが、その前にこれを確認してもらって良いですか?」
 「これ?」
 オリンと名乗った少女は、懐から黒い塊を取り出して男に差し出した。
 「確認って一体……あれ!?」
 得体の知れない相手から差し出された得体の知れない物体に、初めは手を出すのを躊躇していた男だったが、数秒ほどそれを見つめた後、今度は奪い取るように少女の手からそれを掴み取った。
 「これ、もしかして……」
 それは、比較的型の新しいスマートフォンであった。
 男が目を丸くしているのは、当然それが新型だからではない。
 持ち主に覚えがあったからである。
 「その機械。あなたの友人の持ち物で、間違いないですか?」
 「多分……中身は確認できませんが、見た目は完全に同じです」
 「そうですか……」
 オリンが渋い顔をして頷いた。
 「あの、これどこで拾ったんですか?」
 「いえ、拾ったのではなく、我々が彼から接収しました」
 「接収……?」
 「その、非常に申し上げ難いのですが……」
 何か逡巡する様に小さくうめいた後、少女は辺りを憚るように切り出した。
 「あなたの友人は、現在この世界に居ないんです」
 彼の部屋の中は、一瞬時が止まったかのように静まり返った。
 「この世界に居ないって、まさか死……」
 「いえいえいえ! 命に別状はありませんから!」
 青ざめた男の顔を見て、少女が慌てて説明を続ける。
 「最近、このあたりで急に人が消えていることは、あなたもご存知ですよね?」
 オリンが部屋の片隅に目をやる。
 男の部屋と同じく、居間の脇に週刊誌が詰まれているのを、目ざとく見つけていたようだった。
 「まぁ、一応。世間じゃ、神隠しだとか集団失踪だとか色々言われてますけど……」
 「実は、その人達全員、我々の世界に来てるんです」
 「……世界?」
 次々と出てくる突拍子の無い情報を、どうにか頭に詰め込もうとするように、男は頭を抱えた。
 「その……つまり、あなた方の国が、彼らを拉致した……と?」
 「いえ、これは我々の意図するところでは有りませんし、彼らは国境ではなく世界を超えて移動したんです」
 「えーと、さっきから言ってるその世界と言うのは一体……」
 「上手く説明するのが難しいのですが、物理的な連続性を持たない別な空間に移動した、と考えてもらえれば」
 「別な空間……」
 事件について調べていた中で、ただのオカルトとして切り捨てていた仮説の一つに、似たようなものがあったことを男は思い出した。
 フィラデルフィア実験を引き合いに出し、関係者の体は何らかの条件によって時空の頚木を逃れたのではないかとする仮説である。
 「それで、あなたの友人もどうやってかは分かりませんが、こちらの世界に飛んできたんです。急な話ですから、すぐには信じられないとは思いますが……」
 「まぁ、そうですね。いくらなんでもオカルト過ぎる気はしますけど……」
 そう言いながらも、男の目は机の上のスマートフォンに向けられたままであった。
 どれだけ調べても見つからなかった友人の手がかりを持っていた以上、この少女がただの無関係な狂人であるとも、男には思えなかったのである。
 「いや、俺が信じる信じないは、この際置いておきましょう。……取り合えず、今の話が全部本当だったとして、何であなたは俺のところに?」
 「ええ、実はそのことなんです。その……重ねて言い難い事なのですが、彼の強制送還のお手伝いをお願いしたくて……」
 「……はい?」
 彼の部屋は再び時が止まり、静まり返ったその中を、男の頓狂な声だけが暫く跳ね回っていた。
4, 3

  

 近年、何らかの理由で青少年が立て続けに異世界へ転送されており、それが件の連続失踪事件の正体であったこと。
 男の友人も、転送された青少年の一人であった事。
 友人の身柄は、向こうの世界ですでに確保されており、現状命に別状は無いこと。
 そして一人の少女が、そのことを伝えに男の世界へとやってきたこと。
 「……ここまでは間違いないですね?」
 オリンと名乗る少女の話を要約しながら、男はやかんを火にかけていた。
 「はい、そういうことになります」
 男の唸り声と、やかんの笛が不協和音を生み出して、男の表情は一掃歪んだ。
 すでに日はすっかり沈んでおり、茶菓子と麦茶だけでは腹具合も誤魔化せない頃合になっていた。
 「……それで、さっき話してた強制送還というのは?」
 二人分のカップラーメンを作って、一つを向かいの席に勧めると、男は残った一つを手に席へと戻った。
 食事前に手を合わせる文化が無いのか、オリンは会釈してからフォークで麺を救い上げた。
 「先程お話したように、彼らがこちらに来たのは、我々の意図するところでは有りません。むしろ不正入国のような形になりますので、こちらとしてもお帰り願いたいわけです」
 「帰したいなら、勝手にやれば良いじゃないですか。あなたがこっちに来た様に、魔法か何かで転送すれば良いだけでしょう?」
 「それがそうもいかないんです……」
 オリンが苦そうに麺を啜る。
 「転送魔法と言うのは、基本的に送る側と送られる側の意思が同調していないと、上手く発動しないようになっているんです。要するに、向こうが帰りたいと思わないと帰れない仕組みになってまして……」
 「まさかあいつ……」
 「こちらの世界に未練は無いので、別に帰りたくないと……」
 「あの馬鹿……」
 男と少女の溜息が同期した。
 「加えて、彼の場合少々面倒なことになってまして……」
 「これ以上面倒な事が想像つかないし、何ならあまり聞きたくないんですが……」
 「殆どの人は、異世界からの難民という形で保護しているわけなのですが、彼の場合は保護というよりは逮捕に近いんです」
 「……逮捕?」
 既に意外性の数え役満と化した居間であったが、男は再び自分の耳を疑っていた。
 「逮捕って聞こえましたけど……あいつ、なにやらかしたんですか?」
 「詐欺未遂です。その電子機器を、光と音を生み出す魔法の箱と偽って往来で売りさばこうとしていて……」
 オリンが机の上のスマートフォンを指差す。
 「最新技術を魔法と偽って販売するのは、魔法技術が確立されてすぐ、まだ一般に浸透していなかった時代に流行った古典的な手口なんです」
 「そんな古典は聞いたことが無いですが、そうなんですか……」
 「もっとも、彼の場合さほど珍しい電子機器でも無かったですから、特にだまされる人も居なかったのですが」
 「あぁ、それで未遂なんですね……」
 「言葉も通じませんでしたから、身振り手振りで販売しようとしていたようです。通りかかった親切な人が意思疎通を試みた結果、言葉は通じないけれど、どうも詐欺を働こうとしている疑いがあるということで、通報されまして……」
 「惨め過ぎる……ってあれ?」
 異世界の科学技術を侮った挙句、冷たい飯を食らう羽目になった友人に思いを馳せるうち、男は些細な疑問を抱いた。
 「そういえば、おりんさんは普通に話できてますよね? 異世界の人間とは、言葉通じないんじゃないんですか?」
 「あぁ、これのおかげです。こちらのイヤホンが聴いた言葉を翻訳して私に届けてくれて、こちらのマイクは逆に言葉を相手の知っている言語に変換するんです」
 確かにオリンの耳には小さなイヤホンが付いており、男が耳を澄ましてみると、なるほどその声は口元ではなく胸元から発せられているように聞こえた。
 「魔法技術と科学のハイブリッドで、最新型なんです。今は語学に強い人の方が就職に有利ですが、これが普及すればそのような事も無くなるのではないかと言われていて……」
 「なるほど、スマホじゃ騙せん訳だ……」
 手にした小箱が魔法級の発明のはずと思いあがっていただろう友人の姿を、男はいっそう哀れに思い浮かべていた。
 二人は簡単な夕食を済ますと、再び調べ物をしていた男の自室へと戻った。
 「それで、俺は具体的に何をすれば?」
 必要の無くなった資料を片付けながら、男が尋ねた。
 「そうですね、いくつかお願いしたいことがあるのですが、まずは簡単な聴取に協力して下さい」
 「聴取って、俺が何か答えればいいんですか?」
 むしろこちらが訊きたい事の方が多いのだが、と前置きしつつも、男は一応頷いた。
 「情状証人をお願いしたいんです。彼をこちらへ送還する前に、まずは例の事件を片付けないといけませんから」
 「じょう……?」
 聞きなれない単語を傍らのパソコンで調べようとする男に、オリンが説明を加えた。
 「被疑者……この場合、御友人の人となりについて証言する人の事です」
 「なるほど。しかし、まさか知り合いが被疑者と呼ばれる日が来るとは……」
 「すみません、一応こちらの規則に照らせばそうした呼称になるもので……」
 申し訳無さそうに頭を下げようとするオリンを、男が掌を向けて制する。
 「いえ、単純に情けないだけです。要はあいつの性格だとかを話せば良い訳ですよね? 別に良いですけど、何のために?」
 「彼の場合は初犯で、犯行自体も未遂ですからね。性格が取り立てて反社会的ということでなければ、不起訴処分も期待できるんです」
 「あぁ、そう言えば情状酌量とか聞いたことありますね……」
 男は顎に手をやりながら、昔見た法廷もののドラマを思い浮かべていた。
 異世界や魔法という言葉から、どうしても中世的なイメージを払拭できていなかった男だったが、技術と同じく、司法制度も近代的な仕組みになっているらしかった。
 「思いつくままにお話してもらえれば、私が後で調書に纏めますので」
 オリンは脇の小物入れからメモ帳とペンを取り出して、近くの椅子に腰掛けた。
 「思いつくまま……あの、引き受けといてなんですけど、あいつ無罪放免にされるほど性格良くないですよ? むしろ良い性格してるというか……」
 言葉を選びながら、何か美談は無かったかと逡巡する男に、オリンが首を振って見せた。
 「それは気にしないで下さい。聴取と言っても殆ど形式的なものですから、あまり深く考えないで大丈夫です」
 「そうなんですか? けど、実際逮捕までされてるんなら、そう簡単には赦して貰えないんじゃ……?」
 「まぁ、普通はそうなんですが……」
 少し苦々しい顔をしながら、オリンが続ける。
 「最近は、団体の声も大きくて……」
 「団体って、人権団体みたいなのですか? 何かニュースでそういうの聞いたような気がしますけど、そっちにも居るんですね」
 「大小色々ありますよ。少数種族や、異世界から迷い込んできた知的生命体の権利を保護する事を目的に活動している所が多いですね」
 「あぁ、そういう団体の手前、あまりあいつに厳しい措置をとるのも……ってことですか」
 「あまり大きな声では言えませんが、そういうことです。彼等も大半は良心的な方々の集まりで、理念そのものも立派なんですが、中には過激な団体もあって、そういうのを変に刺激すると面倒が多いということで……」
 「ほんとにどこかで聞いたような話だな……」
 聞けば聞くほど加速度的にファンタジーから遠ざかっていく異世界の景色に思いを馳せながら、男は聴取を受けることとなった。
 気弱で妄想癖が有り粘着質で、身近な人間に対してだけ妙に強気になる内弁慶な友人の人物像は、オリンの手によって繊細で想像力に優れ芯がぶれず、心を許した人間には本音でぶつかることのできる熱を内に持った好漢へと脚色され、同時に件の事件は、そんな彼が不慣れな土地で生き残るため止む無く行った緊急避難であったという脚本が生み出された。
 一方の男はその様子を見ながら、大学の就職課から聞かされたエントリーシートの書き方を思い出していた。
6, 5

  

 調書を纏め、元の世界に戻ったオリンが再び男の部屋を訪ねたのは、更にその数日後の事であった。
 「奴の調子はどうですか?」
 「おかげさまで、不起訴処分で済みそうです」
 以前と同じようにテーブルを挟んで茶をすする二人の表情は、やはり以前と同じように渋い。
 「まぁ、この件については殆ど予定調和みたいなものですからね」
 聴取の際に、オリンが形式的と枕につけていた通り、男の友人は許されるべくして許されたようであった。
 異世界側としても、件の団体への配慮や近づく選挙等の事情も合わさり、放免する口実を探していたというのが実情であるらしい。
 「何にせよ、友人としてはひとまず喜んでやるのが筋ですかね」
 一瞬、司法の判断に選挙がどう関係するのかという疑問が頭をよぎった男であったが、他所の世界の話であるのと同時に、他所の世界だけの話でもないと気付いて言葉にする事は避けた。
 「……それで、ここからが本番というわけですか」
 「そういうことになります」
 オリンは鞄の中から小さなケースを取り出し、中に入っていたスマートフォンを男に差し出した。
 「以前にお話した通り、あなたには彼の強制送還のお手伝いをお願いします」
 異世界と男の世界とを行き来するためには、転送魔法による空間転移の他に方法は無く、そのためには術士と対象者両名の同意が不可欠となる。
 オリンが男に依頼したのは、まさしく強制送還の要となる、そのコンセンサスの補助である。
 「……早い話が、あいつがこっちに帰ってくるように説得すればいいわけですか」
 「その機械は、こちらで魔法による改良を施してありますので、通話操作を行ってもらえれば、私の世界に通じるはずです」
 「本当にこれが魔法の道具になるとは皮肉な……」
 男が受け取り画面に触れると、パスワードの入力も無しにメニュー画面が開かれた。
 「それで、どこにかければ?」
 「連絡先でしたら、その機械を改造した時に技術担当が登録したと言っていました。見れば分かるとのことでしたが……」
 男は通話アプリを立ち上げ、連絡先の中から友人の名前を探していると、一つだけ象形文字のような記号の羅列を発見した。
 「なんて書いてあるか分かりませんが、これであってます?」
 「どれですか? えと……あぁ……」
 促されて向かいの席から画面を覗き込んだオリンは、難しい顔をしながら頷いた。
 「これは……我々の国で使っている文字ですので、恐らく間違いないと思いますが……」
 「恐らく?」
 歯切れの悪い返事に、男が眉をしかめていると、オリンが言葉を付け足した。
 「これ、彼の名前ではないんですよ。我々の国の言葉で、そちらの表現に改めると、その……」
 「何て書いてあるんです?」
 「……タダ飯喰らいのゴミ野郎と」
 「あいつ向こうで相当嫌われてますね……」
 難しい顔をしたままオリンが頭を下げる。
 「すみません、最近彼のような転移者が爆発的に増えていて、対処するための行政コストもかさむ一方で増税の話も持ち上がるくらいでして、国民感情的には彼らを無原則に受け入れるというのは、何と言うか難しいようで……」
 「いや、もうむしろこっちがすみません……」
 親が聞いたら泣きそうな話であるが、親族ではなく友人に今回の話を持ちかけたのは、あるいは異世界側の温情だったのだろうか。
 下げ返した頭の中で、男は不意にそんなことを考えていた。
 改めて男が携帯を手に取り、ゴミ野郎改め友人へと通話を試みる。
 何度かのコール音の後、男の耳に聞きなれた声が響いた。
 「もしもし、どちらで?」
 「……意外と元気そうだな」
 「お前、まさか……!」
 声で男だと気付いたらしく、友人の声が幾らか上ずった。
 「なんだよ、いきなり無線みたいなの渡されたと思ったら、何で中からお前の声がするんだ!?」
 「何でって……もしかして、あいつに何も話してないんですか?」
 友人の反応を不審に思った男が向かいの席に視線を送ると、オリンはすまなそうに手を合わせて答えた。
 「諸々の手続きで十分な時間が取れなかったので、取り合えず彼の身柄だけ押さえておいたんです」
 「なるほど……よし、いいか良く聞け。今からお前がどういう状況にいるか説明してやる」
 「どういうも何も、俺は選ばれた戦士として異世界に召還されてるんだろ? そして未知の技術を活用してこの世界を救って……」
 「今からその辺の誤解をまとめて解いてやるって言ってるんだ。黙って聞け」
 男がオリンから聞いた話を噛み砕いて伝える。
 友人は電話の向こうで相槌を打ちながら聞いていたが、話が進むにつれ、その響きにどこか哀れで悲痛なものが混ざっていくのを、男は感じ取っていた。
 「……と、いうわけだ」
 「そんな……それじゃ没収された俺のスマ……いや、この世のあらゆる情報を引き出す魔法の小箱は、お前が持ってるっていうのか……」
 「だからその設定も最早通用してないんだよ。聞いてると胸が痛くなってくるから止めろ」
 「そんな簡単に諦められるか! 念願叶ってあのクソみたいな世界とおさらばしたのに、ここもただのゴミ溜めだってのか!」
 「そういうこと言ってるから現地民にも嫌われるんだよ!」
 未知の魔法を扱う異世界の戦士として身柄を保護されているという形で自らの境遇を理解しようとしていた友人にとって、真実との落差は相当なものであった。
 「……確かに、個室のドアには何故か外から鍵かけてあって出れないし、歓迎されてるにしては飯が質素でおかしいとは思ってたんだが……」
 「無関係な国の税金で食わせてもらってる奴の言葉とは思えないが……とにかくそっちは、お前が思ってるような甘い世界じゃないってことだ」
 「くそ、この世界にも俺の居場所は無いのか……」
 男は恐らく涙が浮かんでいるであろう友人の両目を思い描いてはいたが、同時にこの際それを利用して話を片付けてしまおうという打算も働いていた。
 「別にこっちとしてもお前が必要って訳じゃないが、だからって他所で迷惑かけさせるのは筋が違う。まだ家族や知り合いが居る分、お前もこっちの方がマシだろ。長い家出だったと思って、もう帰って来いよ」
 「……帰る? でも、どうやって……」
 「それなら簡単……という話だ。お前がそっちに行った時と同じように、転送魔法だとかいうので送り返せばいいらしい」
 ようやく、この不可思議な事件が解決する。
 友人の反応からそう安堵した男が口を滑らせたことは、迂闊ではあるにせよ無理からぬ事だったのかも知れない。
 「術者と対象の意思が一致しないといけないから、今までは簡単に戻れなかっただけで、お前がその気になれば……」
 「……ん? ちょっとまて、お前今何て言った!?」
 だが、平生から自分には甘い人間だった男も、この時ばかりは己の粗忽を責めずに居られなかった。
8, 7

  

 友人のトーンが変わった瞬間、男は自らの迂闊を察したが、事態は既に手遅れであった。
 「今の話が本当なら、こっちとそっちを行き来するには、魔法使いと俺の同意が居るんだよな?」
 「しまった……」
 男が手で顔を覆った。
 「つまり、何か目的があって俺をここに呼んだやつが、この世界に居るってことだろ? ……やっぱり俺は選ばれた勇者だったんだ!」
 「普段の論理はこれだけ破綻してるのに、変なところだけ妙に鋭いな……」
 実際にどういう事情があったかは定かでないにしろ、確かにオリンの話が本当であれば、最初に友人が異世界に飛んだ時点で、少なくともそれを望む何者かが転送魔法を使ったことになる。
 「そっちの世界はどう転んでも俺なんて必要としちゃくれないが、こっちには俺を必要とする誰かが待ってるんだ! 人生捧げるにはそれで十分だろ!」
 スピーカーの向こうから聞こえてくる半泣きの友人の声に、男が思わず頭を抱える。
 「見ず知らずの相手に、よくそこまで入れ込めるな……。すみません、少し手間取りそうです」
 「そうみたいですね」
 脇でスピーカー通話を耳にしていたオリンが、男と同じくらい苦い表情をしながら頷いた。
 「……ちなみに、あいつの話って合ってるんですか?」
 不本意そのものといった表情を崩すことなく、オリンが再び頷く。
 「まぁ、流石に勇者だと思って呼ぶわけはないと思いますが……魔法を使った誰かが居るのは、実際間違いないと思います」
 「それじゃ、まさか本当にあいつを必要としてる奴が?」
 「有り得る線としては、行政コストの増加とそれに伴う国民の政治不信を狙った他国の工作員の仕業でしょうか。一応、当局が調査していますので、遠からず判明するとは思いますが……」
 「聞いたか? 百歩譲ってお前を必要としてる奴が居たとしても、人様の役に立つような目的でお前を呼んだわけじゃ……」
 「いや、お天道様に顔向けできないような道理でも、その中で生きなきゃならない奴らってのは居るもんだ。どんな形ででも、必要とされたことが俺には嬉しい……」
 「ヤクザの鉄砲玉みたいな事言ってんじゃねぇ! こいつ今までどれだけ卑屈に生きてきたんだ……」
 仮にこちらに呼び戻したところで、この性格では似たような動機の下カルト宗教や組織犯罪に利用されはしないだろうか。
 潜在的なリスクを社会単位でわざわざ負うくらいなら、自発的に出て行ってくれたのを幸いに、このまま置き去りにしてしまった方がむしろ良いのではないか。
 「嘘……」
 オリンの表情が急変したのは、男の頭にそんな手前(人類)勝手な理屈が浮かんだ、まさにその時である。
 「へ、何か有りました?」
 「何だ、何かあったのか?」
 連絡機会らしき端末を握り締めたオリンが、やや青ざめた表情で答える。
 「このままだと、もしかしたらこちらの世界もまずいかも知れません……」
 「へ?」
 スピーカーのものと共鳴した男の間の抜けた声が、部屋に響いた。
 生物に使用する場合、転送先の環境については事前に調査を行い、被施術者の心身が転送後の環境下で健全に保てることを確認した上で施術しなければならない。
 被施術者は、転送後の世界の生態系並びに精神的、物質的文化に対する介入、改変を避ける義務が存在し、可能ならば接触も慎む事が望ましい。
 被施術者は、転送後の世界に存在する物質を、許可なく転送前の世界に持ち込んではならない。
 施術者は、被施術者の人品骨柄、体質、能力をよく精査の上で……
 「……法律か何かですか?」
 事情を説明する代わりにと渡された紙片から一端目を離し、男がオリンに視線を送る。
 「……」
 オリンは返事もせずにもう一枚の紙を鞄から取り出すと、小声で何か呟きながら、紙片の表面を掌で擦った。
 紙片に記されていた記号の羅列は、オリンの掌で擦られた瞬間、テーブルマジックのように、日本語の箇条書きへとその姿を変えていた。
 「何だよ、そっちでも何かあったのか?」
 テーブルに置かれたスマートフォンからは、要領を掴めない友人の声が響いている。
 「今から、状況の説明をします。あなたも、良く聞いておいて下さい」
 オリンは男の代わりに返事をして、手に持っていた紙片をテーブルの上に置いた。
 「法として制度化もされていますが、これは転送魔法を使う際のマニュアルです。私も魔法でこちらに来たので、一通りレクチャーを受けました」
 「結構注意事項多いんですね……」
 「特に異文化との接触は注意点が多いですね。世界が違うというのは、文化体系の違い以前の問題として、それまでの文化的蓄積の一切を共有できていないという事ですから」
 「なるほど……」
 男は魔法の仕組みについては当然門外漢であったが、生命体の居る別の星にロケットを飛ばすようなものだろうか、と自分なりに解釈する事にした。
 「え、つまりどういうことだよ?」
 「つまり、別世界の住人が良い奴だとは限らないし、どういう常識で生きてるかも分からないから、なるべく関らないようにしようってことだろ。例えばプレ――」
 要領を得ない友人の声に男が答える。
 「――あぁ、なるほどな」
 地球より遥かに文明の進んだ星からやってきた狩猟民族に地球人が襲われる、という内容の有名なSF映画を例に挙げて男が説明したところで、友人の方もようやく合点がいったような声を上げた。
 「仮に友好的な関係を築けたとしても、それによって起こる文化の変容が、必ずしも双方にとって良いものであるとは限りませんし、何か問題が出たときに国際社会で責任を問われるのは、やはり異世界に先に接触した側になりますからね。結局リスクの方が大きいんです」
 「もしそっちの世界が帝国主義全盛だったらと思うと、ゾッとする話ですね」
 話を聞くうち、男は異世界の社会が思想面において高度に近代化されていたことに感謝の念を抱くと同時に、なぜ一介の学生でしかない自分が友人の送還補助を依頼されたかについて理解し始めた。
 それなりに意思疎通が可能で、かつ社会への影響力がなるべく低い者、つまりは一介の学生の方がむしろ異世界側にとっては適役だったのである。
 「……それで、どうして急にそんな話を?」
 この一件が己の人格や能力を見込まれて依頼されたものでなかったことを悟って内心気落ちする男に向って、オリンは残る疑問の答えを示した。
 「この部分、どういう意味か分かりますか?」
 そういってオリンが指差したのは、マニュアルの後半に記述された一文であった。
 施術者は、かならず形代を用意し、被施術者の帰還までこれを管理、保護しなければならない。
10, 9

  

 形代とは……心霊が取り付きやすいよう形を整えた依り代の一種。
 「……だそうだ」
 「へぇ、何か怪しい響きだけど、魔術っぽいといえば魔術っぽいな」
 嫌がらせのように現実的な話が続く中、久し振りに出てきたファンタジックな単語に、スピーカーの声が若干上ずった。
 厳密には当人の生命力や魔力を取り出して封じ込めた器であって心霊が取り付いているわけでは無い、とはオリンの補足である。
 翻訳の不可能性を目の当たりにして改めて異文化を意識した男であったが、当の異世界人の思惑はそこには無いらしく、深刻そうな顔つきを崩そうとはしなかった。
 「それで、これがどうしたんです?」
 「……先程、御友人達をこちらに送り込んだ組織の目星が付いたと、当局から連絡がありました。それによると、彼らはどうも、施術の際に形代を用意していなかったようなのです」
 「はぁ、なるほど……」
 男が要領を得ない返事を返す。
 「すみません、それってそんな大事な事なんですか? いや、決まりだってのは分かるんですが……」
 異世界側にとっても元の世界の側にとっても、転移した人間そのものに積極的な価値が見込めないことは、友人の例からも既に明らかである。
 社会に益する存在として呼び込んだので無い以上、他国の工作員にせよ悪戯な魔術士にせよ、事件の黒幕が悪意を持って彼らを転送した事は、男にも容易に想像が付いた。
 悪意を持って魔術を使うのだから、むしろそうした決まりなど破るのが当たり前ではないのか。
 銃刀法があることを理由に、素手で殺人を行う殺人鬼は居ない。
 現に、異世界側との安易な接触を避けなければならないというルール自体、異世界人を自分の世界に呼び込んだ時点で破られている。
 男としても他国の法だからと軽視しているつもりは無かったが、形代の一件だけを殊更重大事として取り上げていることについては、やはりピンとこなかった。
 「馬鹿だな。そういう儀式ってのは、何の意味があるか分からない呪文だとか人形だとかが一番大事なんだよ。なるほど、折角異世界に来たのに俺にチート能力が備わってないのは、儀式が不完全だったから……」
 「全然違います」
 オリンは苛立ちを含んだ声色で友人の話を両断すると、小さなパック入りのジュースとペットボトル入りの麦茶をテーブルの上に並べた。
 「詳しく説明しようとすると専門的で込み入った話になってきますので、取り急ぎ転送魔法の仕組みについて簡単に説明します」
 並べ終わると、今度は紙パックにストローを突き刺し、男に見せた。
 「このパックを一つの世界だと思ってください。転送魔法というのは、このように閉ざされた世界の一部に穴を開けてトンネルを作り、行き来させるというものです」
 そういうとオリンは、ジュースを一口吸い上げて口を離す前にストローの中間を指で摘んだ。
 「私がここに来たのもこの方法です。任意の対象を他の世界に移して、移動が終われば扉を閉じる。これ、元の世界はどうなっていますか?」
 オリンがそのままの状態でパックを男に突きつける。
 「どうって……見た目の話なら、ちょっとへこんでますね」
 「はい、本来その世界にあるべき存在が丸ごと消える事になるわけですから、その分の歪みが世界に生じます。形代と言うのは、それを防止するためのダミーのようなものなんです」
 「つまり、移動した奴の代わりにそいつを元の世界に置いとくわけですか……」
 「そういうことですね。完全に反作用を防ぐのは原理的に不可能ですが、これなら無視できる範囲に影響を抑えられます」
 「え、それじゃ俺にチート能力が備わってないのは……」
 「仕様です」
 「お前はいい加減現実を見ろ」
 「そんな……」
 落ち込む友人の声を他所に、オリンが残る麦茶に目を移す。
 「そして、それを使わないとどうなるかというと……」
 「もしかして、世界が歪んだままになる?」
 「いえ、事態はもう少し深刻になります」
 オリンがボトルを逆さにして麦茶をコップに注ぐ。
 その指は、口から底へ向って登る気泡を差していた。
 「世界の復元力が、歪んだ状態を是正するために、別の何かで穴を埋めようとするんです」
 「何かって……」
 「何か、としか表現できません。お茶の代わりにこのボトルへ入ってきたのが空気でなくとも良かったのと同じで、手軽に取り込めるなら、どんなものでも無作為に……」
 「それじゃ、今俺らの世界に……」
 事態を察した男の顔色が、瞬く間にオリンと同調していく。
 「おい、今すぐ帰って来い! お前のせいで世界が危ない!」
 奪い取るようにテーブルの上の端末を握り締めて男が叫ぶ。
 新種の病原菌、未知の外来種、人類種の天敵……。
 物騒な単語の数々が、男の脳内を駆け巡っていた。
 薄暗い部屋の中、男達の話し声だけが延々と響いていた。
 仕事は朝から始まっていたが、日が沈んだ今も終わる気配は無い。
 端末に語りかける男は、そこから漏れる明かりが部屋の中で唯一の光源となったことに気付くと、伸びをするついでに隣の男の肩を叩いた。
 「灯かりくらい自分で付けろよ……」
 「そっちの方が近いだろ。自分は動かずに照明が付くって、なんかハイテクな感じするな。さしずめスマートヒューマンだ」
 「人力の時点で何一つスマートじゃないだろ……」
 有史以来人類に受け継がれてきたローテクによって明かりを取り戻した部屋の中で、二人の男は再び端末に話を続けた。
 「いいか、そっちの世界は、あんたが思ってるほどファンタジーなもんじゃない。むしろ血も涙も無いくらいにリアルなんだ……」
 「……軍事知識に明るいって? そっちの世界には、お前なんかに頼らなくてもその道のプロである職業軍人が山ほど居るんだぞ。まともな戦争も経験して無い平和な国から来た一般人が、半チクな知識でどうしようって……」
 「……騙されるな、それは今そっちで横行してる闇ビジネスだ。何も知らない異世界人をそうやって勧誘するんだよ。選ばれし者だとか勘違いしてついて行ったら、タコ部屋か農園で一生奴隷生活だぞ……」
 「……お前は要するに道具として利用されていて……違う、別に生物兵器みたいに強いわけじゃない。逆に非力すぎて保護にかかる負担が莫大なんだ……」
 数時間後、作業が一段落したところで、二人は部屋を移って、グラスに注いだビールで乾杯をした。
 「ふぅ……今日は何人だ?」
 「戻ってくるって確約してくれたのは三人くらいだな。まったく、聞き分けの無い連中で……」
 「お前に言われてると思うと、連中も少し気の毒だけどな……」
 口元の泡をぬぐいながら、男が友人に冷ややかな視線を送る。
 「俺は結局あの後すぐ帰っただろ。まさかマジで悪事に利用されてたとは思わなかったんだよ……」
 異世界側の治安維持機関の調査によって、一連の失踪事件の真相は過激な反体制組織による無差別テロである事が判明した。
 利用価値の低い移民を大量に流入させることで、治安の低下や行政コストの増大を誘発し、一方で移民の居た世界には復元力を利用して魔獣を送り込む事で、一気に二つの世界を弱体化させる目論見であったらしい。
 「互いに弱ったところを狙って一気に両方の世界を制圧、行く行くは文字通り新世界秩序の創造……か。どこの世界のテロリストも、無茶なこと考えるよな」
 結果的には、テログループの計画は一部を除きほぼ失敗に終わっていた。
 当局による捜査の手が、グループが想像していたよりも遥かに早くその喉元に延びたことも大きかったが、当てにしていた転移魔法の副作用についても、大きな誤算があった。
 世界の復元力によって引き起こされる現象は、結局のところ自然災害に近い無軌道な反発であり、とても一魔道士が意図的に制御できるような代物では無かったのである。
 転移した若者の変わりに送り込まれたのは、大気や石ころのように無害な無機物が殆どで、生物についてはその一部が外来種として害をなす事が予想されうる、という程度で、凶悪な魔物が送られてくる事などはついぞなかった。
 「まぁ、テロリストってのは、そういう不確定な部分は、全部自分に都合よく考えるもんなんだろ」
 つい最近まで利用されていた立場とは思えないような態度で、男の友人がグラスを空ける。
 「何でそこまで他人事のように喋れるんだ……」
 友人が男の世界に帰還したのは、事件の全貌が見えてから数日後の事である。
 異世界側の消極的な損害については半ば無頓着だった彼も、古巣に実害があると聞かされては流石に意気を挫かれた。
 加えて自らの穴埋めが石ころや微生物で済ませられている事実も、彼の挫折に拍車をかけたのだった。
 「テロリストと一緒にするなよ。さっきも言ったけど、俺は結局事実に気付いて引き返してきただろうが。世界の歪みを少しでも直したんだから、むしろ世界を救った側だ」
 「お前が消えて出来た歪みだろ。とんだマッチポンプだ」
 「だからこうやって働いてるだろうが。撒いた水の方が多いなら、多少キナ臭くても問題じゃない」
 「問題かどうか決めるのはお前じゃないだろ……」
 その後男は今回の強制送還に寄与した腕を変われて、友人の方は諸々の償いのための社会奉仕として、事件の事後処理を手伝う臨時職員として雇われる事になった。
 できるだけ迅速かつ内密に事態を収束させたいという異世界側の思惑による超法規的措置でもある。
 「実際健気に頑張ってるだろ。時給に直せばこっちの最賃割るんだからな、この仕事」
 「刑務作業の代わりだと思えばそんなもんだろ。前科付かないだけありがたく思えよ」
 主な業務は、通信端末を利用したカウンセリングや説得であり、報酬は帰還に応じた転移者の人数に応じて支払われる完全歩合制である。
 そしてもう一つの業務は……
 「すみません、お二人共、今すぐ出られますか?」
 「また出たのか!?」
 端末から響くオリンの声に反応して、二人が防護服を羽織る。
 「大丈夫です! 二人とも、多少酒が入ってますが問題ありません」
 マスクで篭る友人の声色には、アルコールのせいだけではない高揚感が乗っている。
 彼らのもう一つの業務は、外来種として彼らの世界に紛れ込んだ異世界の小動物の駆除と送還である。
 「この仕事の一番のやりがいだよな。異世界の魔物と戦うなんて、まさに俺の憧れだ!」
 「お前がそれで良いなら、俺から言う事は何も無いけど、やってることは害虫駆除業者みたいなもんだぞ」
 「良いんだよ。世界を救うのは、こういう誰でもない奴らの、なんでもない仕事の積み重ねなんだからな」
 「ちょっと良いこと言ってる風なのが余計腹立つな……」
 「準備できましたか? それでは行きましょう!」
 端末からの声と同時に、短く鳴ったクラクションの音が窓ガラスを震わせる。
 彼らが外を覗くと、オリンが軽トラの窓から半身を乗り出して手を振っていた。
 「よし、行くか!」
 「まぁ、そうやってまともに働く気になっただけでも、今回の件は無駄じゃなかったのかもな」
 「あぁ良い社会経験だった。いや、良い世界経験か。異世界だけにな」
 「オリンさん、やっぱ今からでもこいつ、そっちの牢屋にぶちこめませんかね!?」
 防護服の男が二人、世界を救うため、夜の闇へとその身を溶かしていった。
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