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姿のない訪問者

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  「最近ね、夜中に、引かれるのよ…」
 何が?と言う代わりに、ミサトの髪を貴弘は撫でた。
 貴弘の腕に抱かれながらも、ミサトの心から不安が消えることはなかった。
 「ねえ、今度、家に来てよ…」
 「どうして?」
 貴弘は優しくミサトの頬を手のひらでなぞりながら答えた。貴弘の手の温もりを感じながらもミサトは自分の心が別のどこかにあるようにも感じた。
 ミサトは少しの間何も言わず、布団の上に短い沈黙が流れた。言葉を選んでいるのだ。面倒な女と思われないように。
 二人が身体を重ねてから1年が過ぎ、ようやく季節が変わろうとしている。最近は陽 が沈むのも早くなった。逆に朝陽が昇るのは遅くなる。
 「夜中になるとね、ドアが引かれるの」
 「玄関の?」
 貴弘も言葉を選んで返事を返しているようだった。貴弘とは月に数回寝床を共にしているが、全てを知っているわけではない。ミサトは心のどこかで、貴弘の全てを信頼していない事を自覚していた。
 「酔っ払いかなにかじゃないの?」
 そうではない、とミサトは言う。
 「毎日なの」
 顔を貴弘に向け直し、そう言うミサトの顔色は薄暗い寝室の中で何かひどく怪しい物に見えた。怯えた獣のような目をしている。貴弘もミサトの見たことのない表情を見て、わずかに不安を抱いたようだった。
 「警察は?」
 毎日やってくるとすると、変質者の仕業ではないか。貴弘がそう考えるのが自然ではあるし、そうであったほうがまだ良い。しかしそうではないとミサトは訴える。
 「違うの」
 ミサトの声色は、弱々しさと奇妙なおどろおどろしさを帯びていた。何かこの世の理から外れたものを語ろうとする声だ。
 その声は貴弘の素肌を急に冷えていく。夏の終わりの涼しさのせいでは無さそうだった。芯からジワジワと冷えていくような悪寒だ。
 ミサトは貴弘を正面から見据えて続けた。瞳の奥に恐ろしいものを宿しながら。
「誰もいないのに、ドアが引かれるの」
 窓の外から聞こえる、車の通りすぎる音が妙にはっきりと聞こえた。

 しかし、貴弘はすぐには来てはくれなかった。仕事がある。それを理由に、家に様子を見てきてくれるのは週末に伸ばされた。ミサトは急に恋人が冷たい人間に変わったような気がして、胸に苦しさを覚えた。
 貴弘は、決して冷たい男というわけではなさそうだが、面倒を避けたがる部分が人より強そうであるのをミサトは思い出した。それが時に優しさに見えることもあるが、今は腹立たしい。
 午前一時の自分の部屋は、妙に寂しげで、外の世界とは隔絶されたように思える。
 葛飾区の人通りが少ない住宅地に建っているミサトのアパートは、小綺麗で住民も穏やかで静かに暮らすのに不自由ない物件だったが、今はそれすら心細さを掻き立てる。
 ガチャリ、と下の階の住民が夜遅くに帰宅した様子の音にもミサトは怯え、思わず布団を抱きしめた。
 そう言えば、下に住んでいる男はどんな顔だったか。思えば言葉を交わした事すらない。
 今は何時だろうか。時計を見る勇気がなかった。
 コツ、コツと革靴だろうか?何者が歩いて過ぎ去る音が窓の外から聞こえた。普通なら気にすらならない音に過敏に反応してしまう。
 今は何時だろうか。
 ブウンと羽音を立てて顔の近くを飛んだ羽虫の気配に、ミサトは身体をビクつかせ、半ば半狂乱で羽虫を追い払おうと手を振った。
 カタリ…
 ワンルームの部屋の中から静かに響いた音に、ミサトは総毛立った。
 ドアノブが、ひかれようとしているのだ。
 キキキ…、と音をたててゆっくりとした動きで銅の取っ手が回転していく。
 キキ…、と何かを確かめるように下まで下り、上まで戻る。
 頼りないドアの向こうに何者かがいる。
 ミサトは布団をかぶり、枕元にあった携帯電話で通信履歴を探し、震える手で恋人に発信した。
 ガチャ、ガチャ…。ドアノブを回す何者かは何かを確かめるように、音をたてている。それに呼応するかのような携帯電話のコール音は、脈打つ心拍のようだ。
 ガチャガチャガチャ、ガチャガチャガチャ。
 ドアの外の何者かははっきりと侵入する意思をもって、ドアノブを回し続ける。それしか知らないような、単純な繰り返しがむしろ恐ろしい。
 携帯のコール音は虚しく響き、貴弘が出る気配はない。
 ミサトは布団の中でドアノブが何度も回される音と、耳元で鳴り続ける携帯のコール音に気が狂いそうな焦燥を感じていた。
 ガチャンと、怒っているようにドアノブが最後に一回乱暴に回され、神経質な音が止まった。
 貴弘はついに電話に出なかった。

 ◆

 朝起きてすぐに目にした携帯の着信履歴とミサトからの尋常ならざる内容のメールに、貴弘は怖気を感じた。ミサトの精神の均衡が崩れ始めているのを感じて、貴弘が感じていた不安は一層強まった。
 週末に訪ねる予定だったが、もはや仕事を言い訳にしてミサトの家に行かない訳には行かぬ。その後どうするのであれ、会わねばならぬ。
 貴弘は都内の食品会社で営業をしている。今日が内勤でよかったと思うのは、たびたびミサトの事を思い出すからだ。
 ミサトとは友人の紹介で知り合い、そこから付き合いが始まった。26歳の貴弘よりもミサトは3つ年上で、そのせいか今まで付き合った若い女にはない色香と落ち着きを感じ、そこに惹かれた。器量は人並みで、乳房はまああるもののやや 身体ががっしりとしている。しかし、目元がすっきりしており、丸く鳶色がかかった瞳は芯の強さを感じた。そのくせに幸の薄そうな、奇妙な魅力がある女だった。
 その女が今、神経を狂わせ始めている。
 2年間前、貴弘は人を牛馬のように酷使するデザイン会社に同じく営業として勤めていた。その時の会社の同僚が、ある日突然狂気を発現させ、事務所の中で大声で異国の国を歌いながら社内を走り回りその後行方知れずになった事件を貴弘は思い出す。
 それは、あまりも劣悪な労働環境の中で神経をやられたというのが理由だったように思うが、同僚が「鬱病や躁病でなしに、理由もなく発狂する人間がたまにいる。そこに心の強さは関係ない。まるで、取り憑かれたように気を狂わせる」というよう な事を言っていたのを思い出し、貴弘は身震いした。
 結局、その日の仕事はろくに進まず、誤魔化すような形で会社を後にした。
 貴弘は重い足取りでミサトの家へと向かう。
 ミサトの家に近づくにつれて段々と嫌な気持ちが増していった。
 ミサトの家は高砂駅から歩いて7分のアパートだ。妙な所に住んでいるな、と貴弘は 初めてミサトの家に行った時に思った。駅の近くに開かずの踏切などと呼ばれている踏切があって、下手をすると40分以上開かない時さえあると、ミサトが昔教えてくれていた。
 カンカンカンと明滅している赤い光。ギギギイと赤銅色のレイルを叫ばせる鋼鉄の電車。踏切が開くまで、気怠そうに待っている人影。さて、ここは開かずの踏切だったか。いつまでもこの人達は電車が通り過ぎて静かになるのを待っているのだろうか…。
 ミサトのアパートの前に着いた。白い壁の、部屋数が少ない飾り気のないアパートだ。
 以前1度来たときは、周りの建物よりも小奇麗なアパートというくらいの印象しかなかったが、今は診療所か何かに見える。
 近づきたくない。 貴弘は素直にそう思った。
 が、そういうわけにもいかぬ。
 諦めたように階段を上がる。ミサトの部屋は2階の奥側だ。
 あッ…、なんだこれは。
 ミサトの部屋の玄関扉はまさしく異様であった。
 ドアノブが回されないように、ガムテープが乱雑に巻かれ固定されている。尋常の考えでは思いつかないような細工には鬼気迫るものが感じられた。いくら何者かにドアが引かれるからといって、こんな幼稚な事をする女ではなかったはずだ。
 これはただごとじゃない…。
 覚悟を決めて、チャイムを鳴らした。
 ガチャ…。
 「俺だよ。貴弘だよ」
 カチャン………、ガチャ…、ギィ…。
 「来てくれたんだ。ありがと」
 ドアの隙間から顔を見せたミサトは、ここ数日で一気に衰弱しているようだった。
 なんでも、しばらく寝れていないらしいし、会社は休んでいるらしい。
 やや丸みを帯びていた顔はゲッソリとして、鳶色がかった瞳は陰鬱な闇に濁っていた。紙に数本、白い物が混じっていた。
 「大丈夫…?」
 「うん…、大丈夫」
 ミサトは笑顔すら浮かべない。
 貴弘はそんなミサトに、急に寒々しさを感じた。
 「何か食べた?」
 「ううん、まだ」
 「出前でもとろう」
 「うん…」
 宅配の弁当が届くまでの間、貴弘は他愛のない話を続けたが、ミサトは聞いていないようだった。
 やがて宅配の弁当が届くと(その宅配業者がやってきた気配にもミサトは怯えていた)二人は気まずさを誤魔化すように弁当を口に入れた。ミサトは結局半分以上を残していた。
 夜は深まり、日付が変わろうとする境界が近づいていた。
 ミサトは、自分からは何も喋らない。貴弘が何かを問いかけても一言二言返すだけだった。まるで、精神病患者だと貴弘は思った。
 ミサトから気をそらそうとする心の働きか、ミサトの事を意識しつつも貴弘は仕事の事も考えていた。結局、今日の仕事は本来進めるべき分の3割も進まなかった。その焦りもあって、口には勿論出さないが苛立ちすら感じていた。ミサトに対してである。
 「もうすぐ」
 ミサトがボソリと呟いた。
 「何が…?」
 「わからない…」
 「わからないって事はないだろ?」
 勤めて優しく言ったつもりだが、言葉の端に苛立ちが感じ取れるのを貴弘自身、感じていた。
 「わからない…。けど、何かが来るの…」
 「わからないじゃ、何もわからないよ」
 「わからないのよ!」
 壁を背にしてうずくまり、ヒステリックに頭を左右に振るミサトに貴弘はたじろいだ。
 「大丈夫だよ」かける言葉思い浮かばず、自信なさげに貴弘は言う。「俺がいるから」
 何が大丈夫なのだろう。自分がいるからといって何ができるというのだ。貴弘は自分の言葉に嘘を感じている。さりとて何も言わない訳にはいかない。
 時刻は既に午前1時に近づいている。明日はここから会社か…。いつもより1時間早く起きなければならない。それより今日は眠れるだろうか。貴弘は、今すぐミサトを放ったらかして自分の家に帰りたい衝動をなんとか堪えた。
 「貴弘…、ゴメンね…、怖いの…、助けて……」
 涙交じりの鼻声でミサトが貴弘に訴える。その声は貴弘の心に情を呼び起こさせた。
 「大丈夫。大丈夫だよ」
 震えるミサトの髪を優しく撫でた。
 そうだ。何が起きているにしてもだ。今日でこれからどうすればいいかがわかる。もしかすると、ミサトには何かしらの治療が必要かもしれない。その時は、もしかすると別れを考えなければならないかもしれない。いや、そうでないかもしれない。ミサトの話によると、姿の見えない何かがドアを開けようと夜中に来るらしい。方法は想像がつかぬが、悪意を持った不審者の悪戯と考えるのが自然だ。そうなら、解決の方法はいくらでもある。別れを考える必要もなくなるかもしれない。今はまだ、ミサトは大切な彼女なのだ。
 覚悟を決める。
 ミサトの話では、毎日同じ時刻に来るわけではないが、それでも1時から2時の間という事は決まっているらしい。それならば、少なくとも法則性を持った人間の仕業である率が高い気もする。
 貴弘はドアの前で待つことにした。
 ミサトは、部屋の隅にうずくまり自分と玄関を交互に様子を見ているようだ。
 外はシンとしているようだ。人通りもない。
 ガチャと、音が聞こえ貴弘の心臓が1度ドクンと大きく脈打った。
 しかしそれは、下の住人が帰宅した音だった。しばらくの間、生活音が続いて聞こえ、やがて静かになった。
 貴弘は肩をすかされた気がしつつも安堵した。
 カリ……
 ふと、ドアの向こうから何かをひっかくような音が聞こえた。
 カリ……、カリ……。
 その音は、何かを剥がそうと爪でひっかく音に聞こえる。
 まさか…。
 貴弘はミサトのほうを一度見た。それで何かが伝わったのか、ミサトの顔が一気に強張った。
 何かがドア一枚隔てた向こう側にいる。
 「誰だ!」
 返事はない。
 ドン!
 返事の代わりだと言うように、ドアが強く叩かれた。
 ミサトは小さく悲鳴をあげて、布団を頭からかぶっり、何か訳の分からぬうわ言を言っているようだ。
 ドンドンドン!
 ドアを叩く音は、何かにイラついているように激しさを増している。
 その音は、一間の部屋で怯える二人を嘲笑うようにも聞こえた。
「誰だ!警察を呼ぶぞ!」
 ドンドンドンドン!
 音は、貴弘の震える怒声など聞こえないようにドアを叩き続ける。
「誰だ!やめろ!」
 貴弘は、わずかに生まれた怒りから勇気を借りて、何者かと対峙する事を覚悟した。
 あっ……。
 しかし、ドアスコープを除いた貴弘の目には何者も映らなかった。
 ドンドン!ドンドン!
 何者も存在しない空間で、ドアを叩く音だけが聞こえる。
 これは尋常じゃないぞ……
 あっけにとられた貴弘はどうすればいいかわからぬまま、ドアの向こうの空いた空間を凝視していた。
 ドン!
「誰なんだ!もうやめてくれ!!」
 大きくドアが殴りつけられた音で、貴弘は叫ぶようにドアを開けてしまった。
 そこには、何者もいなかった。
 アパートの廊下だけが寂しく広がっていたのである。

 ◆ ◆

 ジョージは震える指先で、インスタント茶漬けの封を切った。それがジョージとメリーにとって、今現在口にできる最後の食料だった。
 癖のある髪の毛を目が隠れるまで伸ばした無精髭の男がジョージ。姓は真城と言う。
 ジョージは用意された互いの茶碗に、粉末の茶漬けの素を均等に分けていく。
 ジョージの対面に正座する少女は、ちゃぶ台の上に置かれた自分の茶碗にサラサラと注がれた粉末を見て表情を曇らせた。
 「ちょっと…!ジョージのが少し粉の量が多いわ!!」
 フワフワとした、緩くウェーブがかかった金髪。ちょっとだけ吊り目気味の青い三白眼。桃の果実のような頬に、やっと赤身を帯びたの桜桃のように小さくかわいらしい唇。おしゃまにツンとした鼻。まるで気取ったフランス人形のような幼い少女がメリー。ファミリーネームは、今はもう誰にもわからない。
 「そっちのほうが海苔が1枚多いだろ」
 ちゃぶ台から身を乗り出し抗議するメリーをジロリと一瞥すると、ジョージはあられを一つつまみあげて口に入れた。あられの数は4つしかなかったので、争いの種にはならなかった。カリカリと口の中で砕けるあられの味は香ばしいが、同時に侘しい。
 同じく二つしかないあられをつまんでメリーが言う。
 「昨日の昼は食パン半分に天かすだけ。昨日の夜は天カスと塩。今日の朝はバターと天カス。そしてね、ジョージ。きっとあなたも驚くでしょうけど、今日の昼はお茶漬けの素が半分!!これが食事!?そこらの浮浪者のほうがまだマシな物を食べてるってもんよ!!」
 「怒るなよ。怒ると腹が減るぜ…」
 小さな手を振って熱弁を振るうメリーを見もせずに、ジョージは弱弱しい声で言った。今やジョージの関心ごとは———茶漬けの素だけを食べるなら、粉だけ食べたほうが良いのか、お湯で割ってスープにしたほうがよいのか———それだけだった。もっとも、どちらを選んでも胃袋の満足感に大差は生まれないだろうが。
 「私、なんだか泣きそうよ…」
 メリーは深いため息と共に緑色の粉末を指ですくって舐めとる。本来白米にかけて味わうための粉末は思った以上に塩気が濃く、空腹もあって必要以上に唾液の分泌を促しているようだった。
 「死にはしねえだろ。少なくともメリーはよ」
 同じく指先の粉末を舐めた。
 「けどね、ジョージ。本当に明日から…、いいえ。今日の夜からだって、どうするの?食べるものが何もなくなってしまったのよ」
 「ああ…困った事だな。まったく」
 他人事のような返事であられを齧るジョージを見て、メリーの憤怒の感情が今まさに花開こうとしていた。メリーには自分の心を灼熱へと変える赤い太陽が見えた。
 メリーは立ち上がり、キッチンまでドカドカと進むと、冷蔵庫の扉を礼儀正しくノックする。
 「もしもし、失礼ですが、誰かいらっしゃいますか?もしもし」大げさな芝居を打つと、開け放った冷蔵庫の中に何も入っていないのを見て確認すると「あら!?誰もいらっしゃらないだなんてどうした事でしょう!?」彼女だけにしか見えない観客相手に大げさに驚く振りをした。
 「ベーコン伯爵、ハム夫人はどこに消えてしまったの!?キャベツトマトコーンの野菜三兄弟、ピクルス大御婆様やアイスクリーム嬢はいったいどこに消えてしまったの!?」メリーの一人芝居が続く。
 「ああ、なんて事でしょう!?きっと悪い人達に何かされたんだわ!!ええ、きっと誘拐に違いないわ!!」
 バタンと音を立てて、力強く空っぽの冷蔵庫が閉められた。怒りと正義の決意を瞳に燃え上がらせ、小さな舞台女優の演技はいよいよ最高潮の盛り上がりを見せる。手を振りかざし、声も高らかに。観客席全ての人間の感情を揺さぶるように。
 「助けださなければならないわ!!こんな悲劇、認められるものですか!!ベーコン伯爵を!!ハム夫人を!!かわいい野菜の子供達を!!愛すべき二人の淑女を!!」
 まるで自分を本物の大女優だと言わんばかりのメリーの芝居を見ていたジョージは、思わず噴き出してしまった。 
 「さあジョージ!冷蔵庫一家を取り戻すのよ!!悪漢達から奪い返すの!!」
 「わかった。わかったよ。なんとかすればいいんだろ?わかったよ」
 突き出されたメリーの掌にジョージはついに苦笑いを一つ浮かべて観念した。 冷蔵庫の中に平和を取り戻さなければならない事は、なるほど。曲げようのない真実だ。それはそうに違いない。しかし問題は、問題を解決するための策を講じたはずなのに、今まさにその問題がジョージとメリーの胃袋を苛んでいる事なのだ…。ジョージはしばらくの間、思案を巡らせると、やがて諦めたように携帯電話を取り出す。今から12時間ほど前にとある友人から電話がかかってきていたのを確認すると、何かを諦めたように息を吐きだし、通話のボタンを親指で押した。
 
 そもそも、この貧窮状態が二人の住まう八畳一間のアパートを襲っているのは、やむを得ない事情があっての事だというのはメリーも知っていた。ジョージのとある友人の知人を助ける為に、どうしても金が必要になったのだ。それも、1万や2万で済まない額の金だった。その金も定期的に少額返済される約束は取り付けているものの、次回口座に振り込まれるのは1週間後の予定で、ジョージのバイトでの稼ぎが振り込まれるのは10日後。今現在、ジョージが好きに使える金額は17円。もともと財布に入っていた5円に、部屋を虱潰しに探した結果見つけた10円玉と5円玉に1円玉2枚を加えての金額である。———余談だが、激高したメリーが畳まで剥がしそうになったのをジョージが止めた———
 無論、経済破綻が目に見えている状況でジョージもただ手をこまねいていたわけではない。少ない友人に生活費の工面を頼む事を企てたのだが、頼みの友人はいずれも旅行中であったり、連絡がつかなかったり、同じく経済破綻状態であったりで、ジョージをただ落胆させるだけに終わった。バイト先の知り合いにも頼んでみたが、取りつく島なく断られた。何故ならば以前、賭け麻雀で鴨にして、素寒貧にしてやった事を———しかも絶対に負けない方法で!———根に持たれていたからだった。
 売れそうな物は、全て小銭に変えた。クレジットカードは、バイクのローンの支払いを数カ月焦げ付かせたせいで凍結された。学生ローンで金を借りるのは、怖くてできなかった。
 ジョージに路上生活の経験があれば、この苦境を乗り越える知恵もあっただろうが、幸か不幸かジョージにその経験はなく、メリーにもその知恵はなかったので、二人は必要な時以外は極力横になることにして飢えを凌ぐしかなくなってしまったのである。
 飢える者は飢えるべくして飢えていくのである。
 そして今、まだ正午を過ぎたばかりの昼下がり。木造2階建ての古びたアパートの階段を上がって3つ目の、一番奥の部屋、木目調のシートが貼られただけの粗末なドアを開けて、ジョージとメリーが住む八畳間の部屋にやってきた男がいる。彼らの事件は、大体がこんな風に始まる。
  
 「いやいやいや、マっさん。これは神様がくれた千載一遇の幸運だと俺は思うよ」
 ———神だと?適当言いやがって———
 ジョージはちゃぶ台の向こうの畳にドカッと腰を下ろした太り気味の男を見て、心の中で舌打ちした。
 「神様?適当言ってるんじゃないわよ!相変わらず変なヘアスタイルしちゃってからに!」
 メリーがジョージにしか聞こえない声で毒づいた。実際、彼のヘアスタイルは奇抜であった。
 「マっさんが一昨日くらいに連絡くれたのは知ってたよ。けどそん時俺、麻雀に集中しててそれどころじゃなかったんだ。しかも結局大負けしちゃって、マっさんの電話の事なんてすっかり忘れてたってわけなのよ。いや、もうマジですっからかん。次の給料日までマジでどうしたもんかな。ワハハハハ!」
 マっさんと言うのは、彼がジョージを呼ぶ時に使う愛称だ。真城の『ま』の字をとってマッさんと呼んでいる。
 「ヒコタ君さ、麻雀弱いんだから控えなよ」
 「俺も好きでやってるんじゃないんだけど、ほら、付き合いってあるじゃん?ワハハハハ!」
 ———適当言いやがって。付き合いの賭け麻雀で全財産むしられる奴がいてたまるか!———
 忌々し気にジョージが見つめているのは彦田友一。ジョージの大学の同級生で、悪友である。
 身長は180と長身ではあるが、その分横にも広い。のっぺりとした大和顔に似合わず、イタリア人を意識したファッションは実際のところかなり洒落ているが、どういうわけか髪型は常に奇抜であり、今日は頭の上に渦巻く炎を乗せたようなヘアスタイルだった。
 ぷすぅ。
 唐突に彦田の尻から放たれた屁の悪臭にジョージは顔をしかめた。
 「最ッ低!」
 メリーはジョージの横で鼻を詰まんで抗議する。
 「で、マっさんが貧困に喘いでいるってのは解った。実は俺も今大変に苦しい状況なんだ!」
 悪びれもせずに出張った腹をかきながら言う彦田を見てジョージはうんざりした顔でメリーを横目に見た。メリーは———この豚を早く追い出して!———と目で言っているような気がした。
 「当然だが貸せる金はない!しかし、仕事は紹介できる!」
 「もしかして、またあっち関係の仕事か?」
 「その通~り!」
 半ば予想はできていた事だが、ジョージはゲゲエとでも言いだしそうに顔を歪めた。彦田が持ち込んでくる仕事の大部分、いや、9割があっち関係の仕事だった。しかし、それはジョージがある特性を持っている事に起因している。
 「取っ払いで3万、紹介料として俺が4貰う。マッさんは6。もし追加報酬が出たら折半。相変わらず良心的だろ?」
 「場所は?」
 「葛飾だってよ。交通費もちゃんと出る」
 ジョージの住む境町から1時間というところだ。
 「いつ?」
 「お互い早いほうがいいだろ?ちょっと電話してくる」
 重そうな尻の肉を上げて、彦田は玄関から出ていった。電話越しに誰かと話し始める声が聞こえた。
 「ジョージ。わかってるわね?私は今お腹と背中がくっつきそうなの。そして、背に腹はかえられないって言葉があるのを私は知っているわ。意味は、ええと…お腹がすいているなら仕事は選ぶな!」
 「何か間違ってないか?」
 「とにかく!この状況を打開するチャンスなのは間違いないわ!気が進まなかろうが、引き受ける以外の選択肢があって?」
 ———言われなくても———ジョージがそう言おうとしたところで玄関の扉が開いた。喜色満面と言った面持ちで通話を終えた彦田が戻ってきた。
 「喜べマっさん!今から紹介できる!」
 「ちょっと待て、まだ具体的な内容を聞いてないぞ!」
 「本人に直接聞いたほうが早いだろ?行こうぜ!」
 ジョージは彦田に聞こえるようにため息をつくと、黒い靴下をはいて、壁にかかったモスグリーンの薄手のロングコートを羽織り始めた。夏が終わったばかりだというのに、今日は妙に肌寒い。シャツはもう1週間洗濯機を回していないので、少し汗臭く感じた。
 「私も行く!」
 同じくメリーも身支度を始める。白い靴下に小さな足を通した。立ち上がると着ていた黒いジャンパースカートの裾がふわりと空中を泳いだ。着ていた白いブラウスのボタンを上まで行儀よく閉めると、赤いリボンを結ぶ。
 「メリーちゃんも連れてくんだろ?」
 彦田は既に車の鍵をポケットから出して、キーリングを指にかけてチャリチャリと回している。
 「それよりさ、ヒコタ君」
 ジョージはブーツの紐を結びながら、肉付きの良い顔を見上げて言った。
 「なんか食いもの持ってない?できれば二人分…」

 彦田の愛車、SZUKIアルトの黄色いボディが陽の光を浴びてトコトコと下道を走っている。太陽は、少し落ちかけている。運転席には彦田。助手席では空腹に虚ろになった目で窓の外を見つめるジョージ。後部座席には、彦田が唯一持っていたうまい棒をリスのように少しづつ、しかしゆっくりと齧り進めるメリー。ジョージは自分の分け前を既に食べてしまっていたし、駄菓子の1本だけで身長も183はあるジョージの腹は満たされない。後ろから聞こえてくるサクサクサクサクサクとうまい棒が粉と変わりやがて幼い少女の胃袋に流し込まれる音がやけに耳に響いた。窓の外では電信柱が流れて消える。時折、飲食店の看板が窓の外を時速40キロで流れていくたびにジョージの腹はむずがるのだった。
 「そうだ、マっさん。食い物は今出せないけどよ」
 ———なんでこのデブは牛丼かなにか奢る金さえ持ってねえんだ———自分の事を棚に上げてジョージは苛立たしげに彦田を見やった。空腹とは、どこまでも人を荒ませる。
 「良かったら、いる?」
 信号が赤に変わり、緑に変わるのを待っている間、彦田がグローブボックスから出したのは。
 「おおおおおおおお!JPSじゃねえか!」
 漆黒のパッケージに刻印された金色のアルファベット、J、P、S。正式にはジョン・プレイヤー・スペシャルと言う。元々は英国人のジョン・プレイヤーがノッティンガムに設立した煙草会社から出されていた煙草のブランドであった。
 「吸っていいのか?」
 「手ぶらで来るのもあれだからよ。前にパチンコの景品でとっておいたのを忘れてた」
 ジョージはしゃにむに包装を破くと、1本取り出して咥える。火を点けていなくてもフィルターから口に広がる煙草の風味が懐かしく、軽い陶酔さえ感じた。
 「ちょっと!吸うなら窓開けてよね!」
 パワーウィンドウを開けてメリーの抗議に応えると火をつけた。
 苦みの中に感じる微かな甘み。芳醇な香りからは値段からは信じられないような高級感さえ漂う。
 「……至福」
 久々に身体に染み渡たったニコチンで眩暈を感じたが、その眩暈が心地よかった。紫の煙が車窓から時速40キロで外の風と混ざって消えていった。
 「マっさんさぁ、割とダメ人間だよね」
 「ヒコタ君には言われたくない」
 もし彦田にこういうタバコを土産にするような気配りができなければ、単なるデリカシーのないデブとして友人はあまりできなかっただろう。しかし、彼はデリカシーはなくても気配りのできるデブだった。しかも、太った容姿と裏表のなさそうな愛嬌のある表情が、デリカシーの無さを中和して親しみやすさと受け取られる事も多く、妙に洒落たファッションセンスも相まって、誰とでも仲良くなれるデブとしてのキャラが定着している。今回ジョージに仕事を紹介できたのも、その交友範囲の広さがあっての事だった。
 「今回の依頼はさ、誰からなの?」
 「飲み屋で知り合った人からだよ」
 信号が切り替わる。赤から緑。車が再び流れ始める
 「何で困ってるんだ?」
 「さあ?詳しくは聞いてなかったけど、マっさんを紹介してほしいってさ」
 「そこって大事なとこじゃないの?」
 「訳ありなんだろ?あまり人に聞かせたくないような、そういうやつ」
 「まあ、そりゃあ訳ありだろうな…」
 「ねえ、まだつかないの?もう50分はたった気がするわ」
 二人の会話を割ってメリーが入ってきた。最初は流れていく景色を眺めていれば新鮮さもあったが、結局窓の外を流れていくのは街路樹と電信柱、灰色の集合住宅。似たような車の群れ。メリーには大人じみた知性はっても、結局はまだ子供だ。飛んだり跳ねたりできない狭い車内ではすぐに退屈してしまう。
 「残念だがまだ30分しかたってない」根元まで吸ったJPSの一本を車載の灰皿の火消に押し付けながら ジョージが応えると、メリーは落胆の表情を顔いっぱいに広げた。
 「ええええええ!嘘でしょ?時計が狂ってるのよ!きっとそうだわ!ううん、そんなことはどうでもいいからヒコタにもっと急ぐように言ってよ!」
 「勝手についてきたんだからよ、大人しくしてなさいよ」
 「ぶう…」
 不満げにシートに座りなおすと、前髪を指先で弄り始めた。何か不満や言葉に出来ない気持ちを隠している時の彼女の癖だ。
 「メリーちゃん、何か言ってる?」
 「もっと急いでくれだってさ」
 「残念ながら俺は安全運転が信条だ」
 「そのスタイルには好感が持てるよ」
 車は早くもなく、かと言って遅すぎもしない速度で進んでいく。太陽は、たった半刻で大分傾いたように見える。排気ガスを吸い込む街の影がおおきくなりつつあった。
 「で、その某氏はどこまで信じてるんだ」
 「タカさんの事?まあ、実際のところはどうだろうね?」
 「ふうむ…」
 ジョージの依頼された仕事にはいくつか懸念要素がある。一番懸念されたのが、依頼人の信用を買えるかどうかという事だった。信用さえあれば、後は依頼の解決から金の支払いまでスムーズに進む。その、信頼を買うまでがなによりも難しかった。
 「どうする?直接家にいくつもりだけど…」
 進路の先の信号機が黄色く変わったのを見て、彦田は左側にウィンカーを点滅させた。
 「そうだな…、ファミレスに呼び出せたりする…?」
「頼むぜマっさん、ここで決めにゃあ、ガス代も後がねえんだからな」

 「えっと…真城…ジョージさんですよね?ヒコタ君から聞いていました。柴貴宏です」
 「ジョージでいいっすよ。紫さんでいいかな?」
 ジョージ一行は依頼人の貴弘と国道沿いのファミレスで待ち合わせた。ボックス席のテーブルを挟んだ向こうに貴弘と彦田が腰かけている。ジョージの膝の上にはメリーがちょこんと座っている。天井から下がっているシャンデリア風の照明が広げる暖かな光に照らされた店内は、平日の中途半端な時間だという事もあって、客はそう多くなかった。薄黄色のカーテンの隙間から、沈んで消える前の夕陽の光がさしていた。時刻は6時を回っている。
 「いやあ、なんかすんませんね。初対面なのに…」
 ジョージが血色の悪く見える仏頂面に下卑た笑いを浮かべて頭を下げた。ここでの会計は、全て貴弘が持つ事になっていた。
 「いえ…このくらいなら」
 貴弘は小奇麗な身なりをした優男風の男だった。ベージュのチノパンにワインレッドのシャツ、どちらもファストファッションでないことが一目で解るほどの、上質な服装だった。顔だちも悪くはなく、小奇麗に整えた頭髪からは上品な柑橘系の整髪料の香りがする。
今日は平日だが、会社は休んでいるのだろうか?顔色に、やや陰が差している。
 「ねえねえジョージ!私のオムライスはまだなの?まだかしら?」
 餌を待つ子犬のようなキラキラとした目でメリーがジョージを見上げている。
 「さっき注文したばかりだろ?待ってろよ」
 そう答えるジョージではあったが、いま彼の胸中にはもうしばらくすれば運ばれてくるであろう鉄板ハンバーグAセット(特盛ライス)の事しかなかった。ジョージは鉄板の上で泡立つデミグラスソースの香りと、湯気に含まれる肉汁のときめきを想像し、思わず垂れた涎がメリーのプラチナブロンドにポタリと垂れた。
 「ちょ、ジョージ!汚い!」
 「ああ、ああ。すまん」
 「?」
 メリーに相槌をうったジョージを見て、貴弘は怪訝な表情を浮かべた。
 その表情で我に返ったのか、ジョージは恥ずかしくそうに口元を手で拭うと急にまじめくさった顔つきになる。そのタイミングで腹の成る音がしたのは、滑稽でしかなかったが。(同時にメリーの腹も鳴ったが、その音はジョージにしか聞こえなかった)
 「それで、柴さん。困ってるんだって?話、聞かせてよ」
 「あ、はい。でも、その…」
 貴弘はどこか居心地が悪そうに彦田を横目で見た。彦田はコーヒーカップに口をつけながら、携帯でメールを打つために右手を忙しなく動かしていた。どうやら、3人の話に興味がないようである。この仕事の仲介人の癖に、だ。
 ジョージと向き合った者は、何とも言えず不安を感じる事が多い。顎に生えた無精髭と、目を覆うまで伸ばされた癖のある黒髪は、一歩間違えたら浮浪者のように見えるだろう。そして髪の隙間から時に見える、光を含まぬような昏い三白眼は爬虫類のようでもあり、闇の森を駆ける孤狼のようでもあった。それに加え並以上の体躯の良さがあるので、相手によっては必要以上に委縮してしまうだろう。貴弘もジョージの雰囲気に気圧されたのか、罰が悪そうに口を開いた。
 「呼んでおいてなんですけど、真城さん、本当に…その、霊感って言うのですかね?そういう、霊感みたいのがあるのかって…、一応、お金も絡む問題ですし……」
 疑いの目を向けられて、ジョージは別段機嫌を損ねるような事はなかった。今まで何回もあった事なので、もう慣れた流れでもあるし、貴弘の疑義も仕方のない事だとわかっているつもりではある。そして、貴弘の疑義をほぼ確実に払う方法も知っている。
 「残念だが、俺に霊感はない」
 「え、ど、どういうことですか?」
 「俺は霊が視えるだけだ。霊の気配は感じない。だが、しっかり霊感のある相棒を連れてきてる。もしあんたの周りに本当にいるなら、何も問題はない」
 ジョージの説明を聞いて貴弘は目を丸くし彦田を見つめた。———ちゃう、俺はちゃうよ?———しっかりとメールを打つ右手は動かしながら、彦田は手を横に振って貴弘に答えた。「え、じゃあなんで…」———なんの為に来たんだよ———という言葉の答えを求めてジョージのほうに向きなおる。今や彼の疑いの念は充分に溜まり、頭の片隅でこの不審な、ややみすぼらしい珍客をどうお引き取り願おうかをシュミレーションし始めた。
 「で、どうなの?とりつかれてそう…?」そんな貴弘の心情を知ってか知らずか、ジョージは隣の少女に問いかける。
 「少しだけ、変な気配が漂ってる。この人が取りつかれてるわけじゃないけど…、一緒に暮らしてる人でもいるんじゃないの?」
 メリーは特に興味もない素振りで答えた。彼女の頭の中にもまた、フワリトロリの金色卵に包まれたチキンライスとケチャップが見せる奇跡のダンスしかなかった。
 「誰かと一緒に暮らしてたりする?」
 「違いますけど…」
 ———違うのかよ!———ジョージは恨めしそうにメリーを見やる。こんなくだらない事でも信用を失いかねない。当のメリーは素知らぬふりだが。
 「あんたが不審がるのも仕方がない事だ。そもそも、幽霊なんていないってのがこの世の常識だしな。仕方ないさ」
 「そ、そうです。僕だって、未だに自分が信じられないんですよ…。だって、僕には霊感だってないし…、大体、幽霊なんて全然論理的じゃないですし…だから、その…正直、真城さんも…ほら、霊感詐欺なんてのも、たまに聞きますし」
 「霊感がなくても見える時は見える。どんな霊でもほんの僅かな短時間、実体化する時があるからな。色々条件があるんだ、色々と」
 ふと、メリーがジョージのコートの肘をつまんで引っ張った。
 「ねえ!ジョージジョージジョージ!まだなの?まだなの?」
 「だから、ちょっと待ってろって!」
 「あの…、真城さん。さっきから、誰と喋ってるんですか?」
 貴弘の目に映っているのは、自分の横の、何も存在していないはずの空間に話しかけているジョージの姿だった。そう、ジョージの膝の上には何もない。誰もいない。線で形どられた何かは、一切存在していない。空だった。目の前の男は、空っぽの何かと会話を重ねている。
 貴弘は、急に暗闇に独り取り残されたような不安を覚えた。いつの間にか額が汗で濡れているのに気づく。
 「言っただろ?俺は、視えるだけだって…」
 彼女はここにいるが、ここにはいない。点を持たない、線を持たない、面を持たない。しかし形質はこの世界に存在している。いや、ある時にはその形質も存在しない。質量はあるが、質量はない。生きてはいない。死んでしまった。だが死んでいないし生きていない。彼方側から此方側への境界線を歪ませる間違った論理が、“在る”という事にしてしまった、不可触の形。
 その名は幽霊。境界を、侵す者。

「あぃがてぇッ!!ありがてぇっ!!」
「ひょっとジョージ!!わらひのオムライス勝手にはべないでよねっ!!」
「そっちこそさっきから俺のハンバーグだいぶ食ってるろうが!!」
運ばれてきた料理をジョージ達が餓鬼のように浅ましく胃袋に入れていく姿に、貴弘は唖然とした。
まず、ジョージである。ものすごい勢いでハンバーグを口に放り込み、白米を吸い込むようにかっこみ、時々オムライスに手を伸ばす。いったいどれほどの空腹がそうさせるのか。
そして、メリーだ。
見えないのだ。
食べている姿が見えないのだ。
なのに、スプーンでだけが宙を泳ぎ、オムライスの黄色をすくい取り、見えない口に放っていく。
そして、おそらく口に入れられたであろう瞬間に、オムライスのかけらが完全に視界から消失する。
とてもではないが奇術や幻覚の類ではない。
貴弘は、目の前の真城ジョージこそが本物の霊能者であると認めざるを得なかった。
「ま、真城さん…。もしかして、真城さんの膝の上に…」
「んぁ?」
ジョージはハンバーグと白米とサヤエンドウが咀嚼されて混ざったペーストを水で流し込んでから答えた。
「ああ、紹介が遅れたな。ここにいるのが…」———見えないだろうが———と前置きをつけて「メリーだ」
見えない少女の頭に手を置いた。
「私がメリーよ。聞こえてないだろうけど御機嫌よう。そしてご馳走さま。困ってるみたいね。助けてあげてもいいわよ。ジョージがだけど」
 いつの間にか、見えない少女はオムライスを完食していた。
 「どうだい?すげえだろ?俺も最初に見たときは驚いたもんだよ。まあ、これでマっさんが本物の中の本物って事は信じて貰えたでしょ?」
 貴弘は無言で何度も首を縦に振った。
 「さて、そろそろ何があったか聞かせてもらってもいいかな?」
 ハンバーグと特盛ライスをあっという間に完食したジョージは、爪楊枝で歯を掃除しながら言う。それにしてもオッサン臭い男である。
 「あ、いや、その前にちょっと質問していいですか…?」
 「何だい?」
 「何よ?」
 「幽霊…、なんですよね?メリーちゃん?は?」
 「幽霊だな」
 「幽霊らしいわ」
 「幽霊なのに…、食べるんですか?ご飯…?」
 貴弘の疑問も最もである。死してなお飢えを感じるなどとナンセンスだ。
 「幽霊だって、動けば腹が減るし、たまには甘い物も食いたくなるんだろ」————俺は幽霊になったことがないからわからんけど———とジョージは付け加える。
 「幽霊だって朝起きて飯食って、飯食った後は出すもん出すし屁だってこく。普通は見えないだけでな」
 「ちょっとジョージ!下品よ!それに私は“へ”なんてしないもん!」
 「ああ、はいはい。そうだなそうだろうな」
 霊感のない貴弘から見ると、ジョージは一人で見えない何かと会話しているように見えるので、どのタイミングで会話を繋げればいいのか掴めない。
 「さっき言った、俺には霊感がないってのは、霊の気配を感じられないんだ。ただし、視えはする。視えるってことは、触れるってことでもある」
 ジョージはそう言ってメリーの頭を手のひらで軽くポンポンと叩いた。不服そうに口を尖らすメリーの姿は、貴弘には見えない。
 「そんで、こっちのメリーには霊感がある。幽霊が霊感ってのもおかしな話だが、センサーみたいに近くに幽霊がいると感じるらしい。悪霊かそうでないか、強いか弱いかまでわかる優れものだ」
 「人をテレビショッピングの防犯グッズみたいに言わないでよ!」
 「それで、そろそろ肝心な所を聞かせてくれないかな?」
 メリーの抗議を無視してジョージが貴弘に促した。
 「あ、はい…。実は………」
 貴弘は、目の前の奇怪な光景に困惑しつつも、自分達の頭を悩ます厄介を語り始めるのであった。
 赫赫然然…
 「ふぅむ…。ドアを叩く幽霊ねぇ…」
 貴弘が事のあらましを話し終わり、時刻は7時を過ぎようとしていた。
 店内はディナー客で賑わいはじめている。
 ジョージ達が話している席は店の角だったせいもあるのか、日常の賑わいから少しだけ切り離されているようだった。
 「どうだい、マっさん。なんとかできそうかい?」
 自分の顎髭を撫でるジョージを見て、彦田が促した。
 「その幽霊さ、見えた?」
 「え?見えたんですか?」
 ジョージの質問の意味が一瞬わからず、貴弘は聞き返してしまった。
 「いやいや、柴さんが、その幽霊見えたかってだけ」
 「あぁ、僕には見えなかったです…。僕の彼女も見えなかったようですし…」
 「なるほど」
 ジョージはわしゃわしゃと顎髭をなでながら何かを考えているようだった。メリーは話に飽きたのか、つまらなそうに店内のウェイトレスを観察している。
 「実体化はしてないな。実体化できる奴は、ちょっと厄介なんだ」
 「はぁ…」
 貴弘は相槌をうつ。ジョージの言っている意味は分からなかったが、話の腰を折りたくはない。
 「まあ、見て見なきゃ何とも言えんけど、大した奴ではなさそうだ」
 幽霊にも大した奴や大したことない奴があるんだろうか…。ぼんやりと貴弘は考えてしまう。
 「早ければ今日中に、少なくとも近いうちになんとかしよう。取っ払いで3万って話だったけど、どう?」
 3本指をたてるジョージに貴弘は少しの間逡巡した。3万円。安いとは言えない。もっとも、このような仕事の相場がいくらか貴弘が知る由もないが。
 「お願いします」
 結局、貴弘には他に手立てがない事もあり、事態がこれ以上悪化する前に手を打ったほうがよいと頭の中で結論付けた。
 「よっし!決まりだ!じゃあ早速行こうぜ!」
 貴弘の返事を聞いて、彦田が上機嫌で音頭を取ろうとした。
 「ちょっと待て!」
 ふと、ジョージが鋭く言った。
 貴弘はその声色と、なにより深刻そうな表情に不安を感じる。
 口は固く結ばれ、髪の隙間から覗く瞳に危険な色が浮かんでいる。
 まるで追い詰められた獣のように、苦しげながらも牙を剥いて周囲を威嚇しているような、見るものを威圧しるような気配を発している。
 貴弘はゴクリと唾を飲み込んだ。
 何か恐ろしい事が起こりそうだ…。そんな予感を貴弘も彦田も(そしてメリーも)感じていた。
 ジョージは、一呼吸置いて口を開いた。
 「すまん、空きっ腹でガツガツ食い過ぎた。腹が痛い。ちょっと待っててくれ」
 全員ずっこけたのだった。
2, 1

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