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11.泥辺のマリア

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 ダンサー・マリアは父親との日々を思い出していた。父はドロベという名だった。娘に与えられる物が音楽くらいしかない父親だった。父のこぐ自転車の前座席に乗って、父の流す曲に合わせて歌っていた。十五キログラムまでの制限がある、小さな子供の為の座席だった。マリアは制限体重など知らず、収まり切れなくなる歳まで自転車の前に乗った。始めの頃は自分の好きな曲を与えていたドロベだったが、次第に娘はあまりうるさい曲は好まない事がわかり、マキシマムザホルモン「恋のメガラバ」や、Foo Fighters「The Sky Is A Neighborhood」をリピート再生するのは止めた。ABBAやQueenの曲をマリアは好んで歌った。ドロベが一緒に歌おうとすると、マリアはすぐに父を止めるのだった。

「邪魔しないで」「痰の絡んでる音が嫌」「静かにして」随分と酷い言葉をマリアは父ドロベに投げつけていた。うまくおしゃべりを続けられないマリアの言葉は、きつくなりがちだった。それでもドロベは全て受け止めていた。
 ある日ドロベは過労で倒れ、帰らぬ人となった。マリアは学校に行かなくなり、公園で歌い踊る日々が始まった。親類や近隣の人がしばらく世話をしてくれたが、マリアが学校に戻ることはなかった。マリアは曲の選り好みをしなくなった。父の残した音楽プレイヤーから流れる曲を歌い、踊った。父と一緒に歌いたいと思っても父はいなかった。父と一緒に踊りたいと思っても父の肉体は既に焼かれていた。父の声が美しくなくとも、声量が小さくとも、高い声が出なくとも、歌を止めなければ良かった、とマリアは思ったがもう遅かった。子供用の前座席に乗れなくなってからも、マリアの心はまだそこに座ったままで、父の与えてくれる音楽に合わせて体を揺らしながら歌っているのだった。

 イエスの歌声は父ドロベよりずっと素晴らしかった。ドロベの歌声では誰の足を止める事もなく、人を熱狂に巻き込むことも出来なかっただろう。父の声ではうまく踊れなかっただろう。それでもマリアは父の声を求め始めていた。

 獣達に守られていたマリアにも限界が近付いていた。彼女を守る獣達も次々に倒れていた。彼らには見えない毒、放射能、その他諸々が彼らを蝕んでいた。
 獣達は自分達ではこれ以上マリアを守れないと悟り、それまで居た山中から離れた。三頭の山羊がマリアを代わる代わる背負い、人里まで降りていった。ある避難所まで辿り着くと、衰弱したマリアを看護士達に引き渡し、山羊達はマリアから離れた。彼らは山に帰り着く前に一頭は倒れ、一頭は腹を空かせた人間に狩られ、最後の一頭は川を渡っている最中に眠り込み、溺れ死んだ。

 イエスの父ヨセフは避難所に担ぎ込まれたマリアを見た瞬間に、「彼女は私の家族です」と嘘をついた。看護士達とヨセフ一家は協力してマリアを介抱した。マリアは何度かヨセフの事を「イエス?」と呼んだ。それから「お父さん?」とも。

 ヨセフはマリアを診ていた医師から、彼女の妊娠の事実を知らされる。マリアは泥のように眠っていた。マリアの周囲でイエスの弟妹達が踊っていた。「元気になったら一緒に踊るんだ」と彼らは楽しみにしていた。

「マリア」とイエスは小さな声で呟いた。
「何か言ったか?」看守が訊ねた。
 イエスは首を振ったが、また「マリア」と口に出てしまった。看守はもう何も言わなかった。
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