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「お経」お坊さん

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 先日、伯父の一人が亡くなった。七十七歳だった。告別式の日は仕事上どうしても休めない日に当たっていた為、通夜にだけ参加した。

 父方の祖父母が健在だった頃、盆と正月に祖父母宅に親類が集まる慣習があった。一際背の高い伯父はその集まりで必ずアサヒビールを飲んでいた。通称「アサヒのおっちゃん」で、アサヒビールそのものに勤めてもいたのだった。
 子供のいなかった伯父夫婦の隣に座った私に、冗談であろうが「うちに養子に来ないか」なんて言ってきた事もあった。私は一度ならず彼らの家の子供として生きる自分を想像した。うちの親が養子に出すとは思えないが、実家に居るより裕福な暮らしが出来ただろうとは思う。

 限られた思い出しかないから、それらはたやすく鮮明に思い出せる。

 父方の祖母は闘病生活の上で。その夫の祖父は祖母が亡くなってから痴呆が進み、外出して戻らなくなり、遠く神戸で発見された時には犬に酷く怯えるようになっていた。病院に入り数年後亡くなった。母方の祖母は九十歳を超えた大往生。これまで親類の葬儀はあまり湿っぽいものではなかった。あらかじめ近付いていた別れにそれぞれ構えていられた。

 伯父はここ数年の法事にも顔を出していなかったし、亡くなったと聞いて、重い病気でもしていたかと思ったがそうではなかった。

 伯母に聞いた話。

「病気とかでは全然なかったんよ。ただ歯はもう悪くなっていて、すり潰したものを食べてた。これまでも何度か喉に物を詰まらせたり、吐き出したりした事はあったんよ」
 亡くなる数日前からあまり元気が無かったと言う。急に暑くなった頃だ。それまでは問題なく嚥下出来ていた物が出来なかったか、詰まっても吐き出せていた物を吐き出せなかったか。
「うちのとこは介護マンションやから、ボタン押せばすぐに人が来てくれるんよね。それで皆さんAEDとか心臓マッサージとかしてくれて。結局救急車呼んだけど、悪い事に体温測ったら37度2分あったんよね。なかなか受け入れてくれる病院がなくて」
 死因は窒息。変死扱いされ、警察の取り調べがあったという。突然の夫の死に茫然自失している伯母の証言を記録した警官は、自分で間違えた誤字だらけの調書の訂正箇所に、伯母の母印を求めたという。

 久し振りに会った親類は皆老けていた。
 伯母は目を泣き腫らしている。伯母の姉はやや痴呆が入り、私が誰か最初分からなかった。職場で喪服に着替えて来た私のネクタイは歪んでいた。参列者は十二名までと限られているから当然私の子供達は連れて来られない。長年会っていない私の兄は今回も姿を見せなかった。
「今年の正月に万博までバイクでゴルフに出かけた帰りにうちに来てな。年取ったなあとは思ったけど、まさかこんな急に」
 今年で七十三歳になる父の言葉だ。伯父はきっと高齢の親類の中で一番頑健だったのではないか。
 
 間隔を空けて並べられた椅子に腰掛け、通夜の始まりを待つ。スーツ姿の遺影とは別に、祭壇の横に作られた壇に、トランペットを吹く伯父の写真が飾られている。私も吹き方を教えてもらった事がある。管楽器の音色が私は元々苦手で、聴く方も吹く方もからっきしだったので、伯父は無理に押し付けて来る事もなかった。プーと私は吹いた。パラリラリラと伯父は吹いた。

「真宗大谷派の○○」と司会の方が紹介し、お坊さんが入ってきた。ここで私の小説ならば、激しいビートを木魚で刻み、ハードロック調の読経が始まるのだが、と不謹慎な事を考えた。いや伯父の好きな曲ならジャズとかだろうか。あいにくそっちは疎い。祖父の葬儀やその後の周回忌で聴いた読経は、いつも同じ寺の同じお坊さんだった。違う人の読経は久し振りだな、と思った。

「圧巻のライブパフォーマンスだったね」会食の際に従兄と話した。
「本人もノッてはったね」と伯母も褒めていた。
 初めは小さい声だった。マスクの下からもごもごとお経はこぼれ落ちていた。それはイントロだった。読経が進むに連れ、音量は上がり、節回しは歌のようになり、途中私はリズムを刻みたくなった。子供達が同席していたら踊り出していたかもしれない。伸ばしたい所を好きなだけ伸ばし、刻みたい所は軽やかに刻んだ。お通夜の席でなければ読経終了後にスタンディングオベーションをしていたかもしれない。詩吟をやる伯母の伝手で呼んだというわけでもないらしい。ひょっとしてこれまで同じお寺ばかりだから知らなかっただけで、最近のお坊さんは皆こうなのかもしれない。

 通夜の後会館の二階で食事をした。普通なら故人の思い出話に花が咲く場面かもしれないが、会食場にも「黙食」の札が貼ってある。押し寿司を完食した後、私が代表して、伯父の最期の様子を伯母に訊ねた。それが前述の話だ。

 親類の集まりではいつの頃からか家族麻雀が定番になっていた。面子から外れている時の伯父は、私の後ろから手作りに口を出してきた。お年玉の額が親類で一番多かった。終の棲家となった介護マンションに引っ越す際に、「こんな大きいのもう使わないから」と、年代物の大きな食器棚を我が家に譲ってくれた。

 会館に泊まり込む伯母とうちの両親と別れ、伯母の妹家族と途中まで電車に乗って帰る。皆私より頭一つ背が低い。私とそう変わらなかった身長の伯父は、もういない。空白が顔を出し始めている。
 子供のいなかった伯父夫婦はずっと二人で暮らしてきた。これから伯母は一人になる。空白は意識するごとに増していくだろう。

「またね」ともう一人の伯母が言っていた。何度か、繰り返し、「またね」と。

(了)
113, 112

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