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「Shakin' My Cage」Joe Perry

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https://youtu.be/RFqiDgPFNVo


 そろそろ来るだろうとは思っていたが、娘がやはり「学校に行きたくない」と言い出した。小学三年生といえば、他の子との違いが分かり始める頃だ。当人であれ、当人以外であれ。

 発達障害のある娘のココは、一、二年生の時は支援学級の方にとても親身になってくれる先生がいて、クラスで辛い事や嫌な事があっても、その先生に相談すれば気が晴れた。拠り所と出来た。逃げ場があった。
 しかし六年間同じ先生があたる訳ではない。三年になってその先生は支援学級の担当から離れ、五年生の担任となっていた。二年生の時の大の仲良しの子とも、一年生の時の仲良しの子とも違うクラスとなった。支援学級で二年間同じクラスだった男の子は、二年生三学期の最後の方に突然転校した。

 私はどんどん仕事が忙しくなり、昔のように終電帰りも増えた。休日には一日中息子が私にまとわりついた。ココはどこで誰に甘えたら良かったのか。ある日妻とココがお風呂に入っている最中、「もう学校に行きたくない」と言い出したのだという。
 
 直接的な契機はある。
 クラスで一番の問題児の男子がいる。その子が他の子を殴っていたのを、ココが止めた。その仕返しにココは足を強く蹴られた。その事を聞いた妻が先生に話を聞いた所、「その日は担任の先生が休みで別の先生が見ていたが、別段普段と変わった所はなかった」と答えた。その日いた他の子に聞いても「特に何もなかった」と答えたという。しかしそれでも同じ事を何度も繰り返し言う娘の言葉を元にもう一度調べ直してもらうと、「男の子の仕返しが怖くて言えなかったけど実は……」というわけで真相が浮かび上がった。結果、問題児の男の子は先生に促されて娘に謝ったのだが、その謝り方が号泣しながらのもので、ココには逆に「怖かった」のだという。今後も教室で蹴られたりするのが嫌だ。クラスの先生は忙しいからそんな事相談出来ない。支援学級の先生にはそれは言う事ではない、とココは自分で判断し、学校自体を避けるようになった。

 という一連の話を聞いて私が思い出したのは、自身の学校生活の事である。私はよくいじめられた。暴力沙汰なんていくらでもあった。集団でボコボコにされた事も、昼休みの度に髪を掴まれ床に押し付けられた事もあった。後のやつは、軽いからかいの言葉に対して、私が気楽に手を出して相手に鼻血を出させた事も原因だったが。

 私はそもそも授業をあまり聞いてなかった。聞く理由がよく分からなかった。教科書の内容を黒板に書くだけの教師の存在理由が理解出来なかった。一人で問題と向かい合うのは好きだった。「勉強は嫌いではないが、授業は眠くなるだけ」つまり学校で学ぶ意味は見当たらなかった。今でも、学校になんて行かず、好きな音楽を聴きながら本を読み、自分なりの勉強だけしておけば良かったとずっと思っている。

 ココは体調を崩していたのもあり、とりあえず数日学校を休み、次の段階として行ける時間までは行く。一時間だけ。二時間だけ。給食まで。五時間目が好きな授業の音楽だからそこまで。今日は頑張って六時間目まで。といった具合に。まるまる休む事はなかった。五時間目まで受ける予定が四時間目までに変更になる事もあり、途中で帰る場合は迎えにいかないといけない為、妻はパートを休んだ。こちらはよく理由が分からないが集団登校も嫌がり、少し早い時間に妻が学校まで送っていくようになった。その分私が息子の健三郎を幼稚園まで連れていくので、出社時間が少し遅くなった。

 私は中学や高校時代は時々学校をさぼったし、コンビニで毎日漫画雑誌を立ち読みしていた為、月曜日(ジャンプ、ビッグコミックスピリッツ、ヤングマガジン)と木曜日(チャンピオン、モーニング、ヤングジャンプ、ヤングサンデー)は毎回二時間目から登校していた。「学校に行きたくない」と親に行った事はなかったが、どうせ大半の授業は寝ていたのだし、どうして行っていたのだろうかと今では思う。どうせなら教科書に隠して本を読みふけっていれば良かったのに、当時はまだ抵抗があった為出来なかった。

 そんな話を娘にした。
「だから無理してでも学校に行きなさい、とパパは言えない。だけど家で学校と同じくらい勉強をするのは、まだ小さいココには難しいから、出られる所までは出ていなさい」としか言えなかった。

 コロナ禍の現在、学校の窮屈さは私達の頃よりずっとひどいものだろう。特に外遊びが好きな活発な子、休日のたびにどこかにおでかけするのが楽しみだった子、たくさんの友達とわいわいやるのが大好きだった子。そんな子供らの鬱屈の向かう先は、時には同じクラスの弱い子らであるだろう。か弱い子だったり、個性際立つ子だったり、授業によっては自分達と違う教室へ受けにいく支援学級の子だったり。スキあれば自由自在に歌ったり踊ったりする子だったり。
 私は学校という檻の中でぼんやりと過ごしたが、娘は檻を自らの手で揺り動かし始めた。
「どうしてこんな所にいなければいけないの?」
「どうして苦しまなければいけないの?」

 高校三年生の三学期最後の日。卒業式以外では最後に学校に集まる日。高校生活を振り返る話を一人ずつ教壇の前に出て話すという事をやった。皆が原稿を手にして一生懸命いい話を語ったり、時にはすすり泣きながら語る者もいた。私は一言「特になし」と言ってすぐ席に戻った。進路を一切決めていなかった私だが、学校から離れられる事は喜びでしかなかった。

「苦もなく学校に通えているならそれでいい」
「学校に通うのが苦痛になったなら、無理強いはしない」
 そう決めてはいた。

 息子の健三郎が入院した。
 幼稚園でもらってきたらしいRSウィルス(風邪の一種)で三十九度以上の熱と激しい咳が出る。かかりつけの小児科でもらった薬では収まらず、大きい病院で診てもらった頃には食事を受け付けなくなっていた為、点滴治療を兼ねて入院となった。入院三日目には熱も下がり、喉の奥に詰まっていた大きな痰も取れ、付き添っていた妻と一時的に交代した私のお腹をペチペチと叩き続けるくらいには元気になっていた。
 二年前にもあった健三郎の入院以来、娘と二人で過ごした。眠る時に昔話をねだられたので、中島敦「山月記」、梶井基次郎「檸檬」、自作童話「首がもげたキリン」、「こぶとりじいさんダンスアレンジバージョン」、「イカロスの話(ロウで鳥の羽を固めて飛び立つ人)」「国語の時間に隣の席の女の子に『泥辺くん』という詩を作られた話」「こぶとりじいさんVersion2」などを聞かせた。聞かせる度に「眠くなくなってきた」と違う話をねだられた。

 健三郎は念の為コロナの抗原検査も受けたが陰性だった。間もなく退院してまた家の中が騒がしくなるだろう。二人でお風呂の三日目に、ココに学校へ行く意味を聞かせた。
「他の大勢の人たちとうまくやっていく力を身につけるための場所だよ」
 ココはよく分かっていなかった。
「もし学校行かないとしたら、学校と同じかそれ以上の勉強をおうちでしなきゃいけないよ」
「その方がいいよ。明日パパが先生の代わりしてよ」
「それずっとやるなら、パパ仕事辞めなきゃいけない」
 ココは困った顔をする。そんな顔をさせた私自身に内心嫌気が刺す。頃合いかもしれないと思った。過労死ラインギリギリに無理やり抑えられた先月の仕事量で、私は疲弊していた。
 ぎっくり腰をやった際に覚えた感覚がある。少し良くなり、多少は動けるようになった頃、つい元気だった頃と同じ感覚で動こうとすると、腰がアラームを鳴らす。ピキ、という「これ以上動いたら再発する」みたいな。落とした物をかがんで拾うとか、少し離れた物を取る為に体ごと近付くのではなく、無理やり手を伸ばすとか。そんな時に体は「やめとけ」と言ってくれた。きっとそういう動きは、普段から避けた方がいいのだ。

 同じ感覚で体が私に言っている。
「これ以上ここで働くと死ぬぞ」と。
「今はまだ壊れていないが、確実に壊れるぞ」「実はもうとっくに壊れているぞ」「子供達が大きくなった時、お前はもういなくなってるぞ」と。

 参加者全員脱落が確定しているサバイバルレース、常に途中経過だったのが、生きている間にリタイア、という道が見えてきた。収入の道はどうにか探さなければならないが、現状を続けられる気がしない。

 檻を揺らすのを娘だけにさせておくわけにもいかない。生きてるうちに、死なない術を。娘に、息子に、妻に、自分に。
 とりあえず職場に復帰後は、先月終盤の無理がたたった結果の後始末だ。報告書、報告書、報告書、始末書、仕上げたその次は。休職届けか。辞表か。
 
(了)
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