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「Book Of Days」Enya

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https://www.youtube.com/watch?v=LiBwr4U59EI

和訳
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 月村は自身のことが書かれた小説を成人してから読んだ。その本には月村の祖父母と両親と月村のことが書かれており、満遍なく世界各国の言葉で翻訳され、ベストセラーとなり、映画にもなった。月村本人は出演しなかったが、「良かったよ」と何故か級友から誉められたりもした。両親と祖父母はその小説を読ませることを月村に禁じていたが、映画は止めなかった。「映画の方は真実ではないから」と母は月村に言った。映画は映像美と役者たちの演技の素晴らしさから、あまりに美しすぎると月村も感じた。映像の中の月村一家は、様々な不幸や不運や歴史的悲劇の巻き添えになりながらも、懸命に生きていた。その末端にいる月村自身は、これからも苦労はするだろうが、きっと輝かしい未来を手に入れることが出来るだろう、というようなことを感じさせて映画は終わった。まだ生きている祖父母も半数は映画の中で亡くなっていた。

 月村家のことを書いた小説家の名前は木原といい、月村家のことばかりではなく、世界中の様々な家族のことを書いた小説を一年に一冊ペースで刊行し、百年続けている。世界中で読まれ続けている作品を書き続けている。若い頃の一時を除き、木原はメディアに姿を現していないので、今が何歳で、何者で、どうして書き続けているか、ということを知っているものは、担当編集者だけということになっている。

 若い頃に答えたインタビューで木原はこう答えていた。


――「どうして実在する人物を登場させるのですか?」
木原「私が書いた後、彼らは私の書いたように生まれ、生き始めるのです。小説が先なのです。彼らが何歳であろうと、何者であろうと」


 つまり月村は木原によって自分の生が書かれるまでは、存在しなかったということになる。木原だけでなく両親も祖父母も。本当にそうであるならばこの幼少期の記憶は何だ、と月村は思う。何もかもをはっきりと思い出せるわけではないが、はっきりと自分のものとしてある、間違いなくこれは創作などではない、と。しかし成人してようやく手にした小説に、彼が自身の存在の拠り所にしていたエピソードを発見してしまい、月村は自分自身が分からなくなってしまう。いやそれこそ、自分が記憶しているから、後で小説の中に付け足されたのだ、と反駁もする。新しく刷られる度に少しずつ中身が変わっていくのが木原の書く小説の特徴でもあった。初版の読者と第百刷版の読者とでは、知っているエピソードに大きな食い違いが出てくる。それでも読者は戸惑うことなく、常に「ああ、そういえばそんな話もあった」で済ましてしまうのだ。木原の小説にはそういうところがあった。月村は成人後は木原の小説を読むことに人生の大半を費やしてしまったので、他の作家の作品もそうであるかは知らずに過ごした。

 これまでに書かれた、木原作品に出てくる登場人物たちを訪ねる旅をしたこともある。全ての人が快く会ってくれたわけでもないし、小説の中では天寿を全うしていても、若くして事故で亡くなった方などもいた。人が先か小説が先かという問題は棚上げされ、人は人、小説は小説、という結論に月村は到達した。突き詰めれば全ての人が物語となり得るし、全ての物語は誰かに当てはめることが可能なのだ、と大雑把な方程式を作り上げて納得した。

 本が自分を生んだのかもしれない。
 自分が一冊の本なのかもしれない。
 これまでの日々は全て一冊の本の模倣だったかもしれず。 
 これからの日々は全て一冊の本の材料でしかないかもしれない。
 というわけで月村は、小説に書かれている通り、自分は月から来た人間の一人だということに納得した。木原の書いた物語はあまりに多すぎた。木原の百冊目の本に出てきた、軍人とクジラとジラフと歌の混血児という、グジラララという少女に出会って恋に落ちてから、月村は木原の物語の範疇に収まることを良しとするようになった。

 グジラララは多くの父を持っていたが、ほとんどは若くして亡くなっていた。唯一生き残っているクジラの父と寄り添う生活を続けていたため、海辺に住んでいた。月村と暮らすようになってからも、喧嘩したり寝不足が続いたり月明かりが強すぎる日などに、すぐにグジラララは裸になって海に潜ってしまうのだった。月村はグジラララのように泳ぐことも潜ることも出来ないので、海面に映る月を眺めながら、海岸に打ち捨てられてある壊れたボートの中で眠った。夜中には無数の亀や人魚や巨大なクラゲなどが月村の元にやってきて、グジラララの様子を伝えてくれた。グジラララは海の中で誰に遠慮することもなく大声で歌を歌っているそうで、どんな歌で、どんな歌詞で、どのような抑揚で、というのを、聞いてもいないのに海の生き物たちは月村に伝えてくれるのだった。
 海面に出て空に向けて歌えば、月にまで届くだろうに、と月村は思う。その歌に乗って月に帰れるのではないか、とも。帰りたいわけでもないし、地上でグジラララの声を響かせてしまえば、地上の建物のほとんどが崩壊してしまうために、出来ない相談だということも分かっていながら、つい考えてしまった。

 明け方に疲れ切りながらも充実した表情を見せてグジラララは海から上がってきて、月村の手を取る。そんな日々を月村は紙に書き留めていた。しかし海辺の家には常に強い風が吹いてきて、家の中から月村の書いたものだけを吹き飛ばしてしまうのだ。
 月村とグジラララが暮らし始めて三年目に、二人の子どもが生まれた。これは間違いなく小説の中から生まれたのではなく自分たちの子だ、と月村は喜んだ。二人の子は満月の日には決まって月に向かって歌うのだった。海についての歌ばかりを。話せるようになってから子どもに訊ねると、海と空とを互いに逆のものと勘違いしていた、と話した。

(了)


原案「千人伝」より
https://note.com/dorobe56/m/mf1aeeb072520

三十四人目 木原
四十三人目 月村
四十五人目 グジラララ
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