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「光の中に」踊ってばかりの国

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動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=JD9odC25eek
ライブバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=PT6gFlqf2vQ


 近頃気付いたのですが、私はこの作品集を生活の中心として考えている節があります。
 次にどの曲で書くか、今の生活にどのような楽曲が関わっているか、どの曲からイマジネーションを与えられているか、といったことを念頭に置いて生きてしまっているのです。

 書こうとした曲が二曲ありました。実際に少し書き出してもいました。
「PA PA YA」はBABYMETALの曲です。仕事中に帽子を被っている影響で、帰宅時の私の髪型は変な癖がついている時が多いのですが、それを見た娘のココが「誰や!」と叫んだのに対して、「パパや!」と返す、という実際にあった事柄から膨らましていく話です。歌詞の中に「祭りだ! 祭りだ!」というフレーズがあるのですが、今年は中止されずに開催されそうな、地域の祭りも絡める予定でした。

 もう一曲は「PAINKILLER」。こちらはメタル界の重鎮ジューダス・プリーストの曲で、題名の和訳が「鎮痛剤」と知ってから思い浮かんだことを書くつもりでした。私にはどうも、私以外の人間に攻撃性を誘発させるところがあるのですが、世界中から痛めつけられることによって、本来相手が受ける予定であった酷い痛みを、免疫のある私が引き受ける、意識しないままに、私が鎮痛剤の役割を果たしているのでは、という話です。

 題材には困らない、後は書く時間の確保だけの問題のはずでしたが、インパクトが弱いとか、家族や自分の話ばかりで果たしていいのか、という思いもありました。そんな風に書きあぐねている間に、人が死にました。
 その人の死は、私が普段から遠ざけている「政治」「ニュース」「人の死」に大いに被さっているものでしたから、速報で事実は知りつつも、積極的に映像を見ようだとか、犯人の内情について調べようといったことはしませんでした。ただ多くの人が、その死や映像やらに影響を受けているのがありとあらゆるところから伝わってきました。

 翌日の通勤時、自転車で僅か五分の距離ですが、その途中で出会う人々にも、必要以上に重く暗い死の影が乗っているようにも見えました。彼らが背負うべきではないものなのに、知ってしまった! 背負ってしまった! と叫んでいるような。灰色の重たい雲が垂れ込める天気が、一層その雰囲気作りを手伝っていました。

 人の死が想起させるのは、一人の死だけではありません。
 かつて亡くなった親族、故人となってしまった友人知人、好きなミュージシャンや作家といった人々、また、現在生きてはいるけれども、やがて亡くなってしまう周囲の誰彼。幼い子どもが酷い死に方をする、といったニュースほど、胸を抉るものはありません。もしも自分の子どもたちがそのような目に、と想像するだけで、気が滅入るだけでなく、既に悲しみ始めているように思えてくるのです。

 亡くなった/かつて亡くなった/これから亡くなる、一人の死が現在と過去と未来の死を同時に想起させ、必要以上に人々を苦しみ、嘆かせるのです。
 実際に同僚の一人は「○○さんが亡くなってから、やる気が出ない」と口に出してもいました。政治家の故人を支持していたかどうかは知りませんが、その死により痛めつけられている雰囲気がひしひしと伝わってきました。ひょっとしたら私だって、早期に情報をシャットダウンしていなければ、似たような気分に陥っていたのかもしれません。

 新しい職場で昼休みの時間になると私は一度家に帰ります。帰宅後すぐにシャワーを浴びるのですが、その前にSpotifyでお気に入りの曲を再生します。シャワーと音楽を同時に浴びます。その後急いで昼食を胃袋に放り込む間も、音楽は響き続けます。そんな中である曲のあるフレーズが私の心に引っかかりました。


雲がいつの日も同じ方に流れるから
何度目の空だろう 影で遊ぶ


「踊ってばかりの国」というバンドの「光の中に」という曲でした。随分前に「音楽小説集」でいつか書こう、という候補にもしていた曲でした。引用したこの部分が、私には死者の見ている風景だと感じました。「死」は、それまで続いていた「生」という時間の流れを断ち切ってしまう。前へ前へと進む時間の流れに、死者は二度と乗ることは出来ない。これまで生きてきた時間の中を、延々と循環するばかりとなる、死とはひょっとしてそういうものではないか、と思えたのです。「これまでこういう風に生きてきた/これからはもうどのようにも進むことはできない」生きている私たちが、前へ進んで行かざるを得ない状況にある中で、死者たちはいつも同じ方向に流れる雲を見ながら、「これは一体何度目の空だろう」と訝りながら、終わりのない世界を繰り返し繰り返し過ごしている、というような。

 出勤時、昼の帰宅時、昼食後のまた出勤時、退勤時に、私は大きな公園の中を通っていくことにしています。広い林のあるその公園で、地面を歩く鳥を近頃よく見かけるようになりました。ムクドリが咥えていたものを見ると、虫のサナギでした。雀はもっと小さい虫たちをせっせと口に運んでいるのでしょう。


光の中薄く揺れる 君の足音数えてる
雀の群れが旅立つ 生きてるうちに会いましょうね


ほらコーラの泡たまにプリズム あなたが話してる顔を見て
頷いた時は目を見る 指の動きも追いながら


「その人」の死からしばらく経って、私は仕事の最中、酷い蒸し暑さの中で身体を動かし、作業着の下に大量の汗をかいていました。常時その作業が続くというわけではありませんが、周囲の方は息も絶え絶えの様子になりながら、額から流れる汗を拭っていました。しばしの待ち時間に、私は全身に心地よい熱の塊を感じ、「このくらいの暑さがちょうどよい」と口には出さないながらも感じていました。その時、職場の屋根とトラックの隙間から見える空に、時が止まったように巨大な灰色の雲が見えました。風がないから余計に暑いのだ、と思うと同時に、あれは本当の空だろうか、誰かが暗い気持ちのままで巨大なキャンバスに描いた絵ではないか、いやこの世界そのものが、これまで何度も繰り返し描かれた絵画のようなものではないか、と思えました。仕事が再開され、雲も動き出し、しばし私はその妄想から離れましたが、「自分はとっくに死んでいて、それまで生きたこれまでの時間を延々と循環しているのだ」という考えは、その後しばしの間私を虜にしました。これまで私が勤めてきた職場は、積極的に私が働きかけたわけではなく、流れに身を任せて、といったものでした。「働く」よりも「書く」に重きを置いていたため、というといささか格好つけすぎかもしれませんが。それらの職場は積極的に働きかけても、就活を先延ばしにしても、結局はそこで働くことになるのだから、ということを既に知っていたからではないか、ということを考えました。私が必要以上に痛みに慣れてしまっているのも、そのような人生を何度も繰り返して、必要以上の免疫を獲得してしまっているからでは? と。

 こうした仮定の話を、私自身本気で信じているわけではありません。ただ、人の死というものが、本人にとっては永遠に死の瞬間には辿り着かず、それまでの生を何度も循環するものだったとしたら、残された者の気持ちが楽になりはしないか、とは少し思います。あの故人の作家は今も彼の世界の中で書き続け、あのミュージシャンは何千回と名曲を歌い続けている、という風に。

 まだまだ人の死を引きずって歩く人が多いせいか、暗く重い雲が空を覆う日が続きます。先程も、そのような雲が降らせた雨にあたりました。雨を降らせる雲だから、それはキャンバスに描かれた絵ではないはずです。ずぶ濡れになって帰宅した私の姿を見て、娘のココはまた言いました。
「誰や! 不審者か!」
「パパや!」と私は言い返しました。
「オアオア、オオオア」と、BON JOVI「Livin’ on a Prayer」のギターリフを口ずさんでいた息子の健三郎は、ココと私の声を聴いて、Adoの「うっせえわ」に歌を切り替えました。健三郎の中で最近ヒットしているこの二曲を聴きながら、私はこう思うのです。
「BON JOVIもAdoも、音楽小説集の中で既に取り上げているからなあ、違う曲だけど」と。

(了)
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