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「電車かもしれない」たま

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動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=rpzHb5clWkE


 長い時を経て、聞き知った歌詞の受け取り方が変わる、ということがある。


ここに今ぼくがいないこと
誰も知らなくて
そっと教えてあげたくって
君を待っている
ホラ もうそろそろだよ
物理の成績の悪い子どもたちが
空中を歩き回る時刻
夕方ガッタン電車が走るよ
夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき
体のない子どもたち


 私はこの歌詞を、「生まれることの出来なかった子どもたちの歌」と受け取っていた。その影響下において書いた掌編もある。

「いない子帰る」(第三回お題くじ企画参加作 hunger:空腹、飢え、渇望)
https://neetsha.jp/inside/comic.php?id=6557&story=29

 きゃっきゃと嬉しそうにいない子が笑う。
 せがむように、ない手を叩き鳴らない音を響かせる。
 妻が気の触れたものを見る目つきで私を見る。


 ふと「電車かもしれない」の歌詞が蘇ってきたのは、絲山秋子「薄情」を読んでいる最中だった。この小説の主人公は、群馬県在住の男性で、父親は神主をしており、その後を継ぐことを求められている。その方面の大学も卒業はしたものの、主人公は神主になる決心もつかず、時期が来ると嬬恋へと、高原キャベツの収穫をする住み込みバイトをしにいく。数ヶ月後地元に帰ってきても、何をするわけでもない。

 彼の通う喫茶店のようなたまり場「変人工房」では、東京から来た工芸アーティストが、椅子などを作りながら茶などを出している。主人公のように、世間からやや外れた人たちが集まってくる。しかしその場も、主人公の同級生であり、少しいい関係になりかけていた女性が、工芸アーティストと不倫をするために割り込んできたことで、平穏は破られてしまう。
 やがて変人工房は火事で焼け落ち、工房の主も去ってしまう。主人公は思う。そういった出来事はあったが、地元の外から来た人のやっていたことだから、やがてあったかなかったか曖昧な状態へとなってしまう。そのようなことを。そして自分自身についても考える。自分は代々続く神主職を次世代に繋ぐための器に過ぎないのではないか、と。
 小説の終わりは主人公が群馬から出奔するところで終わっているが、それも車で足を伸ばした際に行きがかり上のヒッチハイカーを拾ったり、その後の世話までしたりと、能動的なものではなく、流れで少し地元から離れただけだ。小説の終わりのその先では再び地元に戻っているのだろう。

 続いて絲山秋子「袋小路の男」を読んだ。高校時代からの腐れ縁の男女の話。不良っぽくありながらも頭も良かった男に惚れた女は、男女関係にはならないまま、住む場所が遠く離れても、どこか互いに依存するような関係を続ける。男は大学に二浪し、卒業後も常連のジャズバーで働きながら、小説を書き、狙いを絞った新人賞に応募を続ける。十年以上の投稿の果てに佳作を受賞して作家デビューし、ぽつぽつと文芸誌に短編を載せたりもする。しかし同期が芥川賞を受賞したりするのを尻目に見ながら、彼の作品は批評家からも読者からも無視され続ける。デビュー前、一人もがいて自宅のベランダから飛び降りて背骨を折り、一ヶ月入院していた時期よりも、暗く深い底に男は沈み込んでいく。特に救いがあるわけでもない。もちろん最後まで二人は肉体関係を結ばない。

 そのような小説を読みながら、自分自身を鑑みてみる。地方文学賞に投稿したといっても結果はまだで、仮に受賞したとしても、一時の賞金以外に手に入るものはあまり多くはない。多数の賞と無数の投稿者がおり、数少ない受賞者も、すぐに無限の後続者に並ばれ抜かされ粉々にされていく。鳥に啄まれる虫を見て思う。どれだけ喰われようと、虫の声は耳を圧する暴力的な数量で生き延びている。木の枝が転がっていると思ったら、認知するのが難しいくらい巨大なミミズだった。翌日にはかつてミミズだったものの上に蝿が群がっていた。それをカラスが見下ろしている。彼らが狙っているのは人なのかもしれず。

 高尚ぶったところで、人間も虫も大差はなく、遺伝子を運ぶ器でしかないのではないか。一時輝いたところで、すぐに暗闇が追いついてくる。虫たちは自分がどうして生きているのかなどとは考えてはいない。交接相手に呼びかけるために鳴き続けている。震わせているのは身体であり、心ではない。

 自分がここにいることに意味はあるのか。生きていることに。ここにいながらここにはいないのと同じことではないか。そんなことを考えながら「電車かもしれない」の歌詞に向かうと、意味が変わってくる。


ここに今ぼくがいないこと
誰も知らなくて
そっと教えてあげたくって
君を待っている
ホラ 寂しい広場では
まるで算数を知らない子どもたちが
砂を耳からこぼしているよ
台所ゴットン電車が通るよ
よそのうちの中を
ぼくらは生まれつき
からだのない子どもたち


 ここに自分がかつていたこと、ここに今自分がもういないこと。稀に「あの人は今どうしているのか」と思われることがあったとしても、現状がどうかと踏み込まれることもない。生きていること/生きていたこと、に差がなくなり、唯一生きた証として残せているつもりの作品群も、サーバー/出版社/小説文化/の消滅とともに滅びてしまう。絵の具を水に溶かすと一瞬美しい紋様が描かれるが、すぐに消えてしまう。その瞬間を少しばかり引き伸ばしただけのものでしかないのではないか。どの芸術も。どの人生も。

 自分で考えておきながら、その思いに打ちのめされるようになっている最中に、別の「人間」が内側から沸き起こった。新しい職場で、そろそろ一人で仕事を任される時も増え、周りに誰もいないから、と、自然に私は歌を歌っていた。その日はたまたま朝から音楽に触れる機会がなかったため、外からではなく自分の出す声から音楽による栄養を摂取しようとしたのだ。無意識に歌いだしたのは、ザ・キラーズの「HUMAN」であった。かつて和訳を調べたことがあるので、歌詞の意味も分かるし、ある程度なら歌えた。
「私たちは人間だろうか/それとも操り人形だろうか/生命活動はしているようだが/手は冷たい/跪きながら答えを探す/私たちは人間だろうか/それとも操り人形だろうか」
 大体そのような意味の英語を口ずさみながら、私はどうして今「HUMAN」なのかと恐ろしい思いもした。自分が人間なのだろうか。人間だったのだろうか。本当に人間といえるのだろうか。次世代に遺伝子は残せた。それ以上残せるものはあるのだろうか? 絲山秋子の小説に導かれて、たま「電車かもしれない」の「ここに今僕がいないこと誰も知らなくて」の意味を昔と違う意味に取って、ザ・キラーズ「HUMAN」を歌い出す。そのような一連の流れの中で生きている自分を思う。ここにいるのとここにいないことに大きな違いがない、なんてことを発見してしまう。

 そんな中で、別の示唆も与えられる。再読中の大江健三郎「燃え上がる緑の木」の序盤で、ある人物について書くことを、語り手は作家である叔父に勧められる。かついていた「ギー兄さん」の後を継ぐように現れた「新しいギー兄さん」について。


「新しいギー兄さんについてもね、誰かがかれの物語を書き残そうとつとめないかぎり、なにもなかったと同じになるよ。かつてなにもなかった、いまなにもない、将来にわたってなにもないだろう、というのと同じになる。それを防ぐ役割は、サッチャンのものだと僕は思うよ!」

 私は小説を書く際に、その小説の中で生きる人物や、そこで起こった出来事が、その小説の中でだけ完結しないような書き方を好む。そこに生きた人物は、これまでもそこにいた、今ここにいる、これからもどこかにいるだろう、というような。そのような思いを逆の側面から言われたようで、そもそも自分の考えも、昔読んだこの一節から来ているのでは、と思えてきた。全く記憶になく、初読の際に付箋は貼られてはいなかったけれど。

 無意識のうちに「私たちは人間だろうか」と口ずさむほどに思い悩んでいたのか、という問いにもすぐに答えが出た。職場の建物の外側の長い階段を降りる際に安全靴が鳴らす「カン、コン」という足音が、ライブ版「HUMAN」のイントロで流れている金属音のSEとそっくりだった。それだけの話だったのだ。バイタルサインはどれも自分が生きていることを示しているし、職場の人間とは会話もする。ここに自分がいることを誰かは知ってくれている。もっとも、書くものについての反応は、書くごとに薄れていっていることが実感としてあるけれども。某地方文学賞の一次選考及び最終候補の発表を待ちながら、落ちていても残っていても、「袋小路の男」を読んだ後では、どちらも地獄の始まりのような気がしてならない。かつてこのような人がいた。今もいる。これからもいる。だがそれを知っている人の数は、多くはない。とても少ない。それでも性懲りもなく、書く/生きる。

(了)
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