動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=_WEjG9oBNlY
ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=Kri8g4Wt9K4
https://www.youtube.com/watch?v=lZvNwVt3CE4
夏だ。午後だ。夏の日の午後だ。
仕事中にそんなことを思ったら、口からはeastern youth「夏の日の午後」がこぼれ出した。指導役の人につきっきりになってもらわなくても、一人で仕事が出来るようになった途端、地下の寒い倉庫を整理しながら、延々と「夏の日の午後」を頭の中で、または実際に声に出して、歌っていた。
ジョニーは亡くなったのだろうか。
家で静養しているのだろうか。
十六歳の老犬ジョニーを従えて散歩する、顔見知りのお婆さんが一人で歩いているのを見た。いつも一人と一頭のセットだったのに。お婆さん一人だと、意外とてきぱきと元気に歩いていた。朝と昼と、巨大な公園を通り抜けて職場へと自転車を走らせている。業者が入って刈り取られた雑草は、まだまだその気配を地中から漂わせている。逃げようともしないカラスが木の枝を咥えて飛ぶ。喧嘩している個体たちもいれば愛し合っているらしい個体たちもいる。這い回るものが啄まれていく。虫かもしれず。人かもしれず。
神様あなたは
何でも知っていて
心悪しき人を
打ち負かすんだろう
でも真夏の太陽は
罪を溶かして
見えないが確かに
背中にそれを焼き付ける
蝉時雨と午後の光
まだ生きて果てぬ この身なら
罪も飽くも我と共に在りて
初めてeastern youthを聴いた頃、その後に触れるNUMBER GIRLなども含めて、「叫びだす人は苦手だ」と思っていた。「何も叫ばなくてもいいじゃないか、いい歌なのだから」と。その後「叫ばざるをえなかったのだ」という風に考えを改めた。口笛が歌になり、歌が叫びになり、叫びが叫びを呼ぶ。抑えきれない感情が歌になり叫びになる。
真夏のeastern youthと、毎日の公園通いが私に中断したままの小説を思い出させた。eastern youthのアルバム「ボトムオブザワールド」を題材にした同タイトルの連載小説である。
https://neetsha.jp/inside/comic.php?id=22262
eastern youthのボーカル&ギター、吉野寿と似た風貌の持ち主であり、大好きな作家でもある吉村萬壱氏が選考委員を務める「阿波しらさぎ文学賞」の選考結果の発表があった。私の名前はなかった。約十分の一となる一次選考通過作、そこからの最終選考作、ゆっくりと三度確かめたが、なかった。悔しさや悲しさではなく、空っぽ、という気持ちがしっくりきた。その流れでずっとゆらゆら帝国の「空洞です」を聴いたりした。そして投稿作を読み返そうとしたが、推敲に推敲を重ねて、それなりの自信もあったはずのその一編を、読む気になれなかった。落選した瞬間にその一編はゴミなのではないかとすら思うようになった。そこにこだわるより、次に行こう、と考えた。
仕事に就き、新しい生活のリズムにも多少慣れてきて、朝早く起きれるようにもなった。子どもたちの起きてくるまでのパターンはこんな風である。
五時半~六時:起床
その後:うんこ。トイレにて再読読書。
その後:だらだらネット(夜中なら無駄に二時間かけることも、朝なら十分で終わる)
その後、子どもたちが起き出すまでeastern youthの曲を聴きながら、「ボトムオブザワールド」改稿。
以前書いたものをスマホで見ながら、新しく作ったGoogleドキュメントで大幅な改稿と追加をしていく。現在第一話の改稿を終えたところだが、文字数は二倍近くになっている。これをこのままの勢いで書き進めて、設定を変更したり中断した箇所から新しい話を続けていったりして、長編として完成させるつもり。
明日を呼べば
雲垂れ籠めて
甘い夢を見れば
雷光る
濁り河流れ、
水面に揺れる
拙い歌は
ゆっくりと沈みゆく
日暮れる街 風凪ぐ道
灯も遠く 誘えども
『振り返るな』
どこかで低い声
丸一日自由な時間があれば、何でもしてしまい、結局は何もなさなかったのと似たような結果になってしまう。一日で自由に出来る時間がごく少なく限られてしまっていれば、本当にやりたいことしかしないはず。仕事が定時に終わるといっても、家に帰れば子どもたちの相手に忙殺されてしまう。隙間時間は読書にあてている。夕方や夜の執筆は「千人伝」シリーズを一日一人書くに留めている。長いものを書き始めても、集中力が高まった瞬間に「遊ぼ!」の声で中断されてしまうほど辛いことはないからだ。
朝の三十分で千文字書き進めるだけでも、一月でなら三万字になる。一年なら、たくさんになる。計算通りに行くはずはないから計算は放棄した。
「ボトムオブザワールド」で、歌詞をそのまま借りている場所などは他の言葉に置き換えた。そのようなやり方で、たとえばゆらゆら帝国を聴きながら別の話を書いたり、上田現を聴きながら、その影響を受けた話を勢いで書き、その後それを見ながら書き直していく作業をすれば、延々と一生書き続けられそうだ。これまでの机上の空論の中では一番自分にしっくりくるかもしれない。
誰かの口笛が鳴っている。やがて歌に変わり、次に叫び声が生まれる。村野の筆圧が手帳を破る。生と死が同列に漂っている。粗方の肉を失った犬の骨が、風に吹かれて笑うように鳴る。(改稿版「ボトムオブザワールド」、「世界底」(仮)より)
そうして一週間が終わった、と思いきや、今日は土曜出勤なのである(月に一回か二回。半日仕事ではあるが)。子どもたちはまだ起きてこない。そろそろパソコンをたたむ時間だ。二度目のうんこの時間だ。今日もまた、蝉時雨の中を突っ切っていく。生きていく。
(了)