動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=ReSjNvYvvqg
ライブ版
https://www.youtube.com/watch?v=S_-Fn8AI1g8
絲山秋子「逃亡くそわたわけ」を読んでいると、作中でThe ピーズが流れていた。
「脳ミソ」
「やっとハッピー」
「いいコになんかなるなよ」
「日が暮れても彼女と歩いてた」
精神病院から逃亡した二人のうち、男性「なごやん」が運転する車の中でThe ピーズが流れる。特に「日が暮れても彼女と歩いてた」については長く触れられている。
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「あたしこの歌好き」
日が暮れても彼女と歩いてた
日が暮れても彼女と歩いてた
そのやけっぱちには血が通っている。ぶっきらぼうなのに、泣いてもいいよって言われているみたいに優しい。
みんなどんな顔してたっけ
ひとりずついなくなったんだ
ほんで最後は二人で
飽きるまでずっといたのさ
いつか将来、それとも遠い過去、なごやんはあたしの知らない東京の街で、日が暮れても彼女と歩いているんだろうか。あたしはそのころ、今の、こんなことなんか頭のどこにもないんだろうか。
何にも いらない
ほかには いらない
彼女がまだそこにいればいーや
日が暮れても彼女と歩いてた
日が暮れても彼女と歩いてた
「これさあ、ライブじゃ『気が触れても彼女と歩いてた』って歌ってるんだ」
これはあたし達の歌だ。テープを何度も巻き戻して聴いた。
(絲山秋子「逃亡くそたわけ」より)
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The ピーズのステージを見たのは、十九歳か二十歳の頃の何かのフェスで。そういえば一緒に行った友人が彼女を連れていた。仲間内のどのバンドでもずっとドラムを叩いていた友人の隣に、華奢でとても普通の女の子が並んでいた。友人が手に入れた青春を私は永遠に手に入れられなかった。私の目当てはゆらゆら帝国で、「午前三時のファズギター」を演奏したことに狂喜していた。
やはりジョニーの姿が見えない。
シェパードと秋田県の雑種のようだった、足の悪い老犬ジョニーは酷暑を乗り切ることが出来なかったのだろうか。それとも家で静養しているのか。ジョニーを連れていたお婆さんの姿だけが目に入る。だけど本当はジョニーとセットではないお婆さんをうまく認識出来ていなくて、どのお婆さんもジョニーの飼い主に見えているだけかもしれない。ジョニーから解放されたお婆さんの脚は想像以上に速くて、ジョニーに穏やかに話しかけていた頃の面影はあまりなくて、公園仲間の同世代に早口で何やらたくさん話しかけていた。ジョニーとの別れをあらかじめ悲しむために、近頃聴いていたUAの「悲しみジョニー」のイメージが吹き飛んでしまうくらい、お婆さんは活発に見えた。むしろ怒っているようにさえ見えた。
「千人伝」にこんな話も書いた。
https://note.com/dorobe56/n/n1373113cb50e?magazine_key=mf1aeeb072520
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百二十人目 老怒
ろうど、は怒っていた。老怒といつも散歩していた老犬が亡くなったことに怒っていた。同居人に日常的に暴力を受けていた犬だった。それでも老怒は毎日老犬を散歩に連れ出し、散歩の途中で出会う顔見知りの人たちに同居人の理不尽を愚痴っていた。酷暑にも耐えきれなかった老犬の死因は老衰ではあったが、同居人の暴力がなければいくらでもまだまだ生きれたはず、と老怒は怒っていた。
老犬を連れて歩いている時は、老犬のペースに合わせてゆったりとした歩みだったのが、老怒一人で歩くようになれば、若者と変わらぬ速さであった。かつての老犬との散歩コースを辿り、顔見知りの人たちと話す。話題は老犬の死と同居人への愚痴だけではなくなっていた。昔の思い出話が多くなっていた。幼い頃の話をする時の老怒は幼い顔つきになり、当時の年齢に戻っているように話すのだった。同級の誰彼に蹴られた、とか、親類の誰それに理不尽な仕打ちを、とか、若い頃の一時の恋人にどうのこうの、とか。聞く人は老怒の怒りの声を緩やかに受け止めた。老犬の死への悲しみと憤りが収まるまで、誰もがそのような姿勢でいた。
老怒はある日その健脚でいつもの散歩コースを外れ、遠くまで行ってしまった。老怒は幼い日に毎日歩いた通学路へと向かっていた。そんな道はとっくになくなってしまっていたが、老怒の目には昔と同じ道が映っていた。今では水の底に沈んだ故郷の家にまで老怒は歩き続けた。水中でしばらくの間、老怒は生きた。
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ろうど、と書いてから気づく。絲山秋子「逃亡くそたわけ」はロードムービーの体をなしている。実際映画化もされている。二人のその後を書いた新作も出たらしい。未読なのでそこでもThe ピーズが流れているかは知らない。年老いた二人が怒りながら過去の逃避行をなぞっていたりしたら、「老怒ムービー」の出来上がりだろうか。思いついた親父ギャグを発表することを止められなくなることを、老いという。
主夫時代、三時間目から登校する娘のココを送った帰りや、幼稚園に息子の健三郎を迎えに行った後やら、ジョニーとお婆さんにすれ違うことが多かった。ひょっとしたら一日二回どころか、三回も四回もジョニーとお婆さんは散歩しているのかもしれなかった。公園の中でジョニーが疲れてへたりこむと、「眠る前に連れて帰らなあかんねん」とお婆さんはぼやいていた。日が暮れても二人は歩いていた。
酷暑の始まりと私の再就職が重なり、子どもたちと毎日夕方の公園に行くこともなくなってしまった。馴染みの犬たちも散歩の時間をずらしているようだ。本当はジョニーはクーラーの効いた家の中でのんびり余生を過ごしているのかもしれない。
洗濯物を畳みながら「日が暮れても彼女と歩いてた」を聴いていると、傍にいたココが歌詞のいちいちに突っ込んできた。次第に突っ込みではなく会話のようになっていた。
「冷たいヤな奴も 体だけはあったかいだろーや 一体あれはなんだったんだろーか」のところで、「それは、これまでの人生で忘れたことを思い出してるからだよ」みたいなことをココが言った。それが正解かは分からないし、言葉もこの通りだったかははっきりしない。独身時代の最後、今の妻と手を繋いで歩いていた時、「あったかいね。心が冷たいからだね」と言われたことがある。体温と心は逆だとかいう迷信のせいだ。妻はThe ピーズを知らない。
読んでいる本が歌を導いてくるのか。歌が本を導いてくるのか。元々知っている曲やアーティストに本の中で出会うと嬉しくなる。その曲を聴きながら読み進めることもある。久しぶりに聴いたTHE BACK HORN「空、星、海の夜」に「歌が導くだろう」という歌詞があった。歌が先か文章が先か。歌に導かれて書く文章がまた別の歌を思い出し、それについて書いているうちに別の歌が響き始める。両者の関わり合いの狭間で生きている。
「お婆さん、ジョニーはどうしてますか?」
お婆さんにそう聞いてみたいが、「ジョニーって?」と聞き返されるのも怖い。それはお婆さんの気が触れてしまったからではなく、私が人違いをしてしまっただけなのだろうが。
(了)