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「ビューティフル」毛皮のマリーズ

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動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=iXCytb9TvrI

ドレスコーズバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=Z7rKQ-vJGn0


 アクの強い志磨遼平の歌声を定期的に聴きたくなる。毛皮のマリーズ「ビューティフル」を流しながら布団を敷いていた。「誰かが私を待っている そう言いながら誰かを待ってました」と歌いもした。傍にいたココが「誰を待っているの?」と私に聞いてきた。
 私は誰を待っているのだろう。


私は人生複雑骨折 ドラマ型統合失調症
ヒステリックだがストイック ヒロイック、パセティックでロマンチック

「誰かが私を待っている」……と、言いながら誰かを待ってました
昔のロックを聴きながら 今週のジャンプに泣きながら


 誰かが私を待っていると思っていたが、本当に待っているのは私の方だった。そんな話は誰にでも当てはまることかもしれない。
 時々土曜日も出勤がある。仕事量は大したことはないし、仕事は半日で終わる。他の支社からも人が来て、いつもと違う面子になる。二回目の顔合わせとなった方といろいろ話をするうち、「泥辺君は家で自分のやりたいことやれてる?」という話題になった。結婚しているが子どもはいない方だった。就業間際で駆け足の会話となったが、
「子どもの相手の時以外は、読むのと書くのとですね」
「書くって?」
「昔小説の賞獲ったこともあるので、今でもぼちぼち書いてます」
「すごいね」
「バンドや演劇とかなら、仲間や場所や時間も必要ですが、一人で出来ることなので、隙間時間や深夜や早朝、時間は多く取れなくても、日々少しずつやれるのがいいですね」
「僕も昔は演劇や絵をやってたんだけどねえ」
「今の仕事をやりつつ、時折書き物で臨時収入が貰えれば、なんてのが理想ですかね」

 あれ、と思った。二回目に会う相手に随分あっさりと胸襟を開いちゃったなあ、と。今、さらっと言った言葉に、自分でもびっくりするくらいの情報量が詰め込まれてはいなかったか、と。人生の後半の設計を総括しちゃってないか、と。

「面識はないですけど、昔からのネットの創作仲間がプロデビューして、一度の更新で閲覧数百万とか稼いでるのを見てしまうと、自分は何やってるんだろう、って思っちゃいますけどね」
「そんな人いるの」
「『マリッジトキシン』っていう漫画の原作者の人で」

 そんな自分の言葉を分析して気付く。
「マイペースで書ける場所で、自分の書きたいものだけを書く」をモットーとしておきながら、読まれることも反応が来ることも実際は欲している。自分が表面上思うよりずっと切実に。
 伊東潤氏という、毎月新刊が出るような人気&多作作家の方でも、Twitterで自著への呟きがあると、直接お礼の言葉をかけておられる。駆け出し&売り出し中の作家とも言える佐川恭一氏は、自分の名前に関連した呟きがあれば三十分も経たずにいいねをくれる。歴戦のプロの方々が自作への反応を大事にして、読者に感謝しておられるのに、私はコメント返信も、明確な返答をしておいた方がいいかな、というコメントくらいにしか送れていない。メールの返信やらちょっとした問いかけやらに答えるのに、やたら時間をかけてしまう悪癖をそのままにして過ごしてきた。
 読者が私を待ってくれているのではなく、私が読者を待っているというのに。

「ビューティフル」のMVの中で、客席のまばらなライブハウスで、真面目に自分を観ない観客に対して志磨遼平が切れて暴れ出す。だが次の場面では、先程の無関心な観客たちが志磨遼平の横で演奏している。観客は他人ではなく、ステージを形作るメンバーの一人一人であったのだ。作家と読者の関係にも似たようなことがいえるのではないか。読む人がいなければ、書くことは壁打ちの独り言に過ぎなくなる。自分の書きたいものを自分の書きたいように、などと言いながら、自分の書きたいものをそのままの形で受け入れてくれる読者のために、という願望が意識の下では蠢いている。


ビューティフルに ビューティフルに
生きて死ぬための、僕らの人生、人生!

いつか来るこの日のために 私が大切にしてきたサムシング
まるで人生のような音楽 まるで音楽のような人生


 元同僚と偶然出会う。名前を思い出せないままに話した。
「まだあの会社にいるの?」
「泥さんが思うほど悪くはないですよ」
「耐えられないことが多すぎたよ。工場長の朝礼を筆頭に」
「得意の聞き流しをしてればよかったじゃないですか」

 朝三暮四の見本市のような思いつきの指示や、昨晩見たNHKの番組に対する意見や、古き悪き時代の醜い思い出話、露骨なパワハラ。
「好きでもない曲を聴くのは苦痛だし、嫌いな曲なら地獄だろ」
「それは音楽の話でしょ」
「人生も音楽も一緒だよ」

 本当はそんな会話はなかった。想定上の会話相手に、名前を思い出せない彼を選んだのは、その距離感が適当だと思ったからだ。今の生活スタイルでは、そもそもご近所以外の人に触れ合う機会もない。意識して遠ざけている多人数との接触の結果、昔の知り合いは色褪せることも汚れることもなく残り続けている。名前は多分最初からあまり覚える気がなかった。

 毎日規則正しく定時に終わる仕事に就いて、帰ってからは子どもと遊んで、書ける時に書く。そんな風にして一日が終わり、一週間が終わり、一ヶ月が終わる。このまま順調にいけば一年が終わり、十年も終わるかもしれない。
 定年まで勤めたとしたらあと二十四年か。二十四年前といえば、今の実家に引っ越した高校三年生の頃だ。引越し業者の兄ちゃんが「hide死んだって」と話していたあの頃だ。区切りとしてはちょうどいい頃合いなのかもしれない。私より一ヶ月早く入った同僚は、研修期間終了と共に別の支社に出向が決まったので、ずっとここで働けるというわけでもないかもしれないが。それも人生なのかな、と、また「ビューティフル」が鳴り響く。今週のジャンプで泣くことはなくなったが、昔のロックは聴き続けている。自分の若い頃に触れたもの、それらは全て「昔のもの」になり果ててはいるが、輝きを失っていないものは数多くある。当時ラジオから録音した、実家のカセットテープに眠っているような曲たちも、今は検索すればすぐに聴ける。二十年前にアップしたブログの記事すら消えずにいる。

 以前もこんな風に人生について書いた気がする。BON JOVI「It's My Life」の回だった。もう二年近く前の話になる。

https://neetsha.jp/inside/comic.php?id=21721&story=79

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 私は自分の人生を仮の物だと感じていた。妻子が居て、働き場所もありながら、こんなはずはない、と。自分は今でも実家の古本だらけの部屋で四十近くなってもダラダラ生き延びているのではないか、と。三十歳になり何もかもがどうでも良くなり、自分から行動して来た結果、今がある。それなのに、能動的に動き始めた時期以降はずっと夢の中であるような。

(中略)

 運動会で頑張ったご褒美として(出たくもないけど休まずやりきった感の頑張り)、目星を付けておいたおもちゃのピアノをリサイクルショップに買いに行く。途中で、ヒッチハイクを求める老婆を見た。交差点を行き交う車の群れが止まるはずはないのに、親指を立てて彼女は何処かへ向かおうとしていた。数十年前にそうして拾われた記憶がそうさせるのだろうか。
 お婆さん、何処へ行くんだ。
 あなたの人生は、そこにあるのに。

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 生きて、死ぬだけの私たちの人生は、ありのままの姿で転がっている。死ぬまで生きている間、書いたり聴いたりする人生。美しいかどうかは、わからない。

 私は年月の勘定を勘違いし、定年までは二十三年の間違いだと気がつく。仮想対話の相手に想定していた元同僚の名前をようやく思い出す。書いている間にも時は流れ、月日は重なり、人生の終わりに少し近づく。美しく輝くことなく、いつでも泥の辺りをゴロゴロと転がる私は、また酷い暑さとなった外を避け、休日を一日家で過ごした。子どもたちとの遊びの合間にこれを書きながら。外では中秋の名月が浮かんでいるらしいが、今日は一度も玄関のドアを開かなかった。

(了)
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