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「人間だった」羊文学

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動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=16jL0eThQmM

ライブ版
https://www.youtube.com/watch?v=oEHaNtY3Skw
 


「あなたがトイレで歌っていた鼻歌は、『イエロー・サブマリン音頭』でしたよ」
 探偵の言葉に犯人は観念して、港の周辺、半径五キロメートルを焼け野原にする爆弾を爆発させて逃げ去った。

 金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」を題材にした探偵小説を書こうとしていたが没にした。ビートルズ・マニアの集まる英国紳士の集会に紛れ込んだ犯人が、「ジョンの眼鏡をかける、かけないの言い争いから、ジョンとリンゴが殴り合いを始め、プロレス技の応酬となった」というエピソードを開陳するあたりで探偵が怪しみ始める。「それは映画『ゼイリブ』のエピソードなのでは……?」。そして「イエロー・サブマリン音頭」の鼻歌により、英国紳士風の男の正体が日本男児だとばれる、という展開だった。

 やめた。

 すぐに代案が思い浮かばずに、一人決めている「週一ペースでの更新」を落とした。別にこれまでも体調が優れなかったり、用事が立て込んでいたり、他のものを書くのを優先していた時には飛ばしてはいた。今回はそのどれにも当てはまらなかった。すると空っぽが押し寄せてきた。私は「週一ペースの創作をしなかった男」として自分に責められた。「他に取り柄などあるのかい?」そんな声まで聞こえてきそうだった。

 書く時間はあまり取れなくても、読書ペースはあがってきている。吉村萬壱「ボラード病」を読み終えた。かつて大災害に見舞われた「海塚」という町が舞台となっている。そこで生きる「恭子」は常に違和感を感じながら生きている。常に海塚を賛美する周囲の人間、同調圧力を全開にして責め立てるように暮らす隣人たち。頻繁に失われていく身近な命。

 ネタバレを書いてしまうが、避難先から戻ってきた住民たちは、全力で現実から目を逸らしていて、恭子が感じていた違和感こそが正しかったのだ。終盤、同調圧力に屈した恭子は、ゴミ拾いの最中に皆と合唱することで、周囲と馴染み、どの人間も美しく見えてきてしまう。しかしそれはまやかしであった。最後は精神病院のようなところに幽閉された恭子の手記として語られる。避難先から住民が戻ったのは、海塚が安全な町になったからなどではなく、もはやどこに住んでいても同じなくらいに、どこもかしこも終わってしまっているからだった。復興したとされる町を賛美する大半の住民こそが狂っており、恭子のような人間こそがまともだったのだ。恭子は閉じ込められながら、自らを生かし続ける者たちに問う。


 もう何十年も経ったから、戻れないんでしょう? 今更誰が「この世界は捏造だ」と言えますか?


 通底して丁寧な語り口であったのが、最後の一行で変貌する。


 もうこんな体、見たくもないのです。そこの隅っこの便器のパイプに映るんです。見たくないのに、見てしまうんですよ。こんな顔でも、あなた方には美人に見えるんでしょう? だったら抱いてみろよ臆病者。


 解説のいとうせいこう氏の文章に同意した。


 しかし、これは寓話ではない。
 小説という名の現実だ。
 それは読者の日々生きている世界がすでに悪夢であることを、柔らかい壁で囲むようにして突きつける。


「ボラード病」と共に、私の誕生日に購入した「CF」についての感想はNoteに記した。
https://note.com/dorobe56/n/ne6940f806830?magazine_key=mb406e5164f11

 異端視されていた恭子こそが、残された数少ないまともな人間であり、大多数の人間が狂った世界であった。そんな小説を読み終えた後に、私の中で鳴り響いたのは羊文学の「人間だった」であった。


ぼくたちはかつて人間だったのに
いつからかわすれてしまった
ああ いま 飛べ 飛べないなら
神さまじゃないと 思い出してよ


「ボラード病」はもちろん、あの大地震やあの原子炉の事故が根底となって書かれている。それは「人間だった」も同様である。


街灯の街並み 燃える原子炉
どこにいてもつながれる心
東京の天気は晴れ、晴れ、雨
操作されている
デザインされた都市
デザインされた子供
もっと便利にもっと自由に
なにを得て何を失ってきたのだろう
怖いものはない
怖いものはないのかい
忘れないで
自然は一瞬で全てをぶち壊すよ
本当はわかっている
君もわかっている
花の一生にとって
君は必要ないこと
私は知っている
そしてただ見ている
人間が神になろうとして 落ちる


「ボラード病」と「人間だった」の相関関係について考えながら、自分はまだ人間かと考える。目に見えている物事は確かに現実で、日々生きている時間は確かに昔と同じように流れているか、と。どこかから狂ってきてはいないか、既に終わってしまったりしていないか、証明する手立てなどないから思い悩んでも仕方ない。だから苦しむわけでもない。土日が終わり、平日を過ごし、また土日が来る。このサイクルが以前よりも早くなっている。仕事から帰ると子どもたちと遊ぶ。合間合間にタブレットやスマホで電子書籍に触れる。子どもたちと同じ時間に寝ると、早く起きすぎてしまう。そんな時間に書き物をするはずが、二度寝して外が明るくなってくる。また書かないまま一日が終わり、一週間が終わる。そんなサイクルを既に一生分終え、私は本当は何も書かないまま、今臨終の床にいるのかもしれない。

 儂は、昔たくさんの文章を書いていたんだがな、もうどこにも残されていないのでな、それが本当のことだったか、分からなくなってしまっているんじゃ。そんな最期の言葉と共に目をつぶると、「そんな事実はなかった」と誰かが言い、家族も家もこれまでの記憶も全て虚構の中でしたよ、という事実を突きつけられて、荒野に一人寝そべっている。まだ何も成していない、そしてこれからも何も成すことはなさそうな、老け込んだ若者の姿として。彼は自分の無力を痛感して、他の誰かと同じことをしようとして、懸命に踊ったり、愚痴をこぼしたり、絶望ごっこに興じたりする。かつて人間だったことなど忘れてしまったかのように。

 そんなことはないから、早起き出来た今日にこれを書く。
 別に人間でなくてもいいか。

(了)
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